【劇場アニメ公開記念】『僕が愛したすべての君へ』冒頭試し読み
僕が愛したすべての君へ
序章、あるいは終章
在宅死、という言葉を知ったのは、つい最近のことだ。
癌に冒されて余命幾ばくもない患者が、病院での治療やホスピスでの終末医療を拒否し、住み慣れた我が家で家族に囲まれながら最期の時を過ごす。その選択肢が、同居していた息子夫婦の口から提案されたことを僕は幸せに思った。
息子夫婦や孫に迷惑をかけるのも忍びなかったが、それ以上に、皆が僕と最期まで一緒に過ごしたがってくれているのだと、そうすんなり信じられたことが嬉しくて。
抗癌剤は使わないこと、延命治療はしないことの二つを条件に、僕は在宅死を選んだ。
七三歳。もしかしたら死ぬにはまだ少し早いのかもしれないが、不思議と恐怖や不満はなかった。大きな家で、愛する妻、頼れる息子と優しいその嫁、かわいい孫娘にまで囲まれる老後。たとえ明日、苦しみの中でこの心臓が鼓動を止めたとしても、隣に家族がいてくれるなら笑って逝けると思える。幸せな人生だった。
ただ、僕はあと三日だけは、どうしても死ぬわけにはいかない。
左手首に巻かれたウェアラブル端末に三日後の日付を音声入力すると、カレンダー機能に記録された「八月一七日、午前一〇時、昭和通り交差点、レオタードの女」というスケジュールが呼び出される。
昭和通り交差点と言えば、うちから徒歩で二〇分、この街で最も大きな交差点だ。レオタードの女というのはその脇に建てられている銅像のタイトルである。
三日後の午前一〇時、昭和通り交差点、レオタードの女。
いくら考えても、その予定には何の心当たりもなかった。
僕が使っている端末は、月末になると次の月に入力されているスケジュールを自動的に通知してくれる。その機能によりこの予定を知ったのだが、はて、これは誰との約束だっただろう。僕はいつこの予定を入力したんだろう……いくら考えてみても、僕にはその記憶がなかった。
では、僕以外の誰かが僕の端末にこっそり予定を入れたのだろうか?
端末は声紋認証なので他人には操作できないはずだが、そこはそれ、何にでも裏技というものはある。ならばと家族に聞いてみたのだが、やはり誰も心当たりはないという。孫娘などは「おじいちゃんが自分で入れて忘れてるんじゃない?」なんて酷いことを言ってくれる。さすがにそこまでしているとは思いたくない。
けれど、家族が僕にこんな嘘をつく理由もまた思いつかない。してみると、もしかしたら本当に僕が自分で入力して忘れているだけなのかも……と最近では思い始めてきた。
まぁ、誰が入れたにしても、だ。
三日後の午前一〇時。昭和通り交差点に行ってみれば分かることだろう。そこで何が待っているのか、それは今の僕にとって一番の楽しみでもある。
そんなわけで──僕はあと三日だけは、死ぬわけにはいかないのだ。
枕元の電気を消し、そろそろ寝ようとベッドに身を沈める。目が覚めたらあと二日。幸いにもここ最近の体調はすこぶる良好で、二日後にちょっと外出するくらいなら何の問題もないのではないかと楽観している。交差点にまで足を延ばすのは久しぶりだ。年甲斐もなく心を躍らせながら、いい夢が見られそうだと目を閉じる。
が、ノックの音ですぐにまぶたを開くことになった。
「どうぞ。開いてるよ」
体は起こさないまま、灯りだけをつけて訪問者を迎え入れる。遠慮がちに顔を覗かせたのは、小学五年生の孫娘、愛だった。
「おじいちゃん、寝てた?」
「そろそろ寝ようかと思ってたところだよ。大丈夫」
「具合はどう?」
「悪くないな」
「少し、お話できる?」
「もちろん。入っておいで」
後ろ手で静かにドアを閉めた愛は、何をためらっているのかなかなか用件を切り出そうとしない。どうにも様子がおかしい。いつもの愛はこんなしおらしいたちではなく、言いたいことははっきりと言うタイプの子だ。何かあったのだろうか?
「どうしたんだい? 遠慮なく言ってごらん」
身を起こして、なるべく優しく声をかける。
たとえ家族だろうと、どうしても同性には厳しく、異性には甘くなってしまうものらしく、孫は厳しいおばあちゃんよりも甘いおじいちゃんのほうに懐いてくれている。もちろんおばあちゃんだって愛のことは大好きで、彼女がしっかりとムチを持ってくれているからこそ、僕は安心してアメをあげられるのだ。
愛はうつむき、そのまま近づいてきて僕の胸に顔をうずめ、静かに泣き始めた。
考えてみれば、いつも学校から帰ってきたら真っ先に僕の部屋に来てただいまを言ってくれる愛が、今日は来なかった。学校で何か嫌なことでもあったのだろうか。しかしあえて聞き出そうとはせず、僕は黙って愛の頭をなでる。
そうしてしばらく泣いていた愛は、しゃくり上げながら、少しずつ口を開き始めた。
途切れ途切れのその言葉を拾って繋ぎ合わせると、どうやらそれほど心配するようなことではないらしいと分かった。
要するに愛は今日、同じクラスの男子に告白して、ふられてしまったのだ。
小学生にはまだ少し早い気もするが、もちろんその涙を馬鹿にするつもりはない。けれどどうしても、かわいい孫娘の涙の理由がそんなものでよかった、と思ってしまう。
「告白、なんて……しなきゃ、よかった……!」
僕から見ればかわいらしい理由でも、本人は今、世界中の誰よりも真剣に嘆き悲しんでいる。ならば少しでもその悲しみを癒やしてあげられたらと、愛の背中をぽんぽんと叩く。
「愛、IPを見せてごらん」
僕は愛の手を取って、手首に巻かれたウェアラブル端末を指さした。愛は真っ赤に腫れた目で不思議そうに僕を見返して、端末を操作する。
ホログラムで拡大表示されたモニタの中には、IEPPという文字の下に六桁のデジタル数字が表示されている。整数が三桁、コンマを挟んで小数が三桁だ。小数の三桁は目では追いきれない速度で目まぐるしく移り変わっているが、整数の三桁ははっきりとした数字を表している。都合よく、その数字は『000』だった。
愛は小学五年生。ならば、基本的なことはもう教わっているはずだ。
「愛。愛はさっき、告白なんてしなきゃよかったって言ったけど、おじいちゃんはそうは思わないよ。愛が勇気を出して告白して、本当によかったと思う」
「なんで?」
「並行世界のことはもう学校で習ったね?」
「うん」
「愛はね、告白することで他の世界の可能性を生み出したんだよ。ゼロ世界の愛はふられちゃったけど、他の世界ならきっと、好きな人と結ばれてるはずだよ」
「……他の世界の私が結ばれても、この世界の私がふられちゃったら意味ないよ」
「そんなことはないよ。どの世界の愛も、同じ愛なんだ。愛は2や3の世界にシフトしたことがあるよね?」
「何回かあるよ」
「その世界のおじいちゃんのことは嫌いだった?」
「そんなことない!」
「ありがとう。おじいちゃんも、他の世界から来た愛のことが同じように好きだよ」
「うん……」
「並行世界は、この世界では実現しなかった可能性の世界なんだ。だから、愛の勇気は必ずどこかの世界で報われてる。違う世界で結ばれた愛だって、同じ愛なんだよ。それはつまり、愛の告白が無駄じゃなかったってことなんだ」
「……よく、分かんない」
