そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第29章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日は第29章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

29

 私は環八通りのドライブインに車を停めて、遅い晩飯を食った。注文した食事が届く前に、更科修蔵に電話をかけた。例によって本人が電話口に出るまでにしばらく待たされた。私は現時点の調査状況を差し障りのない範囲で説明してから、気になっている質問をした。
「佐伯氏が韮塚弁護士を通じてお嬢さんとの離婚や慰謝料の件を通達してきたのは、電話だったのですか、それとも手紙などによるものでしたか」
「電話でした」と、更科氏は即座に答えた。
「すると、それは韮塚弁護士がそう言っているだけで、佐伯氏はそんな通達など一切していないということはありえませんか」
「いや、そんなことは考えられません」
「では、佐伯氏からの電話の内容を、韮塚弁護士が故意に歪めている可能性は?」
「いや、それもありえません」
「どうして、そう言い切れるのです?」
 更科氏は数秒ためらってから言った。「そのときの電話の録音があるのです。韮塚弁護士は自分宛ての電話はすべて録音しているらしい。理由は解りませんが、彼の仕事ではそういう必要もあるのでしょう。私はそのテープを聞いています。ですから、佐伯君の要求は正しく私たちに伝わっているのです……ただ、この録音テープのことは名緒子には知らせていません。夫と弁護士のそういう会話は、聞いてあまり愉快なものではありませんから」
「そうでしたか」と、私は言った。佐伯直樹がこういう問題で韮塚のような男の手を借りようとするからには、何か特別な理由があるとしか思えなかった。
「そのテープを聞かせてもらえますか」と、私は訊いた。
「ええ……必要とあれば。韮塚君は一時間ばかり前にここを出ましたから、もう自宅に戻っているはずです。すぐに手配するように伝えますから、時間をおいて彼のほうへ電話を入れて下さい」更科氏は韮塚の自宅の電話番号を教えてから、付け加えた。「沢崎さん。できれば、そういうテープがあることは名緒子には内緒にしておいていただきたいのですが」
 私は必要がない限り希望通りにすると約束して、電話を切った。十五分で食事をすませて、韮塚の自宅のダイヤルをまわした。待ち構えていたように受話器が取られた。
「探偵さんかね」と、韮塚が棘のある声で言った。「例の録音テープは自由が丘の事務所に置いてある。明日の朝、事務所に連絡したまえ」非常に機嫌を損ねているようだった。
「一時間後に電話を入れる」と、私は言った。「電話口で録音テープを再生してもらいたい」
「これからか? 何を言ってるんだ。もう、九時になるところだぞ。私は着替えをすませて、酒を飲んでいる」
「申しわけない。どうしても今日のうちに聞いておきたい」
「要するに、私を信用できないという態度だな。あのテープは更科氏もお聞きになっている。探偵などがとやかく言うべきことではないのだ」
「私ひとりでは聴衆が足りないなら、私の依頼人を誘ってもいい。そんな録音テープがあることを知ったら、佐伯夫人も聞きたがるに違いない」
 韮塚はしばらく黙り込んでから、吐き棄てるように言った。「十時過ぎに、事務所に電話してくれ」
 九時半に、私は事務所に戻った。ストーブをつける前に電話応答サービスのダイヤルをまわした。ハスキー・ヴォイスのオペレーター嬢が出て、五時と八時にアルファベットの〝X氏〟から電話があった、と言った。「八時の分はわたしが受けたんですけど、たぶん昨日うちのシステムや料金だけ訊いて、あとでかけ直すと言った人と同じ声だったと思うわ」
「そうだろう。何か伝言は?」
「〝こんなに留守ばかりしていて、問題の人物との接触のチャンスがあるのか〟、以上です」
「分かった。ほかには?」
「九時にサエキナオコ様から、〝何時になっても構いませんから、連絡を下さい〟、以上です。昨晩はサエキナオキの代理という人の伝言があったようだけど、ナオキとナオコって、双子の兄妹かしら?」
「いや、夫婦だ。漢字で書けば赤の他人だということが分かる」
「夫婦だったら赤の他人じゃありませんよ」
「離婚届の用紙が二人の間をひらひらしていても、かね?」
「ええ。たとえ離婚しても、夫婦だった相手とは赤の他人じゃないはずだわ……違う?」
「きみの言う通りかも知れん」ご亭主によろしくと言って、私は電話を切った。
