原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第32章
ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。
刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。
本日は第32章を公開。
『そして夜は甦る』(原尞)
32
神谷惣一郎の電話からすでに二時間以上が経過していたが、彼のジャガーは〈国際映像〉の正門の斜向かいにあるつぶれたボーリング場の空地に停まっていた。私はジャガーの隣りにブルーバードを駐車し、ダッシュボードから懐中電灯を取り出すと、コートを着て雨の中に降り立った。ジャガーは無人で、エンジンはすっかり冷えきっていた。懐中電灯で車内を照らしてみると、運転席の脇のコンソール・ボックスに取り付けた電話の受話器がはずれかけていた。神谷会長が最後に電話をかけた相手が私の電話応答サービスだとは限らないが、急いで受話器を戻したことは確かだった。
私は世田谷通りを渡って、国際映像の正門の前に立った。門柱に〝閉鎖中 立入禁止〟と書いた立て看板が太い針金でくくりつけてあった。レールの上を移動させて開閉する鉄格子の門扉も頑丈そうな鎖を使って門柱に固定されていた。錆の出た鉄格子には、隣りの鬱蒼とした雑木林から伸びてきたツタの蔓が絡みはじめている。左側にスチール・ドアのついた人間専用の通用口があったが、押しても引いてもびくともしなかった。もしやと思って、その中央に付いているくぐり戸の把手をまわしてみると、錆が擦れる音を立てながら簡単に開いた。私は腰をかがめて門の中へ入った。
荒れ果てた守衛所の前を通り、約三十メートル前方に大きな黒い影をつくっている建物に向かって、私は敷地内の車道を歩いて行った。十一月下旬の夜の雨は冷たく、建物のそばに着いたときには、額から雨の滴が落ちていた。
それは、三階建の鉄筋のビルだった。私は〝国際映像株式会社〟という看板のある正面玄関から始めて、ビルの周囲を一まわりした。五カ所以上ある出入口のドアをすべて試してみたが、どこも開く様子はなかった。ガラス窓が数カ所で割れていたが、人の出入りした形跡は見つからなかった。懐中電灯で内部を照らしてみたが、人のいる気配はまるでなかった。正面に戻り、少し離れて階上に眼をやってみたが、夜の闇と雨に覆われたビルの黒いシルエットが見えるだけだった。
そのビルの右側に、同じ位の高さのコンクリートの巨大な箱のような建物が二つ並んでいた。窓が一つもない倉庫のような建物だった。表通りからは、雑木林の蔭になって見えない位置になる。手前の建物に近づいて見ると、高さが約五メートル、横幅が約七メートルもある大きな二枚のドアが、建物の正面の大半を占めていた。このドアを左右に全開したら、大型トラックが三台横に並んで入って行けそうだった。ドアの真ん中に、ペンキで〝第一スタジオ〟と書かれていた。こういう場所は初めてなのでよく判らないが、たぶんこの中で映画やテレビドラマの撮影が行なわれるのだろう。ドアの左下の一部に普通の大きさの通用口があったが、鍵がかかっていた。もう一つの建物──当然、〝第二スタジオ〟だった──の通用口も試してみたが、結果は同じことだった。
私は二つのスタジオのあいだの車道を進んで行った。第二スタジオの後ろの脇に、小さな小屋のようなものがくっついて建っているのが見えた。そばへ行ってみて便所だということが判った。その手前の暗がりに乗用車が一台停まっていた。建物と同様に廃車だろうと思って懐中電灯で照らしてみると、その黒いブルーバードは私のブルーバードに較べたら新車同然だった。車内を照らしてみたが、別に異常はなかった。だが、この車は二つのスタジオと便所に囲まれた形で、昼間の明るいときでも敷地の外からは眼に止まらない位置に停められていた。
