自分らしくいるために嘘をついた。それは許されない嘘なのか? 小説『ひとりの双子』試し読み②
報われない環境に生まれ育ち、自分の将来も自由に選べそうにない。そんなとき、新しい世界への扉、自分らしくいられそうな世界への扉が見えた。双子は、いっしょに扉を通りぬけて、別々の道を選んだ。
妹は、姉のもとから姿を消し、素性を偽って裕福に暮らしているという。それから数十年、2人のつながりは切れたかに見えた。あの日まで――。
アメリカの小説家、ブリット・ベネットによる長篇小説『ひとりの双子』は、サスペンスと抒情に満ちた文芸作品として170万部もの大ベストセラーになりました。日本でも3月末の発売直後から早くも話題です。
ここでは、試し読みの第2回をお届けします(第1回はこちら)。
◉あらすじ
〈前回からのつづき〉
夏のあいだずっと、双子は朝からバスに乗ってオペルーサス市に通った。向かう先は、鉄製の門扉に隠された巨大な白い邸宅で、門扉のてっぺんには白い大理石のライオンが載っていた。その門構えはわざとらしいほど厳めしく、初めて見たときデジレーはつい笑ってしまったが、ステラのほうは、ライオンがふいに命を得て襲ってくるとでもいうように、そちらに用心深い視線を向けただけだった。デジレーは、仕事を見つけたと聞かされたときから、仕事場は裕福な白人家庭だろうと察していた。だが、これほどの豪邸だとは思っていなかった。輝くシャンデリアは驚くほど高い天井に吊るされているため、埃を払うには脚立の最上段まで上らなければならなかった。長い階段はぐるぐると螺旋を描き、手すりに沿って雑巾がけをすると目がまわった。モップをかける広いキッチンにも、様々な電化製品が並んでいたが、どれも新しく、近未来的で、デジレーにはその使い方さえわからなかった。
ときおり、ステラを見失って捜しまわることもあった。そんなときは声を出して名前を呼びたかったが、高い天井に反響するはずだと思うとためらわれた。1度、寝室のドレッサーを磨いているステラを発見した。そのときの彼女は、化粧水の小瓶に彩られた鏡をぼんやりと、どこか物欲しそうな目で眺めていた。許されるならそこにあるビロードの椅子に腰かけ、オードリー・ヘップバーンのごとく、芳香を放つクリームを自分の手に塗ってみたい。そういう世界に住む女たちのように、ただひたすら自分の姿に酔いしれてみたい。そんなことを願っているようにも見えた。けれど、背後にデジレーの姿が映り込んだとたん、彼女は素早く視線を逸らした。それが何であれ、何かを欲する姿を見られたことに恥ずかしさを感じているようだった。
その家には、デュポンという名の家族が住んでいた。羽毛のようにふんわりしたブロンドの髪を持つ妻は、午後はいつも椅子に座って過ごし、退屈そうにあくびを噛み殺していた。夫はセントランドリー信託銀行に勤める銀行家だった。あとは──デジレーは初めて目にする──カラーテレビの前で、すぐに喧嘩を始める息子が2人と、火がついたように泣きだす禿げた赤ん坊がいた。初めてここに来た日、ミセス・デュポンはじっくりと双子を眺めまわし、それから屈託のない調子で言った。「かわいい子たちね。色もかなり薄いじゃない?」
ミスタ・デュポンは黙って頷いただけだった。彼はおどおどとした不器用そうな男で、レンズの分厚い瓶底メガネをかけているため、目がビーズのように小さく見えた。そして、デジレーとすれ違うたびに、判断に迷った様子で首を傾げた。
「きみはどっちだったかな?」彼はいつもそう訊く。
「ステラです」ときどきデジレーは、いたずら心でそう答えた。嘘には自信があった。嘘をつくことと役を演じることの違いはただ1点、観客がそれを承知しているかどうかだが、演技をするという意味ではどちらも同じだった。ステラはいつも入れ替わるのを嫌がった。絶対にばれると信じていたからだ。けれど、嘘というのは──役者の演技も同じだが──完璧にやりきってこそ嘘と呼べるのだ。デジレーは長いことステラを観察してきた。服の裾をもじもじといじる手つきも、耳に髪拶をかける仕草も、ためらいがちに目を上げて挨を口にするその表情も知っていた。デジレーは妹そっくりに動き、声色を真似し、彼女の肉体を丸ごと自分のなかに住まわせることができた。自分はステラになれるが、ステラはデジレーになれない。そう思うと、特別な存在になった気がした。
夏のあいだ、双子は人々の視界から消えていた。どちらかがパートリッジ通りを歩いていたり、ルーの食堂のブース席に身を滑り込ませていたり、男子の練習を見にフットボール場へ向かっていたりするようなこともなかった。双子は毎朝、デュポン家の邸宅のなかに消え、夕方になると疲れてむくんだ足でふたたび外へ出てきた。デジレーなど、帰りのバスの車中ではぐったりとウィンドウにもたれかかるのが常だった。夏が終わろうとしていたが、秋に思いを巡らす気にはなれなかった。友人たちが学食で噂話に興じ、あるいは同窓会のダンスの打ち合わせをしているときに、デジレーは浴室の床をこすっているのだ。こんな暮らしが一生続くのだろうか? 足を踏み入れた瞬間に丸呑みにされてしまうような家に、このままずっと縛られて生きていくのだろうか?
