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【試し読み】『ファイト・クラブ』著者が2020年代の世界へ捧げる爆弾。『インヴェンション・オブ・サウンド』

チャック・パラニューク『インヴェンション・オブ・サウンド』冒頭掲載。本作の物語は映画の音響効果技師であるミッツィ・アイヴズと、行方不明になった娘を長年探し続けるゲイツ・フォスターという2人の視点から交互に描かれます。「救いがない」という救いさえも与えられない現代人の物語。

『インヴェンション・オブ・サウンド』
チャック・パラニューク/池田真紀子訳
装幀:コードデザインスタジオ

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第1章 我らの罪を忘れたまえ


 救急車のサイレンが街を駆けていき、犬という犬が遠吠えする。ペキニーズもボーダーコリーも等しく吠えた。ジャーマンシェパードもボストンテリアも、ウィペットも。雑種犬も純血種も。ダルメシアンにドーベルマン、プードル、バセットハウンド、ブルドッグ。牧羊犬に愛玩犬。混血の犬も血統書付きの犬もそろって吠え、そこをサイレンが通り過ぎていく。

 サイレンが通り過ぎていくその長いひととき、犬たちはすべて一つの群れの仲間になる。すべての犬の遠吠えが一つの遠吠えになる。そのやかましい合唱はサイレンの音を押し流す。彼らを一致団結させた音が遠ざかって消えたあとも、遠吠えの連鎖は続く。

 どの犬も、たまの短い交流から最初に離脱する一匹にはなりたくない。

 

 ベッドの上で、ジミーは片肘をついて体を起こし、耳を澄ます。それから訊いた。「なんでかな」

 隣でミッツィは目を開く。床からワインのグラスを取って訊き返す。「なんでって、何が」

 通りの向こうのオフィスビルでは、ぽつんと一つ、窓に明かりが灯っている。その奥で男が一人、パソコンのモニターを凝視していた。映像が動き、揺らめく光が男の顔を照らす。その光は眼鏡のレンズの上でダンスを踊り、頬を伝う涙をほのかにきらめかせた。

 外だけでなく、二人を取り巻くコンドミニアムの奥でも遠吠えは続いた。力なく垂れたジミーの湿ったペニスの毛のはざまに、水疱が一つ。ピンクと白の膿を満杯に溜めたそれはいまにも破れそうだ。ジミーが訊く。「犬ってのは、なんであんな風に吠えるんだ?」

 小さなふくらみをつぶそうと手を伸ばすと、それは病変ではなかった。ジミーの皮膚にへばりついているのは、錠剤だ。薬。迷子になりかけの睡眠薬。アンビエンが一錠、それをミッツィはつまみ取り、口に入れてワインでのみ下す。そして答える。「大脳辺縁系共鳴」

「何だと?」

 ジミーはベッドを抜け出す。こいつは間違っても紳士ではない。原始人だ。ジミーは磨き抜かれた板張りの床に裸足で踏んばり、マットレスの端をつかんでミッツィごと床に引きずり下ろす。いつもと違い、髪の毛をつかんで引きずり下ろすのではなかったのは救いだが、ジミーはそのまま寝室を横切り、街を見下ろす背の高い窓の前までミッツィとマットレスを引きずっていく。「誰がふにゃチンリンプディックだって?」

「リンビックだってば」ミッツィは言った。「大脳辺縁系共鳴リンビックレゾナンス。それがあたしの仕事」空になったワイングラスを窓台に置く。満天の星のカオスの下、街灯が作る格子模様がまばゆく輝いている。遠吠えは消えてゆく。「あたしの仕事は」ミッツィは続ける。「きっかり同じタイミングで世界の全員に悲鳴を上げさせることだから」

 

 フォスターは、弁護士ではなく、グループリーダーのロブに電話をかけた。ここの警察は本物でさえない。ここの警察の権限が及ぶのは空港内だけだ。フォスターにいわせれば、自分は女の子に手を触れただけであり、それを犯罪と呼ぶのは拡大解釈だ。拘留はされているが、その場所は航空券販売カウンター裏の軽食堂にすぎない。座っているのは折り畳み式のパイプ椅子だ。一方の壁を自動販売機が埋めている。フォスターの手についた三日月形の小さな歯形から血が流れている。