私は第二スタジオの裏へまわった。建物の手前の角に出入口があった。そのドアには鍵がかかっていなかった。私は静かにゆっくりとドアを開けて、建物の中に入った。どこかに何らかの明かりがついていることが分かったが、眼が慣れるまでに数秒が必要だった。五、六メートル前方から、腰の高さのステージのようなものが広がっていた。おそらく十五、六メートル四方のステージで、その上に三メートル位の高さの合板で囲ったバラックの小屋のようなものが作ってあった。合板は倒れないように要所につっかい棒がしてある。明かりはその囲いの中でついているらしく、窓ガラスのような所から光が漏れていた。私は懐中電灯を武器代わりに持ち直して、そのステージの隅にある階段を上がった。足音を立てないように気をつけて、光の漏れている窓に近づき、中をのぞき込んだ。内部は、実物そっくりのスキー場のロッジのような丸太小屋だった。おそらく撮影用のセットだろう。窓の反対側に小屋の出入口が見えたので、私はセットの外側を合板の壁づたいに半周した。出入口のドアと柱は開閉に耐えるように本格的に作ってあり、ドアの前のステージの床には本物の盛り土がしてあった。
私はドアを開けて丸太小屋に入ったが、ヤッホーと声をかける気分ではなかった。出迎えたのは、山小屋の主人やスキー服のギャルたちではなくて、地味なビジネス・スーツを着込んだ三人の男たちだったからだ。
スタジオの天井からさがった鉄パイプの桟のようなものに取り付けた二基の照明にスイッチが入っていたので、セットの中は隅々まで明るかった。正面のフロアに、木の香りの強い大きな白木のテーブルがあり、それを同様の木のベンチがコの字型に囲んでいた。左側の壁に煉瓦造りの暖炉があった。右側の手前がキッチンで、奥は床を少し高くした所に、マットを敷いた二段式の木のベッドが二つ並んでいた。
三人の男のうちの二人は、暖炉と木のテーブルのあいだの床に倒れていた。残りの一人は、木のベンチに坐り、片手を二段ベッドのほうに伸ばし、頭を垂れていた。私は床の二人に近づいた。仰向けになって虚空を睨んでいるのは、副知事の榊原誠だった。額の真ん中に銃弾を受けており、顔が青黒く腫れ上がっていたが、鋭い眼つきだけは六時間前に私に裏取引を持ちかけたときのままだった。右手に持った拳銃が引き金のところで人差し指に引っかかっていた。かなり古びた自動拳銃で、銃把の上部に〝BROWNING〟という浮き彫りがあった。彼の左手は、もう一人のうつ伏せに倒れている男の背中にのっていた。その男は曲げた右腕の中に顔を埋めており、胸の下の床に相当な出血をしていた。顔を確認していないが、背恰好と服装からは神谷惣一郎だと思われた。その大量の血の匂いとかすかな硝煙の匂いが、セットに入ったときから私の嗅覚を刺激していたことに気がついた。
その場を離れて、ベンチの三人目の男を調べに行った。横向きになっている顔を見るために、ベンチの背後をまわって、伸びている右手の下からのぞき込んだ。うっすらと無精ひげの生えた四十代の痩せぎすの男で、フケの多い七三の頭髪の下の顔には、何をやっても上手くいかないという表情が浮かんでいた。一度も会ったことのない男だった。ベンチの背板越しに垂れさがった左手に、応急手当てらしい分厚い繃帯をしていた。これだけの怪我をしていれば、最近どこかで血を流したとしても不思議ではなかった。私はその男の上衣のポケットを探った。死後硬直が始まっているようで扱いにくかったが、内ポケットで目当てのものを見つけた。奥村禎二名義の警察手帳と、彼が八王子署の捜査課に勤務する巡査部長であることを印刷した数枚の名刺だった。伊原勇吉の名刺と非常によく似ていた。それらをポケットに戻しながら、この男の胸部が銃弾を撃ち込まれた丸い孔の開いた血だらけのワイシャツでおおわれているのを確かめた。男の前の木のテーブルに、銃身の短い拳銃が置いてあった。伊原勇吉が持っていたのと同じ三十八口径のリヴォルヴァーだった。私はポケットからハンカチを出してその拳銃を手に取った。輪胴を振り出してみると、五つの弾倉には三発の弾が残っていた。このうちの一発は榊原誠の頭蓋骨の中に撃ち込まれているのかも知れない。私は拳銃を元の状態に戻し、ハンカチをしまった。テーブルには、二、三日分の食い散らした食糧の残骸と、飲み残しのウィスキーのボトルがあった。
