そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第10章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第10章を公開。

佐伯が残したメモに記されていた〝ニシゴリ〟に会うため、沢崎は新宿警察署を訪ねる。

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そして夜は甦る』(原尞)

10

 信じられないことだが、低家賃の雑居ビルが密集する私の事務所のある区画から、ほんの五百メートル南へ歩くだけで、超高層ビルが林立する新宿副都心に達する。わずか一キロ四方の地域に、この街の老朽した顔と最新の顔が道路一つ隔てて鼻を突き合わせているのだ。背後の雑居ビルは迫りくる夕闇にかすんで実在すら疑わしく、前方の高層ビルは雨あがりの水蒸気におおわれて視界にも入らない。しかし、その内側でうごめいている人間の愚かさは、地上数メートルだろうと地上百メートルだろうと何の変わりもなかった。
 新宿警察署はあたかもその二つの区画の接点にあった。私はコートを肩に掛けたままで、その三階建の建物に面した横断歩道を渡って行った。高層ビルを背景に、うずくまった番犬のように見える灰色の建物は、近づくものすべてを威嚇しているように見えた。ネバドデルルイス火山の噴火による災害で泥の中で息絶えた十二才の少女のことを話題にしている二人の制服警官と玄関で擦れ違って、私は一階の受付へ行った。
 無帽の若い警官が、カウンターの蔭にひろげた〝フォーカス〟だか〝フライデー〟を盗み読みしていた。
「捜査課の錦織刑事はまだいますか」と、私は訊いた。まだこの署に勤務しているのか、まだこの時間でも署にいるのか、どっちの意味にも取れるように。
「お宅は?」と、彼は内線電話に手を伸ばして訊き返した。
「沢崎──そう言ってもらえば分かる」
 彼は電話に言った。「もしもし……内線の27、捜査課の錦織警部を」
 私の視線が写真雑誌に注がれているのに気づいて、受付の警官は照れ隠しに言った。「こういうの、ずいぶんプライバシーを侵害した写真が載っているとは思わないかね。歌手のフランク永井だってあそこまで追いつめられることもなかっただろうし、都知事選のときのスキャンダルは根も葉もないデッチ上げだった。撮るほうが悪いとか、いや、撮られるほうが悪いとかいろいろ言われるけど、お宅はどう思う?」
 電話に誰かが出た。「こちらは一階の受付ですが、いま沢崎という人がここにみえています……ええ、そうです……分かりました」彼は電話を切って、私に言った。「その階段を二階に上がって、右へ行くと捜査課があるから、手前から二番目の部屋だよ」
「どうも」と、私は礼を言って、受付を離れた。階段に足をかけてから、受付の警官に「雑誌を買って、読むやつが一番悪いのさ」と言った。
 署内の様子は五年前と少しも変わりなかった。パートナーの渡辺賢吾の起こした事件で、私は彼の共犯の容疑をかけられて、この署のこの階へ連行されたのだった。無意味で苛酷な取調べが三日間続いて、四日目の早朝、私は釈放された。この階段を降りながらひどい吐き気に襲われたが、それは取調べのせいではなくて、渡辺に対する無力感や喪失感によるものだったと思う。しかし、かつて渡辺に捜査のいろはを教えられ、結婚の仲人を引き受けてもらい、十数年間同じ釜の飯を食った錦織刑事にとって、あの事件は私よりも遙かに大きな痛手だったに違いない。