やはり、まだ小学五年生には早かっただろうか。ただでさえ並行世界に対する考え方は人それぞれだ。僕も若い頃はそれで随分と悩んだことがある。ただ、よく分からないと口を尖らせるかわいい孫は、もう泣いてはいなかった。違うことを考えさせて悲しみを紛らわせるなんて、いかにも大人らしい姑息な手段ではあるけれど。
「じゃあ、愛にも分かる話をしよう。愛はふられちゃったけど、そのおかげで次は世界中の誰とでも結ばれる可能性を手に入れたんだ。愛はきっと、もっと素敵な男の子に出会えるよ。そうしたらまた、恋を始めよう」
「もっとって、どのくらい?」
「うーん……おじいちゃんくらい?」
「だめ! もっと若い人がいい!」
孫にふられた。地味にショックだった。
ともあれ、ひとまず元気は出てきたらしい。この立ち直りの早さも若さゆえか、それとも一人になったらまた泣いてしまうのか。
部屋を出ていく愛の背中を見送り、再びベッドに身を沈めて部屋の電気を消す。そして明日を迎えるために目を閉じる。
もしかしたらこの先、愛が朝目覚めたら今日の告白が実った並行世界へとシフトしていて、ひとときの幸せに戸惑いを覚える時が来るかもしれない。そうなったら、帰りたくないと思うかもしれないし、やっぱり結ばれなくてよかったと思うかもしれない。
僕はその時、代わりにその世界からやってきた愛に聞いてみよう。
そっちの世界の僕は、告白が実った君を、どんな言葉で祝福したのか?
きっとそれは、今僕が想像する言葉と大して変わりはしないだろう。
○
当日はあいにく、朝からあまり具合がよくなかった。
しかし家族にはそれを隠し、薬と財布だけを持って家を出た。
「ちょっと出かけてくるよ」
「はいはい。気をつけて」
さすがに長い付き合いだけあって、妻にはばれていたような気がする。けどこれもまた付き合いの長さゆえか、何も聞かずに送り出してくれた。
八月一七日、午前九時半。昭和通り交差点へと向かう。
もう徒歩で行くというのは難しいので、いつもお世話になっている電動の車椅子に乗っている。出そうと思えば時速一〇キロ以上も出せるのだが、今さら何を急ぐこともない。かつては自分の足でしていた町並みを眺めながら、時速四キロでゆっくりと進む。
なぜか妙に若い頃を思い出す。昔はあんな建物はなかった、あのオブジェはいつなくなったのだろう、この店はなぜ潰れないのか……町並みの一つ一つに思い出を重ね、その光景を目に焼きつける。きっともう、こんな風に外出することはないだろうから。
さて、少しゆっくりしすぎた。一〇分前には到着するつもりだったのに、時計を見ればもう一〇時になるところだった。
昭和通り交差点。この地方都市の中心地を四分割している、最も大きな交差点だ。
当然ながら交通量も多く、信号は歩車分離式になっている。昔はすべての道路にまたがる巨大な歩道橋があったらしいのだが、橋脚のせいで見通しが悪く危険だということで撤去されたそうだ。古い写真で見たその歩道橋が僕は大好きで、よく立ち止まっては上を向き、歩道橋を渡る自分を想像したものだ。
そんな思い入れのある交差点だが──
辿り着いてみても、やはり約束に関してはさっぱり思い出せなかった。
今日の午前一〇時。昭和通り交差点。いつの間にか僕の端末に入力されていた謎のスケジュール。もしかしたら自分で入力して忘れているのかもしれない、それなら実際その時になれば思い出すのでは、と淡い期待を抱いていたのだが……無駄だったようだ。
交差点の南西の角の脇、公園と呼ぶほど広くもない一画にささやかな緑が植えられており、そこにレオタードの女がいる。恥じらうように手で胸を隠した肉感的な少女の銅像で、僕が生まれた時からずっとある物だ。見慣れてはいるのだが、モデルが誰なのか、何の意味があってここに建てられているのかなどは一切知らない。
待ち合わせ場所はここのはずだが、信号待ちの人以外、僕を待っていたような人影は見当たらない。車椅子を止めてぼんやりとその銅像を見上げていると、なんだか急に人の目が気になってきて慌てて視線を外す。
いつの間にか歩行者信号が青に変わっており、信号待ちをしていた人たちはもうそこにいない。代わりに横断歩道の向こうからたくさんの人たちがこちらへ歩いてくる。もっとも地方都市のことだ、テレビなんかで見る都会の交差点に比べればずっと少ない。
なんとなく、人々が横断歩道を渡るのを眺める。
ほぼ全員が渡り終えても、信号はまだ点滅もしない。歩行者信号に変わるのが遅い分、歩行者の時間は長めに取られているのだ。
そんな中。
一人だけ、横断歩道に立ち尽くす女の子がいた。
もうあと数歩でこちら側へ渡り終える位置なのに、こちら側へ来るでもなく、あちら側へ走り出すでもなく、ただその場に立っている。
いくら歩行者の時間が長いとは言え、あんな所に立ったままでは危ない。僕は車椅子を動かして横断歩道へと近づき、その子に声をかけた。
「こんにちは。君、そんな所でどうしたの? 危ないよ」
僕の声に女の子が振り向く。中学生くらいだろうか? 白いワンピースを着た、長く真っ直ぐに伸びた黒髪が美しい、かわいらしい子だ。
その子は僕を見ると、少し首をかしげてあどけない声で言った。
「迎えに来てくれたの?」
迎えに来たとは少々大げさな言い方だが、行為としては間違っていないだろう。そうこうしているうちに信号が点滅を始めたので、その子に合わせて言葉を続ける。
「うん、迎えに来たよ。だからおいで、一緒に行こう」
そう言って手を伸ばすと、少女は嬉しそうに微笑んで。
そして、その場で消えてしまった。
手を伸ばしたまま、僕は固まる。
やがて信号が変わり、車が目の前を走り始めたので、とりあえず車椅子をバックさせて銅像の前まで戻った。再び横断歩道に目をやるが、やはりどこにも少女の姿はない。
目の前にいた少女が突然消えてしまう。似たような経験をしたことはあるが、久しぶりだとやはり一瞬頭の中が真っ白になってしまった。
要するに僕は今、パラレル・シフトした──並行世界へ跳んだのだろう。
パラレル・シフトとは、同じ時間のどこかの並行世界にいる自分と意識だけが入れ替わる現象だ。場所が変わっていないということは、この世界の僕も同じ場所にいたということ。ならば比較的近くの世界のはずだが、少女が消えたということは2つや3つ程度の隣の世界ではない。おそらく10くらいはシフトしているのではないだろうか。こんなに跳んだのは久しぶりだ。だとしたら最悪の可能性として、ゼロ世界ではあのまま少女が車にはねられているかもしれない。
いや、そう言えば今日はまだIPを確認していない。ということは、朝起きた時点ですでに僕はどこか別の世界にいて、今ゼロ世界に戻ってきたという可能性もある。
IPを確認するため、手首の端末から音声操作でIEPPの画面を呼び出し、六桁のデジタル数字を表示させる。この数値が0ならここはゼロ世界だが──
だがその画面には、数字ではなく『ERROR』と表示されていた。
「壊れた……?」
なんてことだ。これじゃあ自分が今どの世界にいるのか、分からないじゃないか。
もしも自分が今ゼロ世界にいて、横断歩道に少女がいたのがどこかの並行世界だとすれば、それはもう仕方がない。だが逆に、もしも自分が今いるのが並行世界で、横断歩道に少女がいたのがゼロ世界だとすれば……心配で仕方がない。ゼロ世界に行ったこの世界の僕は、ちゃんとあの子を助けられただろうか?