そこを離れようとしたとき、背中が固いものに触れてカチャッと音を立てた。振り返ると、二段ベッドの支柱に手錠がぶらさがって揺れていた。手錠の一端は支柱に掛けられていたが、もう一方は口を開いた状態だった。鍵穴には鍵が差し込んだままになっていた。想像すれば、手錠でベッドに拘束されていた者がいて、本人か誰かが鍵を使って手錠をはずした、という図である。しかし、その人物がこのセットの中にいる三人のうちの一人なのか、第四の人物なのかは分からなかった。
私は床に倒れている二人のほうへ戻った。神谷惣一郎と思われる男を確認するために、頭のそばにしゃがみ込んで、男の伏せた左肩をそっと持ち上げた。神谷会長だった。血の気のない無表情な顔は老けた感じが薄らぎ、年相応で頼りなく見えた。突然彼が喉の奥で低く呻いて薄目を開けたときには、私は驚いて彼の左肩を取り落としそうになった。他の二人より多量の出血をして生きていられるとは信じられなかった。
「神谷さん、大丈夫ですか」と、私は言って、背中の榊原の手を払いのけ、彼を仰向けにさせた。右肩の鎖骨の下あたりの上衣に孔が開き、周囲が焼け焦げていた。至近距離から撃たれ、弾は脇の下へ貫通しているようだった。すでに出血は止まっていた。
「ああ、沢崎さん……やっぱり、向坂邸であなたに話しておくべきだった」と、彼はかすれた声で言った。
「すぐに救急車を呼ぶ」
立ち上がろうとする私の腕を、彼は自由のきく左手で掴んで引き止めた。「待って下さい。事情を話しておかなきゃならない……頼むから、聞いて下さい」
「では、一分間だけだ。それ以上は無理だ」
彼は眼を閉じて言った。「榊原氏を尾行してここまで来たんです。向坂邸でトイレから戻る途中、彼が電話で話しているのを盗み聴きした……「要求の金は準備した。例の男は押さえているだろうな?……それなら、男と交換で金を渡す」榊原氏はそう言って、相手の指定する場所を書きとめ、真夜中の十二時という時間を決めました」彼は眼を開けて、言い足した。「押さえられている男というのは、佐伯君のことではないかと思ったのです」
「何故、そのことを向坂邸で別れるときに言わなかった?」
彼は顔を歪めた。「言いそびれてしまって……全く見当違いをしているかも知れないし……」
「私を信用していいのかどうか、不安だった?」
彼は情なさそうにうなずいた。「考え直して、あなたに電話したときは遅かった。まさか、こんなことになるとは想像もしていなかったから……」
「分かった。それくらいにしたほうがいい」と、私は言った。
彼は私の腕を掴んでいる手に力を入れた。「もう少し話さないと……あなたに電話していたので、この構内に入って榊原氏を見失ってしまった。ここへたどり着くまでに七、八分ブランクがあるので、その間に何があったのか分からない。とにかく、窓から中をのぞき込むと、背を向けた男があのテーブルの上にのせた鞄の中身を調べていた。榊原氏が運んで来た鞄で、中身はたぶんお金だと思う。すると、榊原氏がいきなり拳銃を発砲し、背を向けていた男はベンチに叩きつけられた。ぼくは佐伯君がいるかどうかを確認する間もなく、入口にまわって中へ駈け込んだ。銃声で受けたショックで、ほとんど無我夢中だった。とにかく、佐伯君が撃たれるような事態だけは避けたかった。駈け込んでみると、ぼくに背を向けた榊原氏が誰かに拳銃を向けて「おまえもこれで終わりだ」と叫んだ。彼の拳銃が狙っていたのは、部屋の向こうのベッドから身を乗り出して、床から何かを拾おうとしている男だった。顔が見えないので佐伯君かどうかは分からなかった。ぼくは榊原氏の発砲をくい止めようと後ろから飛びかかった。数秒間もみ合っていたが、最後には撃たれてしまった。床に倒れながら、もう一発銃声を聞いたような気がする」彼の顔色がいっそう蒼白くなり、呼吸が乱れた。「彼らはどうなったのです?」
