そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第33章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日は第33章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

33

 私はジョルジュ・ルオーの油彩の絵を眺めていた。それは更科邸の客間の磨き上げられた欅の壁に掛かっていた。火曜日に初めて訪問したとき、更科氏がこのうちに一点だけあると言った美術品だった。
 白い長衣のようなものをまとった二人の人間が、遠近法で三角形に見える道だか川だかはっきりしない所に、一人は立ち一人は坐っている。全体に黄色と茶色を基調に分厚く塗られた絵の具は、特徴的な黒い輪郭を埋めてしまうほどである。天空の白っぽい月と、不吉な風のようにさっと掃いた緑の絵の具が不思議なコントラストをなしている。画家の眼には、月の光だけで夜がこんなにも明瞭に浮かび上がるものらしい。こういうものの値段は見当もつかないが、この大邸宅にしてはむしろ質素な装飾という印象だった。
 火曜日にも見かけた和服姿の中年の女性が、小客間へ案内しますと言って、この部屋に通してくれたのだ。十人以上の客を楽に収容できるような広さの優雅な洋室だった。大客間ではバスケット・ボールの試合ができるに違いない。私は壁の油絵から一番遠いソファに腰をおろして、タバコに火をつけた。大きな黒檀のテーブルの上には、ブロンズの彫刻と間違えそうな灰皿が置かれていたし、どこにも〝禁煙〟の表示はなかった。名画を前に一服する気分は格別だった。
 その日私が事務所に出たのは、すでに午後五時に近い頃だった。電話応答サービスへの伝言は、昨夜の神谷惣一郎からの電話を最後にぴたりと途絶えていた。ブルーバードで新宿署へ出頭し、昨日の供述書に眼を通して署名した。錦織警部との立ち話で、依然として諏訪雅之・海部雅美の足取りは掴めていないことを知った。それから〈世田谷医療センター〉へまわった。神谷会長が収容されている四階の外科へは近づけなかったが、食事から戻って来た田島主任に会って、被疑者はいまだに意識不明であると聞いた。病院の玄関で、更科修蔵氏とばったり出会った。私たちはエレベーターのそばの喫煙所で少し話をした。更科氏は、神谷会長に付き添っている娘の名緒子──といっても、病室の外に待機しているだけらしい──を、離婚の手続きをする予定の九時に間に合うように、少し余裕をもって迎えに来たのだと言った。私は今度の事件のことで二、三疑問な点があるので、手続きがすんだ後で皆さんにお会いしたいと頼んだ。お嬢さんの許可はすでに得ていると付け加えた。更科氏はすぐに諒承してくれた。エレベーターに乗る彼を見送ったあと、私はロビーの電話で韮塚弁護士に連絡を取った。彼との会話は不可避的に不愉快なものになったが、結局は例の録音テープに関する私の要請を聞き容れてくれた。彼の好奇心がそうさせただけのことなのだが。私は夕食をすませたあと、田園調布の更科邸へブルーバードを走らせ、九時に表門のインターフォンのボタンを押したのだった。
 離婚に必要な時間はわずか十三分にすぎなかった。タバコの火を消そうとしていると、和服の女性が更科氏の書斎に通じていると教えてくれた欅のドアが開いた。更科夫妻と佐伯名緒子──あるいは、もはや更科名緒子と呼ぶべきか──が部屋に入って来た。離婚したばかりの依頼人は、今朝早く病院の駐車場で別れたときに較べると別人の観があった。最初に会ったときとは色違いの、ベージュのニットのアンサンブルを着ていた。韮塚弁護士がそれに続き、佐伯直樹と仰木弁護士が話しながら少し遅れて入って来た。佐伯も昨夜のやつれた様子は薄らいで、写真で見た彼本来の意志の強そうな風貌を取り戻していた。散髪をしひげを剃り、紺色のブレザーに清潔な白のスポーツシャツ姿だった。仰木と韮塚の双子の弁護士を一緒に見るのは初めてだった。あまりにも服装や身の回りの物がかけ離れているので、唯一かつ完全な共通点である顔かたちがいっそう際立って見えた。私の左に更科氏、向かいに頼子夫人、右隣りに仰木と韮塚、夫人の隣りに名緒子と佐伯が坐った。
