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スマホゲーム世界の空を、天文学や神話の知識でガチ考察する仕事――陸秋槎「開かれた世界から有限宇宙へ」全文公開

陸秋槎氏による初のSF作品集、『ガーンズバック変換』が刊行されました。収録作より、開かれた世界オープンワールドから有限宇宙へ」を全文掲載します。スマホ用ゲームで、スペックの事情で昼と夜の2パターンしか空模様を表現できないのが没入感を削ぐという理由から「昼夜が一瞬で切り替わる現象に天文学的な理屈を付けろ」と無茶振りされた社員の奮闘話。

扉絵:SFマガジン2023年2月号より

 

無限なる英知は、可能な体系の中の
最善なるものを創らざるべからずと認める以上、
……すべては充たされ、さもなくば統一はたもてず、
上昇するものは正しき順序に従う。
──アレキサンダー・ポープ『人間論』、内藤健二訳

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「織田作之助の小説に、妹を学校に通わせるために、体に鞭打って必死に針仕事をしていた姉が、結局無理が祟って病に倒れて死んでしまうって話があるんですが、私たちにそっくりじゃないですか?」

「そうなんですか? 読んだことありません」

 私と小笠原おがさわらは、仕事がとっくに終わっているのに習慣的に残業している。ゲームのアップデート日の今日、何か厄介なバグが出れば、私たちが急ごしらえした謝罪文を、お詫びの月光琥珀こはくと一緒にユーザーに届けるのだ。幸い、今のところ何事もない。

 いまは、それぞれ自分の椅子に座り、出前を食べている。

「うちの売上って、全部新規プロジェクトにぶちこまれているんですよ──その可哀相な姉みたいに」

「どうしても新規プロジェクトに参加したいみたいですね?」

「そりゃそうですよ。同期は全員あっちに配属になったのに、私一人だけここに置き去りですから。私が優秀じゃないからですか?」

「こっちからベテラン社員も引き抜かれているんだから、人員の補充が必要なんでしょう」

「だったらなんで私だけなんですか?」

 そこまでしゃべると彼女は大きなため息を吐いたきり何も言わず、大きくすくったチャーハンを口に入れ、真剣に咀嚼した。

 小笠原朱音あかね、二十二歳。都内の私立大学文学部卒業。六月十二日生まれの双子座。四歳上の姉とまだ高校生の弟がいる。趣味は一人カラオケ。好きな色はロビンエッグブルー。目の下のくまがちょっとひどいが、それでも美人の部類だ。先月、二年付き合った彼氏と別れたばかり。

 こんなに紙幅を割いて彼女を紹介するのは、これからの話に彼女の出る幕が全くないからだ。

 今年四月に入社後、私たちのプロジェクトチームに割り振られた小笠原はずっと不満を持ち、毎日口癖のように文句を言い、しかもいつも私に聞かせるのだ。

 私と小笠原、そして私と同期入社の残り二人の社員は、スマホゲームのシナリオライターを担当している。

 この「アイリス騎士団」は、配信されてからApp Store売上ランキングの上位三十位圏内を維持し、イベントがあるときはいつもトップに躍り出るので、決して失敗作ではないどころか、同ジャンルで最も成功しているゲームと言っても過言ではない。だがそうであっても、小笠原も私も、親戚縁者に対しこのプロジェクトに参加していると胸を張って堂々とは言いづらい。

 未プレイ者が「アイリス騎士団」に抱くおおよそのイメージは、どうせ広告用イラストにあるビキニアーマー姿の女騎士たちだ。既プレイ者に至っては、ガチャや戦闘シーンでより多くのビキニアーマー姿の女騎士を目にしている。

 もちろん、「アイリス騎士団」は決してお色気だけを売り物にしたシンプルなものではない。このスマホゲー戦国時代において、エロだけを押し出して成功できる会社がどこにあるというのだ。それが毎月会社に数十億円の利益をもたらしてくれるのは、考え抜かれたシステム設計と深い関係がある。

 排出率が極端に低いガチャももちろん欠かせない。毎月実装する新キャラの各パラメータを、これまでのキャラより上にするのも言わずと知れた操作にすぎない。武器と軍馬も同様にガチャで引くしかない。それとともに、キャラのスキルアップ、武器の強化、さらには優秀な血統を持つ軍馬の育成をするのも、みな同じカードをまた引く必要がある。

 ローグライトゲームである本作で、プレイヤーは配下の女騎士を操作してダンジョンを探索し、経験値を取得してレベルアップをし、武器以外の装備なら全部をゲットできる。しかし戦闘で全軍が壊滅したら、そのクエストで得た経験値はどれもゼロになり、新たに入手した装備も全部失う。キャラが死んだままでいることはないが、その後七十二時間はサナトリウムに入院するため使用できない。経験値や装備を失いたくなければ、プレイヤーは課金アイテム──月光琥珀五個──を使うしかない。キャラを早めに退院させたいのなら、月光琥珀が三個必要だ。

 その上、ダンジョンのクエストに一日に行ける回数は制限されていて、上限に達したのにまだ入りたかったら、同じく月光琥珀を五個使用しなければならない。

 言い換えると、最強のパーティを育成するためにプレイヤーが有り金はたいてガチャで現在最強のキャラ、武器、軍馬を引き当てたとしても、毎日膨大な時間とお金を投じてダンジョンを攻略しなければいけない。

 しかし最強のパーティを育成すれば、「王朝戦争」モードで無敵の地位に就けるのだ。

「王朝戦争」でプレイヤーは他プレイヤーの騎士団と同盟を組むか敵対し、城攻めや侵略を行い、褒美を勝ち取り、自分の名前をランキングに刻める──要するに、いわゆるPvPモードだ。

 これこそ「アイリス騎士団」の金儲けのコツだ。プレイヤーの勝負心をくすぐれば、彼らの財布の紐を簡単に緩められる。

 私と小笠原の仕事など些細なものだ。私たちはキャラのバックグラウンドやキャラクターストーリー、メイン・サブクエスト、それから誰も気にすることはないアイテムの説明まで、ゲーム内の全テキストの作成を担当している。もちろん、「王朝戦争」のたびに勝利者に贈る祝辞も私たちが書く。

 これに比べれば、会社の新規プロジェクトに参加することがいっそう栄えある仕事であることは間違いない。

 新規プロジェクトは、「くノ一戦記」「トゥービー・オア・ノットトゥービー」などのAAAタイトルゲームを製作したことがある宮沼秀洋みやぬまひでひろが音頭を取って開発を進めており、これまで投入した資金は百億円を超えているとかなんとか。もちろんそれらのお金はみな「アイリス騎士団」のプレイヤーからもたらされたものだ。

