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姿を消した双子の妹。それから数十年、つながりは切れたかに見えた。あの日まで――小説『ひとりの双子』試し読み①

「入れ替わっても気づかれない」とさえ言われた双子が、ある選択によって、まったく異なる人生を送ることになる。
アメリカの小説家、ブリット・ベネットが『ひとりの双子』で描くのは、そんな姉妹。姉のもとから突如消えた妹は、自由をもとめて、素性を偽り、故郷から遠くのどこかで暮らしているといいます。姉は噂しか知らず、もう何年も会っていません。

妹を追いかける物語は、サスペンスと驚きに満ち、ページをめくる手がとまりません。アメリカで170万部もの大ベストセラーとなるのも、うなづけます。
それと同時に、家族・社会の束縛のなかで「自分らしくありたい」と懸命に挑みつづける女性たちの姿は痛切で、胸に迫ります。

抜群のストーリーテリング、普遍的な力強い物語、人種・貧富・性差をめぐるアクチュアルな描写があわさった、いま読んでほしい傑作です。その冒頭を公開します。

ひとりの双子』 ブリット・ベネット 友廣 純 訳
早川書房 3月26日発売
装画:カチナツミ 装幀:早川書房デザイン室

◉あらすじ

”自分らしくいるために嘘をついた。それは、許されない罪なのか”

アメリカ南部、肌の色の薄い黒人ばかりが住む小さな町。
自由をもとめて、16歳の双子は都会をめざした。より多くを望んだ姉のデジレーは、失意のうちに都会を離れ、みなが自分を知る故郷に帰った。
妹のステラは、その何年も前に、デジレーのもとから姿を消していた。いまは、誰も自分を知らない場所で、裕福に暮らしているという。白人になりすまして。

いつもいっしょだった、よく似た2人は、分断された世界に生きる。
だが、切れたように見えたつながりが、ふいに彼女たちの人生を揺さぶる。

人種、貧富、性差――社会の束縛のなかで懸命に生きる女性たちを描く長篇小説。


第1部 消えた双子(1968年)


1


 消えた双子のひとりがマラードの町に戻った朝、ルー・ルボンは一刻も早くそのニュースを知らせるべく、食堂へと駆け込んだ。このときのルーの慌てっぷりは、それから何年も経ったいまでも人々の記憶に残っている。ガラス扉を押し開けて飛び込んできた彼は、汗だくになって息を弾ませており、襟元はその力走を物語るようにぐっしょりと濡れて黒ずんでいた。まだ眠たげな目をした客が10人ほど、何ごとかとルーの周りに集まってきた。もっとも、後日、自分もその場にいたと語った者の数はそれより多かった。このときばかりは彼らも、たとえ偽りであろうと、自分はまさに衝撃の現場に居合わせたという顔をしたかったのだ。農場が広がるこの小さな町では、事件らしい事件など何ひとつ起きたことがなかった。そう、ヴィーン家の双子が行方をくらましたあとは。だが、1968年4月のこの朝、仕事場に向かっていたルーは、小さな革の旅行鞄を手にパートリッジ通りを歩く、デジレー・ヴィーンを発見したのだった。その姿は16歳で町を去ったときと何も変わっていなかった──色の薄い、砂色の肌がうっすらと濡れていた。尻の小さな痩せた体は、強風になぶられる1本の枝を彼に思い起こさせた。彼女はうつむいて、急ぎ足で歩いてたんだが──と、ルーはここで少々芝居じみた間を置いた──女の子の手を引いてたんだ。7、8歳ぐらいの、タールみたいに真っ黒な子どもさ。

「青っぽく見えるぐらいの黒だった」彼は言った。「まるで、たったいまアフリカから飛んできたって感じだ」

〈ルーのエッグ・ハウス〉の店内にいくつもの会話が渦巻いた。料理人は、そもそもその女は本当にデジレーだったのかと疑った。何しろルーはこの5月で60になるというのに、いまだに体裁ぶってメガネをかけたがらないのだ。一方、ウェイトレスは彼女に間違いないと主張した──たとえ目が見えなくたってヴィーン家の娘かどうかはすぐにわかるし、まさかもう片方の娘だとも思えないじゃない。カウンターにトウモロコシ粥や卵料理をほったらかしにした客たちは、もはやヴィーン家の愚かな娘にさえ興味を示さなかった──その黒い子どもは誰なんだ? まさか、デジレーが生んだ子じゃないだろうな?