「沢崎さん、でしたわね」と、頼子夫人が不機嫌な声で言った。「わたくしたち、今夜は──」そこでわざとらしい溜め息をつき、仰木弁護士を見やった。
 仰木があとを受けた。「皆さんは今夜はかなりお疲れになっているんだよ、探偵さん。せっかく来ていただいたのに申しわけないが、用件はなるべく簡潔にすませてもらいたい」
「そのつもりです」と、私は言った。「佐伯さんに、監禁されるまでの経緯をお訊きしたいのだが」
「どうぞ」と、佐伯は答えた。
「あなたは、曽根善衛が東神電鉄の元重役だということをご存知でしたか」
「いいえ。彼はぼくたちの結婚披露宴に出席していたそうですが、まったく憶えていませんでした。ぼくは原稿を書くときのペンネームで彼らと接触していたのですが、向こうは最初からぼくの正体を知っていた。それさえ判っていたら、ぼくもあんなに簡単に誘拐されるようなことはなかったのですが」
「一億円を要求したのはいつだったか、憶えていますか」
「ええ。監禁される二日前ですから、先週の火曜日の昼です。〈中野YSビル〉のそばの公衆電話で曽根にそれを通告し、彼の動きを見張っていると、見憶えのあるBMWが現われた。曽根と話している運転席の男が長谷川秘書だと分かったときは、正直驚きました」
「では、彼らの返事をもらったのはいつでした」
「その日の夕方です。曽根は金額については何も文句は言わなかったが、四、五日時間をくれと言いました。余裕を与えないほうが首謀者との接触に慎重さを欠くだろうと考え、二十四時間後に現金で一億支払うように要求したのですが、結局四十八時間後ということに落ち着いたのです」
「それが木曜日の夕方ですね」
「そうです。しかし、その数時間前に彼らがマンションに踏み込んで来たのです」
「では、地下駐車場での彼らの一億円受け渡しを目撃したのはいつでしたか」
「一億円を要求し、返事をもらった日の翌日、水曜日の午前中でした」
「間違いありませんか」と、私は確認した。
「ええ。前日の夜、私は長谷川秘書のBMWが走り去ってからYSビルの明かりが消えるまで見張りを続け、マークⅡの中で二、三時間仮眠を取りました。翌朝、九時過ぎに曽根が車で動き出したので尾行すると、彼は東神ビルへ直行したわけです」
「なるほど。佐伯さん、あなたはその現場を目撃し、写真に撮ったことを、監禁される前に誰かに話しましたか」
「いいえ。もちろん、そんなことはしていません」
「すると、彼らがあなたに一億円を払って脅迫に応じようとしていた情勢から、いきなりあなたを誘拐・監禁することに方針を変更したのは一体何故です?」
「それは、たぶん……ぼくを買収しただけでは自分たちの身の安全は確保できないと考えていたのかも知れない。決定的だったのは、ぼくに首謀者が惣一郎さんであることを知られたからでしょう。警察の話では、ぼくがあの現場を目撃し写真に撮ったことを彼らは気づいていたようですから。用心はしていたのですが、曽根を追ってあの駐車場に車を乗り入れたときの状況では、どうしてもぼくの車は彼らの視界を通らなければならなかった。あるいは、彼らの仲間の一人がどこかで監視していたとしたら、ぼくを確認するのは簡単だったでしょう」
 私は二本目のタバコに火をつけて言った。「それでは筋が通らない」
 佐伯と私の話が終わるのをひたすら我慢していたその部屋の空気が、急にぴんと張りつめた。
「どうしてですか」と、佐伯が眉をしかめて訊いた。
「彼らがあなたを買収しても安全は確保できないと考えていたのなら、あなたはもっと以前に監禁されているはずだ。少なくとも、一億もの大金を準備したりする必要はない」
「そうですね……だから、その時点まではぼくに金を支払うつもりだったのでしょう。ところが、あの駐車場で首謀者の正体を知られたから、急遽方針を変更してぼくを監禁したのではないですか」
「急遽方針を変えたにしては、彼らはやけにのんびりしている。水曜日の午前中に正体を知られて、木曜日の夕方にあなたのマンションに踏み込むまでの一日半、彼らは一体何を考えていたのです?」