どうにかして今すぐここがどこの世界かを確認する方法はないか。通行人に声をかけようとして、他人のIPを見ても何の意味もないことに気づく。役所に行けば代替端末をもらえるが、いくつもの審査が必要ですぐにもらえるわけではない。
何か方法はないか、何か──と考えているうちに。
ふと、思い出した。自分が今どこの世界にいるのか分からない。そう言えば、昔はそれが当たり前だったじゃないか。
ある一人の科学者によって並行世界の存在が実証され、実は人間は無自覚に、日常的に並行世界を移動しているのだと判明してから数十年。それは今でこそ小学校で教えるくらいの一般常識となっているが、昔は並行世界なんて概念はフィクションの中にしか存在しなかった。あの頃に戻ってしまったというだけのことじゃないのか?
あの時。並行世界というものは、あまりにも突然僕の前に現れた。
僕が初めて並行世界というものを意識したのは、ちょうど一〇歳になる時だった。
第一章 幼年期
七歳の僕は離婚という言葉の意味を理解していて、父と母のどちらと一緒に暮らしたいかと聞かれた時も、特に取り乱すことなく答えを出せた。
父はその道では高名な学者であり、片や母は実家が資産家である。どちらについていっても金銭的な不自由はしそうにない。ならばあとは感情で決めればいいわけで、最終的には母についていくことを選んだ。ただ、これは父よりも母のほうが好きだったとかそういうわけではなく、父についていくと研究の邪魔になるのではと思ったからだ。
離婚の原因は、父と母の会話のずれだったらしい。父は研究所に泊まることが多く、たまに家に帰ってきた時は母に研究の内容を話すのだが、母はいつも全く理解できていなかったようだ。父は「自分が理解していることは相手も理解していて当然」という考えで会話する人だったため、母とは日常会話のテンポも合わず、一人苦悩する母の背中をよく見ていたものだ。
そんな父だから、僕もきっと側にいないほうがいいだろうと判断したというわけである。いや、さすがに当時はそこまではっきりと考えていたわけではないだろうけど。
面白いことに、父と母の関係は離婚した後のほうが良好だった。一度は結婚して子供をもうけたくらいだからお互いにちゃんと愛情はあったらしく、僕が子供だった頃は最低でも月に一回、僕を交えたり交えなかったりで親交は続いていた。きっとそのくらいの距離感が二人にはちょうどよかったのだろう。僕は和やかな様子の両親を喜び、自分が望まれない子供ではなかったことに安堵した。
子供の頃の記憶で特によく覚えているのは、両親が離婚して母方の実家で祖父母と共に暮らし始めてから数ヶ月後、父にエアガンを買ってもらった時のことだ。
ある日の休日、僕は母と一緒に公園へ行き、父と会っていた。毎日一緒だったのに月に一度しか会えなくなるのはもっと寂しいものかと思っていたのだけど、よく考えたら父の仕事は勤務時間も休日も不定期で、もともとそんなに顔を合わせているわけでもなかった。むしろ、月一で家族で出かけるようになったことを考えると、反対に触れ合いは増えていたのかもしれない。
「暦」
一ヶ月ぶりに父に名前を呼ばれる。一緒に暮らしていた頃はどのくらいの頻度で名前を呼ばれていただろう? よく覚えていない。それを思えば、名前を呼ばれるだけのことで喜びを感じられる関係も、そう悪いものではなかったのかもしれない。
「何かほしい物はないか?」
つい先日、僕は誕生日を迎えて八歳になっていた。そのプレゼントということだろう。離婚前は僕に何かを買うのはいつも母の役目だったので、父に買ってもらえるという事実だけで少し嬉しかった。
しかもその時の僕には、ちょうどほしい物があった。
「エアガンがほしい!」
「エアガン?」
「うん。今学校で流行ってるんだ」
「ふむ。どこに売ってるかな」
とあるデパートのおもちゃ売り場で買えることを僕は知っていた。エアガンを持っている同級生がそこで買ってもらったと散々自慢していたからだ。
その足でデパートのおもちゃ売り場へ両親を連れていき、売り場の片隅に少しだけ積まれているエアガンを見つけた。銃の種類なんて全く知らない、とにかくみんなが持っている物が自分もほしい。僕は迷わず一つを取って父に差し出した。
「これがいい!」
「意外と安いな、二千円もしないのか。よし、それじゃあ、」
と、父が言葉を止めた。
なんだろうと顔を見ると、箱にじっと視線を落としている。
「対象年齢、一〇歳以上か」
しまった。そう思った。
当時の僕はまだ八歳になったばかりだ。もちろんエアガンを自慢してくる同級生もみんな八歳あるいは七歳なのだが、細かいことは気にしない親が結構いたのだろう。そして僕は自分の父親がそういう親かどうかをよく知らなかった。ちなみに母は結構気にするタイプだ。だけど今回は父に買ってもらうわけだから、母は関係ないだろう──そんなわけがないのにそう思ってしまうのが子供らしかったと思う。
もしも父が対象年齢を理由に「駄目だ」と言ったら、同級生はみんな持っているということ、八歳も一〇歳も大して変わらないということ、絶対に危ない使い方はしないと約束すること……様々な言葉で父を説得するつもりだった。
だけど、それらはすべて杞憂だった。
「まぁ、八歳も一〇歳も大して変わらないか」
心の中でガッツポーズをした。父は細かいことを気にしないタイプだったらしい。
父の言葉を聞いて、やはり母は少し眉間にを寄せたのだけど、おそらく離婚したばかりでどこか僕に負い目を感じていたのだろう。結局対象年齢についてうるさく言われることもなく、僕はまんまと少し年上向けのエアガンを手に入れた。
再び公園に引き返し、さっそくエアガンで少し遊ぶ。やがてお腹が空いてきたので食事を共にし、また一ヶ月後に会う約束をして父と別れ、母と二人で家路についた。
家に帰ると、大きなゴールデンレトリバーがじゃれついてきた。
「ただいま、ユノ」
尻尾を振るユノの耳の後ろ辺りをなでてやる。ユノはそうされるのが好きだった。
ユノは僕が生まれたときに祖父が飼い始めた犬で、たまに遊びに来たときはいつも一緒に遊んでいた。それが今では毎日一緒だ。母方の実家で暮らすようになって嬉しかったことの一つがこれだった。
「これ、買ってもらったんだぞ。いいだろー」
ユノにエアガンを見せつける。首をかしげるユノ。いつかテレビで見た、ばーんとやったら死んだふりをする芸がユノにはできるかな?
