Vtuberとオタク、リアルな「いま」の物語。『鈴波アミを待っています』(評・宮澤伊織)
推しの失踪をめぐるVtuber小説、塗田一帆『鈴波アミを待っています』。SFマガジン6月号に掲載された作家の宮澤伊織さんによる書評を再録します。
Vtuberとファンのリアルな「いま」
宮澤伊織
バーチャルYouTuber、略してVtuber。その語源が示すように、動画配信サイトで、自分の姿をアバターに託して活動する配信者と考えてとりあえず間違いはない。総人口は1万人を超えて久しく、この定義に納まらない人物も少なくないが、2022年現在、YouTubeのような配信サイトがVtuber文化の主要な舞台である状況は続いている。『鈴波アミを待っています』も、そうした前提で書かれた小説だ。
フィクションで「Vtuber」を描くには独特の難しさがある。旧来の物語のセオリーで考えると、演じている「本人」とアバターのギャップから来る葛藤や、表に出せない秘密などをキーにしがちだ。ところが実際のところ、多くのVtuberのファンはそういう形の興味がない。ファンにとってVtuberは「どこかの誰かが演じているキャラクター」ではなく、「そういう姿をしてそういう振る舞いをする誰か」なのだ。
それではファンはうわべだけしか見ていないのかといえば、まったくそうではない。むしろ配信を通じて、人となりから、配信外でやっていることまで、Vtuber本人のさまざまな側面を知ることになる。アバターとの矛盾(たとえば高校生のVtuberが活動四年目を迎えたり)は欠陥ではなく、ある種のおかしみとして受け止められる。アバターと演者をわざわざ区別せず、Vtuberイコール「本人」になるのだ。「自分はこういう存在だ」というVtuberの表現に、ファンが協力していると言うこともできる。
アバターが仮の姿に留まらず、本人の望む姿、表現したい姿として洗練され、受け止められていくところにVtuber文化の新しさがある。あらかじめ用意したアバターに適合する演者を募集する企業所属のVtuberですら、そうなっていく傾向がある。
それだけに、Vtuberの引退や卒業は、ファンにとって大きな打撃となる。アバターと演者を区別しないということは、引退はこの世からの消滅と同義だ。演者がどこかに存在しているとしても、自分が好きだった「あの人」はもういないのだ。
Vtuberとファンは距離が近く、コメント、投げ銭、ファンアートなど、本人に直接反応してもらえるようなファン活動が可能だ。しかし、引退に際してファンは何もできない。自分が視聴者数カウンターの中の「1」でしかない事実を突きつけられてしまう。
『鈴波アミを待っています』の主人公もその1人だ。活動1周年記念配信に現れず、そのまま失踪してしまったVtuber「鈴波アミ」の、名も無い1人のファン。前触れなしの失踪に、心をグチャグチャにされてしまった主人公は、やむにやまれず鈴波アミの行方を追う。だが、一介のファンにできることなど何がある? 仮に発見したとして、どうする気だ? ファンが越えてはいけないラインを越えることになるのでは? しかし、主人公は走っていく。確信もないまま、無様に、もがきながら。そののたうち回りっぷりはまさに「Vtuberのオタク」だった。あなたがVtuberのオタクなら、あるいはVtuberなら(この二つの集団は重なり合っている)、特に感じるものがあるだろう。Vtuberとファンの文化の一側面を切り取った、間違いなく「いま」の小説だった。