【往復書簡】伴名練&陸秋槎。SFとミステリ、文芸ジャンルの継承と未来について
『なめらかな世界と、その敵』と『雪が白いとき、かつそのときに限り』の刊行を記念して、ともに88年生まれで、SFとミステリそれぞれのジャンルの未来を背負う伴名練さんと、陸秋槎さんに往復書簡をしていただきました。まずは陸秋槎さんから伴名さん宛てた手紙をお楽しみください。
拝啓 伴名練先生へ
先生の「ホーリーアイアンメイデン」という書簡体小説を拝読したとき、文章の美しさが深く印象に残りました。ですから先生へ手紙を書くのは普段よりもずっと緊張します。正しい日本語さえ書けない外国人の私はもちろん季語や敬語など自由自在に使えませんし、多分のちに編集者さんに頼んで、修正していただく必要もあると思います。
「2010年代、世界で最もSFを愛した作家」という先生が書いたSFへの一万字のラブレターも拝読しました。子供の頃からSFを読んで愛する先生のこと、ちょっと羨ましいと思います。いま、私はミステリ作家として活動していますが、実はミステリを読み始めたのは10年前の大学時代です。もし先生のように子供の頃から読み始めていたら、どんな小説を書いていたでしょう。
しかし、作品を読むとすぐに分かるのは、先生はSF以外の作品もかなり渉猟されたのではないかということです。独自の作風を持つ小説家は、だいたい自分の書くジャンル以外の作品もいっぱいインプットしていますね。
ジャンルの中でも、いま流行っているものばかりをマネする小説は、個性が薄くなっているものばかりです。きっと、ジャンルの歴史に詳しく伝統から学ぶ人のほうが、独自の作風を形成できるのかもしれません。
時々私より若い世代のクリエイターと交流することもありますが、驚くのはゼロ年代以前の文学やサブカルチャーに興味ない人が少なくないことです。これはまずいと思います。こう考えている私は、やはりおじさん臭いでしょうか。でもね、作品を読むとすぐに分かるんです。ゼロ年代以降の要素ばかりを使って書かれるものは、やはり何かが足りないと感じます。
先生も私も、少女小説の影響をかなり受けましたね。ミステリの歴史で少女小説とのコラボレーションは先例がないわけではありませんが(例えば小栗虫太郎「方子と末起」、多岐川恭「濡れた心」、栗本薫「優しい密室」、北村薫「ベッキーさんシリーズ」、加納朋子「ガラスの麒麟」、相沢沙呼「ココロ・ファインダ」、友桐夏のほぼ全作品など)、それでも少数派でしょう。もちろんSFもそうだと思います。とくに先生のように戦前のエス小説の要素を使ってSFを執筆している作品の先例を、SF門外漢の私は知りません。
先生の「彼岸花」という短編のエピグラフに「花物語」と「カーミラ」が引用されていたことに、初読の時に驚きました。いくら「百合SFアンソロジー」と言っても、吉屋信子まで出るのは予想外ですね。それに、私は主人公がサミュエル・コールリッジである「1797年のザナドゥ」(「ミステリマガジン」2019年3月号)という短編を書きました。そのなかでコールリッジの「クリスタベル姫」に言及しています。「カーミラ」は「クリスタベル姫」の影響を受けて書かれた作品ではないかと、英文学者たちに言われています。本当に不思議な縁です。(英語文学の百合といえば、クリスティーナ・ロセッティの「小鬼の市」もいいですね。)
先生も私も、主人公が少女の作品が圧倒的に多いですね。実はデビュー以来、私の作風はよく「気持ち悪い」と言われていました(とくに一部の中国の読者から)。世の中には、男性同士が館で起きた事件を調査するミステリを読みたい人もいますし、警察ものや私立探偵ものを読みたい人もいます。ただ、主人公が少女であることだけでバッシングされるのはやはり納得できません。少女も百合も、いずれも世の中で最も美しいもののひとつなのに、いったいどこかが「気持ち悪い」のかと言い返したいですね。