「ベッドにいた人物はここを脱出したようだ。榊原は眉間を撃たれて、死んでいる」
「彼は佐伯君だったのですか」
「いや、違う。佐伯氏はすでに別の場所で救出されている」
「本当ですか」と、彼は大きな声で言った。彼の顔が苦痛に歪み、激しく咳き込んだ。「それは……よ、よかった」と、彼は喉の奥で言った。
「一つだけ訊きたい」と、私は彼の耳に口を近づけて、言った。「都知事選の怪文書事件はあなたの仕業なのか」
神谷惣一郎は大きく眼を見開いて私を見つめ、何も言わないで気を失ってしまった。
「すぐに救急車を呼ぶ」私は立ち上がって、山小屋のドアへ向かった。
「その必要はない」と、ドアの蔭に立っている男が言った。彼の手に握られた拳銃が、まっすぐ私の胃袋を狙っていた。黒い雨ガッパから水滴をしたたらせている制服警官が、セットの中に入って来た。「同僚が正門のチェーンを外して救急車を誘導しているところだ。しかし、これは映画の撮影じゃないんだろうね?」彼はこわばった顔でセットの中の惨状を見まわした。丸ぽちゃの柔和な顔をした三十才そこそこの警官だったが、銃口を向けられていてはどんな顔も慰めにはならなかった。
「私がハンフリー・ボガートに見えるか」
警官は頭を振った。「一時間以上前に、国際映像のスタジオに怪我人がいるという一一〇番があったんだが、新任の同僚がこの先にある〈国際放映〉と勘違いしてしまった。それで、すっかり手間取ったんだ。電話で通報したのは、あんたですか」
「いや。だが、これから通報しなければならないところがある。この怪我人は手配中の重要参考人で神谷惣一郎という男だ。この件の担当官である新宿署の錦織警部に連絡を取りたい。その前に、その拳銃の銃口を少し下に向けてくれると有り難いんだが」
警官の頭に、私の言ったことが染み込むよりも早く、救急車のサイレンの音が聞こえて来た。
三時過ぎに、神谷惣一郎は成城の救急病院に収容された。三時半には錦織と田島を含む五名の新宿署の刑事が到着して、成城署の捜査官に合流した。現場での捜査が終了すると、錦織のセドリックと私のブルーバードは、神谷会長が収容されている救急病院〈世田谷医療センター〉へ向かった。更科修蔵氏、頼子女史、仰木弁護士らがすでに到着していた。更科氏は、娘婿に次いで義弟の命も救っていただいたと、私に礼を述べた。しかし、神谷会長の担当医が、患者は出血多量で非常に危険な状態にあり、現在意識不明だと言った。そして、警察であろうと親族であろうと一切面会謝絶であると申し渡した。頼子女史が、会長夫人は現在弟と別居中で、神戸の実家──関西から九州にかけての建設業界をリードする〈西日本ハウジング〉の社長宅──に戻っており、この事故を連絡したが上京の意思は全くない、したがって姉である自分が一番の近親者だから一目会わせてほしいと頼んだ。担当医は首を縦に振らなかった。
錦織と私は、成城署に移動した。私が国際映像での事件の供述を取られて署名をすませたときは、明け方の五時だった。解放されて成城署を出ようとしていると、玄関のロビーで向坂知事および四、五名のお付きと擦れ違った。榊原誠の死亡を知らされて駈けつけて来たのだろう。彼の視線は使用期限切れの消火器でも見るように、私の顔の表面を通り過ぎて行った。玄関を出ると、外はすでに明るく、雨もやんでいた。