 ストーブに火をつけ、その火でタバコにも火をつけた。デスクに戻って、佐伯名緒子の久我山の家に電話を入れた。新宿駅で彼女と別れたあとのこと──帽子と口ひげの男との映画館での会談、錦織警部らの警察の捜査が始まったこと、神谷会長と向坂知事兄弟を訪問したことなどを、手短かに報告した。彼女は佐伯のマークⅡが発見されたという連絡を受けたと言った。さらに、帽子と口ひげの東神電鉄の元重役は〝曽根善衛〟という名前であることを教えてくれた。彼女たちの結婚式の招待者リストを見て、名前を思い出したそうだった。リストに記載されていた三年前の住所も控えていたが、それはたぶん役に立たないだろう。彼女は、何時でも構わないから何か進展があったら連絡を下さいと言って、電話を切った。
 彼女の声には何かが迫っていることを感じているような響きがあった。女の直感に較べたら、探偵の判断など風邪をひいた猟犬の鼻に等しかった。
 海部雅美の調布のバーに電話を入れた。〝海部氏〟からの連絡は入っていなかった。少なくとも、彼女はそう答えた。私は、彼の〝失われた過去〟の判明しつつある部分を伝えた。彼女は思ったより平静に私の話を受けとめた。たぶん、もっと悪い事態を覚悟しながら四カ月間を生きてきたに違いない。最後に、佐伯の捜索のために警察の手を借りる必要があって、結果として彼女にも警察の監視がついたことを話さなければならなかった。
「どうしてそんなことを! 約束が違うわ」と、彼女は悲鳴に近い声で言った。
「約束は破っていない。しかし、非難はもっともだ。弁解にしか聞こえんだろうが、彼はたぶん警察の保護下に入ったほうが安全だと思われる」限られた生命に安全であることが意味があるとすれば、だが。
「彼に生きていられては困る人間がいるということね」
「そういうことだ。それに、彼はたぶん警察の網には掛からないだろう」
「たぶん、たぶん、たぶんしか言うことはないの? わたしは、たぶんあなたに感謝すべきなのね」彼女は電話を切った。
 十時を過ぎてから、韮塚の事務所に電話を入れた。韮塚は不機嫌さをむき出しにした応対で、すぐに録音テープの再生に取りかかった。一、二度音量をテストしたあと、問題の電話の録音が受話器を通して流れて来た。私はタバコを消して、二人の男の会話に耳を傾けた。
 初めて聴く佐伯直樹の声は、自信はあるが自足していない三十才の青年らしい、傲慢さと謙虚さの混じり合ったしかつめらしい声だった。佐伯と韮塚は、お互いに好意を持っていない者同士のぎごちない挨拶を交わした。
《それで、珍しく私に電話してきたのは、一体どういう風の吹き回しかな。用件を聞こう》と、韮塚が言った。
《更科家のお抱え弁護士としてのあなたに用があるんですよ。明日の夜九時に、ぼくは田園調布の更科邸に行きます。名緒子との離婚届を持参します。ぼくの印鑑はすでに押してある。そこで、名緒子にも離婚に同意させて印鑑を押させる。あとは、専門家のあなたにお願いすればいいでしょう? 慰謝料は五千万円──その旨、名緒子に通達していただきたい。必要とあれば、あなたの雇い主の更科氏や更科夫人に同席していただいても構わない。もちろん、皆さんがお忙しければ、ぼくとしては名緒子の印鑑さえあれば別に問題はない──そういう次第です。よろしくお願いしますよ》
《ちょっと待ちたまえ! きみは正気なのか。自分が一体何を言っているのか解っているのかね?》
《そのつもりですが》
《慰謝料だって! 馬鹿なことを言うんじゃないよ。名緒子さんにさんざん苦労をかけ、つらい思いをさせているのは、きみのほうじゃないか。慰謝料はきみが払ってしかるべきなのだ。それを、更科家の財産をいいことに何という厚かましい要求を──》
《韮塚さん。ぼくはあなたに家庭裁判所の裁判官になってもらいたいわけではない。ただ、ぼくの意向を名緒子に伝えてくれればそれでいいのです》
《きみはこんなでたらめな話が通ると思っているのか。更科氏や夫人がこんなことを承知されるはずがない》
《お二人の同意など必要ない。ぼくの意向を伝えてもらえば、名緒子は離婚に同意するはずだ。自惚れで言うわけではないが、名緒子がぼくとの離婚に反対していることはあなたもご存知でしょう。しかし、これで彼女もふっ切れるはずです……名緒子が独身に戻れば、あなたも何かと都合がいいはずだが》
《失敬なことを言うな! きみという人間が今日こそよく判ったよ。名緒子さんは、一日も早くきみのような男から遠ざかるべきだ。よし、いいだろう。喜んできみのお役に立とうじゃないか》
《韮塚さん。あなたはかかって来る電話はすべて録音を取ると話していられるのを以前に聞いたことがあるが、この電話も……?》