「そうじゃなきゃ誰の子だってんだ?」そう言うと、ルーは紙ナプキンを容器からごっそりと摑み取り、汗が噴き出た額に押し当てた。

「親のない子を引き取ったのかもしれんぞ」

「だいいちデジレーからそんなに黒い子が生まれるもんか」

「しかし、デジレーは孤児を引き取るようなタイプか?」

 もちろん、そんなタイプではなかった。わがままな娘。人々の記憶にあるデジレーは、そのひと言に尽きたし、それ以外の何かを思い出せる者もほとんどいなかった。双子が失踪したのは14年もまえのことで、もう、住民たちが2人を知っていた時間と同じぐらいの年月が過ぎ去っていたのだ。創立者記念日のダンスのあと、廊下のすぐ先で母親が眠っているあいだに、彼女たちはベッドから消えた。その朝には、双子は我先にとバスルームの鏡の前に立っており、姿形のそっくりな娘が合わせて4人、髪をいじりまわしていた。ところが翌朝になるとベッドは空っぽで、ベッドカバーだけがいつもどおりに整えられていた。ステラが手がけた場合は隅々までぴんと張られ、デジレーが直したときはシワだらけ、という具合に。町の住民は午前中いっぱい2人を捜しつづけた。名前を呼びながら林を歩きまわり、もしや攫われたのではないか、などと馬鹿げた心配もした。双子の失踪は、あたかも主が再臨して2人を連れ去ったかのように唐突だった。罪人たるマラードの住民すべてを残して。

 だが、当然と言うべきか、実際には忌まわしい事件も宗教的現象も起きてはいなかった。双子はほどなくしてニューオーリンズに姿を現わした。わがままな娘たちは、たんに責任から逃げ出したのである。2人が町に戻るのに、そう長くはかからないと思われた。いずれは都会の暮らしに疲れきってしまう。お金が尽きてぼろぼろになり、泣きべそをかいて母親の待つ家に戻るというのがお定まりのコースだろう。しかし、2人は決して帰らなかった。それどころか、1年後には双子も離ればなれになった。ちょうど卵子を半分にして分け合ったように、彼女たちの人生も真っ二つに分かれたのだ。そうしてステラは白人になり、デジレーは、出会ったなかでいちばん肌の黒い男と結婚したのだった。

 そのデジレーが、いまになって町に戻ってきた。理由など誰にもわからなかった。ホームシックになったのかもしれない。何年も経って母親に会いたくなったか、あるいは自分が生んだ肌の黒い娘をお披露目したかったのかもしれない。マラードには、肌の色が濃い相手と結婚しようとする者はひとりもいなかった。町から出ていく者もいなかったが、デジレーはそれをしてみせた。とはいえ、肌の黒い男と結婚し、彼の青黒い子どもを連れて町中を歩くというのは、あまりにも常識の範囲を超えていた。

〈ルーのエッグ・ハウス〉では人の輪がほどけはじめていた。料理人は頭に被ったネットのゴムをぱちんと鳴らし、ウェイトレスはテーブルの小銭を数え、作業着姿の男たちはコーヒーをひと息に飲み干してから製油所へと向かっていった。ルーは汚れて曇った窓に寄りかかり、外の通りを見つめた。アデル・ヴィーンに連絡するべきだろう。自分の娘に不意打ちを食らわされるなんて、あんまりではないか。彼女はこれまでにも散々な思いをしてきたのだ。それなのに、今度はデジレーとあの黒い子どもが現われた。まったく、何てことだろう。彼は電話機に手を伸ばした。