逃げる道がひとつだけある。それはわかっていたが──これまでもわかっていたのだが──8月に入ったころには、もはやデジレーはニューオーリンズのことしか考えられなくなっていた。そして、創立者記念日の朝、すでにデュポン家に戻ることが恐怖になっていたデジレーは、隣に寝ているステラをそっとつついて言った。「行こう」
ステラがうめき声を漏らし、足首にシーツを絡ませて寝返りを打った。ステラは寝相が悪く、内容は話そうとしないが、悪夢にうなされることも多かった。
「どこへ?」ステラが口を開いた。
「わかるでしょ。もう言い飽きたよ。とにかく行こう」
口にしながらデジレーは、いま目の前には脱出ドアが現われていて、少しでも逡巡すればそれが永遠に消えてしまうような感覚に襲われはじめていた。だが、ステラ抜きでは行けなかった。これまで妹と離れた経験はなく、頭のどこかでは、もし引き離されたら生きてはいけないだろうとまで思っていた。
「ねえ」デジレーはせっついた。「一生、デュポンの家の掃除をしたいの?」
本当の理由が何だったのか、結局、デジレーには最後までわからない。もしかするとステラもうんざりしていたのかもしれない。現実派の彼女のことだから、ニューオーリンズでもっと稼いで家に送金したほうが、いまより母親を助けられると判断したのかもしれない。それとも、彼女にも消えゆく脱出ドアが見え、ふいに、欲しいものはすべてマラードの外にあると気づいたのだろうか。しかし、ステラが心変わりした理由などはこの際どうでもよかった。大事なのは、ステラがついに「いいよ」と言ったことだった。
その日の午後は、双子も創立者記念日の行事に大人しく参加していたが、デジレーは終始、秘密をぶちまけてしまいそうな自分にひやひやしていた。ところがステラは、普段と変わらず落ち着き払っていた。デジレーが秘密を打ち明ける相手は、いつもステラだけだった。落第したテストのこと。それを母親には見せず、裏に書いてもらわねばならない署名を偽造したこと。フォンテノーの家で細々とした物を盗んだという事実も──口紅1本と、ボタンひと袋と、銀のカフス1個だ──ステラは知っていた。盗んだのは、簡単に盗めたからだし、たとえ町長の娘が澄まし顔で脇を通り過ぎていっても、彼女の物を奪ってやったのだと思うと気が晴れるからだった。ステラは耳を傾け、ときに批判もしたが、決して口外はしなかった。そこが肝心だった。ステラに秘密を話すというのは、ガラス瓶にそっと白状して固く蓋をしてしまうようなものなのだ。彼女からは何も漏れることがない。だが、このときのデジレーは気づきもしなかった。ステラが、彼女自身の秘密をも隠し持っているということに。
ヴィーン家の双子がマラードを去った数日後、川が氾濫し、道路はすべて泥の海と化した。もし出発が1日遅れていたら、2人は嵐に流されていただろう。たとえ雨がやんでも、今度はぬかるみが待っている。足を取られながら必死でパートリッジ通りを進んでも、半分ほど来たところで思い直し、計画を中止していたはずだ。2人はたくましいタイプではない。泥だらけの田舎道では8キロだって歩けない。となれば、ずぶ濡れで家に引き返し、いつものベッドで眠りこけることになっただろう。デジレーは自分が衝動的だったと認め、ステラのほうも、自分は姉に忠実なだけだという話に落ち着いていただろう。しかし、その晩は雨が降らなかった。双子がうしろも振り返らずに家をあとにしたとき、空には雲ひとつ浮かんでいなかった。
町に戻ってきた朝、デジレーは、母親の家に向かう道がよくわからなくなっていた。よくわからないのは、完全にわからない状態よりも質が悪い──どの記憶が正しいのか判断しようがないからだ。パートリッジ通りがだんだん林に入り込んで、それからどうなるんだった? 川で曲がるはずだけど、どっちに曲がればいい? 町というのは、戻ってくるたびにどこかが違って見える。たとえるなら、家具がすべて10センチずつ動かされた自宅のようなものだ。それで他人の家だと勘違いしたりはしないが、向こう脛を何度もローテーブルの角にぶつけてしまうだろう。林の入口までやって来たデジレーは、果てしなく広がる、膨大な数のマツの樹に気圧されて足を止めた。見覚えのあるものはないかと視線を巡らせながら、指先は首のスカーフをいじっていた。その青い薄布の下に、痣が透けて見えていた。