「ユノにも向けちゃだめよ」
僕の考えが伝わったのか、後ろからちょっときつめの母の声。はーい、とおとなしく返事する。人に向けちゃだめよ、と帰り道で散々言われた後だ。うるさいなぁ分かってるよ、なんて思いながら。
ひとしきりユノをなで回したら手を洗って家に上がり、茶の間に座っている祖父に元気に挨拶をした。
「ただいま、おじいちゃん!」
「おお、お帰り、暦。楽しかったか?」
祖父が柔和な笑みで僕を迎えてくれる。口数は少ないが、いつも甘いアメをくれる優しいおじいちゃんだ。
「うん。おじいちゃん、アメちょうだい」
「今日はもう食べただろ。一日一つだ」
ただ、絶対に一日一つしかアメをくれないのはケチだと思っていた。僕はそのアメが大好きだからたくさんほしいのに、祖父は僕の手の届かない箪笥の一番上の引き出しにアメをしまって勝手に取れないようにしていた。
アメ一つ取っても食べすぎはよくないからと一日に一つしかくれない。その厳格さに気づけなかった僕は、買ってもらったエアガンを、何も考えずに祖父に自慢してしまった。
「まぁいいや。それよりおじいちゃん、これ見て!」
「おお、エアガンか。男はやっぱりほしくなるよなぁ。じいちゃんも子供の頃、」
穏やかに微笑んでいた祖父の目が、不意に鋭くなった。
「暦。それを貸しなさい」
「え? うん……」
ただならぬ祖父の雰囲気に、大人しくエアガンを箱ごと渡す。
それを受け取った祖父は、箱の一部を指さしながら、厳しい声で言った。
「対象年齢が一〇歳以上となっているだろう。お前にはまだ早い」
そう言って祖父は立ち上がり部屋を出ていった。そしてそのまま、僕のエアガンは返ってこなかった。捨てられてしまったのだと僕は思った。
僕は大声で泣き、その日から祖父のことが大嫌いになった。祖父も僕のことが嫌いなんだと思い込むようになった。その分、僕を慰めてくれた優しい祖母に懐くようになり、祖父とはあまり口をきかなくなった。
祖父は祖父なりに僕のことを好きでいてくれたのだと気づいたのはそれから二年後、祖父が亡くなってからだ。
祖父は僕に、一つの謎を残してこの世を去った。
○
「暦」
障子の向こうから、おじいちゃんが僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
エアガンを捨てられてから二年が過ぎても、僕はおじいちゃんが嫌いなままだ。アメをもらいに部屋まで行くこともなくなった。だから今の声も聞こえなかったふりをしてこのまま遊びに行ってしまおうかと思ったけど、名前を呼ばれた時に足を止めてしまった。きっとおじいちゃんは僕が聞いてたことに気づいてる。
観念して、おじいちゃんの部屋の障子を開けた。聞こえてたのに無視して遊びに行ったってばれたらきっと怒られる。
「なに、おじいちゃん」
平静を装って部屋に入ると、おじいちゃんはベッドに横になっていた。僕がこの家に来た頃は畳の上に布団を敷いて寝ていたのに、何回かの入院から帰ってくると、おじいちゃんはこうやってスイッチで動くベッドで寝るようになった。
「こっちへ来なさい」
弱々しい声が僕を呼ぶ。前みたいな大きな声はもう出せないらしい。
お母さんから、おじいちゃんは病気だって聞いた。おじいちゃんなんて早く死んじゃえばいいのに。そんなことを考えながらベッドの側まで行く。
「アメが、いるか?」
「……ううん。いらない」
僕はもうずっとアメを食べていなかった。にもかかわらず、あのアメの甘さは今も簡単に思い出せた。本当はほしいのに、なぜかそれを言えなかった。
「そうか」
小さく呟くおじいちゃんが、何を思っていたのかは分からない。
おじいちゃんはアメに関してはそれ以上何も言わず、ベッドの横のテーブルに置いてあった箱を持ち上げて、僕に差し出してきた。
「暦。これを、お前にあげよう」
「なに、この箱?」
学校で使うノートくらいの大きさの箱だ。あんまり重くないし振っても音がしないから空っぽかもしれない。でも見た目は宝箱みたいでちょっとわくわくする。
ただ、その箱は開けようとしても開かなかった。
「おじいちゃん、開かないよこの箱」
「ああ。その箱には、鍵がかかってるんだ」
「鍵は?」
「おじいちゃんしか知らないとこに、隠してある」
「なんで隠すの? 鍵もちょうだい」
「おじいちゃんが死ぬ前に、あげるよ」
そう言われて、心臓がどきっとしてしまった。
僕はおじいちゃんが嫌いだ。
エアガンを捨てられたあの日から、僕は何度も「おじいちゃんなんて早く死んじゃえばいいのに」って思ってる。
もしかしておじいちゃんは、それに気づいてる……!?
