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沈黙を守った日々は「しかるべき十三年間」だったーー原尞、『それまでの明日』刊行記念インタビュー全文

原尞『それまでの明日
2018年3月1日発売


最新作、そして「これまでの原尞」

十四年ぶりの新作

――十四年ぶりの新作『それまでの明日』が三月に刊行になります。前作の愚か者死すべしのときに、「早く書く術を身につけた」とおっしゃったように記憶していますが、これだけ長い歳月を費やしたのはどのような背景があってのことでしょう。

 第一には自分が遅筆で作品が少ないということを大変申し訳なく思っています。もう少しいいペースで読者に提供したい、もっといいものを書きたい、早く多く書きたいという思いは常に頭にありました。読んでくださっている方が望外に多いということや、サイン会で年配の方から「もう先は長くないから早く書いてよ」と言われるたびにその思いを強くしました。でも実際それに対して、自分がどう対応できるか、はっきりわかっていることは何もないんですよね。今さらこんなことを言ってはいけないと思うんだけど、「早く書く云々」は半分は自分の希望的なコメントなんです。根本的にはそれに違いないんです。
 でも何の根拠もなしにあんなことを言ったかというとそうではなく、最初の三作そして夜は甦る』『私が殺した少女』『さらば長き眠りと第四作の『愚か者死すべし』との差は、ハードボイルドに仕込まれた謎解きといいますか、どんでん返し的な要素でした。どちらも僕は嫌いというわけではなかったので、最初の三作はいつのまにかハードボイルドと謎解きの折衷になっていた。それが、ある種の評価にもつながったと思うし、一方で純然たるハードボイルドファンには、何か違うと思った人もいたかもしれないし、謎解きファンにとっては、ハードボイルド風味かということはあったかもしれない。でもこの二つをやる人は意外といるようでいなくて、四十歳と遅いスタートを切った作家としては、この折衷のおかげで多くの人に読んでもらえたということもあったかもしれない。しかし、この先ずっとこういうものを書いていきたいのかというとちょっと無理があって、ではどちらを選ぶかというと、僕はハードボイルドものを書きたいのであって、謎解き要素は、言葉は悪いのだけど、サービスとして加えていたものなんです。謎解きに時間をかけず、ハードボイルドに専念すればもう少し早く書けるだろうという思いからの「早く書く」発言だったんです。たしかに『愚か者死すべし』はそういう作りになっています。まだ少し複雑な要素が残っていますけどそれは現象であって計算づくで仕組むことはなにもなかったんです。
『愚か者死すべし』は「第二期沢崎シリーズ」と銘打っていましたが、書く前に第二期と思ったことはないんですよ。書き上がったらそれまでの作品と差が出てきたし、当時の編集担当で編集長の菅野さんからも、時間も十年とたってしまったので、沢崎の年齢も五十代くらいでストップさせ、ここから第二期ということにしましょうということになったんです。
 ところが、ハードボイルドに専念していいものを書こうと思ったらもっと難しくなってしまった。ハードボイルドだって簡単な書き方があるわけではなくて、謎はある程度の時間をかけて仕込めばいいのだけど、それに頼らないものを書きたかったんです。もっといい設定で人間同士のぶつかり合いを書きたい、いいセリフを書きたいと、意識して取り組んでみると、アイデアがたくさん浮かんでくるのはいいんですが、書いているものが全部沢崎ものだから、その中に落とし込まなければいけない。とりあえず量を増やして、できあがったものをポンということならば早く書く約束は果たせたかもしれないけど、それでは読者を満足させられなかったでしょう。早く書くというのは空手形に終わってしまったし、十三年は長すぎたかもしれないけれど、結局、簡単な道はどこにもなかったということなんです。
 第二には年齢的なものがありますね。レイモンド・チャンドラーの代表作『長いお別れ』は、彼が六十五歳の時に一番時間をかけて書き上げたものですけど、その年齢に近づき、同い年になり、いつの間にか追い越してしまった。それは楽しみでもあり喜びであると同時に怖れでもあり、いざ越えてみるとチャンドラーよりも年長になってそれだけいいものを書いているのかという不安もありました。作品の中では数カ月の出来事でも、十三年かけて書いたので目ざとい読者のなかには前半と後半で沢崎の人格が違っているという人もいるかもしれない。長い歳月をかけただけあってこれまでの作品以上に凝縮されていると感じる読者もいるかもしれない。どんな反応があってもいいと思いますけど、最終稿を見直して齟齬があるとは感じませんでした。小説とはつくづく不思議なものです。
 
沢崎ものだけを書いてきた
 
――実際に拝読して、いい意味で沢崎は昔からまったく変わりませんし、原さんの書きっぷりもまた変わらない。原さんの中に、作家として一本の芯といいますか、これだけは譲れないというルールみたいなものはあるのでしょうか?