「2人はここに落ち着くつもりかな?」料理人が訊いた。

「おれにわかるもんか。ただ、ずいぶん急いでる様子だったな」ルーは答えた。「何を慌ててたんだか、おれのことなんか眼中にもない様子でな。手を振ることさえなかった」

「お高くとまってんな。よくもまあ、そんな態度がとれるもんだ」

「それにしても」とルーは言った。「あんなに黒い子は見たことがない」


 奇妙な町だった。

〝マラード〟という名は、稲田や湿地帯に棲む、首に白い輪のあるマガモからつけられた。ほかの町でも同じだろうが、その町はたんなる場所ではなく、ひとつの理念が形になったものと言ったほうがよかった。その理念がアルフォンス・デキューアのなかに生まれたのは、1848年、かつて彼の「所有主」でもあった父親から相続したサトウキビ畑に立っているときだった。父親が他界し、すでに奴隷身分から解放されていた息子は、その広大な土地に、今後何百年も残るような何かを造り上げたいと思った。自分のような者が生きられる町。白人と認められることは絶対にないが、黒人として扱われることを拒む者のための町。第3の地だ。天に召された彼の母親は、息子の色の薄さを嫌っていた。まだ少年だったころ、母親は彼を陽射しの下に押し出して、頼むから黒くなってくれと言った。もしかすると、彼が最初に町造りを夢見たのはこのときだったかもしれない。色の薄い肌。それは、大きな犠牲なくして手にできなかったほかの遺産と同様、孤独な贈り物なのだ。彼は、自分よりもさらに色の薄い混血の女性と結婚していた。彼女は当時、第1子を身ごもっており、彼はその子どもの子どもの、そのまた子どもの姿に思いを馳せた。延々とクリームで薄められていくコーヒーのように、その肌はいっそう明るくなっているはずだった。より完璧なニグロ。世代を重ねるたびに色は薄くなっていく。

 人はすぐに集まってきた。そのうちに、理念と場所は分かちがたいものになり、マラードという町の名はセントランドリー郡一帯に知れ渡るようになった。黒人はひそひそと町の噂をし、訝しんだ。白人は、そんな町が存在することさえ信じようとしなかった。1938年に聖キャサリン教会が建てられた際、司教の命によってダブリンから若い司祭が派遣されてきたが、その司祭は到着したとたんに確信した。自分は違う町に来てしまったのだと。たしか司教は、マラードは黒色人種の町だと言っていなかったか? では、いま目の前を歩いている人々は何者なんだ? 色白で、ブロンドや赤毛の住民たち。いちばん色の黒い者だってギリシア人と変わらないぐらいだ。アメリカではこれを黒色人種と呼び、白人と区別したがっているのだろうか。いったい、どこがどう違うというのだろう。

 ヴィーン家の双子が誕生したころには、アルフォンス・デキューアの死からすでに長い歳月が過ぎていた。しかし、彼の子どもの、子どもの、子どもの孫娘である2人は、望むかどうかはべつにしても、彼の遺産を受け継いでいた。もっともデジレーは、創立者記念日の行事が近づくときまって不平を漏らしたし、学校で町の創立者の話が出れば、自分とは無関係だと言わんばかりに目玉を上に向けていた。双子が消えたあと、デジレーのこの態度は何かと引き合いに出されることになる。持って生まれた権利だというのに、あの娘はこの町の一員になるのを嫌がっていた。あの娘は、まるで肩に置かれた手を払うみたいに歴史も払いのけられると思っていた。たとえ町から逃げ出せても、自分の血からは逃れられないものだろう。なのに、どういうわけか、ヴィーン家の双子はそのどちらも可能だと思い込んでしまったんだ。

 とはいえ、もしアルフォンス・デキューアが生き返り、かつて想像した未来の町を眺めて歩くことができたら、きっと自分の子孫を目にして感激していただろう。クリーム色の肌と、はしばみ色の目と、緩やかに波打つ髪を持った双子の娘たち。その姿に目を見張っていたに違いない。親の世代よりまた1歩、完璧に近づいた子ども。これほど素晴らしいものがあるだろうか?