 出発が遅れたのは、女の子が乗った一便だけ、女の子の事情聴取をする分の時間だけだった。

 携帯電話を返してほしいとインチキ警察に頼み、スクリーンショットを表示して見せる。インターネット上の男と、さっきの変態野郎、女の子を連れていた変態野郎はたしかにそっくりだ。連中もそう認めざるをえなかった。インチキ警察官の一人、男の警察官から、その画像はどこで見つけたのかと訊かれたが、それに答えると立場が悪化しかねない。

 別のインチキ警察官、女の警察官が言った。「この世は行方不明児童だらけよ。だからって、他人の子供をさらっていいわけじゃないの」

 フォスターとしては、そんなことより預け入れた自分の手荷物の行方を確かめたい。乗るはずだったデンヴァー行きの便はとうに離陸した。乗客が搭乗しなかった場合、飛行機はいまもその乗客の預け手荷物を出発地で下ろしていくのか。この瞬間にも爆発物探知犬がフォスターの手荷物を嗅いでいるのか。いまどき、世界中のどこのどんな街であれ、持ち主不明の上等なスーツケースが手荷物用ベルトコンベアに乗っていつまでもぐるぐる回っていられるとは思えない。かならず誰かが引っつかみ、手荷物タグを確かめるふりをして、持ち逃げするに決まっている。

 フォスターとしては、酒を一杯もらえたりするとありがたい。酒と、そう、手の傷を二針ほど縫ってもらえたらなおいい。

 騒動の前に、コンコース内のバーでマティーニを二杯飲んだきりだ。三杯目を飲み終える前に、女の子に目がとまった。フォスターの注意を引いたのは、ルシンダの鳶色の髪、記憶にあるより短い髪、華奢な肩に届くか届かないかの長さに切りそろえられた髪だった。十七年前、ルシンダが行方不明になったときと同じ年ごろの女の子。

 とっさの行動だった。人間の心とはそういうものだ。エイジ・プログレッション技術の仕組みは頭では理解している。牛乳の紙パックに印刷されている、情報提供を呼びかける広告の顔写真。毎年、コンピューターを使い、行方不明児童にまた一つ歳を取らせる。成人後は五年に一度。その技術の専門家は、母親の写真、おばの写真、同性なら誰でもいいからとにかく血のつながった誰かの写真を使い、現在の顔を推測して、失踪した少女に五年ごとに新しい顔を与える。どこのスーパーマーケットに行っても、乳製品売り場のレディウィップの缶入りホイップクリームとコーヒークリームのあいだに並んだ紙パックの上で、ルシンダが微笑んでいる。

 空港にいたその女の子はルシンダだと、百パーセントの確信があった──違うとわかるまでは。

 女の子の手を引いて搭乗が始まっているゲートに向かう変態野郎を目にした瞬間、フォスターの頭のなかに赤いフラグが立った。間髪を容れずに酒の代金をテーブルに叩きつけ、二人のあとを追って走った。携帯電話を取り出し、保存してある画像をスクロールした。自前の前科者写真台帳。顔にモザイクがかかっていても、首に入った忘れがたいタトゥーははっきりと写っている。小児性犯罪者の汗にまみれた顔を真正面からとらえた写真もある。

 女の子の手を引いて歩いていく小児性愛の原人は、『スクービー・ドゥー』のボロピンシャギー風だ。ぼさぼさシャギー頭にマリファナのやりすぎでとろんとした顔つき、足もとはゴムぞうり。フォスターは人のあいだを縫って反対側に回りこみ、別角度から写真を撮った。二人が目指す方角、ボーディングブリッジの入口で、ゲート係員が乗客の搭乗手続きをしていた。

 マリファナ頭の旧人類がチケットを二枚差し出し、二人はゲートを通過した。その便に搭乗する最後の乗客だ。

 ゲートにたどりつき、走ったせいで息を切らしたまま、フォスターは係員に言った。「警察に通報を」

 女の係員はフォスターの行く手に立ち、ボーディングブリッジの入口をふさぐ。航空券販売カウンターの係員に合図をしたあと、片手を上げて言う。「お客様、ここより先は立ち入れません」