「それから……」
おじいちゃんはまだ何かを言おうとしてたけど、僕は怖くなって、箱を持っておじいちゃんの部屋から走って逃げた。
○
それから数ヶ月が過ぎた、ある休日。
僕は同級生たちと遊ぶために、昼ご飯を食べてすぐに出かける準備をした。
「暦、どこか行くの?」
玄関で靴を履く僕にお母さんが声をかけてくる。変だな、遊びに行くのは昨日の夜にちゃんと言ったはずだけど。
「うん。友達と遊びに」
「……今日はおじいちゃんの具合が悪いから、遊びに行くのはやめて家にいなさい」
お母さんは真剣な顔でそう言った。だけど僕は。
「……おじいちゃんなんか知らないよ。行ってきます」
そう言い返して、そのまま靴を履いて玄関の扉を開ける。
「せめて、早く帰ってきなさい!」
お母さんの大声には返事をせずに、僕は走った。普段はおとなしいユノが、その日に限って僕の背中に一声吠えた。
でも僕はいつものように遊びに行って、いつものように夕方まで遊んだ。
そして、一応日が傾く前には家に帰りついたんだけど。
それでももう、遅かった。
「ただいまー」
「暦、いつまで遊んでたの! 早く帰りなさいって言ったでしょ!」
僕を迎えたのは、本気で怒っているお母さんの顔と声だった。
「ご、ごめんなさい……でも、どうして?」
怒ってるだけじゃない。お母さんは、泣いていた。
「おじいちゃんが……おじいちゃんが……」
──死んだ、という言葉の意味は、僕にも一応分かった。
だけど、何を思えばいいのか、何を言えばいいのか、さっぱり分からなかった。
「おじいちゃん、暦はどこだって、何度も、何度も……会わせてあげたかったのに……」
お母さんはすぐに怒るのをやめて、また泣き始めた。おばあちゃんも泣いていた。
僕は涙なんて出てこない。おじいちゃんは僕が嫌いだったんだから、会いたくなんてなかったはずだ、そんなことを思ってるくらいだった。
ただ、僕には一つだけ気になることがあった。
「あの、お母さん」
「……なに」
「その……おじいちゃん、僕に何か言ってなかった? 僕に、何かくれるとか」
「おじいちゃんと、何か約束してたの?」
「うん。あの、鍵をくれるって」
「鍵? なんの鍵?」
おじいちゃんからもらった箱のことは誰にも話してなかった。おじいちゃんのことは嫌いだったけど、こっそり宝箱を隠し持ってるのはどきどきした。
箱のことをお母さんに話そうか。そう悩んでいると。
「おじいちゃん、急に具合が悪くなって、暦を何度も呼んでたのよ。もしかしたら、その鍵をあげようとしてたのかもしれないわ。でも、そのまま……」
そう言って、お母さんはまた泣き出した。
僕はと言えば、おじいちゃんが死んでしまったことよりも、もう宝箱が開けられないかもしれないということのほうが気になっていた。こんなことなら遊びに行かずにずっと家にいればよかった。そうすれば、おじいちゃんから鍵をもらえたかもしれないのに。
鍵はどこにあるんだろう? 箱の中には何があるんだろう? もしかして、それはもうずっと分からないんだろうか?
僕はものすごく後悔した。本当に、もう鍵は手に入らないんだろうか。
そして真剣に思う。もう一度、おじいちゃんに会いたいと。
幽霊でもなんでもいい。もう一度おじいちゃんに会って、鍵を──
○
──次の瞬間、僕はよく分からない箱の中にいた。
「…………え?」
僕は箱の中で、ベッドのような物に横たわっているようだ。目の前には薄く僕の顔を映す透明なガラス。どうやらこの箱の蓋らしい。手で押してみるけど中からは開かないようで、もしかして出られないのかとパニックになりかける。
なんだ? 僕は家にいたはずだ。おじいちゃんが死んで、お母さんとおばあちゃんが泣いてて……なのにここはどこだ? なんでいきなりこんな所に?
意味が分からない。開けて、出して、と大声で叫びそうになる。
その時、ガラス蓋の向こうに、人影が見えた。
そこに立っていたのは、僕と同じ年くらいの見覚えのない女の子だった。
思わずガラスを叩く。その音に女の子がびくりと身を竦める。しまった、驚かせて逃げられては困る。僕はなるべく穏やかな声で話しかけた。
「あの、聞こえるかな? この蓋を開けてほしいんだ。中からは開かなくて」
幸い僕の声は聞こえたようだ。女の子は箱の周りをあれこれと触り始め、苦心しながらも箱を開けてくれる。
箱から出た僕は、まずは周りを見回した。
白くて広い部屋だ。機械がたくさんあって、いくつものケーブルが僕の入っていた箱に繋がっている。箱と言っても四角い箱ではなくて、なんだかロボットアニメで見たコクピットのような形をしている。
そして、目の前には箱を開けてくれた女の子。
僕と女の子は無言で見つめ合う。白いワンピースを着た、長く真っ直ぐに伸びた黒髪が美しい、かわいらしい子だ。でもやっぱり見覚えはない。
とにかく、ここにいるなら何か知ってるはずだ。思いきってその子に声をかけてみることにする。
「あの……君、誰? 僕、なんでこんなとこに……っていうかここ、どこなのかな」
「……っ!」
僕が声をかけた途端、その子は踵を返して走り出した。
「あっ! 待て!」
咄嗟にその後を追いかける。女の子はなんだかごちゃごちゃした建物の中を迷う様子も見せずにすばしっこく逃げていく。かなりこの建物に詳しそうな足取りだ。だんだんと引き離され、ついにその子は裏口らしき所から外へと飛び出してしまった。
数秒遅れて僕もそこから外へ出るが、細い路地に女の子の姿はすでにない。
時は夕暮れ。赤く染まる町並みにも見覚えはなく、途方に暮れて、少しでも広そうなほうへ向かおうとその建物の反対側へと回る。
すると、正面玄関らしい入り口の脇に、建物の名前が書いてある看板があった。
虚質科学研究所
虚質、というのは分からないけど、科学や研究なら分かる。要するに、お父さんのような学者が仕事をするところなんだろう。
看板のすぐ下には町名と番地が書かれたプレートが貼ってあった。そこに書かれていたのは一応知っている町名だ。ここがそこだとすれば、僕が住んでいる町からは確か歩いて一時間くらいの距離。僕はなんでこんな所にいるんだろう? お母さんは? おばあちゃんは? 心細さとわけの分からなさで泣きそうになる。
その時、道の向こう側から人の良さそうなおばさんが歩いてくるのが見えた。僕が駆け寄ると、おばさんは驚いた顔をして足を止めてくれた。
「すいません! ここってどこですか?」
「え? どこって?」
「あの、何県、何市、何町ですか?」
「大分県大分市、○○町だけど」
おばさんの答えを聞いて少しだけ安心した。やっぱり僕の知っている○○町らしい。だったら道さえ分かれば歩いて帰れる。
「あの、××町って分かりますか?」
「ええ、分かるわよ」
「ここからどう行けばいいですか?」
「どうって、もしかして歩いて行くの? 一時間くらいかかるわよ? お父さんかお母さんに迎えに来てもらえないの?」
「電話、持ってなくて」
「おばさんが貸してあげるわよ。遠慮なく使いなさい」
そう言っておばさんは携帯電話を僕に貸してくれた。親切な人に出会えてよかった。家の電話番号くらいは覚えてる。僕はお言葉に甘えて電話をかけさせてもらった。
『はい、高崎です』
「あ、お母さん?」
『あら、暦? どうしたの?』
……なんだか、予想してた反応と違う。少し驚いてはいるみたいだけど。
『暦、ケータイ買ってもらったの?』
「いや、通りすがりのおばさんが貸してくれたんだ」
『え?』
「あの、僕もよく分からないんだけど、今から迎えに来てもらえる?」
『迎えに? いいけど、お父さんは?』
「お父さん? お父さんはいないけど」
『あらそう。なあに、お父さんとケンカでもしたの?』
「え?」
……なんだか、お母さんとの会話が微妙に噛み合ってない気がする。
『まぁいいわ。それで、どこに迎えに行けばいいの?』
「○○町の、虚質科学研究所ってとこにいるんだけど」
『ああ、やっぱりお父さんと一緒だったの。すぐ行くから、事情は車の中で聞かせてね』
「え? うん……」
戸惑いつつも、僕は電話を切った。おばさんに電話を返し、研究所の前まで戻ってお母さんの迎えを待つ。
お母さん、なんであんなにお父さんお父さんって言ってたんだろう? 今日はお父さんには会ってないのに。だいたい、さっきまではあんなに泣いてたのに。
それに、僕がいきなりここに来たってことは、お母さんの前からはいきなり消えたってことじゃないのかな? いや、そんなことあり得ないんだろうけど。そうだったらもっと心配してるだろうし。
じゃあ、もしかして僕は、ちゃんとお母さんにも言って、自分の足で歩いてここまで来たんだろうか? それを全部忘れてる? そんなわけもないと思うけど、瞬間移動よりはあり得るのかな……?