《もちろん、録音してある。いまさら前言を取り消すといっても、後の祭りさ。いずれ、きみを手ぶらで更科家から叩き出してやる。楽しみにしていたまえ》
《そうしよう。では、明日の夜、九時に》
《ちょっと待ちたまえ。今日の明日では名緒子さんや彼女のご両親に連絡がつくとは限ら──》電話が切れるような音がした。《もしもし、きみ! 佐伯君。もしもし……》
 テープレコーダーを止める音がして、韮塚の生の声がした。「録音はこれだけだ。私に対するあらぬ疑いは晴れたかね」
「わざわざ事務所まで出てもらっただけのことはあった」
「フン、負け惜しみを言うんじゃないよ。大体こういうプライベートな電話を聞きたがるのは、あんたが単なるのぞき屋にすぎない証拠だ。聞いての通りのろくでもない男を、名緒子さんの前に連れ戻す仕事がいかに意味のないものか、あんたにも解ったはずだ。今からでも遅くはない、その薄汚れた手を引っこめるつもりがあるなら、名緒子さんの払う探偵料の倍の額を、更科氏から支払っていただくように計らってもいいがね。いや、何ならそれくらい私がくれてやってもいい」
「あんたは経理弁護士としてはよほど有能なのだろうな?」
「むろん、そうだが……それはどういう意味だ?」
 私は電話を切った。途端に、電話のベルが鳴った。私はすぐに受話器を取った。
「沢崎か。おれだ」と、錦織警部が怒鳴った。「十分ばかり前に電話したが、話し中だったぞ」
「依頼人と話していたのだ」
「向坂知事との会談はどうだった?」
 私は要点だけを話した。錦織が関心を示したのは、向坂晃司が〝海部氏〟の写真を見て、知っている男だとも知らない男だとも言明しなかったこと、銀座のマダム溝口敬子の愛人、野間徹郎が映画館のアイスピック男であること、副知事の榊原誠が、狙撃者を押さえた場合は警察に引き渡す前に自分に連絡してほしいと申し出たこと──その三つだった。榊原の名前を聞いたとき、彼は大きな声で「あの政治屋め」と罵った。電話口がやけに騒々しいのは、走っているパトカーの中から電話をしているせいらしかった。
「こっちも知らせることがある」と、錦織が声を張り上げて言った。「都知事狙撃の容疑者である問題の男の身許が判った。諏訪雅之──諏訪湖の諏訪に、森雅之の雅之だ。三十八才、東京都出身、ジャズ・ピアニスト、元射撃選手権者、昭和五十五年から五十九年までニューヨーク在住、アメリカ人女性アイリーン・グレスと結婚して二児があるが、今年七月離婚──こいつに間違いないか」
「身体的特徴は?」
「ああ、一致する。身長百七十六センチ、右手人差し指が第二関節から欠損」
「諏訪雅之……か」やっと彼の本名が判ったのだ。
「七、八年前の写真と佐伯の撮った写真を較べてみたが、まず同一人物のようだな。それから、鑑識の報告によると、写真に写っていたBMWのナンバーと、東神本社の秘書課に勤務する長谷川靖彦、四十一才の車の登録ナンバーは一致するそうだ。だが、長谷川の監視は失敗した。うちの署の刑事が四時過ぎに東神本社に着いたときは、長谷川はすでに退社したあとだった。彼のBMWは手配済みだ。それから、元東神電鉄重役でこの五年間に停年・病気以外の理由で退職した者は一人しかいなかった」
「曽根善衛か。依頼人が名前を思い出した」
「そうだ。しかし、現住所は不明。どうも故意にそうしている形跡があるようだ」
「海部雅美のほうはどうだ?」と、私は訊いた。
「そっちは大丈夫だ。彼女は現在、調布の自分のバーに出ている。うちの署の刑事と調布署の応援が張っているが、今のところ変わった動きは何もない」
 私は錦織の話の先を待った。こんな報告だけのために、走行中の車からわざわざ二度も電話をかけるはずがなかった。
「沢崎……」と、錦織が言った。いつもの嘲るような口調ではなくて、めずらしく何か言い出しかねているような様子だった。私は黙ったままで待った。
「よし、仕方がない。今すぐに事務所を出て、新宿署の駐車場で待機している田島主任のパトカーに合流しろ」
「どういうことだ?」と、私は訊いた。
「うるさい。いいから言う通りにしろ。だが、おとなしくしてろよ。いいな」
「そのパトカーはどこへ行く?」私は立ち上がり、デスクの横にまわってストーブの火を消した。
「勝間田に訊いてくれ。どこへ行くのか、おれにもまだ判らん。やつは二十分前に吉祥寺の〈ファブリス〉を抜け出した。例のギャラン・シグマに乗って、井ノ頭通りを東に向かっている。おれの二十メートル先をな。興味があるなら、田島のパトカーに乗って、彼の指示に従え」
 私は電話を切って、三秒後には事務所を走り出た。

次章へつづく

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