「そう理詰めで来られると答えに窮するが、現実にはそういう矛盾はあるのではないですか。彼らも相当混乱していたはずだし……」
「あんたの言いたいことが解らんね」と、仰木弁護士が口を挟んだ。「他に何か筋の通った説明ができるというのかね」
「神谷惣一郎氏以外の首謀者を考えれば、もう少し筋が通る」
 誰もが私の顔を見つめていた。私の言葉に不審ではなく期待の表情を浮かべたのは名緒子ひとりだった。
 更科氏が低い声で言った。「それが事実であれば、私たち神谷と更科の家族にとって非常にありがたいことですが……もし、この場限りの発言だとすれば心外です」
「ぼくにとってもただごとではありません」と、佐伯が言った。「好むと好まざるとにかかわらず、ぼくは惣一郎さんが怪文書事件の首謀者であることの証人になっている。それに対する反証があるとすれば是非お聞きしたいですね」
 私はタバコの灰を落とした。「地下駐車場での彼らの密会現場を撮ったあなたの写真では、三人が話していて、最初長谷川秘書の手にあった大型のスーツケースが後になると曽根善衛の手に移動しているだけです。あなたの供述には、彼らの会話を聞いたという証言はなかった。もしかすると、神谷会長はあのときの状況があなたの眼にどう映っているか全く知らなかった、という可能性はありませんか。彼は長谷川秘書に誘導されて、あの駐車場で久しぶりに元重役の曽根に会い、ただ言葉を交わしただけだった──そういう可能性はありませんか」
 佐伯は思わず苦い表情を浮かべ、紺のブレザーからタバコを取り出した。かつては世界を制した〝ハイライト〟だった。
「ないとは言いきれませんね」佐伯はタバコに火をつけてから続けた。「曽根を尾行してあの駐車場へ入って、少し離れた車の中からカメラのシャッターを押すのが精一杯でしたから。彼らが友好的に話していたことは確かですが、実際の会話は聞けませんでした。しかし、あれは曽根が一億円を支払うと言った翌朝の会合ですよ。他にどんな解釈をすればいいのですか」彼は私との中間にある見えない何かにぶつけるように、タバコの煙を吐き出した。
 韮塚が皮肉っぽい声で、私に言った。「きみは発見された証拠物件のことは無視するつもりかね?」
「いや、そんなことはない」と、私は答えた。「証拠物件というのは、会長室の金庫で見つかった怪文書のワープロ原稿と印刷機購入に関する領収書などの書類、紀尾井町の会長宅の物置で発見された小型のオフセット印刷機と怪文書の残りだそうだ。それらが物的証拠であることは間違いないが、果たして神谷会長に帰属させるべきものかどうかは、まだ証明されていない」私はタバコを消して、付け加えた。「新宿署の刑事の言葉を借りれば、こんなに大事に証拠を保管している間抜けな犯罪者も珍しい、ということになる」
「しかし、無理があるよ」と、仰木が言った。「曽根や長谷川秘書の証言をどうするつもりかね?」
「彼らが刑務所から出られるのは何年後です?」と、私は逆に訊いた。
「さあ、怪文書のほうは向坂知事に訴える意思がなければ大したことにはならんだろうね。佐伯君の監禁も単なる不法監禁だから、営利誘拐などとは比較にならない。せいぜい五年もすれば彼らは出所するだろう」
「そのとき、彼らにとっては一晩で一億円の金を調達できる首謀者が刑務所の中にいたほうが得だろうか。それとも自由の身でいたほうが得だろうか」
「ああ言えばこう言うってとこだな」と、仰木は苦笑しながら言った。
 ドアにノックの音がして、和服姿の中年女性がお茶の用意を盆に乗せて入って来た。彼女が、女性二人と韮塚に紅茶を、残りにコーヒーを給仕して退出するあいだ、話が中断した。
「これでは水かけ論できりがありませんね」と、佐伯が話を再開した。「沢崎さん。あなたは、惣一郎さんが誰かに罠にかけられた可能性もあるということを言っているだけです。そういう可能性は現行犯以外のすべての犯罪に言えることでしょう。もし、惣一郎さん以外に怪文書事件やぼくの監禁を実行すべき動機を持っている人物がいると言われるのなら、あなたはその証拠と一緒にその人物の名前をはっきりとおっしゃるべきではありませんか」