 そのゲームは、いささか難解だが、厳粛な気持ちにさせられるタイトルがあり、「チェイン オブ ビーイング」と名付けられた。これも宮沼の発案で、十八世紀のイギリスの詩人の作品から取っているらしい。だが社内ではみんなから「食物連鎖」というあだ名で呼ばれている。冷酷なヒエラルキーを形成する「食物連鎖」において、ピラミッドの頂点にあるのが新規プロジェクトで、私たちのプロジェクトがその養分でしかないのは明らかだ。

 そう言うものの、モバイルプラットフォームで遊ぶために「3Dオープンワールドゲーム」を開発するのは極めて愚かな決定だったと今でも考えている。

 特に宮沼のあの偏執狂めいた完璧主義もこの業界では有名だ。私に限らず、多くの人間が開発を滞りなく終わらせられるのか疑問に思っている。だから社長から新規プロジェクトに行くか聞かれたとき、私は少しも迷うことなく断り、長年同じ道を歩んできた女騎士たちと引き続き進退を共にすることを選んだのだ。

 そして最近は社内でも、新規プロジェクトの開発に暗雲が立ち込めているという噂が流れている。

 私と小笠原が気まずい沈黙の中、出前を食べ終わり、自社のゲームをプレイして時間を潰そうとしていた矢先、オフィスのドアがノックされた。

 ドアは開いているので、ノックも単なるマナーにすぎない。

 入ってきたのは小笠原と同期入社の社員だ。ぴしっとしたスーツとそれに合ったネクタイまでして、革靴も光沢が出るほど磨き、薄い頭髪に整髪料をべったりつけている。ゲーム会社ではとても浮く出で立ちだが、それでも彼の名前を思い出せない。

 彼は早足で私たちの前にやってきた。

「岸田さん、来ていただけませんか? 宮沼さんがお話をしたいと」

「そっちのプロジェクトチームじゃない私に何の用があるんです?」

「僕も伝言を頼まれただけなので。具体的なことは宮沼さんから説明があるはずです」

「分かりました。行きます」

 立ち上がり、彼と一緒に部屋から出ようとしたとき、ふと小笠原の方を見ると、彼女は怒りで目を見開きながら私をにらんでいた。その目はまるで、自分を売った裏切り者を見つめる革命の志士だ。

 なんて呼ぶのか分からないその社員は私を小会議室のドアの前まで案内した。ドアを開けると、「宮沼さんが中でお待ちです」と言い残して去っていった。

 中に入ると、宮沼秀洋が座っていた。いるのは彼一人だ。

 普段、社内ですれ違うことは何度もあったが、会話をしたことはない。

 いまの彼は相変わらずおなじみの革ジャンを羽織り、おなじみのサングラスをかけ、おなじみの長髪を後ろでまとめ、あごにもおなじみの無精ヒゲを生やしている。

 入ってきた私を見て、彼はそれっぽいしわがれ声で「かけてください」と言った。

 学生時代だったなら、この伝説のカリスマプロデューサーを前にして、緊張のあまり身動き一つ取れなかったかもしれない。だが、いまではすでに畏敬の念もほとんど抱いていない。彼がかつてどれほどの成功を収めていようが、現在のような不景気の時代では、うちのようなスマホゲーム会社に来て生活の糧を得るしかないのだ。

 ましてや私が関わっているプロジェクトは、まさに彼のために資金を提供し、彼が思い描く完璧なゲームの製作を支えているのだ。

「社長から聞きましたが、T大理学部天文学科出身なんですって?」

「そんなところです」

 中退でも「出身」と言うのであれば。

「ちょっと頼まれてくれませんかね。岸田さんの専門的な知識があれば何も難しいことはないはずです」そこまで言うと、彼は話の矛先を変えた。「オープンワールドゲームにとって、最も大切なものはなんだと思います?」

 正直言うと、同業者が「オープンワールド」という言葉を濫用するのを良しとしていない。

 細かい説明もしないで、好きな順番でストーリーの攻略が可能ということだけで、広大なマップまで付属しているものを「オープンワールド」と呼ぶのであれば、そういったゲームは2D時代にいくらでもあったし、電子機器が全く不要のTRPGもたいていその肩書きを持てる。言ってしまえば、いわゆる「オープンワールド」とは、コンピュータゲームが3D化を経て、各大手メーカーが争うように宣伝してきた概念にすぎない。自身に箔を付けるあらゆる概念と同様、目新しさもなければ厳密性もなく、いっそ使わない方が良い。しかし私は口から一言、答えを発していた。

「自由度?」

「僕はね、没入感だと思うんですよ」最初から私の答えなどに興味がなく、自分の答えを言いたかっただけのようだ。「これは嘘偽りのないリアルな世界なんだとプレイヤーにきちんと感じてもらい、その中に耽溺して抜け出そうと思わせないようにする──これさえできていれば、オープンワールドゲームとして成功だと言えます」

「そういったゲームも少なくありませんが、どれも家庭用ゲーム機やパソコン版のプラットフォームでしか売られていません。スマホの性能で嘘偽りのないリアルな世界をつくり出せるのでしょうか」

「そんなに簡単じゃありませんが、やれると思っています。うちのチームは多くの努力を重ね、いくつかの難関をすでにクリアしています。シームレスマップのようなものは、即時読み込みの技術を使えば実現可能です。オブジェクトとのインタラクションもできる限り簡素化しました。三角ポリゴン数を減らすために、キャラクターもみなトゥーンレンダリングを施した……しかしたった一つの問題が解決できないでいるのです」

 そこまで話すと、彼は私に当ててほしいというように一呼吸置いた。

 だが私は予想する気がなかった。

「光源の移動──光源の移動に必要な演算能力があまりに膨大すぎるのです。私たちが使っているエンジンはこういった分野にも最適化が不十分だから、スマホでは実現不可能なんです」

「光源を移動させた場合、あらゆる物体の影もリアルタイムで計算しなければならないからですか」

「そうです。だから一番使い古された方法を取るしかできませんでした。固定光源を使って、あらゆる影をテクスチャに焼き込む方法です。これが一番、演算能力を節約できます。しかしこれにより新たな問題が生まれました。リアリティを増すために、『チェイン オブ ビーイング』には昼夜交代システムを導入したのですが……」