最後に先生のご意見を伺いたいことがあります。私はオマージュが大好きで、好きな作品や尊敬する先輩のネタを小説に織り込むことが多いです(多分「ぱにぽにだっしゅ」というアニメの影響でしょう)。先生の作品にもオマージュの要素は多いですね。しかし、ミステリもSFもオリジナリティーを重視するジャンルであることも否定できません。それにネタバレは絶対ダメなジャンルです。先生にとって、どこまではオマージュで、オマージュとパクリの境界線はどこにあるのか、教えていただいてもよろしいですか。
敬具
陸秋槎
拝啓 陸秋槎先生へ
このたびはご丁寧なお手紙,ありがとうございました。「ホーリーアイアンメイデン」の文章をお褒め頂き恐縮です。あの作品と「彼岸花」は、拙作の中でも文体を評価されることが多い二本ですが、それはとりもなおさず、あれらの作品が直接的な影響を受けた、吉屋信子の文章が美しいということに他なりません。
文章の美しさということでしたら、陸先生の作品中では、惨劇が起きた、あるいはこれから惨劇が起きる現場を描く筆致に、凄絶な美を感じます。『元年春之祭』の過去パートで予期せず大量殺人の場に踏み込んでしまうシーンの緊迫感、『雪が白いとき、かつそのときに限り』の冒頭で死の運命を知らぬ少女が寒空の下をさまようシーンの哀切は、いずれも情景を描写する筆の力によって、大きく高められている印象を受けました。
私のSF以外の読書についてですが、全く読んでいないという訳ではないのですが、やはりSFに比べると手薄です。たとえば、ミステリを例にとれば、読めているのは古典的な名作の一部とか、SFファンにも注目された作品の一部に限られていて、前者であればチェスタトン「折れた剣」や連城三紀彦「戻り川心中」、後者であれば小森健太朗『ローウェル城の密室』、殊能将之『黒い仏』などが、特に好きな作品です。
私の決して多くないミステリ読書経験と照らしても、陸先生の長編の、不可能状況、二転三転する展開、動機が明かされたとき読者に与える痛み、などを見れば、新本格ムーブメントや青春ミステリを始め、ミステリの様々な時代と潮流の蓄積を踏まえた上で執筆されていることが伝わってきます。そこに文学やサブカルへの関心まで加わっていることが、陸先生の作品が広い読者を獲得している要因なのでしょう。個人的には、『元年春之祭』の中国古典の引用と解釈、それらが物語に重大な役割を果たす構成には驚かされました。そんな陸先生が、同時代の作品以外を全く摂取しようとしない、過去の作品に関心を持たないクリエイターに対して、戸惑いを感じられるのはよく理解できます。
私自身も、SFの歴史に支えられて作品を執筆している人間ですので、昔のSF小説にももっと光が当たって欲しいと願う立場です。ただ、教養主義的にならないよう、「千冊読まなければSFファンを名乗るな」と主張する狭量な人間にならないよう、常に自戒しております。また、強く歴史を意識しなくても、古典のエッセンスは知らないうちに取り込むものだろうとも思っています。たとえば二〇一〇年代のヒット作『横浜駅SF』『錆喰いビスコ』はともに、作者が一九九〇年発表の『アド・バード』の影響を公言していますが、その『アド・バード』は一九六二年発表の『地球の長い午後』から影響を受けています。現代の若者が『横浜駅SF』や『錆喰いビスコ』に影響を受けてSFを執筆すれば、無意識に五十年以上前の海外SFの影響を受けることになるのですから、そういう例に継承への希望を見出しています。
お手紙の中にコールリッジやロセッティの名前が出ていましたが、ジャンルの歴史という縦軸以外にも、横の広がりについても陸先生の見識は深いものと思います。中国、日本の作品ばかりでなく、「色のない緑」ではファウンデーションシリーズへの言及がありましたし、『雪が白いとき、かつそのときに限り』ではヴァージニア・ウルフ『灯台へ』が印象的に登場していました。「1797年のザナドゥ」についてカルヴィーノ『見えない都市』から影響を受けたこともインタビューで答えられていましたね。ミステリに限らず、アジア圏に限らず、広いジャンル・文化圏の作品に親しんで来られたことが陸先生の作品に多彩な奥行きを与えているのだと感じました。