「ママ?」ジュードが口を開いた。「もうすぐ着くの?」
母親をじっと見上げる大きな丸い目は、サムのそれにそっくりで、デジレーは思わず視線を背けた。
「ええ」デジレーは答えた。「もうすぐよ」
「すぐってどれぐらい?」
「あとちょっと。この林を抜けたところだから。ママは方角を確かめていただけよ」
サムに初めてぶたれたときから、デジレーは故郷に戻ることを考えるようになった。結婚して3年が経ったころだったが、当時のデジレーはまだ、自分たちは新婚のような夫婦だと思っていた。デジレーの指先からそっと砂糖を舐め取るとき、口紅を引く彼女の首筋に優しくキスするとき、サムは以前と変わらずデジレーをぞくぞくさせた。ワシントンDCがもうひとつの故郷のように思えはじめており、ここでなら、ステラのいない人生を思い描けるかもしれないと感じていた。だが、6年まえの春のことだ。その晩、デジレーは彼のシャツにボタンを縫いつけるのを忘れていた。サムにそれを指摘されたが、夕飯の支度に忙しかったデジレーは、自分で縫えばいいだろうと言った。デジレーも仕事でくたびれていた。時間もすっかり遅くなっており、リビングのテレビからは、『エド・サリヴァン・ショー』で〝もしあなただったら〟を歌う、ダイアン・キャロルの高く震える声が聞こえていた。背を丸めてチキンをオーヴンに入れ、立ち上がって振り向いた瞬間だった。口のあたりに、勢いよくサムの手が飛んできた。デジレーは当時、24歳だったが、誰かに顔をぶたれたのはそれが初めてだった。
「そこを出るべきね」友人のロバータは電話口で言った。「そうしないと、彼は暴力を振るっても許されるんだと考えるわよ」
「そんなに簡単に言わないで」デジレーは赤ん坊が眠る部屋に視線を向け、腫れた自分の唇に手をあてた。ふと、ステラの顔が蘇った。自分とそっくりだが、そこに痣はない。
「どうしてよ?」ロバータが訊いた。「愛してるから? 彼もあんたを愛するあまり、頭を吹っ飛ばす勢いで殴ったってわけ?」
「そこまで乱暴じゃなかった」デジレーは言った。
「じゃあ、もっと乱暴になるのを待つつもりなの?」
ステラとは、彼女が去った日から話しておらず、デジレーがついに夫のもとを離れると決意したときも、その状況は変わっていなかった。連絡手段などひとつもなく、彼女がいまどこで暮らしているのかさえわからなかった。それでも、混乱して腕にしがみついてくる娘を連れ、ユニオン駅の雑踏をかき分けて進みながら、デジレーはただただ妹に電話をしたかった。その数時間まえ、またもや言い争いをするうちに、サムはデジレーの喉元を摑んで顔面に銃を突きつけてきた。その目は、初めてキスしたときとまったく変わらず、ガラス玉のように澄んでいた。いつかサムに殺されてしまう。拘束を解かれ、息をあえがせて床に倒れ込んだあとも、デジレーの確信は揺らがなかった。その夜、デジレーは彼の隣で寝た振りをし、それから人生で2度目になる暗闇での荷造りを行なった。駅では、サムの財布から盗った現金を手に、娘の手を握り締めて切符売り場へと急いだ。呼吸が激しく乱れるせいで、腹部がきりきりと痛んでいた。
この先はどうすればいいの、と、デジレーは頭のなかでステラに訊いた。どこへ行けばいい? だがもちろん、ステラは答えてくれなかった。そしてもちろん、向かう先もひとつしかなかった。
「あとどれぐらい?」ジュードが訊いた。
「あとちょっと。もうすぐ着くから」