「それじゃあ、二セット分の影のテクスチャを焼き込むだけでいいじゃないですか」

「いえ、岸田さん、あなたは事の重大性を認識できていません」宮沼が真面目な表情で言う。医者が診断を下しているようにも、裁判官が判決を出しているようにも見える。「影が事前に焼き込まれたテクスチャで、光源も固定しなければいけないとなると、天体はどれも空にピタッと貼り付いているだけということになります」

「それに何の問題が?」

「考えてみてください。ゲーム内時間の毎日六時から十八時の間、太陽はずっと空のど真ん中──もしくはちょっと東寄り──にかかっていますが、これは大したことありません。要するに動けないんです。そして十八時を過ぎると、空の色は何の前触れもなく暗くなり、月が一瞬で太陽の位置に取って代わり、満天の星は一ミリも動けません。めちゃくちゃだと思いませんか?」

「確かに非現実的ですね。でも他にどういう方法があるんです? スマホゲームで、パフォーマンスが限られているのですから、昼夜交代のエフェクトをつくり出すことさえ一筋縄ではいきませんよ」

「技術的な問題はおそらく手の打ちようがありません。スマホの性能がある日突然大幅に向上でもしない限りは。でもそんな奇跡が起こるのを望んでいるんじゃありません。こういった現象について合理的な説明を打ち出せないかなと考えているんです」

「現象って?」

「天体が十二時間ピクリとも動かず、時間になったら昼夜が一瞬で切り替わる現象です。何か説明が思いつきませんか? その背後にある原理とは何かを説明して……」

「それ、説明が必要ですか?」

「もちろんですよ。筋の通った説明が出せなかったら、プレイヤーがその世界のリアリティに疑念を抱き、没入感どころの話ではありません。いまの社内で、天文学科出身のあなたしか頼れる人はいないんです」

 

   2

 

「だから、周期的に振動する宇宙モデルを作れって言われたの?」

 いつものように、私は芽衣子めいこを大学近くの接客態度が最悪だと評される喫茶店に呼んだ。その悪評のおかげで商売はずっと惨憺たるもので、日曜の午後だというのに、私たちは窓側の席に座れた。

 どれほど言葉を尽くしても、宮沼のやりたいことを芽衣子に理解させるのは不可能だった。それも無理ないことで、宮沼の頼みは確かに無茶振りに近く、芽衣子もまた専門外のことにこれっぽっちも興味を持たないのだ。

「そういうことにしておく。何かアイディアある?」

 彼女は無愛想な顔で目の前の氷あずきを口に運び、無言でおでこをしばらく押さえると、また首を振って自身がさっき言ったことを否定した。

「昼夜っていうのは言ってしまえば、惑星上で観測した現象にすぎないし、必ずしも宇宙のスケールまで高める必要もない。『観測』と言えば……二重スリットによる電子波干渉実験ってまだ覚えてる?」

 記憶が間違っていなければ、その実験において、観測者の有無が実験結果を左右し、二重スリットを通った電子がスクリーンにまるっきり異なる二種類の縞模様を生じさせる。

 だが私も覚えているのはそのぐらいだ。

「ちょっとだけなら」

「ボーアの相補性原理だと、光子には波動性が現れるか、粒子性が現れるかのどちらか」芽衣子がしっかり覚えていて助かった。「だから、さっき言っていた問題はこう言い表せられるかもしれない──光子が粒子性を現すときに太陽と同じ巨大な白斑をつくらせ、波動性を現すときに星空に似た干渉縞をつくらせる実験を構想するにはどうすべきか」

「そんな効果にまで到達させられる?」

「時間をかければ構想できるはず。いくつか条件を多めに設定しさえすれば。四次元のミンコフスキー時空なら求める効果にまで達せさせるのはかなり難しいけど、高次元平面上への投影なら……」

「そんなに複雑である必要ないだろう」

「これが複雑? 最も基礎的な知識以外のなんだっていうの」

「専門外の人間にとっては複雑なんだよ」

「ごめん」彼女がレンズ越しに私へ向ける瞳は無念でいっぱいだった。「あんたもとっくに専門外の人間になっていたことを忘れてた」

「いや、もともとそういったことに触れてこなかったし、最初っからそういったものにあんまり興味を持っていなかった。教養学部の前期課程が終わってから、天文学科に進んだのは魔が差しただけなんだ。実を言うとあそこには馴染めなかった。少なくともそっちほど馴染めなかった。こんな凡人からすれば、何がカラビ・ヤウ多様体かの理解を進めるより、ゲームの敵の行動パターンや対策の方が興味があるんだ」

 じゃなければ私も専門課程を全部サボって部屋にこもって日夜テレビゲームにふけり、二年留年した挙げ句に学位を取得できなかったということもなかったし、ゲーム会社で働くということもなかった……。

 芽衣子との別れなどそもそも起こり得なかった。

「単にシンプルで分かりやすい周期的振動モデルなら、一個思いついた」彼女が言う。「セル・オートマトンを試してみれば?」

「『ライフゲーム』?」

 彼女はうなずいた。「コンウェイの『ライフゲーム』は直感的だから、やってみせるだけで誰でも理解できる。私の研究もこれぐらい見ただけで分かるものなら、経費もきっともっと簡単に申請できるのに」

「最近は何を研究している?」

「本当に知りたいの?」

 改めて考えてみるとそこまで知りたくはないが、礼儀として「本当」と答えた。

 それで芽衣子は二時間かけて私に教えてくれた。彼女がいかにして「Ω-論理」を使って「数学的宇宙仮説MUH」とゲーデルの不完全性定理の矛盾をうまく取り持ち、ついでに巨大基数に関する予想を解決したかを。これによって彼女は日本数学会が授与する建部賢弘特別賞を受賞できるだろう、少なくとも奨励賞は固い。

「でも宇宙物理学者だろう?」

「エドワード・ウィッテンも受賞したのはフィールズ賞でしょう。彼ですらノーベル物理学賞は受賞していない」

 芽衣子は、私がエドワード・ウィッテンが何者かを知っていると疑っていない。もし数年前なら本当に知っていたかもしれないが、それが何だというのだ。彼の研究の方向性が何であれ、私には一生かけても分かりっこない。私がずっと芽衣子の研究を理解していないように、彼女だって私が製作に関わったゲームをプレイすることはない。

 家に帰ると、考えを簡単に整理して宮沼にメールを送ろうとしたが、彼の連絡先を知らないことに気付き、ひとまず新規プロジェクトに加入している同僚から彼のメアドを聞いた。メールにはアイディアがあるとだけ書き、細かく説明しなかった。