 ヴィーン家の双子が忽然と姿を消したのは、1954年8月14日、創立者記念日のダンスパーティーが終わってすぐのことだった。のちに住民は、その失踪がもともと計画されていたものだったことに気づく。ステラのほうは賢いので、当日は町全体が注意力散漫になると見越していただろう。広場のバーベキュー会場では、みんな長いこと陽にさらされて頭がぼんやりしてしまう。そこでは肉屋のウィリー・リーが、もうもうと煙を立てて牛のリブ肉やら肩バラやら、ソーセージやらを燻している。やがてフォンテノー町長のスピーチが始まり、次いでキャバノー神父が食事を祝福する。子どもたちはいよいよ痺れを切らし、一同が祈りを捧げるなか、親が手にした皿から香ばしいチキンの皮をちょっぴりつまむ。午後は午後で、バンド演奏を交えた記念式典が長々と続き、夜には記念日の締めくくりとして、学校の体育館でダンスパーティーが開かれる。トリニティ・ティエリーお手製のラムパンチを飲みすぎたせいで、大人たちは足をふらつかせて家路につくが、その体育館でのひとときに、彼らはそっと若き日の自分を取り戻している。

 もしこれがほかの夜なら、いつものように窓の外を覗いたサル・デラフォスが、月明かりの下を歩く2人の娘に目を留めていたかもしれない。アデル・ヴィーンは床板の軋む音に気づいたかもしれない。ルー・ルボンだって、ちょうど食堂を閉めるころ、曇った窓ガラス越しに双子の姿を見つけていたかもしれない。しかし、創立者記念日には〈ルーのエッグ・ハウス〉も早めに店を閉めていた。サルはにわかに若返り、いそいそと妻とベッドに潜り込んでいた。そしてアデルも、ラムパンチのために鼾を立てて眠り込み、同窓会で夫とダンスを踊った日の夢を見ていた。双子がこっそり出ていくところを目にした者はひとりもいなかった。まさに、2人の狙いどおりに事は運んだのである。

 ただ、それはステラの計画などではなかった──双子が町にいた最後の夏に、デジレーが決めたことだった。記念行事のあとにこの町から逃げるのだと。たぶん、彼女がそう決めたと知っても驚く者はいなかっただろう。彼女はずいぶんまえから、耳を傾けてくれる者さえあれば、いますぐマラードを出たいと話していたのだ。もっとも、聞き役はたいていステラだった。ステラは幼いころから、彼女の空想にじっと付き合ってやることに慣れていた。マラードの町を離れるなんて、ステラにとっては中国へ旅立つぐらい現実離れした話だった。理屈では可能でも、そんな真似をする自分の姿がまったく想像できなかったのだ。しかし、デジレーはいつだって、この畑だらけの町の外には夢のような暮らしがあると信じていた。双子は1度、オペルーサス市の小さな映画館で『ローマの休日』を観たことがあった。バルコニー席にいるほかの黒人の子どもたちは、すぐに退屈し、大声で騒いだり階下の白人にポップコーンを投げたりした。おかげで映画の台詞はほとんど聞こえなかったが、デジレーはひとり手すりにへばりつき、遠くのパリやローマを目指して雲の上を飛んでいく光景を思い描いていた。実際には、2時間ほどで着くニューオーリンズにさえ1度も行ったことがなかったのだが。

「あんなとこへ行ったって、馬鹿みたいに騒がしいだけだよ」母親はきまってそう言ったが、もちろん、そう聞くとますますデジレーの都会への憧れは強くなった。双子にはファラ・ティボドーという名の、1年まえにニューオーリンズへ出ていった知り合いがいた。彼女はいともあっさりと脱出したように見えた。1歳上のファラにできたのだから、そんなに難しいはずがない。デジレーは都会に出て女優になった自分の姿を想像した。これまで、デジレーが演劇で主役を任されたことは1度しかなかったが──中学3年で演じた『ロミオとジュリエット』だ──ステージの真ん中に立ったとき、束の間、マラードはべつに、この国でいちばんつまらない町ではないかもしれないと思った。同級生たちの声援は自分に向けられ、ステラの姿は体育館の暗がりに埋もれていた。このときだけは、デジレーは双子ではなく、自分というひとりの存在だった。不完全なペアの片割れなどではなかった。けれど、その翌年には『十二夜』のヴァイオラ役を町長の娘に奪われてしまった。直前になって彼女の父親が学校に寄付をしたのだ。メアリー・ルー・フォンテノーが満面の笑みで観客に手を振る様子を、舞台袖からむっつりと眺めていた日の夜、デジレーは双子の妹にこぼした。いますぐマラードを出たいと。