もうすぐ家に着く。けれど、それでどうなるというのか。玄関の階段に足をかける間もなく、母親に追い払われるかもしれない。きっとジュードをひと目見るなり、いますぐ引き返せと背後の道を指差すだろう。〝そりゃあ、その黒い男に殴られるだろうね。当然じゃないか。あてつけみたいに結婚したって、長く続くわけがないんだよ〟デジレーは身を屈めて娘を抱き上げ、自分の腰骨に座らせるようにして抱えてやった。いまではもう、立ち止まれないという理由だけで足を動かしつづけていた。マラードに戻ったのは間違いだったかもしれない。どこか知らない土地へ行って、1からやり直すべきだったのかもしれない。だが、いまさら後悔しても遅かった。川の音がすでに聞こえていた。首に抱きつく娘の体重を感じながら、そちらに向かって歩きだした。あの川が教えてくれる。あの土手に立てば、きっと道を思い出せるだろう。
ワシントンDCで、デジレー・ヴィーンは指紋鑑定技術を修得した。
それまではデジレーも、そんなものに修得すべき技術があるとは知らなかった。だが、1956年の春、ニューオーリンズのカナル・ストリートを歩いていた彼女は、パン屋の窓に連邦政府の募集チラシが貼り出されているのを見つけた。店先で足を止め、そのチラシをじっと見つめた。ステラが去ってから半年が経っていた。のろのろと、しかし絶えず滴り落ちるように、時間は過ぎていったのだ。おかしなもので、ときどきデジレーは失念した。路面電車のなかで面白いジョークを耳にしたときや、かつての友人とすれ違ったとき、ついステラに向かって「ねえ、いまの──」と話しかけようとするのだ。そしてすぐに、彼女がもういないことを思い出す。彼女に置き去りにされ、生まれて初めてひとりきりになってしまったことを。
もっとも、半年が過ぎてもまだ、デジレーは希望を捨てていなかった。ステラは電話をくれるはずだ。手紙を書いてくれるはずだ。けれど、毎晩デジレーは空っぽの郵便受けのなかを手で探ることになったし、一向に鳴らない電話機の傍らで待ちつづけねばならなかった。ステラがデジレーのいない新しい暮らしを築いているころに、デジレーは、ステラに捨てられた街で惨めな日々を送っていたのである。そこで彼女は、パン屋の窓に貼られた黄色いチラシから電話番号を書き写し、仕事が終わるとその足で、採用担当事務所に向かった。
採用官は、この都市にいい人材などいるのだろうかと疑念を抱いていたため、目の前にきちんとした若い女性が座ったことに驚いた。彼女は応募書類に目を通しはじめたが、〝有色人種〟の欄に印が入っているのを見て少し戸惑い、それから、〝出身地〟の欄をコツコツとペンで叩いた。
「マラード」彼女はつぶやくように言った。「こんな地名は初めて聞くわね」
「とても小さい町なんです」デジレーは答えた。「ここより北にあります」
「フーヴァー長官は小さい町が好きですよ。優秀な者は小さい町の出身だって、いつも言ってますから」
「だとすると」デジレーは言った。「マラードほど小さい町はないかもしれません」
ワシントンDCに移ったあと、デジレーは悲しみを埋めてしまおうと努力した。住む部屋は、指紋鑑定班で一緒に働く黒人女性の、ロバータ・トマスから借りた。実際、そこは部屋というより地下室で、窓もなく真っ暗だったが、清潔だし、何より家賃が手ごろだった。「あんまりいいとこじゃないんだけど」と、ロバータはデジレーの出勤初日に言った。「どうしても住む部屋が必要だって言うなら」その口調は歯切れが悪く、できれば断わってほしそうにも聞こえた。ロバータは3人の子育てに追われており、正直なところ、デジレーを住まわせるのは子どもがさらに増えるようなものだと感じていたのだ。それでも彼女は、たったひとりで知らない土地に来た、わずか18歳の娘を気の毒に思い、最後はその地下室を提供したのだった──シングルベッドとドレッサーと、毎晩、がたがたと騒がしい子守唄を歌うラジエーターがあるだけの部屋だったが。
ここでやり直すんだと自分に言い聞かせていても、デジレーがステラのことを思い出す回数は、以前よりむしろ増えていた。ステラならこの都市をどう思うだろう、などとつい考えてしまうからだ。ステラとの思い出から逃げるためにニューオーリンズを離れたというのに、いまだにデジレーは、寝返りを打った先に彼女の存在を感じないと熟睡できなかった。