 名緒子が佐伯から私に非常にゆっくりと視線を移した。
 私は更科頼子を正面から見つめた。「曽根善衛は最初の訊問では、怪文書事件の首謀者は〝ある資産家の女性〟だと述べています。その後供述を翻して、神谷会長が首謀者だと証言する長谷川秘書や佐伯さんに同調した。あの抜け目のない男がどうしてそんな手間をかけたのか。何故すぐに底の割れるような供述をしたのか。曽根善衛は、供述などいつでも変更できるのだということを伝えたかったのではないでしょうか、その首謀者の女性に」
 更科夫人は神経的な笑い声を立てた。「なんてことかしら。弟を無実にして下さるのかと思ってお話をうかがっていたのに、わたくしがその身代わりにされるわけですね。冗談にしては、ちょっとひど過ぎませんこと」
「沢崎さん、あなたにはいろいろとお世話になっていますが、家内に対する何の根拠もないような暴言は控えて下さい」と、更科氏が言った。
「根拠はあります」と、私は言った。コーヒーを飲み終えてから、更科夫人を振り返った。「少なくとも、弟さんよりあなたのほうが容疑が濃いはずです」
 彼女はソファの肘掛けを手の甲が白くなるほど強く握りしめた。「そうまでおっしゃるなら、わたくしとしてもあなたのお話を聞かないわけには参りませんわね。どうぞ、納得の行くように説明していただきます」
 私はうなずいた。「まず、曽根善衛との繋がりです。彼は東神電鉄で背任横領が発覚したとき、神谷会長は穏便な処置を考えていたのに、あなたが強硬に馘にしたのだと言われている。それが、彼はあなたに恨みを抱き、神谷会長の手足となって働いてもおかしくない男だと見なされる根拠です。だが、もしあなたと曽根のあいだで秘密裏に協定が結ばれていたとしたら、そんな図式は簡単に崩れてしまう。警察は現在YSビルの土地購入およびビル建設の資金を調査していますが、曽根は東神電鉄を退社した直後に、入手経路の不明な多額の資金援助を受けたことが判明しています。その援助者が神谷会長であってもあなたであっても不思議はないが、少なくとも今度のような仕事に曽根を利用するつもりがあれば、彼を東神に残して閑職につけようとした神谷会長よりも、馘にして自分の周辺から遠ざけ、現在のようなポジションに置いたあなたのほうが疑わしい。東神に残していれば、怪文書の発行から佐伯さんの監禁に至る一連の行動にも支障があったはずです。そう考えると、曽根が最初の証言であなたを暗示したのは、実に巧妙なカムフラージュだったことになる。神谷会長に向けられた容疑は二度とあなたに戻って来ない。曽根という男は、もし本当にあなたを恨んでいるのなら、すぐに覆されるような供述で嫌がらせをするようなタイプではない。何らかの手段できっちりと恨みを晴らす男です。彼は出所後のために、あの供述であなたの身の安全は自分らの証言にかかっていると念を押したのではありませんか……曽根善衛があなたより神谷会長に近い人間だとする説はあまり根拠のあるものではないと思いますね。何か反論がありますか」
「もちろんありますとも」と、更科夫人が腹立たしげに言った。「わたくしはあの曽根という横領重役と裏で協定を結んだことなどありません。あなたの話は何の証拠もない推測、いえ、邪推にすぎません。でも……とにかく話の先をお聞きしましょう」
「次ぎは、向坂知事の立候補と怪文書事件のことです」と、私は言った。「神谷会長は夫人のことで向坂晃司氏に不快な思いをさせられ、あなたはテレビ出演のときに知事の向坂晨哉氏に不快な思いをさせられている。晃司氏が最もダメージを受けるのは兄の政治生命を絶たれることだとすれば、その点ではあなたと神谷会長の動機は互角だと言える。しかし、神谷会長の動機は夫人と晃司氏のスキャンダル以外には何もありません。あなたには向坂氏にダメージを与えるという目的のほかに、怪文書事件の容疑を神谷会長に押しつけて彼を失脚させ、それによって東神の実権を彼から取り戻すというもっと大きな目的があったのではありませんか。あなたは、ご主人の更科氏が相談役を退き、弟の惣一郎氏が会長に就任して以来、ほとんど東神における影響力を失っておられる。あなたは、曽根善衛や長谷川秘書と共謀して、この事件のすべての証拠が神谷会長を指し示すように綿密に準備をしていた。ただ、当初は事件を警察沙汰にするのではなく、東神の内部で神谷会長の信用を失墜させるような手段が考えられていたのではないかと思いますが……いずれにしても、神谷会長よりもあなたのほうが怪文書事件に関するより大きな動機を持っておられた──そうは言えませんか」