 二階の捜査課は、階段に近いほうから総務課、重犯罪を扱う一課、軽犯罪その他の二・三課、暴力団関係の四課と四つのセクションに分かれていた。その二つめのドアの前で、錦織が最後に会ったときと同じ不機嫌な顔つきで、私を待ち構えていた。濃い茶色のぶらさがりのスーツに黒っぽいネクタイ、そして丈夫なだけが取柄の黒の短靴──典型的な古手の刑事の服装だった。年齢は五十になるかならないか、身長は一メートル七十五センチあるかないか、体重は八十キロあるかないか。容貌に関しては余計な説明は不要だった。強打で鳴らした旧ライオンズの〝背番号7〟、豊田泰光に見違えるほどよく似ていた。数年ぶりに会った錦織は、現役時代より野球解説者としての豊田にさらに近くなっていたが、眼だけはライオンズ黄金時代の豊田にも負けないくらいの鋭さだった。ただし、錦織の眼は豊田のような勝負師の眼ではなく、獲物を追いつめる狩人の眼だった。要するに刑事の眼つきなのだ。
 錦織は無言のまま先に立って、廊下の反対側に並ぶ取調べ室の一つに入った。
「中に入って、ドアを閉めろ」と、彼は言った。
 私は彼の言う通りにした。私たちは取調べに使う粗末なスチールの机をあいだにして椅子に腰をおろした。私はコートを椅子の背に掛けた。五年前と同じ部屋、同じ机、同じ椅子だったかも知れない。錦織は調書を取るためのもう一つの机にあったアルミの灰皿を取って、私たちのあいだに置いた。容疑者と一緒に拷問を受けたように凸凹になった灰皿が、坐りが悪くてカタカタと音を立てた。錦織はその音が静まるまで待った。
「何の用だ? 探偵」
「警部に昇進したそうだな。若死が多いのはあんたの世代だろう。よほど警部が不足していると見える」
 彼は顔色ひとつ変えなかった。私たちは、同時にタバコを取り出し、同時に火をつけ、同時に相手に煙を吐きかけた。
「何の用だ?」と、彼は繰り返した。「渡辺から連絡でもあったのか」
「あんたは二、三年前にもおれの事務所に現われて、同じ質問をした。憶えているか」
「ああ。おれとおまえのあいだに、他にどんな話題がある?」
「こっちの答えもあのときと同じだ」
《渡辺が誰かに連絡をとることがあれば、まずあんたに一言あるはずだ。あんたは最近自分の上司に、一億円及び覚醒剤強奪犯として極秘に手配中の渡辺賢吾から個人的な連絡があったと報告したか。していない? なら、おれにも渡辺からの連絡などないということだ》私はそう答えたのだった。
 錦織は換気のために窓を開けに立って、戻ってきた。タバコの煙と入れ違いに、湿った夜の空気が部屋を満たした。
「では、何の用だ?」と、錦織は三度訊いた。
「先週の木曜日にルポ・ライターの佐伯直樹から電話があったはずだが、そのときの話の内容を教えてもらいたい」
「佐伯直樹? ああ、あの元新聞記者のことか。別に話の内容もくそもない。適当な探偵を紹介してくれと言うので、おまえのことを思い出して教えた。それだけのことさ。別に礼を言うには及ばないぜ」
 中野警察署の警官が佐伯のマンションに到着してから、すでに二時間以上が経過している。刑事殺しともなれば、都内の全署への手配も一段とすみやかに行なわれるはずだ。錦織がその通達を耳にして、マンションの住人の名前に思い当たるときには、私は頼まれてもこの署内にいたくなかった。
 私はタバコを灰皿で消してから言った。「彼は適当な探偵と言ったのか。そんなことなら、手近かにある電話帳で探せばすむはずだ。刑事に訊ねる必要はない。それとも、あんたたちは電話帳代わりに気軽にものを訊ね合うような仲なのか」
「違う」と、錦織はそっけなく言った。「だいぶ昔の話だ。ある傷害事件の犯人が新聞社を通して自首して来たことがある。そのとき電話で応対したのが佐伯で、おれたちは犯人の指定した場所でそいつが自首してくるまでまる半日待たされたんだ。それ以来、会えば口をきく程度の知り合いだが、記者を辞めてからはほとんど会っていない。先週電話をして来たときは、名前を聞いてもすぐには誰のことか判らなかった」
「その程度の付き合いだとすれば、どういう理由で探偵を雇いたいのか訊いたはずだ。警官は滅多なことでは人にものを教えない」
 錦織は冷笑を浮かべた。「本人に訊け。おまえの雇い主のはずだ」
