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クルト・ラスヴィッツ賞受賞作『NSA』、山形浩生氏による解説を公開! 現代のネット環境の持つ抑圧的な側面を指摘する衝撃作

アンドレアス・エシュバッハのクルト・ラスヴィッツ賞受賞作『NSA』は、多くの皆様からの反響をいただいております。第2次大戦下のドイツで携帯電話とインターネットが発展していたという歴史改変SFです。ナチス政権のもと究極の監視システムが構築されるという絶望の時代を描いた作品です。
評論家の山形浩生氏に、解説を書いていただきました。下巻巻末に収録しているこの解説を全文公開いたします。

アンドレアス・エシュバッハ『NSA』上巻

解説 

 評論家 山形浩生

 ナチスドイツが第2次世界大戦で勝利したら、というのは歴史改変SFの古典的なテーマの一つではある。有名なところでは、かのフィリップ・K・ディック『高い城の男』が挙げられる。

 ナチスドイツには、そうした妄想をかきたてる部分がある。特に技術おたくの多いSFマニアにとって、ナチスはそうした架空戦記のための様々な材料を与えてくれるまたとない存在だ。たとえば世界初のミサイルV2や世界最先端の潜水艦Uボート、初のジェット戦闘機など。そうした技術的な卓越性(に見えるもの)を思えば、そうした新兵器開発と生産が実際よりも順調に進捗していたらどうなったか、というのはだれでもつい思ってしまう。理論物理学でかなり高い水準を達成していたドイツが、アメリカに先んじて原爆開発に成功した可能性をネタにしたものも、いくつか読んだ記憶がある。

 またナチスドイツは、フランスを制圧した電撃戦を筆頭に、巧妙な繰兵で予想外の戦果を挙げたりもした。最終的には悲惨な冬季消耗戦で潰されたソ連侵攻でも、当初モスクワは陥落寸前まで行っていたらしい。もうちょっと兵站がよければ、もう少し雪が遅ければ、もう少しあれやこれやで、まったくちがう可能性はあったかもしれない。こうすれば勝てたかも、ああすれば別の展開があったかも。そうした様々な可能性、ちょっとした偶然で歴史の方向がまったく変わってしまった可能性を弄んでみるのは楽しいものだ。

 だがそのような兵器開発や運用を中心とした歴史改変SFに対し、本書は別の架空設定を持ち出す。

 もしドイツが、バベッジの解析機関を極度に発達させ、ワイマール時代から電話通信網に携帯電話とコンピュータとそのネットワークを作り上げ、インターネットにも匹敵するワールドネットが形成されて、それがナチスドイツに受けつがれていたら? さらに完全キャッシュレス社会であらゆる取引記録も当局に把握されていたら? そしてそれがナチスによって、完全な監視国家の構築に使われていたら?

 もちろんコンピュータおたくのみなさんであれば、「え、どうやって?」と尋ねるだろう。初のコンピュータと呼ばれるENIACなどの歴史を知っていれば、そんなのあり得ないよ、という話になる。解析機関の発展形ということで、スチームパンクにありがちな完全歯車機械式……でもなさそうだ。ケーブル経由でネットワークにつながるので、電気的な何からしいけれど、どういう仕組みなのか? そして本書でも、そうした細部については明言しない。冒頭の説明で「できました」と述べておしまいだ。シーメンスやABM社がいろいろ作っています、というだけ。本書に登場する携帯電話は、劇場のチケットレス入場もできるらしいけれど、具体的にどんなものなのかという描写はほとんどない。

 が、そこに突っ込みを入れるというのは、野暮というもの。歴史改変SFは、技術的、現実的な可能性を細かく追求するものだけではない。単純な歴史シミュレーションよりはむしろ、現代へのある種の風刺として成立する小説もある。そして本書はまさに、現代のネット状況に対する風刺として構築されている。いままさにネットは、かつてのナチスドイツのような監視弾圧のツールとして使われているのではないか? 本書はそれを描き出そうとする。

 それを何よりも示しているのが本書の題名だ。NSA(国家保安局)。これを見た瞬間ニヤリとする人もいるだろう。一般にこれは、アメリカの国家安全保障局の略だ。これが各種の諜報活動を担当している役所で、電話やネット関連でも蠢いているのはわかっていたものの、その活動の詳細は謎に包まれており、NSAとはNever Say Anything(決して何も言うな)の略という冗談まで出回っていた。

 だが2012年に、あのエドワード・スノーデンによる内部告発でその片鱗が明るみに出た。現実のNSAの活動は、まさに本書にあるドイツの架空NSAとまったく同じなのだ。この機関はアメリカのほぼあらゆる通信を傍受し、ネットのトラフィックを記録して、それを様々な諜報活動に利用しているとされる。いつ、どこで、だれがどんな発言や通信を行ったかを記録し、それをいつでも取り出せる体勢が調っているのだという。詳細は拙訳スノーデン自伝『スノーデン 独白──消せない記録』(河出書房新社)などを参照してほしい。

 ナチスドイツのような、ファシズム的監視社会が、いままさに現実としてここにある──本書の一つの醍醐味は、この恐ろしさにもある。各種のビッグデータ──カロリー摂取や買い物記録、移動データ──をクロス参照することで、まったく予想外の結果も洗い出されてアンネ・フランクも発見されてしまうし、SNSの書き込みをたどってドイツの反ナチス活動として有名な白バラも未然に摘発されてしまう。おそらく今まさに、現実のNSAの活動結果として、これに類似した事件はあちこちで起きているのだろう。