 更科夫人は苦笑しながら言った。「お話としては大変面白いですわ。でも、わたくしがそれを実行したという証拠は何もありませんよ。沢崎さん、では、あなたにお訊ねします。わたくしはどうして今日まで弟の惣一郎を失脚させないで、東神の実権とやらを彼に委ねたままにしておいたのです?」
「怪文書事件に続いて、あなた方の予想外の事態が起こったからです。まず第一に、狙撃事件です。両方の事件が溝口姉弟でつながっていることが問題を厄介にした。怪文書事件の首謀者は同時に狙撃事件の首謀者と見なされる恐れが出て来て、あなた方は事態を静観せざるをえなくなった。曽根の話によれば、あなた方は誰かが狙撃事件の容疑を自分たちに押しつけようとしているのではないかという不安に駆られていたはずです。神谷会長の失脚を謀るどころではなくなった。そして第二は、佐伯さんがこの二つの事件の調査を始めたことです。彼が溝口敬子から野間徹郎、そして、曽根善衛にたどり着くという不都合な事態になった。これから先は、局面はすべて佐伯さんのペースで展開するようになり、あなた方はその対応に追われることになる」私は言葉を切って、更科夫人と佐伯直樹を交互に見た。異議を唱える者はいなかった。
「窮余の策として、あなた方は佐伯さんがジャーナリストとして事件の真相を究明し告発しようとする行動に便乗することにした。そうするほかに選択の余地はなかった。もっと事態を静観して、少なくとも狙撃事件を押しつけられずにすむ確証を得ておきたかったはずだが、佐伯さんが今にも曽根たちを告発しようとしているときに、あれこれ思案をしている暇はなかった。佐伯さんが一億円の金を要求したとき、あなた方の方針は決まった。彼が首謀者を突きとめる目的でそういう要求をしたことは、あなた方にはほぼ推測がついていたはずだ。佐伯さんがジャーナリストとしての使命と目前に迫った成功を、たかが一億程度の金と引き換えに放棄してしまうとは考えられない。そんな男なら、とうの昔に名緒子さんの夫であることを理由に東神の重役にでもおさまっているはずだから。あなた方は、首謀者の替え玉である神谷会長が曽根善衛に会う現場を工作して、佐伯さんにそれを目撃するチャンスを与えてみた。そして、かろうじて、あなた方の思惑通りにことが運んだ──そういうことだったのではありませんか」
 更科夫人は黙り込んでいた。眼が虚ろになっていた。
「しかし、それでは……」と、佐伯が言って、納得が行かないというように私の顔を見つめた。
「そうだ。それこそ筋が通らんよ」と、仰木弁護士が佐伯に同調した。「探偵さん、あんたは更科夫人のほうが神谷会長より疑わしいと言っておきながら、その説明では答えは逆になるんじゃないのか。あんたはさっき、神谷会長が首謀者なら、もっと以前に佐伯君を監禁しておくか、あるいは正体を知られた水曜日の午前中に直ちに監禁すべきだと言ったろう?」
「言いましたよ」と、私は答えた。
「じゃあ、更科夫人の場合はどうだ? まるっきり佐伯君を監禁する必要などないじゃないか。あの夕方、曽根を通して佐伯君に一億円を渡させ、それを証拠に神谷会長を告発させれば、すべてが計画通りになったんじゃないのかね。どうして更科夫人はそうしなかったんだ?」
「韮塚弁護士」と、私は言った。「佐伯さんが先週離婚を通告して来た電話の録音テープを再生してくれませんか」
 更科夫妻と双子の弁護士が口々に私への抗議の言葉を発して、部屋の中は騒然となった。

次章へつづく

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