「私は捜査官だ」フォスターは息を弾ませながら言った。携帯電話を掲げて、ぼさぼさ頭の小児性愛原人が映った不鮮明なスクリーンショットを見せる。やつれきった顔、落ちくぼんだ両眼。遠くのどこかから、フォスターが乗る便の搭乗を開始するという案内がかすかに聞こえた。

 搭乗ゲート前の窓から飛行機が見えた。コクピットの窓の奥にパイロット。ランプ担当クルーが預け手荷物の最後の数個を積み終え、貨物コンパートメントのハッチを閉じようとしていた。あと数分でクルーも撤収する。

 彼は、フォスターは、ゲート係員を押しのけて先へ進んだ。勢い余って、女の係員が床に転がった。足音をボーディングブリッジに轟かせ、フォスターは叫んだ。「きみらにはわからないだろうが」誰にともなく叫ぶ。「あいつはあの子をファックする気だ! あの子を殺す気だぞ!」

 フライトアテンダントが一人、キャビンのドアをまさに閉めようとしているところだったが、フォスターは彼女を肘で押しのけて機内へと進む。あちこちにぶつかりながら、ファーストクラスの客室を突き進む。「あの男は児童ポルノを製作している!」携帯電話を振り回して、フォスターは叫ぶ。「あいつは子供殺しだ!」

 リサーチから、児童人身売買業者が日常にまぎれこんでいることをフォスターは知っている。銀行の待ち行列の、すぐ前や後ろ。レストランのすぐ隣の席。フォスターがインターネットの表面を軽く引っかいてみただけで、子供を食い物にする連中が群がってきた。そして自分らの悪行の粋を送りつけ、胸糞の悪い世界に誘いこもうと試みた。

 乗客の何人かはまだ通路に立って自分の席に座るタイミングを待っている。その列のしんがりに、女の子がいた。ボロピン男の手をまだ握ったままだ。フォスターの声を聞きつけて二人が振り返った。機内の全員が振り返った。まずフォスターを見て、次に女の子を連れた男を見る。紺のビジネススーツが信頼を得たか、それとも好青年風のヘアスタイルとインテリ風の眼鏡に好感を持たれたか、場の全員が瞬時にフォスターの味方につく。

 携帯電話を持った手を男のほうに伸ばして、フォスターは声を張り上げた。「その男は人さらいだ! 児童ポルノの国際組織の親玉だ!」

 充血した目とぼさぼさ頭の男は、犯罪者呼ばわりに対してこうつぶやいただけだった。「冗談きついな、おい」

 女の子が泣き出し、それが罪状を裏づけた。シートベルトがはずれる音が響き、英雄の素質がある何人かが席を蹴って次々と飛びかかる。小児性愛原人は抗議の声を上げたが、その声は英雄たちの重みでくぐもって誰の耳にも届かない。みなそれぞれに何ごとかわめいている。男を押さえつけている英雄たち以外の全員が、携帯電話を高く掲げて動画を撮影していた。

 フォスターは通路に膝をついて床を這い、泣いている女の子に近づく。「さあ、この手をつかんで!」

 男とつないでいた手が引き離され、女の子は、人の小山の下に消えゆく男を見つめている。声を上げて泣き、その合間に叫ぶ。「パパ!」

「あいつはきみのパパじゃないんだよ」フォスターは優しく言った。「忘れてしまったのかい? あいつはきみを誘拐したんだよ、テキサス州アーリントンで」その事件の詳細がそっくり頭に入っていた。「だが、もうきみに手出しはできないんだよ」フォスターは大きな手を伸ばし、女の子の小さな手を握った。

 女の子は、苦痛と恐怖がこもった言葉にならない叫びを上げた。組んずほぐれつの乗客の重みで、小児性愛原人は動きを完全に封じられている。

 フォスターは女の子を引き寄せて抱き締め、さあ泣かないでとなぐさめ、髪をそっとなでながら繰り返す。「もう大丈夫だ。もう大丈夫だよ」

 フォスターのぼやけた視界の隅で、乗客たちが携帯電話をこちらに向けている。顔を涙でぐしゃぐしゃにした紺のスーツの男の、どこの誰でもない誰かの、飛行機の通路の真ん中にうずくまって花柄のワンピースを着た小さな女の子を抱き寄せている男の動画を撮影している。

