そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第30章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日は第30章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

30

 勝間田の白いギャランは、その駐車場のほぼ中央の暗がりに停まっていた。錦織警部のセドリックの窓から三十メートル位の距離で、ギャランの運転席が見えた。勝間田は室内灯を消していたが、二本目のタバコの火がかすかに聞こえて来るカー・ステレオのロックのリズムに合わせて揺れていた。
 新宿署で田島主任の覆面パトカーに乗って甲州街道に出たとき、勝間田が井ノ頭通りをそれて方南町へ向かっているという無線が入った。パトカーは副都心を一周するような形で栄町通りに入り、方南町へ向かった。栄町公園の近くまで来たとき、勝間田が方南町の交差点を通過したという連絡が入ったので、こっちは中野通りとの交差点にある交番の前で待機した。三分後、私たちの眼の前を勝間田のギャランと錦織のセドリックが相次いで左折し、中野通りを北へ向かった。その五分後に、勝間田は弥生町六丁目にある〈富士見ハイ・レジデンス〉という七階建マンションのそばにある駐車場にギャランを停めたのだった。
 勝間田が葛城りゑ子と名乗る女に会うつもりなら、彼女の顔を見分けられる者がギャランの見える監視位置につくべきだという私の意見を、錦織はしぶしぶ受け入れた。駐車場のフェンスの外側の路上に停めた錦織のセドリックに私が移動し、田島主任のパトカーと新宿署から急行して来たもう一台のパトカーが駐車場の二つの出入口をカバーしてから、すでに三十分が経過していた。
 助手席の錦織と後部座席の私がギャランの監視を続けた。運転席では三十代半ばの沼田という無口な刑事が、いつでも車を出せる態勢を取っていた。無線の呼出し音が鳴って、錦織が応答した。
「中野署の渥美部長刑事です」と、無線の声が言った。「まだ、動きはありませんか」
「いや、ない」
「問い合せの件ですが、不動産屋の尻を叩いて、やっとその駐車場の借り主の調べがつきました。ずばりギャランの停まっている9番の借り主が桂木利江という名前です。ただし、桂の木に、名前は利益の利に江戸の江ですが、葛城りゑ子と同一人と見て間違いないでしょう」
「桂木利江か。その女の住所は?」
「弥生町六の二〇、富士見ハイ・レジデンスの三一二号室です。そのマンションも駐車場と同じ不動産屋の経営で、駐車場のすぐそばにあるはずですが」
「ああ、眼の前に見える。女の勤務先は分かるか」
「いいえ。例の三井物産、総務部秘書課というのが棒線で消してあって、無職となっています」
「女の部屋に電話はあるかね?」
「あります」
「よし、すぐかけてみてくれ。誰かが出た場合の対応は分かっているな」錦織は念を押した。
「ええ。ちょっと待って下さい」と、渥美は言って、無線を切った。
 そのとき、勝間田がドアを開けて車の外へ出た。
「見ろ」と、私は言った。助手席の錦織が無線のスイッチを入れて「勝間田が動くぞ」と言うのが聞こえた。勝間田は背中を伸ばすような仕種を二、三度繰り返し、タバコを捨てて足で踏み消し、富士見ハイ・レジデンスの三階あたりを一瞥しただけで、寒そうに身を縮めて車に戻った。
「くそッ、何でもない。やつは車に戻った」と、錦織が言った。
 呼出し音が鳴った。「渥美です。電話には誰も出ません」
「諒解」と、錦織は応えた。「今夜は長期戦になりそうだな。しかし、少なくともあのホスト野郎がどこかの有閑マダムとデートするのに付き合わされる恐れだけはなくなった」
 だが、またすぐに呼出し音が鳴った。「田島です。今、女一名が乗った白いギャラン・シグマが駐車場に入りました。すぐにそちらへ行きます」
「分かった。いつでも飛び出せるようにしておけ」と、錦織が口早やに言った。