拙作でいえば、「シンギュラリティ・ソヴィエト」という短編は、さまざまな作品の影響を受けましたが、中でも発想の原点になったのは、アンゲラ&カールハインツ・シュタインミラー「労働者階級の手にあるインターネット」という短編でした。これはドイツの作品ですが、高野史緒編『時間はだれも待ってくれない 21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集』というアンソロジーに収録されたため日本語で読むことができました。訳者や紹介者の尽力によって、文化圏を越えた作品の行き来が、読み手の想像力を喚起し、新たな作品を生んでいく、という現象は今後更に増えていくと思います。『元年春之祭』や『雪が白いとき、かつそのときに限り』、『三体』や『折りたたみ北京』の日本国内での出版が、日本で新たなミステリやSFが生まれる契機になるのではないかと期待しています。
男性作家ながら女性キャラクターをメインに据えた物語を多く書くことについて、自分自身が書きたいものを書いているのだから、「気持ち悪い」と言われることがあろうと気にしていないという点については、私も同じです。ただその一方で、後ろめたさを感じることもあります。私が多大な影響を受けている吉屋信子『花物語』シリーズは、初期の作品では女性同士の憧れや思慕といった感情が暖かく描かれますが、後期の作品には、男性上位社会における抑圧によって女性たちの関係性が損なわれていく、という胸の痛くなる内容のものも目立ってきて、明確にフェミニズムの文脈でも評価されるべき作品が含まれてきます。そういった作品に思いを馳せるたびに、男性作家である自分が女性同士の関係性を描くことについて、ある種の略奪、倒錯した暴力と捉えられるのではないかという不安が浮かびます。そんな懸念に引きずられて、女性同士の関係について自分が書く時、どうしても深刻で重い内容のものになってしまうように感じています。たとえば森奈津子先生の作品のように、あっけらかんとした、ギャグに満ちた語りで女性同士の関係性を描けるようになりたい、というのが当面の目標です。
オマージュとパクリの違いについては難しい問題で、定義は書き手それぞれによって異なると思います。私自身がオマージュを書く上で気を遣っているのは、先行作品に対する敬意と、先行作品を乗り越えようとする意識の双方を持てているかどうか、という点です。敬意はもちろん必要ですが、敬意をもって書いたとして単なる模倣に留まるのであれば、それはオマージュたり得ないという考えです。陸先生も自家薬籠中のものとされている「多重解決」は、ミステリのジャンルにおいて、これまで書かれてきた作品を上回ろうとする努力の中で磨かれてきた手法だと思っています。『三つの棺』の密室講義や後期クイーン問題など、ミステリというジャンルは自覚的に過去作を分析し、作品内でも過去作への批評や目配せを行うことの多いジャンルであると認識していますが、その根本にあるものは、言うなればジャンル全体に対するオマージュやトリビュートの念、先人への敬意と超克の覚悟なのではないでしょうか。
陸先生はインタビューで、アニメ『氷菓』への思い入れを語られ、「日常の謎」連作をいつか執筆したいと仰っていましたが、『雪が白いとき、かつその時の限り』の図書室のパートなどは、そんな「日常の謎」連作のための助走なのではないかと愚考します。私は古典部シリーズの中でも『愚者のエンドロール』が好きです。青少年の繊細な感情の襞を描くことのできる陸先生の手によって「日常の謎」連作が書かれる日が来れば、それはアニメ化されるような圧倒的なポピュラリティを獲得し得るでしょうし、私も読んでみたいです。陸先生の更なるご活躍と新作を、読者の一人として楽しみにお待ちしております。
敬具
伴名練
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