そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第11章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

その刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第11章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

11

 その喫茶店は地下鉄の新宿御苑前から歩いて五、六分の、花園南公園の通りに面したレンガ色の四階建のビルにあった。一階の半分はOA機器や事務機を販売する商事会社のシャッターがおりていて、残りの半分をカウンターの上で白い猫が店番をしているクリーニング屋と、〈サウス・イースト〉という名の喫茶店が分け合っていた。白いモルタル壁とニス塗りのラワン材を組み合わせた外装に、オリーブ色のブラインドを掛けた大きな窓のある、ありふれた感じの喫茶店だった。
 私は〝PM 6:00-11:00 パブタイム〟と書いたボードのさがったドアを開けて、店の中へ入った。あまり広くない店内で、三、四人の客が食事をしたり、酒を飲んだりしていた。カウンターの中に母娘ほど年の違う二人の女がいたが、辰巳らしい男の姿は見当たらなかった。白い壁に掛かった黒地に白抜きの時計が、七時十五分をさしていた。私は空腹だったので、ここで食事をすますつもりで隅のボックスに坐った。店内は適度な明るさと適度な暖かさに加えて適度な音量のクラシック音楽が流れていた。
 若いほうの女が水を持って注文を取りに来た。私はコートを脱ぎながら、すぐ脇の壁にイラスト入りで美味いと宣伝してある〝自家製ビーフ・シチュー〟とコーヒーを頼んだ。彼女は長い髪を背中まで伸ばし、流行のわざとしわにしたような生地のうぐいす色の上衣をはおっていた。三十才前後にしては既婚か未婚か見当のつかない、明るい顔だちの女だった。
「すいません」と、私は彼女を呼び止めた。「辰巳さんにお会いしたいのだが、おいでになりますか」
 彼女はカウンターの中にいる年配の女に訊いた。「父さんは今夜も〈秀策〉に行ってるんでしょう?」
 そうだと言う返事だった。辰巳の娘は振り返って言った。「父は歌舞伎町の碁会所へ行ってるんですが」
「私は沢崎という者です。初めてお眼にかかるんだが、新宿署の錦織警部の紹介でお訪ねしたんです」
「そうですか。ちょっとお待ちになって下さい。電話をかけて、すぐに呼び出しますから」
「いや、それには及ばない。その碁会所なら知っていますから、あとで行ってみましょう」
「ええ。でも、母が風邪気味なので早く帰ってもらうつもりだったんです。それに、途中で擦れ違いになってはお困りでしょうから」彼女はカウンターの中に戻って、私の注文を母親に告げると、レジのそばにある電話の受話器を取った。電話番号をそらで憶えているところをみると、こういうことがたびたびあるのかも知れない。
 私は新宿駅の売店で買って来たタバコのセロファンを剥ぎ取り、一本抜いて火をつけた。彼女は電話を終わると、私に灰皿を運んで来て言った。「父は二十分ほどで帰るそうです。どうぞ、ごゆっくり」
 私は彼女に礼を言った。客の一人が帰るところだったので、彼女はレジのほうへ戻った。
 ハイドンふうの弦楽四重奏のアレグロを聴きながらタバコを喫い終えると、注文の食事が届いた。長いアダージョと軽快なテンポのメヌエットで腹ごしらえをして、コーヒーを飲みながらフィナーレを聴いているところへ、辰巳が帰って来た。
 彼は娘としばらく言葉を交わした。入れ違いに、風邪気味だという母親が店から出て行くのが見えた。辰巳は新聞社を停年で辞めたという年齢には見えないきびきびした歩き方で、私のほうへ歩いて来た。海老茶色のスェードのジャンパーとジーンズに、〝ゴースト・バスターズ〟のワッペンの付いた赤い厚地のキャップがよく似合っていた。五十代半ばと言っても通りそうだが、挨拶のためにキャップを脱ぐと、耳のまわりと後頭部にわずかに白髪の残った禿げ頭があらわになった。色黒でしわの多い引き締まった顔は、ジャーナリストというより年季の入った指物職人のように見えた。
「どうも、お待たせしました。辰巳です」と、彼ははっきりした声で名乗った。私はちょっと腰を浮かせて名刺を渡しながら、自分の名前を告げた。辰巳は向かいの椅子に腰をおろすと、私の名刺を見ながら言った。「錦織警部の紹介とおっしゃったですね。やっぱり、ぼくの記憶に間違いなかったらしい。警察を辞めて探偵事務所を始められたのは、そう、渡辺部長刑事でしたね。当時、ぼくは警視庁詰めでしたから直接面識はなかったが、新宿署のナベチョウさんと言えば捜査畑の名うての刑事だった。渡辺さんはお元気ですか」
「本人は、いたって元気だと言っています」と、私は渡辺の最新の便りから引用して答えた。