そんなことを考えながら待っているとすぐに時間が経ったようで、人通りの少ない道に車のエンジン音が近づいてきた。ただ、お母さんの車じゃない。一応立ち上がって、邪魔にならないように道の端っこに寄る。
すると、なぜかその車がスピードを落として近づいてきて、目の前で止まった。
「え?」
運転席に座っているのは、お母さんだった。
おかしい。お母さんは買ったばかりの軽自動車に乗ってるはずだ。なのに今お母さんが乗ってるのは古い乗用車だ。
だけどよく見てみると、その車にどこか見覚えがあるような気がする。
「……あ!」
思い出した。この車は、おじいちゃんが乗ってた車だ。
ここ数年はずっとガレージに入れっぱなしだったのに。おじいちゃんが死んだからなのかな。ガソリンとかどうしたんだろう。
扉を開けて助手席に乗り込むと、お母さんが笑って僕を迎えてくれる。
「あら、お父さんは?」
「だからいないってば」
「ふぅん。どうするの? このままうちに帰っていいの?」
別に買い物とかの用事はない。今はとにかく見慣れた家に帰って落ち着きたい。僕はそのまま車を出してもらった。
運転しながら、お母さんが僕に聞いてくる。
「で、今日はどうしたの? お父さんと何かあったの?」
またお父さんだ。どういうことだろう?
「何もないよ。っていうか、今日はお父さんと会ってないし」
「じゃあなんであんなとこにいたの」
「研究所? お父さんと何か関係があるの?」
「あるも何も、お父さんの仕事場じゃないの」
びっくりした。確かにお父さんは学者だから、似たような所で働いてるんだろうと思ったけど、まさかあそこだったとは。
「そうだったんだ……」
「忘れてたの? 最近行ってないの?」
「最近も何も、一回も行ったことないよ」
「あら? お父さんは連れていったって言ってたけど」
「お父さんと? 行ったかな……」
「暦が小さい時にも何回か行ったことがあるわ。覚えてないかもしれないけど」
そうだったんだ。全く記憶にない。よほど小さい時だったんだろう。
でも……なんだろう。さっきからこの、なんて言うか……違和感は。
何か、何かがどうも、気色悪い。
どこか微妙に噛み合わない会話を続けながら、車は僕の家に帰りつく。庭にいつもの軽がない。どうしたんだろう?
玄関先で僕が降りると、お母さんは裏手のガレージへ車を持っていく。
とりあえずユノをなでて落ち着こうと思ったけど、庭に姿は見えなかった。もう小屋に入って寝てしまったのかもしれない。だったら起こすのもかわいそうだ。
晩ご飯のいい匂いがする。そう言えばお腹が空いた。玄関を開けて中へ入る。
「ただいまー」
「あら、あらあらあら暦!」
台所に立っていたらしいおばあちゃんが笑顔で僕を呼ぶ。なんでこんなに機嫌がいいんだろう? さっきおじいちゃんが死んだばかりなのに。
「よく来たねぇ。さぁさぁお座り。お腹空いてないかい? すぐご飯にするからねぇ」
……もしかして、おじいちゃんが死んだショックで少しおかしくなってしまったんだろうか? さっきまでの泣き顔からは信じられない機嫌の良さに不安を覚えつつ、促されるままお茶の間の障子を開ける。
そして僕は、今度こそ完全に思考を停止させられた。
なぜなら、四角い座卓の前にどかっとあぐらをかいて。
「おお、暦か。久しぶりだなぁ。ま、座れ。じいちゃんの隣に座れ」
さっき死んだはずのおじいちゃんが、僕を手招きしていたからだ。
○
いくつかのことを考えた。
まずは夢。そうであってくれればどんなによかっただろう。けどこの夢はほっぺたをつねっても叩いても覚めることはなかった。
次に、幽霊。僕はさっき、幽霊でもいいからもう一度会いたいと思った。でも勇気を出して触ってみた結果、おじいちゃんはちゃんと感触も体温もあった。
一応、僕の頭がおかしくなってしまった可能性。これは違うと信じたい。
結局わけが分からず、それでもなるべく冷静に、お母さんやおじいちゃんやおばあちゃんから少しずつ話を聞き出した。
結果、僕は一つの結論に辿り着かざるを得なかった。
ここは、僕がいた世界じゃない。
この世界は、三年前に両親が離婚した時、僕がお母さんじゃなくてお父さんについていった世界だ。何かのアニメで見た、並行世界、というやつらしかった。
この世界の僕は、この家じゃなくてお父さんと一緒に住んでいる。だからお母さんがやたらと「お父さんは?」と聞いてきたし、おばあちゃんがあんなに喜んだんだ。
この時、すんなりとその事実を受け入れることができたのはどうしてだろう。元の世界に戻れるのかという心配もしなかった。それよりも、その結論に辿り着いた僕がその先に考えたことは、一つだけだった。
この世界では、まだおじいちゃんが生きている。
ということは、おじいちゃんから、宝箱の鍵を手に入れられるんじゃないか?