 頭上から機内アナウンスが繰り返した。「当機の機長よりご案内です。運輸保安局TSA職員が当機に向かっています。乗客の皆様は席を立たずにお待ちください」

 女の子は泣いていた。きっとフォスターが泣いているせいだ。女の子は、折り重なった人体の小山の下から少しだけはみ出している変態野郎のぼさぼさ髪のほうに、空いた手を差し伸べている。

 フォスターは、女の子の涙に濡れた顔を両手ではさみこみ、無垢な茶色の瞳をのぞきこんだ。そして言った。「きみはもうあいつの性奴隷じゃないんだ。もう終わったんだよ」

 その刹那、誰もが互いの雄々しい行動を称え、温かな絆で結ばれる。一部始終は、リアルタイムでインターネットを駆け巡る。次の瞬間、二百ほどのYouTube動画のなかで、駆けつけてきたTSA職員がフォスターの首に腕を回して押さえこむ。

 フォスターの両手で顔をはさまれたまま、女の子の目は不可解な鋼の決意を浮かべてぎらりと輝く。

 息ができないまま、フォスターは先回りして言う。「いいんだよ、サリー、礼なんて」

「あたしの名前は」女の子は言った。「カシミアだよ」そして小さな顔の向きをほんのわずかに変え、フォスターの親指の肉に歯を食いこませた。

 

 救急隊は特別な呼び名でそれを呼ぶ。彼ら遺体引取専門の救急隊は、室内にロープを結びつけるところが一つもない高層コンドミニアムの名前にちなみ、〝フォンテイン方式〟とそれを呼ぶ。鉄筋コンクリートの塔。ダウンライト用の半球状のくぼみが並んでいるほかに凹凸は一つもない、高い天井。ちなみに一部の人々は、ダウンライトを〝キャンライト〟と呼ぶ。部屋によってはレール式の可動照明が設置されている。

 見た目はおしゃれだが、人間の体重を支える強度はない。

 地下にある資源ゴミ回収ボックスをのぞくと、いろいろと説明がつく。透明ガラスの回収ボックスは、パトロン・テキーラの瓶やスミノフ・ウォッカの瓶であふれている。高層コンドミニアムの住人は貧困層ではない。フォンテイン・コンドミニアムにキャットフードで食いつないでいる住人はいない。むろん猫は別だろうが。

 訪問客はめったにない。例外は救急隊だ。

 たったいまも、歩道際で救急車がアイドリングしている。ライトはついてない。サイレンは鳴らしていない。ミッツィは、十七階の部屋から、ジミーが窓際に引っ張っていったマットレスの上から、救急車を見下ろしている。制服姿の男が二人、ストレッチャーをがたごとと押してエントランス前の幅広の階段を下りていき、いったん歩道に停めておいて救急車のリアゲートを開け、荷台のへりに尻を載せて煙草に火をつけた。

 全身を完全に覆われてストラップで固定されたストレッチャーの上の誰かは、小柄なようだ。きっと女だとミッツィは思った。子供ではない。コンドミニアムの管理規約で、児童は居住できないと定められている。だいぶ腐乱が進んでいることだろう。カリフォルニアの暑さでは、たとえセントラルエアコンを最強に設定していようと、数週間のうちにそうなる。人間だって熱が通ればそうなる。ミイラ化もする。干物にもなる。ほかの住人はあれが誰なのか知っているだろう。警察が呼ばれるきっかけがメイドだったのか、強烈な臭いだったのか、それも知っているだろう。

 シャロン・テートの惨殺死体を見つけたのは、家政婦だった。マリリン・モンローの冷えきった全裸死体を見つけたのは、家政婦だった。妊娠中の雇い主の刺し傷だらけの死体を思いがけず発見するなんて、失業のしかたとして最悪だとミッツィは思う。