 夜更けに宮沼から電話があり、明日午前中にあの会議室で詳しく話を聞かせてほしいと言われた。

 宮沼には理科の下地こそないが、ゲームの中でいろいろな雑学をひけらかすのが昔から好きで、若い頃からSFをテーマにしたゲームの製作に何作か関与しているので、「ライフゲーム」を知らないはずがない。思い返してみると、この言葉を初めて目にしたのは、彼がシナリオを担当した脱出ゲーム「悪党ルネサンス」でだった。

 そういうわけで私は何の資料も準備しなかった。

 しかし会議室に足を踏み入れた瞬間、直ちに失策に気付いた。中には宮沼一人だけではなく、白崎社長もいた。

 白崎社長もゲーム業界の伝説的な人物だ。日中ミックスである彼女は、日本で生まれ育ったが流暢な中国語をしゃべり、大学卒業後に通訳として働いた。中国でしばらく暮らしたあと、向こうで出会った全然違う二つのもののとりこになった。一つはいわゆる「漢服」で、いうなれば昔の中国人の格好をすることだが、これが彼女の趣味となり、また彼女のファッションセンスに影響を与えた。もう一つは向こうの中華系クソゲーで、彼女はここから商機を嗅ぎ取った。

 いま私たちがユーチューブなどの動画サイトを開くと、いつでも目に飛び込んでくるさまざまな中華系クソゲーの広告は圧倒的な数に上り、床にこびりついたガムのように目障りだ。

 これらのゲームは画像素材がたいてい盗用で、ほとんど「ゲームプレイ」と言えないような内容で、だいたいが放置しておくだけでスマホが勝手に操作してくれる。しかしユーザーの課金への誘導に関しては十分に手間ひまをかけていて、適当に何度かタップするだけで購入オプションに飛び、ひときわ目を引くキャッチコピーで、いまチャージすればこんなサービスがありますとユーザーにアピールする。プレイするだけでお金を稼げるとうたうゲームさえある。ちょっと考えればあり得ない話だが、それでも引っかかる人間がいる。

 そしてそんなゲームを日本語に翻訳して日本に持ってきた張本人こそ、目の前に座っている白崎社長なのだ。

 大量の中華系クソゲーの代理業者になることで白崎社長は元手となる資金を稼ぎ、自分のゲームを作った。私が関わっている「アイリス騎士団」は会社が製作した三つ目のゲームであり、一番売れた作品だ。だが社長は最近新規プロジェクトに熱を上げており、私たちのチームに口出しするのはまれだ。

 彼女は今日も中国ドラマの女性主人公のような格好をしていて、萌黄もえぎ色の中国服を着て、長い髪をまとめ上げてド派手なかんざしを挿している。

 席に着くと、私はすぐさま本題に入って「ライフゲーム」という言葉を口にした。宮沼は思案するようにうなずいた。いったい何を理解したのかは不明だ。白崎社長の考えていることはかえって一目瞭然で、「日本語か中国語でお願いします」と言っているかのように呆気に取られた表情で私を見つめている。

 そこで私は、立ち上がって壁際にある巨大なホワイトボードのそばに歩み寄り、5×5の枠線を引き、その上と左に座標を書き入れ、最後にC2、C3、C4の場所に星マークを書くことになった。


 「『ライフゲーム』のルールを簡単に説明します。ルールの一つ目が生存で、星マークの周囲八マスに星マークが二つか三つあれば、変化せずそのままです。二つ目が死亡で、周囲のマスにある星マークの数が四つ以上または一つ以下になった場合、消えてしまいます。三つ目が誕生で、空いているマスの周囲に星マークが三つあれば、新たな星マークが生まれます」

 白崎社長の理解がはかどるよう、説明を続けた。

「C2の周囲には星マークがC3一つしかないため、ルールに従ってここは空白になります。C4も同様です。しかしC3の周りにはちょうど星マークが二つあるため、変化しません。同時に空白マスB3とD3は周囲に星マークが三つあるので、三番目のルールに従い、ここに新たな星マークが生まれます……」

 ルール通り、消えるものを拭き取り、生まれるものを書き記した。

 

「しかし、面白いのはここからです」白崎社長がしきりにうなずくのを見て、私は話し続けた。「次のサイクルでは、B3とD3の星マークがルールに則って消え、C2とC4に新たな星マークが生まれます。こうするとまた一つ前の状態に戻り、次にはまたこの状態に戻るという循環を繰り返すのです」

「それが思いついた説明ということですか?」

 宮沼の疑問に対し、私は余裕を持って丸テーブルのそばに戻って座った。

「そうです。ゲーム内の空を実際は不透明のドーム型天井ということにして、ドームの内側にこうしたマスを無数に敷き詰めるというのはどうでしょうか。マスの中には発光体があって、その生成と消失はさっき話した三つのルールを遵守しています」

「つまり、空は大きな『ライフゲーム』にすぎないと」

「その上、さっき見せた状況と同じく、ゲーム内の空もずっと二サイクルの振動状態にあります。一サイクル目では、大量の発光体が空の中心部に集まり、太陽を形成しますが、周囲には散らばってしか分布していないため、地上にいる人間にはかなり気付かれにくいです。そして二サイクル目では、先ほど話したルールに基づき、大量の発光体が消失して夜が訪れ、わりと密集した一部のエリアしか残らず、これが月と星々になります。

 二つの状態の時間間隔が十二時間です。これこそ、どうして時間が来たら昼夜がいきなり切り替わるのかを完全に説明し、またなぜ天体が少しも動かないのかの説明になります」

 聞くだけなら驚愕させられるが、よくよく考えれば突っ込まれる説明をしゃべり終えた私はほっと一息つき、ようやっと宮沼にお別れを言い、自分の女騎士たちの相手に戻れると考えていた。

 だが残念ながら喜びは数秒も持たず、宮沼が冷水を浴びせかけた。

「岸田さん、いまの説明はとてもユニークです。これがSFをテーマにした世界観ならきっと使えますよ」彼は言う。「でも大変もったいないのですが、私たちのゲームは剣と魔法のファンタジーがテーマなんです」

「ファンタジーがテーマだとどうしてこういう説明ではいけないんですか?」

「もちろんプレイヤーにそう説明することもできますよ──公式設定集といったものに載せて。でもゲーム内でその説明を出せないんですよ。それをどうやってゲーム内に組み込んで、キャラの口からしゃべらせようかって考えましたか? まさか、メインシナリオ終了後に祭司が騎士を聖堂の隅に呼びつけて、もっともらしい神秘的な口調で『おお、よく聞き給え。我々が頭上に頂く空は、実はライフゲームなのだ。なに? ライフゲームを知らないとな? これこそ特殊なセル・オートマトンにほかならない』と言わせるつもりですか? ゲーム内でこんな会話はあり得ませんし、プレイヤーへの愚弄になります」