○
おじいちゃんに話しかけるのは勇気のいることだった。元の世界では、僕はもうほとんどおじいちゃんと話してなかったからだ。
けど、それ以上に宝箱のことが気になって仕方なくて、思いきっておじいちゃんの部屋に向かった。二年ぶりのことだ。
「あの、おじいちゃん」
「おお、暦か?」
「ちょっと、お話ししていい?」
「もちろんいいとも。入れ入れ」
おじいちゃんは、拍子抜けするほどに優しかった。僕の世界ではおじいちゃんは僕のことを嫌いなはずだから、逆に怖いくらいだった。
でも同時に僕は思い出す。エアガンを捨てられたこと以外は、もともと僕の世界のおじいちゃんも優しかったということを。
僕はそれから二年もおじいちゃんを避け続けて、結局話もしないまま、おじいちゃんは死んでしまった。今さらながら、もっとおじいちゃんと話しておけばよかったと思い始めていた。そうすれば意外と簡単に仲直りできて、鍵も一緒にもらえたかもしれないのに。
そう思うと、宝箱のことがもっと気になってきた。おじいちゃんがこの世界と同じ優しいおじいちゃんだったとしたら、いったい僕に何をくれたんだろう?
「あのさおじいちゃん、宝箱って持ってる?」
「宝箱? いや、持ってないなぁ」
どうやら話はそう簡単にはいかないようだった。
この世界のおじいちゃんは、僕にくれた宝箱をそもそも持っていないという。もしもあの箱が僕のために買ったものなら、この世界の僕はおじいちゃんとは別々に暮らしてるんだから仕方ないのかもしれない。
「箱がいるのか? お菓子が入ってた缶の箱とかならいくらでもあるぞ」
あからさまにがっかりしてしまった僕の顔を見て焦ったのか、おじいちゃんはそんなことを言い出す。でも僕がほしいのはそんな物じゃないんだ。
「ああ、お菓子と言えば、アメいるか?」
おじいちゃんはそう言って立ち上がり、箪笥の一番上の引き出しから、僕が好きだった甘いアメを取り出した。
懐かしいな。おじいちゃんがいつもくれてたアメだ。こっちの世界のおじいちゃんも同じとこにしまってるんだ。二年前は届かなかったその引き出しが、背の伸びた今の僕なら届きそうだった。
おじいちゃんがくれたアメを口に放り込んで、大好きだった甘さが久しぶりに口の中に広がった時、ふと思いついた。
この並行世界はいろんなところで僕の世界とは違ってるけど、同じところもたくさんある。おじいちゃんのアメのしまい場所もそうだ。
だとしたら、おじいちゃんが考えることも、基本的には同じなんじゃないのかな?
「あのさ、おじいちゃん」
「うん?」
「えっと、宝箱っていうのはね、お父さんが僕にくれたんだ。でも、鍵だけはどこかに隠しちゃったんだよ。それで、僕に見つけてみろって言うんだ。おじいちゃんだったらどこに隠す?」
この世界の僕はお父さんと一緒に暮らしてる。だからこんな作り話を思いついた。もしおじいちゃんの考えることがどっちの世界でも一緒なら、こっちの世界のおじいちゃんの答えをヒントにして、元の世界で鍵が見つけられるかもしれない。
「それは、お父さんも面白いことをするなぁ」
少し笑って、おじいちゃんは真面目に考え始める。
「隠し物には二通りある。絶対に見つけられたくない物と、本当は見つけてほしい物だ。どっちかによって隠し方も変わってくる。宝探しなんてのはだいたい見つけさせるのが目的だけど、お父さんはどっちだろうな?」
「それは、見つけてほしいんじゃないかな。見つけてほしくないなら、そもそも宝箱を僕にくれないでしょ?」
「うん、そうだな。暦は賢い。となると、もしおじいちゃんが暦に宝箱をあげたとして、その鍵を見つけさせるために隠すなら」
考え込むおじいちゃん。そして一つの答えを出す。
「今の暦は見ないけど、いつかは絶対に見る所に隠すかな。それなら適度に隠しておけると思う」
「それってどこ?」
「それは、おじいちゃんはお父さんの家は知らないから分からないなぁ」
「この家で! この家に隠すとしたらどこ!?」
「この家でか? うーん、どこだろうなぁ」
一番肝心なその答えを、結局おじいちゃんは思いつかなかった。広い家だから隠せそうな場所はいくらでもあるんだけど。
「……隠すと言えば、ユノも昔はよく靴やら何やら隠してたなぁ」
ふっと、おじいちゃんの声のトーンが下がる。
それを聞いて少し驚いた。僕の知る限り、ユノはそんな悪さは全くしないからだ。
そこで思い出した。ああそうだ、ここは並行世界だった。この世界のユノは、僕の知ってるユノとは違うんだ。
こっちの世界の僕はこの家には住んでない。ということはユノともしばらく会ってないはずだ。とりあえず、そんなふりをしておいたほうがいいかもしれない。
「ユノは、元気?」
僕の問いに、おじいちゃんは目を細めて答えた。
「そうだな……きっと、天国で元気にしてるさ」
思わず、大声を出してしまいそうになった。
天国で元気にしてる、ということは。
この世界のユノは、死んでるんだ。
「ユノはな、暦が生まれた時に飼い始めたんだぞ」
その話は今までにも何度か聞いたことがあった。子供が生まれたら犬を飼いなさい、という詩も覚えるほどに聞かされている。
「子供が生まれたら犬を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。
子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。
子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。
そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。
……暦、お前は強く、優しくなりなさい。ユノの分まで」
おじいちゃんは、たまにしか遊びに来ない僕のためにわざわざユノを飼い始めた。それは僕の世界のおじいちゃんも同じだ。
「……ユノが昔、靴とか隠してたって本当?」
「ああ。小さいころはよく悪さしてたもんだ」
「でも、隠したりしなくなったよね?」
「ちゃんと叱って躾けたからな。暦を噛んだりしたら、暦もユノもかわいそうだ」
それを聞いて、僕はやっと分かった気がした。
悪いことをしたら叱る。それは、相手が嫌いだからじゃないんだ。
対象年齢一〇歳以上のエアガンを、八歳の僕が持っていた。それは悪いことだから取り上げられたんだ。人を傷つけないように。それで僕が傷つかないように。
きっとこの世界のおじいちゃんも、僕がエアガンを買ってもらったらやっぱり捨ててたんだろう。なのに僕はおじいちゃんのことを鬼か何かのように決めつけて、嫌われてると思い込んで、一方的に嫌ってしまった。
おじいちゃんは、やっぱり優しかったんだ。
「……ユノに、会いたいな」
元の世界に戻りたい。そう思った。
この世界ではおじいちゃんが生きている。けど、ユノはもういない。
僕の世界ではユノが生きている。けど、おじいちゃんはもういない。
「暦はまだしばらく会えないけど、おじいちゃんはもうすぐ会えるかもなぁ」
おどけてそんなことを言うおじいちゃん。その意味が、僕にも分かってしまう。
僕の世界と基本的に同じ並行世界。もしかしたら、この世界のおじいちゃんも僕の世界のおじいちゃんと同じ病気で、もうすぐ死んでしまうのかもしれない。
そして僕が元の世界に戻れたら、ユノももうすぐ死んでしまうのかもしれない。
おじいちゃんもユノも両方の世界で死んでしまって、もうどこにもいなくなる。
僕は今さらながらに、おじいちゃんが死んでしまったことを悲しく思い始めた。鍵をもらえなかったこととは別の後悔が、初めて僕の中に生まれた。
「あのさ、おじいちゃん」
「うん?」
「今日、一緒に寝てもいい?」
「……あぁ、あぁもちろんいいとも」
その時のおじいちゃんの、くしゃっと笑った本当に嬉しそうな顔を見て、なぜだか僕はより一層悲しくなってしまった。
だけど、無理やりその悲しさを呑み込んで。
「あと、アメもう一つちょうだい」
「駄目だ。アメは一日一つまでだ」
僕は少し安心して笑ってしまう。ああ、やっぱりおじいちゃんはおじいちゃんだ。
そして夜、おじいちゃんの隣でうつらうつらと眠りに落ちていく意識の中で。
僕は不意に、鍵のありかが分かったような気がした。
○
次の日の朝。
目が覚めた僕は、なぜかお母さんと一緒に寝ていた。
「うわぁっ!?」
「ん……暦、起きたの……?」
まぶたをこすりながらお母さんが言う。どうもお母さんは、僕が一緒に寝ていることを不思議に思っていないらしい。二年くらい前から、一緒に寝たことなんて一回もないのに。
当然ながら、一緒に寝ていたはずのおじいちゃんはいない。
これは、もしかして。
「お……おじいちゃんは?」
恐る恐る聞くと、お母さんは一瞬はっきりと目を開いて、それからまた目を細めて、僕の頭をなでた。
「お葬式屋さんに綺麗にしてもらって、今は仏様のお部屋で寝てるわ」
やっぱりそうだ。僕は元の世界へ戻ってきたらしい。そしてこっちの世界の僕は、昨日の夜なぜかお母さんと一緒に寝たということだ。
……僕があっちの世界へ行ってたのに、こっちの世界にも僕がいた?
