見出し画像

「香川県ネット・スマホ依存症対策条例」が施行された日本で。SF小説『ガーンズバック変換』試し読み

 『元年春之祭』『文学少女対数学少女』などで知られる華文ミステリ作家・陸秋槎氏による初のSF作品集、『ガーンズバック変換』が刊行されました。表題作は、ネット・スマホ依存症対策条例が施行された近未来の香川県から女子高生が大阪へと旅するサイバーパンク。冒頭試し読みを掲載します。

―――――――

「写真撮ってくれます?」

 隣に座っている人に声をかけられた。

 顔を上げ、ちょうどいいところだった『所有せざる人々』を伏せ、眼鏡越しにそっちを見る。ベージュ色のニットシャツを着て、髪もベージュ色に染めた二十歳前後の女性がいた。足元には赤い小さなスーツケースが立てて置いてある。

 窓の外は三月の曇り空で、今にも春雨が降りそうだ。雨雲の下にはなんの面白味もない町並みが広がっている。これまで通過した地方都市はだいたいこんな感じで、あえて同じ写真に収める価値はほとんどない。

「いいですか?」

 こんな当たり前のお願いを断る人間などいないと決めつけているように、彼女は私が返事をするより先にスマホを寄越してきた。幸い、次の瞬間に、彼女は何かを察したかのように「ごめんなさい」という言葉を口にし、真っ黒な液晶を自分に向けて連写で数枚撮影した。

 地味な近代建築群の中に、白い天守閣が紛れ込んでいたことにようやく気付いた。私のいるところからは爪の先ほどの大きさにしか見えず、目を凝らしていなければ見えない。

 あれが有名な姫路城だろうか。

 隣の人はスマホをしまうとまた私の方を向いた。

「香川県民?」

 私がうなずくと、私を見つめる彼女の瞳に好奇の色がさらににじんだ。彼女の聞きたいことは予想できたが、先読みして答えるのはいつだって難しく、彼女が口を開くのを待つしかない。

「眼鏡……かけさせてくれない?」

「度数がちょっと高いですけど、大丈夫ですか?」

「大丈夫大丈夫」彼女は両手を合わせて頼み込む。「ちょっとだけだから」

 眼鏡を外して彼女に渡すと、視界がぼやけ、車外の風景も一瞬で灰色の虚像と化した。私の眼鏡をかけた彼女は、待ちきれないという様子でスマホを手に取り、興奮気味に叫んだ。

「本当に何にも見えない」

 私も彼女のスマホの画面に目を向けると、色彩豊かなページが表示されていたが、残念なことに眼鏡を外した私にはさっぱり見えない。マイナス六・〇〇以上の近視でなければ、私もクラスメートのように自宅で眼鏡を外して家族と一緒にテレビを見たり、ゲームをしたりすることができたのかもしれない。それにわざわざ大阪まで模造眼鏡レプリカを新調しに行く必要もなかった。

 好奇心を満たせば眼鏡を返してくれるだろうと思っていたが、彼女が立ち上がって前の席に座る仲間の肩を叩き、彼女らにいま手に入れたばかりのおもちゃを紹介するとは予想外だった。全員がかけ終わり、見終わり、感想を言い終えたのちに私の手元にようやく返された眼鏡のレンズには、指紋がいくつか付着していた。

「そういえばフレームに書いてある文字ってどんな意味なの。ガーンズなんとかっていう……」

「ガーンズバックV、眼鏡の型番です」

 思い返せば、「香川県ネット・スマホ依存症対策条例」が施行して間もない頃はまだⅠ型だった。いまではもうバージョンファイブだ。私の近視の度数は上昇の一途をたどり、ついには眼鏡を外せば何も見えないレベルにまでなった。各バージョンの眼鏡にどんな新機能が追加されていたのか、これまで気にしたことはない。

 どうせ私にとって、いや香川県の全未成年者にとって、これの機能は一つ──レンズを通して見た液晶画面はどれも真っ黒に映る──しかない。

 正確に言えば、液晶画面ならなんでもというわけではないが……。

「普段スマホを使わないなら、誰かと連絡するときはどうしてるの?」

「特製の携帯電話があるんです。眼鏡と同じ会社が作っているから、遮断されないんです」

「ガラケーってやつ?」

 私はうなずいた。「電話、ショートメッセージ、スネークゲームしかできないですが、十分です」

 このすきにしつこく絡んでくる女から離れようと思った私はショルダーバッグから携帯電話を取り出し、彼女の目の前で振って開けてみせ、何も表示されていない画面に目を落とし──