「お互いもういい年ですから、お身体に気をつけられるようにお伝え下さい。確か、渡辺さんが警察をお辞めになったのは……あれは、七〇年安保の前の年でしたか、〝佐藤訪米阻止〟の騒動でご子息が逮捕されたときでしたね?」
「そう聞いています」
「あれはぼくにとっても他人事ではなかったのですよ。長男がやはりゲバ棒を持って走りまわったくちでしたから。うちのは幸い逮捕されるようなことはなかったですし、ぼくは新聞社勤めでしたからそれほど問題にはならなかった。しかし、警察官ではそうはいかなかったでしょう。当時は何と親不孝なガキどもだと思ったものだが、今の若い人に較べると覇気があったような気もしますよ。もっとも、うちの長男なんか今ではけろりとした顔で、高校生の孫の大学受験で眼の色を変えたり、分不相応のバイクを買い与えたりで……まァ、いつの時代でも親というのはあまり賢いものではないようですな」
 いつの間にか、客は私だけになっていた。辰巳は娘にビールを持って来るように言いつけた。
「錦織警部の紹介で探偵の沢崎さんがおみえになったということは、ご用件は佐伯君に関係のあることですか」
 私はうなずき、単刀直入に話すことにした。「佐伯さんは先週の木曜日から行方不明になっているのです。そのことはご存知でしたか」
「いや、とんでもない。それは本当ですか」と、彼はびっくりした声で言った。
「私は佐伯さんの奥さんの依頼で、ご主人を捜しています」
 佐伯本人が雇うつもりだった探偵が、彼の細君に雇われることになった経緯を、私は必要最小限にとどめて説明した。
 辰巳の娘がビールを運んで来て、二人の前にコップを置いた。辰巳は娘からビールの壜を受け取った。「玲子、おまえは向こうへ行ってなさい」
 私がビールを断わると、彼は自分のコップに半分ほど注いで一気に飲みほした。
「まさかとは思っていたが、あのときのぼくの予感は当たっていたんだな」辰巳はコップに話しかけるように言った。
「それはどういうことです?」と、私は訊いた。
「佐伯君はおそらく何か大きなネタをスクープしかけていたんだと思いますよ。これは同じジャーナリストとしての勘ですが、間違いありません。彼がここに寄るのはせいぜい月に一回程度でしたが、秋ぐちからだんだん顔を出すことが多くなって、最近では週に一回かそれ以上という状態でした。以前の彼とは顔つきも眼の色もちょっと違う感じだった。何かこう、ぼくに話したいことが喉もとまで出かかっているという印象を受けましたね。ぼくも現役のときにはそういう経験を何度もしていますから、よく分かるんです。応援を頼めるかどうかを思案しながら、彼の視線がぼくに注がれているのを痛いほど感じましたよ。残念ながら、ぼくは失格だったようです。少なくともぼくに特ダネを盗まれるような心配はしなかったはずですから、年齢とか体力とかそういう点で不合格だったんでしょう。結局、彼はぼくの代わりにプロの探偵さんを雇う決心をしたのだと思います」
 娘の玲子はカウンターの中で洗いものをしていたが、私たちの話に耳を澄ましているようでもあり、流れているショパンのピアノ曲に耳を傾けているようでもあった。ショパンが嫌いな女とジーンズをはいたヤクザにはお眼にかかったことがない。
「どうやら──」と、私は溜め息まじりに言った。「佐伯氏が何をスクープしようとしていたのか、探偵を雇って何をさせるつもりだったのか、あなたもその辺のことはお聞きになっていないようですね」
「そういうことです、残念ながら」
「しかし、さっき予感が当たったとおっしゃった意味がもう一つ解りませんが」
「それは、彼がぼくに探偵に知り合いがないかと相談したときのことなんです」辰巳は、佐伯が錦織に電話で言ったのと同じ雇いたい探偵の条件──真面目で、熱心で、信用できて、腕がよくて、云々──を繰り返した。「正直言って驚きましたよ。危険を承知で引き受けてくれる探偵だとか、金のためなら何でもやる探偵だなんて、彼の追っているスクープが一体どんなものなのか急に心配になって来ましてね」
 辰巳は言葉を切って、カウンターの娘のほうにすばやく視線を走らせた。そして、声を小さくした。「佐伯君はぼくにとっても好感のもてる後輩なのですが、実を言いますと娘の玲子にとっては、つまり、その……いわば、愛情の対象なのでしてね。彼にはあんな魅力的な奥さんがあるのに、馬鹿な娘です……そんなわけで、彼には決して無茶な真似はしてもらいたくなかった。だから、ぼくとしては牽制球を投げるようなつもりで錦織警部を持ち出したんですよ。ぼくもこういう世界に四十年近くいますから、別に錦織警部の手を借りなくても、彼が雇いたがっているような探偵に二、三心当たりはあります。しかし、彼が警察と聞いてどんな反応をするか──そのときこそ彼を問いつめて、先輩としての忠告をするつもりでいたのです。ところが、彼は警察と聞いても眉一つ動かしませんし、錦織警部なら知っているから直接訊いてみますという返事でした。ぼくは余計な心配をしたものだと、それですっかり安心してしまったんです……こんなことになるんだったら、あのときの悪い予感を信じて、もっと厳しく追及しておくべきでした」