「いつも同じことを言うね」ステラは言った。

「だって、いつもそう思ってるんだもん」

 もっとも、それは少し大げさだった。デジレーは、マラードを嫌っているというより、小さな世界に閉じ込められているのが苦しかったのだ。歩きはじめたときからずっと、同じ砂利道を踏みつづける毎日。天板の裏に自分のイニシャルを刻みつけた教室の机は、かつて母親も使っていたもので、いつかは自分の子どもも、そこに彫られたギザギザの文字を指先で探り当てるはずだった。学校の建物もむかしから何ひとつ変わらず、しかもすべての学年が同じ校舎に通った。だから、マラード高校に進学してもただ隣の教室に移動するだけで、上級学校に上がったという実感がまるで湧かなかった。しかし、デジレーだって問題がこれだけならまだ我慢できたのかもしれない。本当に耐えられなかったのは、住民たちの、色の薄い肌への強い執着だった。誰の女房がいちばん色白か、理髪店で議論するシル・ギロリーとジャック・リチャード。いつもいつも帽子を被れと叫んで追いかけてくる母親。妊娠中にコーヒーやチョコレートを摂ると赤ん坊が黒くなる、などという愚にもつかない俗説を信じる人々。デジレーの父親はとても色が薄く、寒い朝などに父の腕を裏返すと、肌の下を走る青い血管が透けて見えるほどだった。だが、白人の男たちが父のもとへやって来たとき、色の薄い肌は何の意味も持たなかった。それを知ってしまったというのに、いまさらどうして色の薄さにこだわることができるだろう。

 デジレーはもう、父のことをあまり覚えていなかった。それが少し怖かった。父が生きていたころの生活は、ただの、どこかで聞いた物語のようにも思えた。まだ母が、夜明けと同時に起きて白人家庭の掃除に出かけることなどなかった時代。週末も追加の洗濯物を引き受けて、家のリビングに物干しロープを張り巡らせることなどなかった時代。双子の姉妹はキルトやシーツの陰に隠れて遊ぶのが好きだったが、そんな戯れは、家に他人の汚れ物が溢れているのがどれほど屈辱的なことか、デジレーが気づいたころにはやめてしまった。

「もし本気で出ていきたいなら、とっくに何かしてるはずじゃない」ステラが言った。

 ステラはどんなときでも現実的な考え方をする。日曜の夜には1週間ぶんの洋服すべてにアイロンがけを済ませるのが彼女のやり方で、デジレーがいつも朝になってからバタバタと着られる服を探したり、バッグの底でくしゃくしゃになっていた宿題を片づけたりするのとは正反対だった。ステラは学校も好きだった。幼稚園のころから算数は誰よりも得意で、高校1年のころにはミセス・ベルトンから、下の学年の授業をいくつか任されるまでになった。ミセス・ベルトンは、スペルマン大の学生時代のものだという、使い込んだ微積分法の教科書をステラに与えた。それから何週間も、ステラはベッドに寝そべって教科書を開き、奇妙な図形や、括弧のなかに連なる長い数字を読み解こうとした。1度、デジレーもその本をぱらぱらとめくってみたのだが、そこに広がる数式は謎の古代文字にしか見えなかったし、すぐにステラにひったくられてしまった。あたかも、デジレーが眺めるだけで汚れてしまうとでもいうように。

 ステラにはマラード高校の教師になるという目標があった。だが、デジレーのほうは、このマラードの町に留まってひたすら単調な日々を送るという未来を想像するたびに、喉を掻きむしりたいような感覚に襲われた。けれどいくらデジレーが町を出たいと訴えても、ステラは決して話に乗ってこなかった。

「ママを残してはいけないでしょ」ステラは必ずそう答え、口をつぐむので、デジレーもそこで黙り込むしかなかった。母親はすでに大きな喪失を経験したのだから、という部分は、言われなくてもよくわかっていた。