「申し訳ありません。その問題は考えていませんでした」口では申し訳ないと言いながら、心中ずっと宮沼に毒づいていた。彼がプレイヤーを愚弄したことは確かにないのかもしれないが、部下の社員を苦しめたことは少なくないはずだ。「ご存じの通り、私は理系出身ですので、思い付ける説明もきっとこんな風に理科の知識を応用したものにしかならないので、ファンタジーの世界観に組み込めない恐れがあります。この仕事は私では力不足なので、別の優秀な人を呼んだ方が良いと思います」

 まさに席を立とうとした瞬間、白崎社長が口を開いた。

「ところで」彼女が宮沼に話しかける。「彼に『チェイン オブ ビーイング』の詳しい設定は見せたの?」

「まだです。今日、助手から渡してもらうつもりでした。こんなに早くアイディアを出してくるとは思わなかったので」

「なら、設定を読み込んでからリトライしてみない?」白崎社長は顔を私の方に向け、提案する。「そういった設定を読んだ途端に、インスピレーションが湧かないとも限らないでしょう」

「無理ではないですが、『アイリス騎士団』にもやるべきことがたくさんありまして」

「今月の給料を二倍にすると言ったらどう?」

 この言葉を吐いた白崎社長は左手で頬杖をつき、ほほ笑みながら視線を動かさず私を見つめている。

 このときの彼女は魅力的で、中国ドラマに登場するどの女性主人公にもまさっているように見えた。その萌黄色の中国服からも、まばゆい光が発せられているようで、金閣寺のてっぺんを青ざめさせるに十分だった。

 やはり出し惜しみのしない女性こそ一番魅力的だ。

   

  3


「チェイン オブ ビーイング」の物語は〝エクメーネ〟という大陸で始まる。

 創世神デミウルゴスは大地、海、そして七柱の元素神リゾーマタを生み出してから二度と姿を見せなかった。それぞれ地、水、火、風、光、闇、無の力を司る七柱の元素神は各々の国を築き、互いに結び付いてさらに多くの自然神ゼウスを生み出した。自然神は繁殖を続け、自らの役目を果たした。神々の時代は数千年も続いた。しかし、繁殖を重ねるたびに、次世代の自然神の力は衰え、劣化した。ついにある日、永遠の命を持たない赤ん坊が生まれ、こうして人類が誕生した。

 それからまた千年経ち、闇の女神ノクシアが人類にそそのかされ他の六カ国に攻め入った。一瞬にして大陸が闇に包み込まれた。凄惨な戦いの果てに、無の神ヴァニタスは全ての力を出し切って闇の女神ノクシアを辺境の荒れ地アネクメーネ大陸に封じ込め、自身も長い眠りについた。

 光の神フォシヌスはこの機に乗じて闇の国だった土地を併合した。神の加護を失った無の国の領土に至っては、地、水、火、風の四柱の元素神に接収され、残されたのは大陸の中心部にある首都エーテリアだけとなり、ヴァニタスの信徒たちがそこに残った。

 その後、魔法の才を備えた女の子は全員、エーテリアの大修道院に集められるようになった。彼女らが地、水、火、風、あるいは光の力に目覚めれば、成人後に適切な国へ向かい、ふさわしい神に仕える。無の力を制御できるごくわずかの少女はエーテリアで一生を終える。さらにまれな闇の力の使役者は、もう四十年間現れていない。

 ゲームの女性主人公ミデアは不幸にも闇の力に目覚める。彼女は「闇への長い巡礼」に出なければならず、無の都エーテリアを出発し、地、水、火、風の国々をめぐり渡り、試練を乗り越えて神殿で祝福を受けた後、大陸の最北端にある光の国へ行き、そこから船ではるか遠くのアネクメーネ大陸へ渡り、闇の女神ノクシアに仕える巫女となる。

 プレイヤーはミデアに同行する騎士となる。名前、性別、外見、初期パラメータはプレイヤーが自由にカスタマイズできる。

 やや陳腐な設定を読み終えた私はおおよそのアイディアを思い付いた。神話を使えば、ゲーム内の不自然な昼夜現象を説明できるかもしれない。

 これ以上ないいい加減な態度で、二分間の手間ひまを費やしてその神話をでっち上げた。宮沼に侮られないよう、それから三時間がかりでウィキペディアを読み漁り、登場人物の名前をつけた。

 翌日の午前中、またあの会議室にやってきた。今回は準備をしてきた私は、部屋に入るなり最初に資料のプリントアウトを宮沼と白崎社長に渡した。

「今回は『チェイン オブ ビーイング』の世界観を丸ごと使って、ゲーム内の昼夜現象を説明しようと思います」私はこう切り出した。「このストーリーにはもとの設定には存在しない神が登場します。彼らの境遇と設定は資料に記載済みです」

「つまり、神々のある行いが現在の昼夜現象を引き起こすということですか?」

「そうです。ここに二人の自然神を加えてみました。一人が太陽神ソラリスといって、火の神と風の女神が結ばれて生まれました。もう一人は夜の女神ヘカテイアで、無の神と闇の女神の娘です。二人は婚約していましたが、闇の女神が放逐されたことでソラリスは婚約の破棄を考えます。侮辱されたと感じたヘカテイアはソラリスへの復讐を決意し、毒入りの酒を渡そうとします。しかし緊張のあまり、彼女は薬を取り間違え、毒薬ではなく激しい恋心を抱かせる惚れ薬を入れてしまったのです。薬の力によってソラリスはヘカテイアを夢中で追い掛けます。しかし、この在りし日のいいなずけに対し、ヘカテイアはとっくに憎しみしか抱いておらず、彼の求婚をにべもなく断り……」

「これってトリスタンとイゾルデのパクリですか? それともアポロンとダフネ?」

「どちらも少し参考にしましたが、丸写しではありません」

 私の自信満々な様子を見て、宮沼はそれ以上しゃべらなかった。

「ヘカテイアはソラリスを振り払おうと必死で、恋愛の女神テュケーに助けを求めるしかありませんでした。そこでテュケーは二人にゲームをするよう提案します。ソラリスが勝てばヘカテイアは彼の求愛を必ず受け入れなければいけない。ヘカテイアが勝ったら、ソラリスは金輪際彼女にちょっかいをかけない。しかしうっかり者のテュケーはゲームを全部で何回やるのか決めるのを忘れてしまい、その結果、今日に至るまでこのゲームはまだ続いているのです。そしてエクメーネ大陸の上空のその不自然な昼夜現象は、このゲームによって起きているのです」