 辰巳は肩を落として、深い溜め息をもらした。機械的にビールをコップに注いだが、口をつけようとはしなかった。
 私は質問した。「佐伯さんに最後に会われたのはいつですか。探偵のことを相談されたのと同じ日ですか」
「そうです。あれは、先週の──」彼はカウンターの娘に眼をやった。
「水曜日です」と、彼女がすぐに答えた。「わたしが七宝焼のアクセサリー教室から帰ってきたときは、もうおみえになってましたから」
「彼がここにいた時間は?」
「七時頃に来ましたね」と、辰巳が答えた。玲子が付け加えた。「九時前には帰られました。わたしが帰ってきて、三十分位でしたから」
 佐伯は、十時前後には例の男と一緒に自分のマンションの前で妻の名緒子に会っている。
「佐伯さんに、誰か連れはありませんでしたか。その日に限らずですが」
 父と娘は顔を見合わせた。父のほうが答えた。「いや、佐伯君はここへはいつも一人で来ましたよ」
「彼がかけた電話とか、彼に外からかかって来た電話で、何か記憶に残っているものはありませんか」
 父と娘はしばらく考えていたが、どちらも首を横に振った。
「彼はここへは仕事抜きで、私と一杯やりながらだべりに来ているという態度を通しましたからね。少なくとも最後の探偵についての相談以外は。彼がうちの電話に触ったことがあるかどうかも疑問だと思いますよ」
「一杯やりながら、彼がどんなことを話したか憶えていますか」
「とにかく、いろいろですよ」と、辰巳は言った。「スポーツや肩の凝らない話題のほうが多かったが、それでもお互いジャーナリストのはしくれですから、新聞のトップ記事や三面の見出しになるようなことは、一通り話題にしたと思います」
「最近話題にしたことを、思い出してもらえませんか」
「そうですね……思いつくままにいえば、まずタイガースの二十一年ぶりの優勝、コロンビアの火山爆発の災害のこと、むつ市の五億円強奪事件のこと。そういえば、ドラフト会議はちょうどあの日じゃなかったかな。PLの清原と桑田のことはずいぶん熱心に話しましたよ。九州場所で千代の富士がV5できるかどうか。いまは身体のでかい力士ばかりで、土俵の大きさは変わらないんだから、かえって小兵力士の方が有利だって話をしましたね……まだまだ、ありますよ。白昼堂々、市民の真っ只中で起こった関東連合の山村組長の射殺事件。ぼくが碁が好きですから趙治勲対小林光一の名人戦のこと。彼は学生時代アイスホッケーの選手でしたから、日本リーグで五連覇を狙っている本命の王子製紙が苦戦していること。少し古いところでは、夏の都知事選挙のときの狙撃事件、競輪の中野浩一の世界選手権V9のこと、オリエント・ライフ社の粉飾決算のこと。それから、交番の巡査が拳銃を盗まれ、その銃でサラ金業者が撃たれて、その巡査が首を吊るという事件もありましたね。日本でも最近はピストルを使った犯罪が急増しているという話もしましたよ……まァ、そんなところですか」
「さすがに話題豊富だ」と、私は嘆息して言った。「佐伯さんが追っていたスクープは、彼が話題にした事件と関係があると思いますか」
「さあ、それはどうとも言えませんね」
 私は少し別のことを質問してみた。「府中第一病院という名前に心当たりはありませんか。佐伯氏の話にその病院のことが出てこなかったでしょうか」
 辰巳も娘もしばらく考えていたが、首を傾げただけだった。
「八王子警察署の伊原勇吉という刑事のことを聞いたことはありませんか」
 これも、二人の反応はあまりかんばしくなかった。辰巳がもしやという口調で言った。「関東連合の山村組の本拠地は神奈川だが、射殺事件が起こったのは、確か八王子市内じゃなかったかな?」
「そうかも知れません。調べてみましょう。もし、佐伯さんのことで何か思いつくようなことがあれば、名刺の電話にかけて下さい」
「そうします」と、辰巳は言った。「それで、佐伯君のことで何か分かったら、こちらにもお知らせ願えますか」
 私は承知した。それから、二人に礼を言い、コートを手にレジへ向かった。そのとき、電話のベルが鳴り、辰巳の娘が受話器を取った。彼女はすぐに受話器の口を塞いで言った。「父さんに、新宿署の錦織さんからよ」
 私はすばやく辰巳に言った。「私はもう出たことにして下さい。佐伯さんを捜す邪魔をされたくないので」
 辰巳はすぐに決断し、私にうなずいてみせ、娘から受話器を受け取った。私は食事とコーヒーの料金を払い、彼女からお釣りを受け取った。身振りだけで二人に挨拶をすませると、その店を出た。
 辰巳玲子が渡したお釣りには小さな紙切れが混じっていた。私は隣りのクリーニング屋の明かりで、走り書きしたメモを読んだ。〝表通りの西側にある公園で、十分後に〟

次章へつづく

次回は2月19日(月)午前0時更新

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