「あの、お母さん。昨日の夜は……」
「なぁに、寝て起きたら恥ずかしくなった? 夕べの暦は甘えんぼさんだったもんね」
ああ、そうか。
僕が昨日、お父さんと暮らしている世界へ行っていたのと入れ替わりに、こっちの世界には昨日、お母さんと別れたあっちの世界の僕が来てたんだ。
あっちの世界の僕は、お母さんに甘えたんだろう。そう考えると、僕もあっちの世界でお父さんに会っておけばよかったと少し後悔する。あっちの世界の僕はお父さんと暮らしてるんだから、きっと僕よりもお父さんと仲がいいはずだ。
あっちの世界の僕は、こっちの世界でおじいちゃんが死んでいるのを知って、何を思ったんだろう。
「お母さんね、暦はおじいちゃんのことが嫌いなんだと思ってた。でも、そうじゃなかったのね」
お母さんのその言葉で、答えが少し分かる気がした。
○
僕は久しぶりに、おじいちゃんの部屋へ来ていた。
二年前までは毎日のように来てアメをもらっていたのに、おじいちゃんのことを嫌いになってからはほとんど来なくなってしまった部屋。
あっちの世界のおじいちゃんの部屋と、違うところはほとんどない。アメをしまっている箪笥の位置、大きさ、形、すべて同じだ。
おじいちゃんは、僕が来なくなってもアメを用意していたんだろうか?
今の僕にはその答えが分かる気がした。
きっと、アメはある。
だって、僕が宝箱をもらったあの日もおじいちゃんは言っていた。アメがいるかって。あの時「いらない」と言ってしまったことを後悔する。素直にもらっておけばよかった。きっとあれは、おじいちゃんと仲直りする最大のチャンスだった。
一番大きな箪笥に近づく。二年前は手が届かなかった一番上の引き出しも、背が伸びた今なら一人で開けられる。僕ももうすぐ一〇歳だ。
おじいちゃんがいつもアメを取り出していた引き出しを、開ける。
そこにはやっぱり、僕が大好きだったアメがあった。
「一つもらうね、おじいちゃん」
アメを一つ口に入れる。口の中に大好きな甘さが広がる。けど、僕が本当にほしいのはこれじゃないんだ。アメの袋に手を入れてさらに中を探る。
きっと、ここに──
「……あ」
指先に、何か硬い感触があった。
つまんで取り出してみると、それは鍵だった。
「……やっぱり、あった」
僕は、向こうの世界のおじいちゃんが言っていたことを思い出す。
『今の暦は見ないけど、いつかは絶対に見る所に隠すかな』
宝箱をもらった時の僕はおじいちゃんを嫌ってて、おじいちゃんの部屋に近づかないようになっていた。それでもおじいちゃんは、いつかきっと僕がまたアメをもらいに来るって信じてたんだ。
その時に自分がもう死んでいても、その時の僕ならきっと背が伸びてて、自分で引き出しを開けられるだろうから。
だからおじいちゃんは、そこに宝箱の鍵を隠したんだ。
僕は自分の部屋に隠していた宝箱を取り出し、鍵と一緒に仏様の部屋、おじいちゃんが眠っている所へ行った。
おじいちゃんは布団に寝ていた。幽霊のような青白い顔を想像してたけど、どちらかと言うと少し黄色みがかってるように見えた。
元から痩せてたけど、なんだかもっと痩せてしまったように見える顔。
怒った顔ばっかりよく覚えてる。今はなんだか別人のように見える。
おじいちゃんは死んだ。
もう二度と僕を怒らないし、もう二度と僕にアメをくれないんだ。
僕は急に、怖くなった。
おじいちゃんに宝箱をもらってから、僕はおじいちゃんとまともに話してない。
「おじいちゃん?」
眠っているおじいちゃんを呼んだら、いきなり涙が出そうになった。
「おじいちゃん。宝箱、開けるね」
涙がこぼれてしまう前に、僕は宝箱に鍵を差し込んだ。
かちり、と音がして、軽い手応え。
僕は、宝箱のふたを開ける。
「あ……」
中に入っていたのは、箱に『対象年齢一〇歳以上』と書かれた、エアガンだった。
「これ……あの時の……」
八歳の時、お父さんにねだって買ってもらって、お前にはまだ早いとおじいちゃんに取り上げられた、あのエアガン。僕がおじいちゃんを嫌いになったきっかけの。
捨てられたとばかり思ってた。おじいちゃんはずっと、捨てずに持ってたんだ。
箱の上には、二つに畳まれた小さな紙がある。僕はそれを開いてみる。
そこには、がたがたに震えた、僕よりもずっとへたくそな字で、こう書かれていた。
一〇歳おめでとう、暦。人に向けてはいけないよ。
家の外で、ユノがわんと鳴いた。
―――――――
明日は、『君を愛したひとりの僕へ』の冒頭を公開します。本作とは少し違った並行世界の物語、どうぞお楽しみに!