「それで、彼らはいったいどういったゲームをしているんですか?」

「チェイン オブ ビーイング」の世界では昼も夜も天体は十二時間止まって動かない。そして「止まって動かない」と言えば、そのゲームは当然──

「だるまさんがころんだ」

 私の言葉が終わるや、宮沼は立ち上がり、私から受け取った資料を乱暴に丸め、そばのくずかごに放り投げた。

「もういい」怒りを隠さない宮沼は呼吸をますます荒らげ、いつでも私の顔面を殴れると言わんばかりに両手を固く握りしめて拳をつくっている。「君のこれは僕の──僕たちの時間を無駄にしている」

「この説明のどこが駄目なんですか?」

「君が大丈夫だと思うなら大丈夫なんだろう。でももっとちゃんとしてほしいんだ。僕らのユーザーは幼稚園をとっくに卒業している」

 その言葉を言い残し、宮沼は会議室を乱暴に出て行った。白崎社長は席に座ったままだ。私に向ける彼女の瞳の中にあるのは、同情というよりむしろ、母親がぼんくらな子どもを見つめているときに自然と漏れる慈愛だった。

「私はこの話、すごい好きだけどな」社長が話す。「夜に帰ったら娘に聞かせようと思う」

 白崎社長の三歳になる娘も気に入るはずだ。惚れ薬とは何か理解できるかは不明だが。

「まともな説明が本当にちっとも浮かばないんです」

「コーヒーおごるよ」そう言いながら社長が立ち上がる。「それか、いい時間帯だし、一緒にお昼でもどう?」

 会社に雇われている身として、白崎社長とランチを共にするのは相当勇気がいる。彼女の出で立ちが店内全員の注目を集めるというだけではなく、彼女のお誘いを受ければたいていの場合、特に厄介な仕事を回されるからだ。だが、それについて私は少しも悩むことはない。どうせ彼女の意図はこれ以上ないほど明らかで、宮沼のために引き続き知恵を絞るよう私を励まそうとしている以外考えられない。

 白崎社長は私を近所のネパールカレーレストランに連れていき、シーフードカレーを注文した。ネパールに海産物があるとは思えなかったが、同じのを頼んだ。食事中は世間話に終始し、店員が空いた皿を下げると社長はようやく本題に入った。

「古参ゲーマーなら、宮沼の作ったゲームを何作もプレイしたんでしょう?」

「たいていは」

「あなたから見て、彼はどんなクリエイター?」

「クリエイティブで、オリジナリティーに富んでいて、博覧強記で、細部にも手を抜かない……単なる一ゲーマーとして評価するなら、紛れもなく素晴らしいゲームクリエイターです。でも……」

「でも?」

「提携した企業とはどことも後味が悪い別れ方をしたと聞いています」

「それは本当の話。でもどんなことも前向きに考えなくちゃ。彼がいくつかの大企業と喧嘩別れしなかったら、私たちとも提携することはなかった。違う?」

「でも本当に何の説明も思い付かないんですよ」

「いつかは出てくるだろうから、そう焦らないで」彼女が言う。「しばらく休んで、家でのんびり考えてみたら? 給料だって払うし、欠勤にはしないから」

「でも『アイリス騎士団』でやらなきゃいけないことがたくさんあって」

「そっちの仕事はひとまず同僚に任せて。言いづらいのなら私から言ってもいいし」

「社長は本当に宮沼さんのプロジェクトに惚れ込んでいるんですね」

「それは否定しない。単に金儲けのためなら『アイリス騎士団』みたいなゲームを作り続ければいいわけだし。でも、私は常々、いまの日本のゲーム業界には『チェイン オブ ビーイング』みたいな作品が必要だと思っているの。私たちが作らなかったら、日本の他のメーカーも多分作らない」

「金を稼げるのなら、みんな当然、現状維持を選択するでしょうね」

「でも私は現状に満足したくないの」中国の血を半分引き、漢服に身を包んだ白崎社長は気持ちが高揚した口調でしゃべる。「『アイリス騎士団』みたいなゲームは、売上の大半は日本国内から。アニメも作ったとはいえ、影響力は東アジアに限定されている。それに比べて、中国のスマホゲームは欧米市場を席巻している。中国のゲーム会社は資金面でも技術面でもさらにアドバンテージを持っているし、国内の政策が安定しないから、海外進出のニーズももっと切羽詰まっている。このままいけば私たち日本人は負けてしまう。いまの局面を打破するには、世界規模で話題になるスマホゲームを打ち出さなきゃいけないの」

「だから宮沼さんが必要なんですか?」

「ええ、宮沼は欧米と中国に絶大なPR力を持っているから。このプロジェクトを積極的に仕切ってくれて、もう半分成功したようなものよ」

「分かりました。無茶な要求であっても、あの人が言い出した以上、必ず納得させなきゃいけないということですね?」

「少なくともいまは納得させなくちゃいけない。会社だけじゃなく、日本のゲーム業界の未来のために」

 私は白崎社長のような資本家ではなく、普通のサラリーマンにすぎないので、日本のゲーム業界の未来など担っていない。

 しかし二倍の給料と有給休暇は確かにとても魅力的だったので、引き受けた。

 会社に戻り、同僚に引き継ぎを簡単に頼んでから早退した。まず近所の大型書店に行き、宇宙観の変遷の歴史を記した解説本を買い、電車で神保町に向かった。情けない話だが、大学時代に関連のある授業を選択したというのに、一コマも出席したことがないのだ。電車の中でむさぼるように五十ページ読み、古代ギリシアとローマの宇宙観をおおよそ把握した。

 駅につき、スマホのナビに従って進むとすぐに西洋哲学と古典学を専門に取り扱っている書店に到着し、案内を頼りに解説本で言及されているプラトンの『ティマイオス』、アリストテレスの『天体論』、プトレマイオス『プトレマイオス』、そしてプロティノスの『エンネアデス』を見つけた。しかし、その数冊を抱えて意気揚々とレジに向かったとき、裏に貼られている値札に仰天した。白崎社長に立て替えてもらえるか確定していないため、その平均価格約一万五千円もする数冊の書籍を棚に戻して出て行った。