連邦捜査局では、デジレーは指紋の分類として、弓状紋や蹄状紋や渦状紋について学んだ。橈側蹄状紋は蹄状線の開口部が親指側にあるが、それに対して、尺側蹄状紋は線の開口部が小指側にある。二重蹄状紋と有胎蹄状紋も似ているようで違う。若い人の指紋に比べると、年老いた人の指紋は加齢によって隆線が、つまり盛り上がったほうの線がすり減っていることも知った。この隆線の幅や形状、汗孔、間隔、切れ目やシワ──そういったものを見れば、デジレーは無数の人間のなかからたったひとりを特定することができるのだった。職場のデスクには毎朝、盗難車や薬莢、割られた窓、ドアノブ、ナイフなどから採取された指紋が届いた。デジレーは、あるときは反戦活動家の指紋を調べ、またあるときは、ドライアイスに覆われて帰還した、死んだ兵士たちの身元を特定した。初めてサム・ウィンストンの姿を目にしたのは、ある盗難銃から採られた指紋を調べているときだった。傍らを通り過ぎていった彼は、ラベンダー色のネクタイを締め、シルクのポケットチーフも同じ色で揃えていた。デジレーは、ネクタイの色の鮮やかさと、そんなネクタイを身につけられる、その漆黒の男の大胆さに目を見張った。その後、法律家仲間とランチをとる彼を見かけた際、デジレーはロバータの方を振り返って言った。「知らなかった。有色人種の検察官もいるんだ」
ロバータが鼻を鳴らした。「もちろんよ」彼女は言った。「ここはあんたが住んでたみたいな、南部の時代遅れの町とは違うからね」
ロバータはマラードの町を知らなかった。と言うより、セントランドリー郡を1歩出ればマラードを知っている者はひとりもいず、デジレーがサムに町のことを教えたときも、どんなところか想像もつかないという表情が返ってきた。
「冗談だろ」彼は言った。「きみみたいに色が薄い住民しかいない町?」
ある日の午後、デジレーは彼からランチに誘われた。彼はとある指紋の分析結果を訊きにきたのだが、話が済んだあともすぐには立ち去らず、デジレーがいる作業ブースの仕切りの上から身を乗り出したまま、その誘いを口にしたのだった。あとで聞いたところによると、その指紋はべつに急ぐ必要はないもので、たんに話しかけるきっかけが欲しかったということだった。そんな経緯があって、2人はいま、国立樹木園の池のほとりに座って水面を滑るカモを眺めていた。
「もっと薄い人もいるよ」デジレーはミセス・フォンテノーを思い出していた。彼女はいつも、自分の子どもたちはサワーミルク色だと自慢していた。
サムが声を立てて笑った。「それじゃあ、いつかその南の町に連れていってくれ」彼は言った。「色の薄い町とやらを、ぜひこの目で見てみなくちゃな」
だが、彼は話を合わせただけだった。サムはオハイオ州の生まれで、ヴァージニア州より南へわざわざ出かけたことは1度もなかった。彼の母親は、息子を南部の有名黒人私大であるモアハウス大学にやりたがっていたが、そうはならなかった。サムは根っからのオハイオ人として、オハイオ州立大学に進んだ。一部を除き、学生寮もいまだ人種隔離を撤廃していなかったころのことだ。サムが授業で質問すると、白人の教授たちは無視をした。毎年、冬になれば、小便をかけられて黄色くなった雪を車のフロントガラスから削り落とさねばならなかった。色の薄い女の子たちは、たとえデートをしても決して人前では彼と手を繋ごうとしなかった。彼は北部の人種差別を知っていた。それなのに、このうえ南部の差別まで経験する必要がどこにあるだろう。彼に言わせれば、かつて仲間たちは理由があって南部から脱出したのであり、彼にはその判断を疑う理由などひとつもないのだった。南部人どもに捕まったら家には帰してもらえないぞ、と、サムはいつも冗談めかして言っていた。のこのこ南に下ったら最後、綿花畑で働かされる羽目になるからな。
「マラードの町は気に入らないと思う」デジレーは言った。
「なぜ?」
「だって、向こうの人は変わってるから。つまり、人種内差別(カラー・ストラック)をする人たちなの。私が町を出たのはそのせい」
