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不快さを抱きしめ、執着を手ばなす――瞑想5日目に訪れた驚異のマインドフルネス体験!『なぜ今、仏教なのか』試し読み

なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学
ロバート・ライト/熊谷淳子訳 早川書房

2003年8月、はじめて「沈黙の瞑想」合宿に参加するためにマサチューセッツ州の郊外へ向かった。まる1週間を瞑想だけにあて、メールや、外界のニュースや、人間との会話といった気を散らすものをとり去る合宿だ。

毎日、計5時間半のすわる瞑想と、同じく5時間半の歩く瞑想をする。ほかの時間は、3度の(無言の)食事、朝の1時間の「ヨガ行法」(私の場合は廊下そうじ)、晩に指導者の「法話」を聞く。それでほぼ1日が埋まる。これは悪くない。というのも、つぶすべき暇があったとしても、従来の暇つぶしの方法は使えないからだ。テレビも、インターネットも、外界からのニュースもない。しかも、読書のために本を持ちこんだり、書きものをしたりするのも禁止されている(最後の規則はこっそりやぶった。できごとを記録しておきたかったからだ。この本を書こうと企画していたわけではないが、私はもの書きだし、ほとんど万事が将来の肥こやしになると思っている)。そしてもちろん、会話もなしだ。

この毎日の生活規制は、それほど大変そうに聞こえないかもしれない。ヨガをのぞけば、一般に活動と呼ぶようなものはないからだ。しかし、最初の2日間はかなりつらかった。みなさんはクッションの上で足を組んで、呼吸に集中してみたことがあるだろうか? けっして楽ではない。とくに私のように、呼吸に意識を集中するのが苦手な場合は。合宿のはじめのころは、45分間の瞑想時間のあいだ、一度も10回連続の呼吸に集中しつづけることなくセッションが終わることもあった。なぜわかるかというと、数えていたからだ。呼吸を3回か4回数えたところで心がさまよいはじめ、しばらくして数がわからなくなっていることに気づく。それを何度も何度もくり返す。あるいは、数えつづけてはいても、実際にはべつのことを考えて、呼吸を意識的に感じていないこともあった。

こんなことが起きるたびに自分に腹を立ててもなんの役にも立たない。腹立ちをますますつのらせながら、最初の2日間がだらだらとすぎていった。

***

突破口が開いたのは瞑想合宿5日めの朝だった。朝食のあと、持ちこんでいたインスタントコーヒーをちょっと飲みすぎた。私は瞑想を試みながら、カフェインをとりすぎたときの典型的な症状を自覚していた。あごにいやな張りがあり、歯ぎしりをしたい感覚に襲われた。この感覚のせいでなかなか集中できず、集中を乱されまいとしばらく闘ったが、最後には降参し、注意をあごの張りに移した。注意を移したというより、注意を広げたという感じかもしれない。呼吸に意識を向けつつ、それを背景に後退させ、うっとうしいあごの感覚を舞台の中央に立たせた感じだ。

ついでにいうと、このように注意を再調整するのはまったく問題ない。マインドフルネス瞑想で一般的に指導されるとおり、呼吸に集中する主眼は、ただ呼吸に集中することではない。大事なのは心を安定させることであり、いつも気をとられている対象から心を解放し、いま起こっていることを明晰に、ゆったりと、反応しないように観察できる状態に持っていくことだ。「いま起こっていること」には、いま心のなかで起こっていることも含まれる。悲しみ、不安、いらだち、安心、喜びなどの感覚が自分の内からわきあがったら、それを普段とはちがう観点から経験してみる。快い感覚に執着したり、不快な感覚から逃げだしたりするのではなく、ただありのまま経験し、観察する。この視点の転換は、感覚とのつきあい方を根本から、そして永久に変化させる入り口になりうる。すべてうまくいけば、もう感覚の奴隷にならずにすむ。

カフェインのとりすぎからくるあごの感覚に少し注意を向けたあと、突然、それまでになかった視点に立って内観しているのがわかった。こんなふうに考えたのを覚えている。「さて、歯ぎしりしたい感覚はまだあるな。いつもなら不快と決めつける感覚だ。でも、それはあごのあたりにあって、私がいる場所はそこじゃない。私がいるのはそこから遠くはなれた頭のなかだ」。あごの感覚はもう私の一部ではなくなっていた。いつのまにか感覚を客観的に眺めていた、といってもいい。一瞬のあいだ、感覚の支配から完全に切りはなされていた。不快な感覚が実際には消えていないのに不快でなくなるというのは、なんとも奇妙な体験だった。

私が最初に注意を広げて、不愉快でうっとうしいあごの感覚をとりこんだとき、それは同時にその感覚への抵抗をゆるめることでもあった。ある意味で、遠ざけておこうとしていた感覚を受け入れているような、さらには抱きしめているようなものだ。ところが、その感覚にぐっと近づいた結果、感覚とのあいだにある種の隔たりが生じ、いくらか超然とかまえることができた。一部の瞑想指導者が好んで使う言い方をすれば「執着」しなくなった。これは瞑想を通じてくり返し起こりうることだ。不快な感覚を受け入れ、さらには抱きしめることで、その感覚とのあいだに最低限必要な距離をおくことができ、最後には不快さが小さくなる。

私自身、ひどく悲しい気持ちになったとき、ときどきやっていることがある。一度も瞑想をしたことがない人も気軽にためせることだ。腰をおろし、目を閉じ、悲しみを詳しく調べる。悲しみがあることを受け入れ、それが自分をどんな気持ちにするかただ観察する。たとえば、おもしろいことに、実際に泣きだしそうになっていなくても、泣きはじめたら活性化するだろう目のあたりに、悲しみの感覚が強い存在感を示しているのがわかる。私も悲しみについて瞑想してみてはじめて気づいた。このように悲しみを注意深く観察し、それをある意味で受け入れることは、経験からいって、その不快感をやわらげてくれる。

ここで根本的な疑問がわく。その感覚を不快に感じたときと、不快さがおさまって、その感覚が事実上、中和されたときの、どちらの感じ方が「真実」なのだろう。

この疑問は、カフェインのとりすぎや憂鬱を乗りこえたという私のちょっとしたエピソードだけにとどまらない。恐れ、不安、憎しみ、自己嫌悪など、原則としてすべての負の感覚にあてはまる。私たちの負の感覚が──少なくともその多くが──じつは錯覚にすぎず、ある特定の観点から静かに思いをめぐらせるだけで追い払うことができるとしたらどうだろう。

いちばん手を焼く感覚の多くがなんらかの意味で錯覚でしかないと割りきって考えるなら、瞑想はまさに錯覚を追い払うプロセスと見ることができる。

(『なぜ今、仏教なのか』より)

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