 結局、芽衣子を頼ることにし、大学の図書館でそれらの本を借りてもらう代わりに焼肉をおごるだけで済んだ。

 別れてから、忙しくて手が回らないというときでなければ、芽衣子が私の誘いを断ることは基本的にない。会えば毎回楽しい。自分が言い出しさえすれば、よりを戻す可能性もゼロではないと、私は心のどこかで考えている……。

 ただ、話を切り出すきっかけが見つからないままだ。

 家に帰ったのはちょうど九時を過ぎたばかりで、まずは平素仕事に邪魔されている睡眠を補い、脳をリフレッシュさせてから難解なそれらの本に目を通すことにした。そうして横になったらそのまま寝てしまい、目が覚めたら翌日の朝八時だった。

 入浴し、コーヒーを淹れてから、最初にプラトンの『ティマイオス』を開いた。

 この対話篇の意図は、解説本にはっきり書いてあったが、実際に全文を読んでみると新たな発見がいくつかあった。芽衣子が借りてくれたバージョンでは注釈が事細かに書かれ、多くの単語に古代ギリシア語の原文が併記されている。宮沼のプロジェクトがここから少なくないインスピレーションを得たのであろうことが見て取れた。ゲーム内で、地、水、火、風の四元素のアイコンは、それぞれ正六面体、正二十面体、正四面体と正八面体で表示されている。多くの重要な概念の名称も、この本に出てくる古代ギリシア語から来ている。

 だが残念ながら、『ティマイオス』をめくり終えても、まともな説明が湧いてくることはなかった。

 昼食を簡単に済ませると、アリストテレスの『天体論』に取り掛かった。お腹を満たしたばかりのせいか知らないが、数ページめくると睡魔に襲われた。重くなるまぶたを無理やり開きながら、やっとのことで一章を読み終えたが、やはり諦めた。それからもっとつまらなそうなプトレマイオスも飛ばし、新プラトン主義者であるプロティノスに向かった。

 だが『エンネアデス』の冒頭も同様に引き込まれるものではない。目次をじっくり読み込み、本書の最後の一篇に当たる「善なるもの一なるもの」から読み進めることにし、適当に目を通しているとたまたまこのフレーズが目に入った。

 

 あらゆる美しい事物はみな、一者ト・ヘンのあとにあり、昼間の光が太陽から出てくるように、一者を始原とする。

 

 その瞬間、天啓を得た預言者のように──教義のでっち上げ方を考えついたカルト宗教の教祖の方が近い──科学的かつゲーム内で論じられる説明を思い付いた。

 今回は、自分の成果を急いで報告することはせず、本を閉じると、仕事を放り投げてほこりの積もったプレイステーションを起動し、突然やってきたこの休暇を利用して昨年発売されたRPGゲームの攻略を始めた。

 日曜日の夕方までそのゲームをぶっ続けでやった末、ようやく白崎社長にメールを送った。

    

  4


  今回は何も準備せず、そのまま会議室のホワイトボードに大きな丸を書いてから十センチほど離れた横に小さな丸を書き、そのあとに大きな丸から小さい丸へ放射する矢印を数本書いた。

「この小さな丸をエクメーネ大陸がある惑星とし、便宜上、α星と呼びます。この大きな丸は巨大なホワイトホールです」私は説明を始めた。「ホワイトホールから光が放出されると十二時間続きます。エクメーネ大陸から観測すると太陽にそっくりで、これが昼のもとです。そしてその後十二時間、ホワイトホールは休眠状態に入り、光を放出することがなくなります。これが夜の……」

「α星の自転は考慮しなくていいんですか?」宮沼が割って入った。

「必要ありません。ホワイトホールの巨大な重力の作用によって、α星はとっくに潮汐固定されています。月が永遠に片側しか地球に向けていないのと一緒です。これは、α星のもう片側にあるアネクメーネ大陸が闇の女王の領土になる理由も物語っています。ホワイトホールの反対側なので、光が照射されることがないんです」

「その説明は成り立つけど、相変わらずあの問題から逃れられていないよ──ホワイトホールにせよ潮汐固定にせよ、現代の天文学知識が絡むから、ゲーム内のキャラの口からこれを説明させられない」

「ゲーム内のキャラにホワイトホールを神格化させればいいんです」私は言った。「プロティノスの学説を流用すれば、断続的に光を放つホワイトホールをキャラたちに『一者ト・ヘン』と呼ばせ、造物主と見なすことが可能です。そして七柱の元素神を入れたあらゆる存在物は、みな一者から湧き出たというわけです」

「でもそれじゃあゲーム内の創世神デミウルゴスの設定とかぶってしまう」

「じゃあもとの設定を改めましょう。変えても特に影響ありませんし」

「もっと良い説明はないんですか?」

「これ以上はなんとも」

「この説明はありですね」宮沼が言う。残念ながら、ここまで来てようやく彼の賛同を得たところで、私はちっともうれしくなかった。「十分理にかなっている。ただサプライズが足りない」

「サプライズ?」

「設定が明らかになった瞬間にプレイヤーが驚き、ショックすら受ける、そういった結果をもたらしてほしいんです──プレイしたことがあるか分かりませんが、僕が『悪党ルネサンス』で書いたラストみたいに」

「悪党ルネサンス」は三回クリアしてプラチナトロフィーまで取って、掲示板に詳細な解説まで書き込んだことがあるが、宮沼を前にして意地になった私は首を横に振った。

 そのとき、じっと座っていた白崎社長が口を開いた。

「岸田さんにもう一週間考えてもらいましょう。もしこれ以上の『サプライズ』な説明が思い付かなければ、今回のを使うということで」

 そうしてまた丸々一週間の休みをもらった。

 家に帰り、高難度で知られるメトロイドヴァニアを攻略し始めた。あるボスのところで三十回もミスし、大きな虚しさを感じた。

 この仕事に対して覚えているある種の虚しさと同じく。

 ゲーム会社で企画書を書く上で、大量のボツ案に時間を食うのは避けられないことだ。今回、宮沼に頼まれた雑用で、合わせて約二週間分の労力を費やしてはいるものの、よく考えてみると三回目で採用されるのはなかなか高い打率だ。六、七回目まで書いてようやく通ったときもあれば、うまく書けた企画書が諸々の理由でボツになったことも多い。

 こういったボツ案は全部フォルダに保存している。

 パソコンを点け、キャラデザやあらすじのボツ案に目を通すと、十分作り込まれた設定で、関連ストーリーも断然秀でているものもある。ちょっと修正して世界観を変えさえすれば、こうしたお腹にいたまま生まれ出ずることのなかった胎児たちも、この世に再び生をけることができるかもしれない。