 私は何も言わずに、錦織の濃い眉のあたりを見つめた。
「どういうことだ?」と、彼は訝しげに訊いた。「佐伯はおまえを雇わなかったのか。佐伯の名前が出るからには、何らかの接触はあったはずだな」
「お互いに質問ばかりしていても埒があかない。おれの依頼人は佐伯直樹の細君なのだ。依頼された仕事は佐伯を捜し出すこと。彼は先週の木曜日以来行方が分からない。分かっているのは、木曜日の一時にあんたに電話をしておれのことを聞き出したことまでだ」
「あの男が行方不明だと?」
「そうだ。だから、佐伯が電話であんたに喋ったことの内容を知りたい。佐伯は九月頃から何かの調査に没頭していたようだが、彼の細君もその具体的なことは聞いていない。彼が何を調査していたのか、おれを雇って何をさせるつもりだったのか、それが分かれば彼を捜し出すのに役に立つ」
 錦織はタバコをもみ消しながら、最後の煙を歪めた口許に漂わせた。私を佐伯に紹介したことを後悔していることが、彼の苛立った表情にはっきりと出ていた。
「おれがどうして探偵の仕事の手助けをしなきゃならない?」
 私は返事をしなかった。警官くらい自分の質問に返事がかえって来ないことに不慣れな人種はいない。
「探偵。おまえは五年前のことで、おれに何か貸しがあるようなつもりでいるな」彼は噛みつくような口調で言った。「おまえが二日間も拘留されて訊問を受ける羽目になったのは、自業自得だ。おまえは自分で身の証しが立てられなかったんだ」
「三日間だ。共犯の証拠は何もなかった」
「そうじゃない。おれが言っているのは、おまえは渡辺と五年も六年も一緒に仕事をしていながら、彼があんなことを企んでいたことに気づきもしなかった。おれに言わせれば、共犯であるよりももっと悪い」
 無茶な理窟だが、錦織の言葉はある意味では正しかった。私の心の一部は、彼の言いがかりめいた非難で確かに痛みを覚えるのだ。
「しかしな」と、私は声を低くして言った。「疑うことが専門のあんたたちが見事に渡辺に騙されたんじゃないか。あれは確か、反山口組系の暴力団で〈清和会〉だったな。渡辺が囮になって、清和会とのあいだに覚醒剤三キロを一億円で取引する話をまとめた。あんたたちは元警官である渡辺の警察に対する協力を疑わず、清和会は警察を追放されたアル中の老いぼれの警察に対する裏切りを信じた。ご丁寧に本物の覚醒剤まで持たせて渡辺を取引場所へ送り込んだ。ところが、手筈通り〈京王プラザホテル〉の一室に踏み込んでみると、手錠を掛けられたまま呆然となっている清和会の組長と幹部一名が残っていただけで、覚醒剤も一億円も、そしてもちろん渡辺も消えていた。そうだったな?」
「うるさい。それ以上、あの事件のことを口にするな」
 私はタバコを取り出したが、切れていた。空箱をクズかごにほうって、錦織のほうへ手を差し出した。彼はしぶしぶ自分のタバコを一本振り出した。私のタバコと同じ銘柄のフィルター付きだった。私は火をつけて一度吸ってみたが、煙の通りが悪いのでフィルターをちぎり取った。錦織は傷つけられたような顔をした。
「人のことは言えないがね」と、私は言った。「渡辺はおれには家出した清和会の組長の娘を捜す仕事を依頼されたと言っていたんだ。彼が清和会や新宿署と頻繁に連絡を取っていても、おれは別におかしいとも思わずに自分の仕事をしていた。刑事みたいに人を疑ってかかるという習性がないんだ」
「その辺でやめておけ」と、錦織は怒気を帯びた声で言った。「おれはあの囮作戦には反対したんだ。ところが、手柄をあせった新任の捜査課長が強引に決行しやがった。警察学校を主席で卒業したというのが自慢のその馬鹿は、今では生まれ故郷の県警にとばされて冷飯を食っている」
「あの作戦に反対したって? 聞き捨てならないな。渡辺があんな行動に出るのを予測していたとでも言うのか」