 まもなく、勝間田のギャランと全く同型同色の車が視界に入って来て、勝間田の車の後部にぶつかりそうになりながら急停車した。同時に二台のギャランのドアが開いて、勝間田と女が外へ飛び出した。女が勝間田に駈け寄って「あんた、どうしてこんな所にいるの!」と詰るのが聞こえた。
 私は錦織を振り返った。「映画館の女に間違いない」
「全車発進。予定通りにやれ」と、錦織が無線で言った。セドリックもスタートし、駐車場のフェンス沿いに迂回して、正面入口から現場へ急行した。田島主任の覆面パトカーの後ろにセドリックを着け、錦織と私が二台のギャランのそばに駈けつけると、桂木利江と勝間田は田島ら四名の刑事に取り囲まれて呆然と突っ立っていた。勝間田のカー・ステレオが〝It痴 been a hard day痴 night……〟と、歌っていた。
「勝間田、おまえを公務執行妨害で逮捕する」と、錦織が逮捕状を提示して言った。「腕のいい弁護士を雇わないと、誘拐罪の幇助やこの女に対する恐喝未遂も引っかぶることになるぞ。だが、この女の勤務先か最近出入りをしていた場所を知っているなら、吐いたほうがいい。おまえの罪をぐっと軽くしてやれる」
「ぼ、ぼく、知ってますよ。たぶん、彼女を尾行したときに何度か行ったところだ」と、勝間田が慌てて叫んだ。「あれは確か、東中野の──」
「よし、田島主任。こいつを連行して、知っていることを洗いざらい訊き出してくれ。それから、あの騒音を切ってしまえ」
 私は桂木利江の正面に立ち、ロック音楽が消えるのを待ってから言った。「佐伯氏が監禁されている場所をきみの口から聞かせてもらえば、むだが省ける」
 彼女は連行される勝間田を眼で追いながら訊いた。「一体どうして、あの男のことが分かったの?」
「きみは私の事務所から逃げたあと、勝間田の車に戻るところを目撃された」
 彼女は納得した。昼間と同じ赤茶色の革のハーフコートにジーンズ姿だったが、急に寒気がしたように両手をコートのポケットに突っ込んだ。
「曽根善衛は今夜にも指名手配されるだろう」と、私は言った。錦織が付け加えた。「野間徹郎が血迷って佐伯直樹を始末しようなどと考えると、あんたも婆さんになるまでシャバの空気は吸えなくなるぞ」
 桂木利江は唇を噛んで、マンションの自分の部屋のあたりを見上げた。「もう、みんな正体がバレているのね」
 錦織が彼女のギャランに首を突っ込み、黒いショルダーバッグを取り出して、ドアを締めた。
「曽根善衛の一攫千金の夢は終わったよ」と、私は言った。
 桂木利江は快適で安楽な自分の住処を思い切るようにマンションに背を向けた。「案内するわ」

 真夜中の十二時になるところだった。錦織警部のセドリックのフロントガラスから見える街並みは、夜と昼の違いはあっても佐伯が写した写真の街並みと同じだった。曽根善衛と長谷川秘書のBMWが写っていた写真の、背景だ。東中野駅の東口から大久保通りに出る途中に、〈中野YSビル〉はあった。錦織は佐伯直樹の救出を最優先にし、新宿署と中野署から若干の応援を呼んだだけで、曽根の根拠地を急襲することにした。今回は、曽根と野間の顔を知っている者をYSビルへの踏み込みに同行させるべきだという私の意見は無視された。警察はすでに二人の顔写真を入手していた。それでなくとも、こういう危険をともなう活動に一般人を参加させるはずはなかった。私はそのビルから二十メートルほど離れた路上のセドリックに、運転席の沼田刑事や手錠を掛けられて後部座席におとなしくしている桂木利江と一緒に残されたのだった。
 桂木利江から訊き出したビル内部の情報をもとに、彼女が所持していた正面と裏口の合鍵を使って、錦織と田島の率いる二班、総勢九名の刑事が十二時を合図にビルに踏み込む手筈になっていた。彼女の話では、ビルの一階は曽根善衛の内縁の妻が経営している〈ティファニー〉という名前の女性服飾品の店舗だった。二階の貸事務所は都知事選の少し前から彼らの作戦本部となり、三階の曽根夫婦の住居に野間徹郎と溝口敬子母子も同居しているらしかった。野間は曽根の細君の甥だった。問題の佐伯直樹は、一階の店舗の背後にある倉庫から昇降できる小さな地下室に閉じ込められているということだった。