五時半に新宿の事務所の駐車場にブルーバードを停めた。私は事務所に薄明かりがついているのに気づき、新聞を取って二階へ駈け上がった。事務所のドアは鍵がかかっていなかった。私はドアを開けて事務所に入った。デスクの上の電気スタンドの小さな明かりが、佐伯名緒子の寝顔を照らしていた。彼女は石油ストーブのそばに来客用の椅子を近づけ、ブルーのモヘアのコートをあごの下まで掛けて眠り込んでいた。私は音を立てないようにデスクの向こうへまわって、椅子に腰をおろした。デスクの真ん中に大小二機の紙ヒコーキと、見憶えのある事務所の合鍵がのっていた。大きいヒコーキの折り目を伸ばして広げた。沖縄の観光案内のチラシの余白に、元パートナーの伝言があった。
明朝、東京を発つ。不愉快な思いをさせて申しわけなかった。せめて、昨夜の車のナンバーが役に立っていればと思う。
暖かい所へ行ってみるつもりだ。では、また。
W
小さいもう一機は、私のデスクのメモ用紙を使って折ったものだった。
事務所のドアを一目見たくなって、二階へ上がってしまった。夜中の二時に、探偵事務所の外のベンチに寂しそうに坐っているご婦人をほうっておけなかった。ドアの鍵をまだ持っていたので、返すのにいい機会だと思って使用した。ブルーバードが駐車場にないので、戻って来ると考えたんだが……。
彼女のお蔭で、事務所の中まで見せてもらったが、あの頃と全く変わっていないな。余計なことをしたのでなければいいが……。彼女とは話ができて楽しかったと、よろしくお伝え願いたい。では、また。
W
私はデスクの引き出しを探って、喫い残しのタバコのパッケージを見つけた。開けてみると四、五本入っていたが、かなり古そうだった。どうせ舌は馬鹿になっているから、味などどうでもよかった。私はタバコと二つの伝言に火をつけた。紙マッチを擦る音で、名緒子が眼を覚ました。しばらくは自分がどこにいるのか分からず、呆然としていた。私を見つけると、何ともいえない微笑をもらした。
「ごめんなさい。お留守に勝手に入り込んでしまって」
「それは構わないが、どうしてここへ?」
「外のベンチであなたを待っていると、渡辺さんという方がお見えになって──」
「いや、それは判っている。何故、あなたがここへおいでになったのかを訊いているのです」
彼女はうつむいて返事をしなかった。
「ご主人はどうなさったのです?」と、私は訊ねた。
「辰巳さんという女性と一緒に新宿署を出ましたわ。明日の夜、九時に田園調布で離婚届に印鑑を押すことになっています。結局、ちょうど一週間遅れただけのことですわ」
「あなたも諒承なさったのですか」
「仕方ありませんわ。以前とは事情が違いますもの。今は主人にはわたしよりもふさわしいひとがありますから……おかしいですわね、別れるために見つけてもらうなんて」
「明日の離婚式に、私を招待してくれませんか」
彼女は怪訝な顔で私を見つめた。「ええ、お望みでしたら……どうぞいらして下さい」
私はタバコを消して立ち上がった。「お宅まで、送りましょう」
ストーブを消して振り向くと、彼女が眼の前に立っていた。彼女はゆっくりと私の腕の中に入って来た。いつもとは違う香水の匂いだった。あるいは彼女自身の匂いなのかも知れない。私は彼女を抱くというより、腕の中で彼女が動かないように押さえていた。
「あなたのところへ連れて行って」と、彼女が私の胸に言った。少し声が震えていた。私は、行こうと言った。
ブルーバードを超過勤務につけ、私たちは駐車場を出た。彼女はしばらく渡辺のことを話題にしてよく喋った。だが、甲州街道を西へ走るうちに黙り込んでしまった。井ノ頭通りとの分岐点が近づいたとき、久我山に行くのかと訊き、環八通りに左折して南へ向かったとき、田園調布へ行くのかと訊いた。私は世田谷通りに入って、神谷惣一郎が収容されている世田谷医療センターの駐車場にブルーバードを停めた。彼女にとっては兄同様の存在である男の身に何が起こったかを説明すると、彼女は後も振り返らずに病院の玄関へ駈け去った。忘れていた怪我のかすかな痛みが戻って来た。それから、午後遅く自分のアパートで眼を覚ますまでのことはよく憶えていない。
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