本当は、それだけが理由ではなかった。それでもデジレーは、自分は、自分の出身地の人々とは違うと彼に信じてほしかった。とにかく、真実だけは知られたくなかった──実際はただ幼かっただけで、退屈に耐えきれずに妹まで引っ張って都会へ出ていき、結局はそこで自分を見失ってしまったということは。サムはしばらく押し黙り、何か考え込んでいたが、やがてパン屑が入った袋をデジレーの方へ傾けた。彼女がカモに放ってやれるようにと、自分のサンドイッチをちぎって用意してくれたものだった。サムは女性に対してさりげない気配りができるタイプで、のちにデジレーは、彼のそういう面を愛するようになっていった。デジレーは微笑み、袋に手を差し入れた。
これまであなたのような男性とは付き合ったことがない、とサムには言ったが、本当のところ、デジレーはどんな男とも付き合ったことがなかった。そのため、どれほど些細な行動でも彼がすることにいちいち驚き、そして喜んだ。サムは白いテーブルクロスと美しい銀食器があるレストランに連れていってくれた。劇場にも招待してくれたし、それがエラ・フィッツジェラルドのコンサートだと知ったときは大いに感激した。初めて自宅に招かれた際には、独身男性がひとりで暮らす家をあちこち覗いてまわったが、きれいに整頓されたリネン類や、カラーコーディネートされた衣服や、広々とした大きなベッドにため息が漏れた。その後、ロバータの家の地下室に戻ったときには思わず泣きそうになってしまった。
もう、彼がデジレーの故郷に行きたいと口にすることはなかった。デジレーも決して誘わなかった。最初の段階で、マラードの町を嫌っていると話したからだった。
「信じられないな」サムは言った。2人は彼のベッドに横たわり、雨の音を聞いていた。
「何が信じられないの? 話したじゃない、私がどれだけ──」
「黒人はいつだって自分が生まれ育った町を愛してる」彼はそう口にした。「どんな町に生まれようと、そこは最悪な場所のはずなのに。故郷を嫌う自由があるのは白人だけなんだ」
サムが育ったのはクリーブランドの公営団地で、愛せるものがあまりなかったからこそ、彼は熱烈にその都市を愛していた。一方、デジレーにあったのは、絶えずそこから逃げ出したいと願っていた町と、たとえ帰っても歓迎してくれないはずの母親だけだった。ステラのことは、まだサムに話していなかった──マラードの町のことと同じで、理解してもらえないような気がしたのだ。だが、雨粒が鉄の非常階段を叩く音を聞くうちに、デジレーは彼の方に顔を向け、自分には、別人になろうと決めた双子の妹がいると打ち明けていた。
「そんな別人ごっこには、そのうち疲れてしまうよ」彼は言った。「馬鹿な真似をしたと気づいて慌てて帰ってくるはずだ。きみみたいに素敵な人とずっと会えないなんて、誰だって耐えられないからね」
彼はデジレーの額にキスをした。彼にきつくしがみつくと、デジレーの耳元で彼の心臓が脈を打った。そしてそれが、付き合いはじめたころの2人の姿だった。まだ彼の手が拳を振るわなかったころ。まだ彼が、デジレーに向かって〝お高くとまった黄色い女〟とか、〝妹と同じぐらいイカレてる〟とか、〝白人みたいなツラをするな〟などとわめかなかったころ。それはちょうど、デジレーが彼を信用しはじめたころでもあった。
何十年か経って、視界がかすむようになったとき、デジレーはそれをきっと、大量の指紋に目を凝らして隆線をたどった日々のせいにするだろう。彼女はある日ロバータから、近い将来、指紋分析の仕事はすべて機械がするようになるはずだと聞かされた。日本ではすでにその技術が試されていると。しかし、訓練を積んだ人間の目に機械がかなうものだろうか? デジレーは大半の人が見落とすような特徴にも気づくことができた。指紋を見れば、その持ち主の人生を読み解くことができた。訓練期間中には練習で自分の指紋を読むこともあったが、そこにある入り組んだ紋様は、デジレーが唯一無二の存在であることを教えていた。たとえばステラの左の人差し指には、ナイフで切った古い傷痕があり、そうしたたくさんの違いが2人の指紋にもあるのだった。
自分の正体というのは、ときに、そんな小さなものに集約されてしまうのだ。
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