 十二時を三十秒過ぎたとき、ビルの二階の通りに面した窓に明かりがつき、かすかに人の声や物音が聞こえた。私はフロントガラス越しに、二階、三階、屋上と眼を移した。一瞬のことだったが、屋上の建物の上端に外灯に照らされた野間徹郎の横顔が浮かんで、すっと消えた。ビルの周囲は四、五名の制服警官が監視しているはずだが、あまり接近し過ぎていて今の野間の行動は彼らの視界に入ってはいまい。私はセドリックの助手席から降りると、コートを脱いで座席にほうった。私の見たものを見なかった沼田刑事が、車を出てはいけない、車に戻れと制止した。私は聞かなかった。
 商店街のシャッターに背を寄せて、私はYSビルに接近して行った。ビルの手前の路地に入ろうとする直前に、制服警官のひとりに呼び止められた。「どうしました? 何か異常でもありましたか?」
 中野署から来た応援の警官で、錦織に到着の報告をしに来たときに私を見ていたので、新宿署の刑事と思っているらしかった。
「いや、念のためにビルの屋上からの逃亡をカバーする」と言い残して、私はすばやく路地に駈け込んだ。幅一メートル余の路地は薄暗かったが、用心のためにコンクリートの壁に背中を預け、上を見上げて進んだ。路地を隔てた隣りのビルは五、六階もあるので、ここから逃げることはできない。そのビルの白い壁に、YSビルの屋上のへりの線が水平な影を作っていた。また、ほんの一瞬だが、その線上に頭の影が出て消えた。野間は屋上をビルの裏手へ移動している。私は路地の終わる角まで移動して、ビルの裏の様子をうかがった。幅約三メートル以上の裏道を隔てて、病院のような白っぽい建物の裏と背中合わせになっていた。鳥のように飛べない限り、野間はこの方向にも脱出できない。残るはビルの右隣りだけだ。ビルの裏口に田島の覆面パトカーが停まっているのが見えた。私は路地の角を出て、無人のパトカーに近づいた。ビルの裏口のドアが半開きになっていて、その奥から第二班の踏み込みの物音や人声が聞こえた。ビルの裏口を過ぎ、反対側の路地口まで進んで、私は上を見上げた。隣りのビルはYSビルとほぼ同じ高さの三階建で、距離は一メートル半だった。野間の脱出路はここしかない。私は第二班の警官に応援を求めることを考えた。だが、隣りのビルの居住者が不明なので、へたに騒いで野間が人質を取るようなことになる前に、彼に手が届く位置に近づきたかった。そのとき、頭の上で人が走るような音がしたかと思うと、いきなり黒い影が二つのビルの空間を飛んだ。私は急いで隣りのビルの背後にまわった。かなり年季の入ったアパートメント・ビルで、奥の角に狭い裏階段があった。表通りに面したほうにも階段があるだろうが、野間がそっちの階段を降りれば、配備されている制服警官の眼を逃れることはできないはずだ。私は足音を立てないように注意して、裏階段を三階まで昇った。三階から屋上に上がる階段はさらに狭く、その上に錆びたスチール・ドアがあった。階段に一歩足を掛けたとき、そのスチール・ドアの把手をまわす音が聞こえた。私は足音を殺して階段の上の半間四方の踊り場まで上がった。再び、誰かがドアの向こうから把手をまわし、ドアを引き開けようとした。開くはずがなかった。子供の手が届かない高さに取り付けた閂式のロックが掛けてあり、その横に〝危険。開け放しにしないこと〟という貼り紙があった。もう一度、ドアを開けようとする空しい試みがなされたが、やがて静かになった。私はさらに十秒待って、音を立てないようにそっとドアの閂をはずした。把手をゆっくりとまわし、ドアを全力で押し開けると同時に屋上に飛び出した。
 薄暗い屋上で、最初に眼に入ったのはドアに激しく尻を突きとばされて、前のめりになった男の姿だった。彼はドアに背を向けてしゃがみ込んでいたのだ。だが、そのあとは非常に機敏だった。そのまま二回前転を繰り返してこっちを振り向き、低い姿勢で身構えた。野間徹郎はトレーナーにジーンズという姿だったが、昼間着ていた濃紺のピーコートを丸めて持っていた。そいつが問題だった。