 もちろん、そうした活動を行っているのはアメリカのNSAだけではない。彼らは世界先進国の諜報機関とも協力して、ファイブアイズなる世界的な監視網を構築している。ロシアはかなり露骨なサイバー工作による煽動をあちこちで実施している。さらに中国が、きわめて強いネット監視と統制を敷いているのは有名な話だ。

 現在のこうした国による監視活動を、どう考えるべきなのか──ナチスまがいの弾圧と専制のツールと考えるのか、それとも別の性質のものと見るのか、はたまた必要悪と考えるのか──本書はもちろん、それをきわめて危険なものとして警鐘を鳴らそうとしている。だがその評価はもう読者のみなさん次第ではある。それを考える糸口として、本書はなかなかよくできている。

 さて、歴史改変SFとしての本書には、ネット以外にもナチスドイツが核兵器開発を行うという設定が登場する。これは可能性があったのか? こちらはどうやら、かなりあったらしい。少なくとも、20世紀前半に携帯電話とインターネットもどきが存在するよりは蓋然性のある話だ。

 本書では、ヴェルナー・ハイゼンベルクやオットー・ハーンらドイツの最先端の原子物理学者たちが、かなり良心的にふるまって、原爆の可能性についてナチスに対して隠したりごまかしたりしつつも、アメリカのシステムをクラッキングして入手された資料に押しきられる、というストーリーになっている。

 だが実際には、ドイツ側もそんなまぬけではなかったらしい。そもそも、アメリカが原爆の現実的な可能性を認識したのは、ハイゼンベルクの作ったシンクロトロンの火災のためだったという。出発点ではドイツのほうが先行していたし、また原爆の可能性についても、学者の間で認識は広まっていた。

 そしてナチス軍部もバカではなかった。1941年頃に、すでにドイツ劣勢に焦っていたフリードリヒ・フロム将軍は、一発逆転のミラクル兵器として、核分裂エネルギーに注目していた。そしてその相談を受けたハイゼンベルクを筆頭とするドイツの原子物理学者たちは、1942年の夏にはフロム将軍や、悪名高い軍需相アルベルト・シュペーアの前で、核分裂を使った爆弾の可能性について、非常に積極的なプレゼンテーションを行い、ナチス首脳陣は大いに感銘を受けたとのこと。

 しかしながら、本当にできるのかと追求された結果、ハイゼンベルクは開発までには最低でも数年かかるという見通しを示している。すでに連合国とソ連のはさみうちにあって、身動きが取れなくなり、また物資調達にも苦労していたナチスドイツは、そんな長期の計画にコミットするわけにはいかず、原爆開発は傍流に押しやられたらしい。

 なおハイゼンベルクは、その後傍流とはいえナチスドイツの原爆開発計画に加わった。だが実は、ナチスの核兵器開発を懸念していろいろ遅延工作をしたり、アメリカに情報を流したりして、本書に描かれたように内部からサボタージュを行ったのだという説もある。これがどこまで本当なのかはわからない。が、その一方で実際問題として、アメリカが原爆開発のマンハッタン計画の前身に乗り出したのは、1941年真珠湾攻撃の前だ。だがアメリカの人材と物量をもってしても、原爆はドイツ降伏までに完成していない。まして鉄鋼と石炭と労働者の圧倒的な不足の中で、二正面戦争を戦いつつそこまでの開発を行う余力があったかどうか……ハイゼンベルクの工作がなくても、ドイツの核兵器というのがあり得たかはいささか疑問のようだ。このあたりの状況については、拙訳トゥーズ『ナチス 破壊の経済』(みすず書房)が詳しい。

 その一方でもちろん、ひょっとしたらすごいブレークスルーが偶然見つかって、という可能性だって、ないわけではない。ハイゼンベルクやハーンならやってくれたかも、という妄想はあり得る。本書は、原爆開発についても細部は触れていないが、実際の開発プロセスを考えてみるのもおもしろいかもしれない。

 ここに挙げた以外にも、この小説は実在の人物や機関/組織(かのレーベンスボルンなど)を含め、当時のナチスドイツを取り巻く細部を巧妙に利用している。そして本書のうまいところは、インターネットや携帯電話、コンピュータといった、まったく歴史的にちがう文脈のガジェットを、まったく違和感のない形で百年前の社会に外挿し、物語を作り上げたところだ。そしてそれは裏返すなら、いまのぼくたちをとりまくネット環境に、ナチスドイツという別の歴史状況を違和感なく外挿した小説ということでもある。その世界が多少なりともリアリティと説得力を持ってしまうということ自体が、いまのぼくたち自身が置かれたネット環境の持つ、きわめて抑圧的で、ある意味で非人間的な側面を鋭く指摘しおおせている。

 そこからの逃げ道を本書は示してはくれない。ナチス時代の監視社会の中に生きるぼくたちが、ここからどういう選択をするのか──技術と社会の関わりを鋭くえぐりつつも、読み物としてのおもしろさを十分に残した本書は、歴史改変SFの王道ともいえる作品に仕上がっている。

 2021年11月

アンドレアス・エシュバッハ『NSA』下巻

アンドレアス・エシュバッハ『NSA』(上下) 赤坂桃子訳
  解説:山形浩生(評論家)
  装幀:土井宏明(POSITRON)
  ハヤカワ文庫 SF 2022年1月6日刊行 各1364円(税込)

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