 そして今回の仕事で、自分には資料を読み込めば非の打ち所のない世界観を紡ぎ出せる能力があることが分かった。

 一通り整理してから、無人の惑星が舞台のアドベンチャーのストーリーを練った。人工冬眠から目覚めた記憶喪失の少女たち数人は、自分たちが荒廃した星に置かれていることに気付く。サバイバルしながら、裏に潜む真相を探っていく……完成させられれば、ややありきたりなSF小説になるはずだ。

 話のおおまかな筋はどれも、無人島サバイバルのミッションのために作成したストーリーをもとにしている。そのミッションは他部門の生産性が低かったがために発表できていない。数人のキャラの設定も、さまざまなボツ案の寄せ集めだ。

 だがそれでも書き続けてみたかった。

 五日間の不眠不休と丸一日の修正を経て、小説の初稿、あるいは単なるひな型をひとまず書き上げた。粗削りでほとんど概要に近く、多くの箇所を書き足さなくてはいけない。

 しかし今回のチャレンジによって、ゲーム業界から身を引いても執筆で食っていけるし、ちょっとは有名になれるのではないかという自信が多少なりともついた。

 また日曜日が訪れ、小説を印刷した紙束を持って再び芽衣子とあのカフェで会った。彼女は読み終わると科学的にあり得ない箇所をいくつか淡々と指摘するだけで、物語とキャラに対して何の感想も言わなかった。だがもう十分だった。少なくとも、自分の小説に致命的な論理的矛盾はない──あれば芽衣子は必ず注意する。

 仕事を辞めて執筆活動に専念したいという気持ちに傾いていることまで、彼女の強度近視の両目から逃れることができないのと同じだ。

「ゲーム会社にいたんじゃ本当に書きたいものが書けないって言うのなら、さっさと辞めた方がいい」芽衣子があっさり言い放つ。「書いたゲームシナリオがあんなにたくさんのプレイヤーに受けるんだから、小説もきっと大丈夫」

「辞めたら収入源がね」

「少しは貯金してるんでしょう?」

「あるにはあるけど、一年半持つ程度だよ」

「だったら、戻ってきてまた一緒に住むのはどう。そうすれば家賃の節約にもなるし、私の部屋を掃除してくれる人もできる」

「でももう恋人じゃないだろう」

「前みたいな関係に戻るっていうのは? どっちにしろ私は構わない」芽衣子は今日も能面を貼り付けたまま氷あずきを口に運ぶ。「あのときはただのゲーム廃人になっていたから、別れようと決めただけ。ここ数年は、これといったタイミングがなかっただけで、ずっとやり直したいって思っていた」

「僕もずっとふさわしいタイミングを待っていた」

「いまがそうじゃない?」

「こんなんで本当にいいの? 仕事を辞めて、ちょっとばかりの家賃をケチりたいからよりを戻すなんて……」

「プライドが許さないのなら、なかったことに」

「プライドと君を賭けなきゃいけないのなら、絶対に君を選ぶよ」

「会社の方は辞めさせてくれるの?」

「ずっとやってるプロジェクトが、ここに来てますます重要視されなくなってきたから、いなくなったところで問題はないさ。新規の方にも必要とされていないし」

「あの特に面倒くさいゲームクリエイターが寄越した仕事はもう終わったの?」

「だいたいはね」私は言った。「彼が受け入れてくれる説明もひとまずは思いついたし。でも納得してくれなくて、『サプライズ』が足りないんだとさ」

「じゃあまたいくつか宇宙モデルを一緒に考えましょう──『サプライズ』させられるような」

 そうして私は芽衣子とカフェが閉まるまで、パレットモデル、洗礼者モデル、三つの聖痕モデル、大梵天モデル、プレイン・ヨーグルトモデル、発光吐瀉物モデル、連鎖反応モデル、収縮写像モデル、近藤効果モデル、分散媒モデル、三重フィルタモデル、ボーイ曲面モデル、スリップストリームモデル、グラン・ギニョール劇場モデルなどなど四十種類余りの説明を話し合って出した。

 中でも一番満足いったものを挙げるとすれば、「U型ツイン実験場モデル」だ。  

 
 この説明では、「チェイン オブ ビーイング」の話の舞台であるエクメーネ大陸とその周辺の海が凹面の上にある。凹面の下には重力場が設置されているので、住民たちは何も違和感を覚えない。より高度な文明(すなわち、ゲーム中の創世神)によってデザインされた「U型実験場」だ。

 主人公たちの旅の終着点であるアネクメーネ大陸は、隣に位置するもう一つの実験場だ。大海が二つの実験場を一つにつないでいる。

 この隣り合った二つのU型実験場の上に、それぞれ天球が吊り下げられている。

 そのうちの一つは、大きめの透光孔が一つ開いているだけで、光の照射量もわりと多いので、昼球とする。もう一つは透光孔が多めで光の照射量が比較的少ない夜球だ。陸上の植物が正常な成長ができるよう、昼球と夜球は十二時間ごとに入れ替わり、これがゲーム内の不自然な昼夜現象をつくり出す。

 大地には他にも似たような実験場が無数にあり、創世神はそれらの実験場で起きた全てを、夏休みの自由研究で小学生が蟻の巣を観察するように見続けて、記録している。データがもう十分揃ったとき、または巣穴のアリが世界の真実に気付いたとき、創世神は全実験場を破壊する……。

 この説明が宮沼にとって「サプライズ」と言えるか定かではない。満足いかなかったところで、これ以上彼のために時間を割けない。

 翌朝、もうあの会議室には向かわずに、「U型ツイン実験場モデル」の解説書を白崎社長に直接渡した。

 一緒に辞表も提出した。

 私の辞表願いに対し、白崎社長は顔色一つ変えなかった。とっくにこのような結末を見越していたかのように。

「これからどうするつもり?」彼女が尋ねる。

「小説を書いてみようと思っています」

「じゃあ一日でも早くベストセラー作家になることね。それなら協力する機会があるかもしれないから」

 しかし社長に許されても、会社を退職するのはそんなに簡単なことではなく、手元にある仕事を済ませ、さまざまな引き継ぎを終わらせ、完全に失業するまで一カ月近く要した。

 そして、新人賞をつかみ取り、受賞スピーチで芽衣子にプロポーズしたのが、それから一年後の出来事だ。

「チェイン オブ ビーイング」のリリースは未定のままだ。



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