「すみません、友達から電話が来てました」

 そうしてそそくさと立ち上がると通路を小走りに駆け、車両の連結部に身を隠すと梨々香へ電話をかけた。

「美優? もう着いた?」

「まだ、いま姫路」

「こっちはもう駅の近くまで来たよ」

 数年ぶりだというのに、梨々香は相変わらずせっかちだった。

 家が隣同士だったので、梨々香とは物心がついた頃から仲良しだった。小学校でも同じクラスだった。幼い頃の彼女はショートヘアで落ち着きがなく、悪ふざけを次から次へと考え出した。そして私は彼女の後ろについてまわり、彼女の無鉄砲で幼稚な行動に流されるまま付き従うだけで、同年代からの尊敬の眼差しを一緒に浴びることもあれば、先生や親からの説教に一緒に耐えることもあった。

 寄り添い合う月日は少なくとも小学校を卒業するまで続くと思っていたけど、四年生に上がった頃に条例が公布されてしまった。梨々香の両親は強硬な条例反対派で、署名活動や訴訟を行ったところで何も変えられないという無力感を味わってから、娘を連れて大阪に引っ越した。

 それ以降も私たちは連絡を取り合っていたが、顔を合わせる機会はめっきり減った。最後に梨々香に会ったのは、中学生の頃に彼女が祖母の葬式に参列するために香川に戻ってきたときだ。

 私が彼女に会いに大阪に行くのはこれが初めてだ。

「変な人に絡まれなかった?」

「なんで分かったの?」

「適当。県外の人間ならそっちの条例に興味津々だし、眼鏡にも関心持ってるしね。でも一番知りたいのは美優たちの暮らしじゃないかな」

「パソコンもスマホもない、テレビすら見られなくなった生活ってそんなに想像できない?」

「正直言うと、できない」

「そっちにだって子どもにテレビ、パソコン、スマホを禁止してる、ひときわ厳しい親がいない? そんな感じだよ。そもそもこれだけ時間が経ったから、みんなとっくに慣れちゃって、不便だって思わない──香川を出ない限りは。こっちの『現代社会』に来ちゃうと、人類学の研究対象にされちゃって、あれこれ質問攻めにされるけど」

「私は何も聞いてないでしょ」

「聞いてないけど知りたくないってことじゃないでしょ」

「じゃあ美優は『現代社会』の暮らしに少しも興味がないわけ?」

「少しもなかったら会いに来るわけないじゃん」

 私たちはそうやっておしゃべりを続け、結局通話を切ることなく、間もなく大阪駅に着くという頃にようやく、荷物棚に置いたスーツケースを取りに車両に戻った。隣の人も彼女の仲間たちもとっくにいなくなっていた。

 車両を降りて空っぽのスーツケースを引っ張りながらプラットホームを抜け、エスカレーターに乗ってようやく改札に着いた。改札機越しに梨々香の姿を探し、あれほど無駄話をしたというのに彼女の今日の服装を聞いていなかったことに気付いた。

「不審人物発見」梨々香の楽しそうな声が携帯電話から聞こえる。「改札機の前でキョロキョロしています。大げさな眼鏡をかけ、髪はおさげ、田舎から都会に出てきたばかりの文学少女といった格好です。明らかにお父さんから借りてきたであろう黒いスーツケースを引いて……まさか美優なの?」

「見当たらないんだけど?」

「外にいるから、とりあえず出てきて」

 切符を改札機に入れて狭い通路をくぐり、数歩歩いても梨々香の姿は見当たらない。この眼鏡が彼女さえもブロックしているのかと疑っているとき、誰かが私の肩を強く叩いた。振り返ると、ほほ笑んでいる彼女がいた。

「わからなかったの?」

「ごめん、目悪いの知ってるでしょ?」

 この数年間、私は近視の度数を除いてほとんど変わっていないから、彼女がひと目で気付いてもおかしくない。逆に梨々香は前回会ったときとまるっきり別人だった。いまの彼女はきちんとメイクして、ハート型のシルバーイヤリングをつけ、髪も茶色に染め、かすかにウェーブさせた毛先を胸元に垂らしている。

 私にジロジロ見られていることに気付いたのか、梨々香は髪を一房つまみ上げ、少し恨みがましくつぶやいた。「染めるのはこれが限界なんだ。これ以上明るくすると先生がうるさいから」

 しばらく言葉を交わしてから、梨々香は私をコインロッカーまで案内し、五百円玉を差し出した。

「梨々香の家に置いてからじゃ駄目なの?」

「方向が逆なんだよ。このまま行って、暗くなる前に終わらせよう。でも心の準備をしておいてね。けっこう刺激的な場所って聞くから」

「大丈夫。気合い入れるために、敢えてサイバーパンク小説を何冊か読んできたから」

「なにそれ?」

 説明する気もなかったし、どう説明していいかもわからなかった。電子機器に触れることが全然ない私にとって、香川県以外の世界全てはサイバーパンクと呼べる。でも、県外の人間にとって、私の鼻にかかるガーンズバックV型こそ、サイバーパンクの定義に近いかもしれない。

「別に。SF小説の一つってだけ。そういった小説にはブラックマーケットが出てくるものなの。ハードボイルドにバーがつきもののように」

―――――――

続きは書籍にてお楽しみください。