 刺殺についてなら、一冊本が書けそうだ。たとえば、一部の殺人者が何度も執拗に刺すのはなぜか。相手を痛めつけるために刺すのは最初の一撃だけだ。続けて二十、三十、四十回と刺すのは、苦しみを終わらせるためだ。たった一度刺すだけで、あるいは斬りつけるだけで、悲鳴が上がり、血が流れる。しかしそれを止めるには、その何倍、何十倍も刺す必要がある。

 通りの向かい、ミッツィと同じ高さに男が一人、オフィスに座っている。父親の形をしたどこの誰とも知れぬ誰かは、ミッツィから死角になったパソコンのモニターに見入っていた。そのビルでたった一つ明かりが灯っているオフィスで、男は眼鏡をかけてデスクに向かっている。

 ミッツィも一度、フォンテイン方式を試した。入居したての新参の耳にかならず入る噂によって伝授される、シンプルな方法。ただ扉を開けるだけでいい。リリカルで美しいメタファー。ほかにロープを結びつける場所がないから、ドアノブに結ぶ。タオル地のバスローブのしなやかなベルトは最適だ。ベルトの片端をドアノブに結びつけ、残りの部分をドアの上から向こう側へ渡し、先端に輪っかを作る。椅子の上に立ち、椅子を蹴り倒し、ペンキ塗りのドアのなめらかな表面で絞首刑ダンスを踊る。

 昔の人は、樹木を冒涜するのを慎んだ。だから絞首刑では、壁にはしごを立てかけて一番上の横棒にロープを結んだ。死刑囚は椅子の上に立つか、馬にまたがった。椅子が倒され、あるいは馬が走りだし、はしごの下にぶら下がった輪があとを引き受けた。はしごの下を歩くと縁起が悪いとされる所以はこれだ。だって、誰にわかる? 追い剥ぎや人殺しの霊魂や霊魂の大群が、自分が死刑に処されたその空間をいまもうろうろしていないともかぎらない。

 悪党どもの霊魂が地上にうようよしているのは、地獄で待ち受けている苦しみから逃れるためだ。亡者は二日酔いの苦しみを免除されているといいが、とミッツィは思う。

 救急隊を見下ろしながら、安定剤のアティヴァンをのみ、続けてアンビエンをのむ。頭痛がしていた。頭痛には慣れているが、これが自分の頭だということを忘れられそうだ。アンビエンの効能の一つはそれだった。十分な量をのめば効く。

 状況を鑑みるに、誰かが祈りを捧げるべきだろう。「天にまします我らの父よ」そこまで唱えたところで早くもアンビエンが思考を消去しにかかる。口を開き、また閉じる。唱えるべき言葉が出てこない。「我らの罪を忘れたまえ」ミッツィは言った。「我らに罪をおかす者を我らが忘れるごとく、我らの罪を忘れたまえ……」

 ミッツィの窓の十七階下で、救急隊員が乗客を荷台に積みこみ、リアゲートをばたんと閉めた。向かいのビルで、ぽつんと灯っていた明かりがふっと消えた。

 父親の形をした誰かと入れ違いに、ミッツィの輪郭が窓ガラスに映る。片方の腕を左右に動かし、ガラスの上の自分が同じように腕を振るのを目で追う。

 携帯電話が鳴る。救急車は消えていた。

 一人きりで、ミッツィの手が届かないところで、ガラスに映ったミッツィが片方の腕を上げ、ガラスに映った携帯電話を耳に当てる。空いたほうの手で、ガラスの上のミッツィが手を振った。救急車に、死んだ誰かにさよならと手を振るように。あるいは、本物の自分にさよならと手を振るように。



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この続きは書籍版でお楽しみください。

『インヴェンション・オブ・サウンド』

◆STORY
ミッツィ・アイヴズは音響効果技師だ。彼女が作り出す恐怖の映画音声は、まるで本当に人間を拷問しているかのような迫力を持っている。
ゲイツ・フォスターは行方不明になった娘を探す父親だ。手がかりを求めてダークウェブをめぐり、児童ポルノへの憎悪をたぎらせている。
2人の物語が交錯するとき、ハリウッドに史上最悪の惨事が訪れる――
『ファイト・クラブ』のパラニュークが2020年代の世界へ捧げる傑作!

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