 高校1年の最後の日、仕事から戻ってきた母親が、秋からはもう学校へ行かなくていいと双子に告げた。勉強は充分にしたんだし、と続けながら、母親はそろそろと、慎重にカウチに腰を下ろして足を休ませた。2人には働きに出てもらわなくちゃならない。当時16歳だった双子は、その言葉に愕然とした。もっとも、このところ請求書がよく届くことにステラは気づいてもよかったはずだし、デジレーだって、先月だけで2度もフォンテノー家に借金を頼みにいかされたのはなぜなのか、疑問に思うべきだったのだ。それでも2人は、靴紐をほどく母親を前に、ただ呆然と互いの顔に目をやった。ステラは、まるでお腹にパンチでも打ち込まれたような表情を浮かべていた。

「でも、働きながら学校へ通うことはできるよ」ステラが口を開いた。「時間をやり繰りすれば──」

「無理なんだよ」母親が遮った。「日中はずっと仕事だから。わかるだろ、私だってできればこんなことは言いたくないんだよ」

「うん、だけど──」

「それに、ナンシー・ベルトンはおまえに先生役を任せていただろう。なのにこれ以上、何を勉強する必要があるんだい?」

 母親はすでに、2人に掃除婦の仕事を見つけていた。オペルーサス市にある1軒の家で朝から働かねばならないとのことだった。デジレーは母親の掃除を手伝うのが嫌いだった。汚れた皿が浸かった水に手を突っ込むのも、背中を丸めてモップをかけるのも苦痛だった。白人の洗濯物をこすっているうちに、いつかは自分の指も、ごつごつと節くれ立って太くなることも知っていた。だが、少なくともこれでテストや勉強や暗記とはおさらばできるし、あくびが出るほど退屈な授業を聞く必要もなくなった。自分は大人になったのだ。ここからいよいよ、人生の本番が始まるのだろう。しかし、2人で夕食の支度を始めてからもステラは黙りこくっており、浮かない顔のままシンクでニンジンを洗っていた。

「できれば私──」ステラがぼそりと言った。「きっと無理だとは思ってたけど──」

 ステラは、いつか大学に行きたいと願っていたのだ。そして、彼女ならもちろん、スペルマン大だろうとハワード大だろうと、望めばどんな大学にでも入れるはずだった。デジレーはいつもそれを恐れていた。ステラが、自分を置いてアトランタやワシントンDCに行ってしまうことを。もう置き去りにされる心配はなさそうだと思うと、デジレーは心の片隅でほっとしていた。ただ、妹の悲しむ顔を見るのはやはり辛かった。

「まだ行けるチャンスはあるよ」デジレーは慰めた。「いますぐは無理だろうけど」

「どうやって? まずは高校を卒業しないとだめなのに」

「じゃあ、すればいいじゃない。夜間クラスに通うとか何とかして。あんたならすぐに卒業できるよ。自分でもそう思うでしょ」

 ステラはまたふさぎこみ、黙々とシチューに入れるニンジンを刻んだ。母親がどれほど困っているか知ったいま、その決断に逆らおうなどとはステラも思っていなかった。それでも心が波立つのは抑えられず、勢い、ナイフを滑らせて指先を切ってしまった。

「クソッ!」小さく吐き捨てられたそのひと言に、隣にいたデジレーはぎょっとした。ステラは滅多に汚い言葉を使わなかったし、母親の耳に届きそうな場所では絶対に口にしなかった。ステラの手からナイフが落ち、その人差し指に、細く赤い線を引いて血が伝うのが見えた。考える間もなく、デジレーは傷ついたステラの指を口に含んだ。幼いころ、ステラがいつまでも泣きやまないときにもよく同じことをした。成長した自分たちがこんな真似をするのは変だとわかっていたが、構わずステラの指を吸いつづけ、金属的な血の味を舌で感じ取った。ステラは黙ってそれを見つめていた。目はわずかに潤んでいたが、泣いてはいなかった。

「汚いよ」ステラはそう言ったが、指を引き抜こうとはしなかった。

つづく(第2回

***

ひとりの双子』(ブリット・ベネット、友廣純訳)は、全国書店・ネット書店で好評発売中です。


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