「やっぱりおまえか」と、野間が囁くように言って、口許に薄笑いを浮かべた。私は上衣のボタンをはずして一歩前に踏み出した。彼がピーコートのポケットに手を突っ込むのと、私が飛びかかるのがほとんど同時だった。私は彼の右手にまつわりついているピーコートを押さえ込むようにして、彼の胸に肩で体当たりした。彼は後ろへ二、三歩よろめきながらも、ポケットの中の右手で目当てのものを掴んだようだった。いきなりポケットの生地を突き破って飛び出したアイスピックの尖端が、私の左眼に数センチのところに迫った。私は掴んでいたピーコートを横に払うように引いて、かろうじてアイスピックから逃れた。そのまま、横向きになった野間の脇腹を右膝で一撃した。彼はうっと呻いて背を丸めたが、次ぎの瞬間渾身の力でアイスピックを私の心臓めがけて突き出した。彼のコートを掴んでいなかったら、アイスピックは私の胸部のどこかに突き刺さっていたに違いない。私は必死の思いで掴んだコートを左上方に突き上げた。左肩の少し下を激痛が走ったが、アイスピックは私の身体の外にあった。私は足払いを掛けて野間を転倒させると、コートを放してバック・ステップした。起き上がろうとして持ち上げた野間の頭が恰好の位置にあり、私は彼の側頭部をラグビーのプレースキック並みに蹴り上げた。野間は一回転してうつ伏せになったまま、ぴくりとも動かなくなった。あごの下に手を当てて、彼が気絶しているだけであることを確かめた。
 私は左腕の上膊部の傷を押さえて、ビルの屋上を表通りに面しているところまで行った。下の通りにいる制服警官に声をかけて、錦織警部に野間徹郎がこの屋上にいると伝えてくれと怒鳴った。それから、吐き気に襲われてその場にしゃがみ込んだ。

 田島主任に応急の止血処置をしてもらい、錦織のセドリックに向かう途中で、私は護送車に乗せられる曽根善衛と擦れ違った。パジャマの上にコートを着て、帽子をかぶっていない曽根はどこにでもいる初老の小男にすぎなかった。
「私の年になってから、手に入れられた大金を放棄した自分を馬鹿なやつだと思うよ」と、彼が私に言った。負け惜しみではなく、私に同情しているような顔つきだった。私はうなずいただけで反論せずに、護送車を離れた。すでにこの年でも、自分を馬鹿だと思うネタには不自由していない。
 私がセドリックに乗り込むと、沼田刑事は屋根の上のサイレンを鳴らして車をスタートさせた。錦織は助手席にいて、後部座席には桂木利江ではなく、無精ひげの伸びた青年が坐っていた。初対面の佐伯直樹は、写真に較べると少しやつれて顔色が悪かった。オリーブ色のスポーツシャツは垢染みており、茶のコーデュロイの上衣とズボンはしわだらけだった。しきりにさすっている右の手首の赤い擦り傷は、手錠の痕だと思われた。
「紹介しておく」と、錦織が佐伯に言った。「渡辺探偵事務所の沢崎だ……もっとも、きみにこの男を紹介するのは、これで二度目だ」
 佐伯は私の顔を見て、弱々しく頭を下げ、口の中で「どうも」とつぶやいた。私は上衣のポケットから手帳を出し、それに挟んでいた佐伯のスナップ写真を取って、本人に渡した。彼はしばらくその写真を見つめていたが、ようやく彼の疲れた顔に疑問が浮かび、その疑問がこの男に多少の活力を注いだように見えた。
「奥さんから預かった写真です」と、私は言った。「失踪者を捜す場合は、こういう写真を十人に見せ、二十人に見せ、ときには五十人に見せてもうまくいかないものだが、今回はまだ誰にも見せないうちにあなたを捜し当てたようだ」
「名緒子があなたを? 沢崎さんと言われましたか」佐伯は錦織を見て、私に視線を戻した。「でも、どうして名緒子があなたを……」
「中野のマンションの卓上メモに、警部から聞いた私の事務所と電話番号を書きとめたことは憶えていますか」
 彼は眼を細くして記憶をたどった。そして、ゆっくりとうなずいた。「ぼくはそうすると……自分では雇わなかった探偵さんに助けてもらった、運のいい男らしい」
 佐伯直樹は無意識に自分の写真をよれよれの上衣のポケットにしまうと、手首の擦り傷をさすった。私はポケットを探ってタバコを取り出した。アイスピック男のせいで、パッケージがぺちゃんこにつぶれていた。

次章へつづく

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