「馬鹿を言え。おれが反対したのは、あんな危険な囮に部外の人間を使うことにだ。他の連中と違って、おれは渡辺のアル中が相当ひどくなっていることを知っていた。作戦通りに任務を果たせるかどうか疑問だった」
「見事に果たしたよ」
「勝手に筋書を変えてな」と、錦織は苦い顔で言った。
 私は彼の顔を見つめた。「考えてみると、あんたはその左遷された課長と違って、のんびりと警部なんかに昇進している。作戦に反対していたことで、あの事件はあんたにはプラスになったんじゃないのか」
「言っていいことと悪いことがあるぞ」と、彼は気色ばんで言った。「警察にいた頃の渡辺がおれにとってどういう人間だったか、おまえは知っているのか」
「聞いている」
「だったら、二度と今のようなへらず口を叩くな」
 彼はアルミの灰皿を私の眼の前につき出した。「おれは仕事がある。用がすんだら、消えてしまえ」
 私はタバコを消しながら言った。「結局、佐伯直樹はおれには電話さえかけて来なかった。あの夜、彼は五千万円という大金を手に入れる機会があったのに、そこへも現われなかった。その金は違法でも何でもない金だ。それから、すでに五日も経っている。これには、よほどの事情があるはずだ」私は椅子を立って、コートを取った。
 錦織は窓を閉めに行って戻って来た。眉をしかめて、何かを思い出すような顔つきだった。そして早口で喋りはじめた。「佐伯は最初に「真面目で、熱心で、信用のできる探偵を知らないか」と訊ねた。そんな探偵がいれば、うちの署で採用しているとおれは答えた。彼は次に「では、とにかく腕のいい探偵を知らないか」と訊ねた。腕がいいなんて形容はいまどき死語に等しいとおれは答えた。彼は今度は「それなら、いっそ金のためなら何でもするという探偵は知らないか」と訊ねた。そんな探偵ならその辺の興信所を探せばいくらもいるだろうとおれは答えた。すると彼は「なるべくなら個人で事務所を持っているような探偵がいい」と言った。そう言われて、やっとおまえのことが頭に浮かんだ。おまえの事務所を教えてやると、彼は「その探偵は少しぐらいの危険は承知で、しかも秘密を守れるような男だろうか」と訊ねた。そこで、おれは一体どうしてそんな探偵が必要なんだと訊いた。彼は「今はまだ話せる段階ではないが、もし警察へ届け出るべき事態になれば、一番にあなたにお知らせする」と答えた──おれたちの電話での話は、それで全部だ」
「真面目で、熱心で、信用できて、腕がよくて、危険をかえりみず、秘密の守れる、個人営業の探偵だと? それに、金のためなら何でもする探偵はいないかと訊いたのか。恐れ入ったな。佐伯という男は一体何を考えているんだ。彼が何をやっていて、何のために探偵を雇うつもりだったのか、肝腎なことは何一つ訊いていないのか」
「うるさい。こっちは忙しいんだ。おまえたちの暇つぶしなんかに付き合ってはいられない」
 私は頭を振って、ドアのほうへ向かった。「大いに役に立ったよ、警部」
「慌てるな、探偵」錦織が背後から声をかけた。「佐伯から電話があった翌日のことだ。〈朝日〉を停年退職した辰巳という男から電話があった。サツ回りのベテランだったが、退職後は女房と娘に喫茶店をさせて、自分は気が向いたときにルポや雑文のようなものを書いている。佐伯の先輩だ。佐伯が探偵のことを最初に相談したのは、この辰巳だったようだ。辰巳は、新宿署の元刑事で探偵事務所を始めた男がいたことを思い出し、おれに訊けば分かるかも知れないと答えた。佐伯はおれには面識があるので、自分で直接訊いてみますということになったそうだ。佐伯も辰巳とは元記者同士だからな、おれより少しはましなことを話しているかも知れん」
 私はうなずいた。錦織は辰巳の喫茶店の名前と場所を教えると、用がすんだらさっさと消えてしまえと繰り返した。私にしても望むところだった。

次章へつづく

次回は2月16日(金)午前0時更新

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