 とくにあるわけではないのだけれど、そう言われて思い当たることは、僕は小説としては沢崎ものしか書いていないんですよね。僕の場合はスタートがそんなに若かったわけじゃなく、ある程度自分というものが出来上がってから書き始めた。チャンドラーはもっと遅くて、いろいろな筆名で短篇を書いていたし、フィリップ・マーロウにほとんど近い人格で書いているのもあるけれど、一人称でないものもあったりしますよね。そういうものを経た後で、五十歳にしてマーロウものの長篇第一作大いなる眠りを書き始めるわけです。その時、もうマーロウものの長篇しか書かないと決心したのかはどうかわからないけれど、のちに「ペンシル」というマーロウの短篇を一篇だけ書いています。チャンドラーだって作家人生全体でいうとそう。それ以上に僕は沢崎オンリーで今のところすんでいます。
 それに加えて、沢崎の一人称で書いているということが変わらない印象を与えているんじゃないでしょうか。よく沢崎は原さんですかという質問を受けるんですが、まったくそんなことはないんです。日ごろの僕の行動、考え方、話し方とか感覚的なものをモデルにしたって面白いはずがない。沢崎という男は、僕の中から見つけようとしても一番見つからない人物なんです。逆に言えば、沢崎以外の登場人物は僕がモデルだといわれても全然かまわないぐらいの気持ちで書いている。女性であろうと、子供であろうと、老人であろうと、僕がその人物だったらどうだろうと自分のフィルターを通して書きますね。月並みで類型的でも面白くないし、かといってあまりひねくれて変な人物を出しても必然性がない。そのへんはテクニックの問題ですね。そうした他の人物と沢崎との対比、書き分けが難しいところだなと思います。
 一人称にはいくつかパターンがありますよね。ダメ人間、いい加減な人間、嫌われ者のキャラクターの語りは面白いし、作家にとっては一番楽なはずなんです。モデルは自分をはじめ、周囲を見渡せばいくらでもいるんですから。一方、魅力のある人物や英雄を書こうと思ったら三人称が一番いいんです。例えば吉川英治さんの宮本武蔵。とにかくヒーローにしようという目線で書かれていて、作家が立派な人物だと保証するわけですから。ダシール・ハメットは一人称、三人称の両方で試行錯誤しました。マルタの鷹のサム・スペードは三人称一視点で、コンチネンタル・オプは一人称で、その主人公のオプは見栄えのしない小太りの男という。その点、チャンドラーは、難しいことはいいから、俺はマーロウものを一人称で書きたいように書くと突き抜けていた。僕の場合、沢崎は正統的なヒーローとして描こうとしています。減らず口を叩く、口が悪いというのはその裏返しであって、嫌われ者のキャラクターとして描いているわけではない。一人称で「おっ、これは」という魅力的な人物を描くのは難しいのだけれど、僕は読み終わった後に沢崎という奴は嫌いだと思われる前提で書いてはいないんです。
 
チャンドラーへの憧れが原動力
 
――沢崎は何歳という設定で書き始めたのでしょうか。

 デビュー作『そして夜は甦る』の時点では歳が一つぐらい上の人間の、二、三年前を書くということを意識しました。三十九で書いたとしたら、四十歳。その二、三年前だから、主人公は三十七、八のとき。一歳上の人物の今の心情はわからないかもしれないけど、その二、三年前なら自分も年齢的に過ぎているし、矛盾のない書き方ができるかなと。チャンドラーのマーロウの設定は『大いなる眠り』では三十代だったんですけど、地の文を読むと書いた当時のチャンドラーの五十代の感覚が投影されているように思う。矛盾のある設定なんです。小説ではそれで完成されていて魅力的なんだけれど、映画にすると不思議な違和感があるんです。歳がいったハンフリー・ボガートやロバート・ミッチャムが演ると自然なのに対して、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』で若いエリオット・グールドが演じるとある種パロディになってしまう。自分で書いていてもつねにそういった五十、六十代のマーロウ像がチラつき、俺はそこまでいっていない、でもその域に達したいと悶々としていました。チャンドラーへの憧れが僕の原動力になっていたんでしょうね。

――チャンドラーへのこだわりは相当なものがあったのですね。

 はい。それはもう一貫していますね。つねに頭の隅にありましたよ。デビュー当時は、ロバート・B・パーカーのように、マーロウもので一作書きたいと思ったほどでした。さすがにチャンドラーにはなれないということが次第にわかってきたけれど、自分の作品を少しでもよくしたいと試行錯誤するうえでのお手本はつねにチャンドラーでした。

作品に投影される世相

――前作の出版が2004年で、本作が2018年。その間に日本でも世界でもいろんなことがありました。リーマンショックが起きて経済が停滞したり、政権交代があったり、東日本大震災もありました。熊本地震もありました。様々な時事的な出来事は、原さんに影響を与えていますか?

 僕はそういうことに敏感でもあるし鈍感でもあるというか、両方あるんですよね。新聞や週刊誌の見出し的なものに対して、わりあいに反応するところはあるのだけど、それはそそるような書き方をしているわけじゃないですか。どこか迷わせて、惹きこんで、でも読んでみると反対のことだったりする。そこが見出しの見出したる所以だと思うんだけど、それをちょっと見極めたいというか、どっちのことを言っているのかということへの興味はあります。
 時事ネタといえば、例えば天使たちの探偵の「少年が見た男」の少年がヤクルトスワローズの帽子をかぶっているというのがあります。野村ヤクルトがその前年に優勝したからなんですけど、今書くとしたらどこの帽子でもかまわない。時事ネタだからいい悪いということでもなくて、価値が十分にあると思うし、歴史的にはなにかを表わしてもいるとも思う。架空のことではないから、選ぶ楽しみがあるけれど、近作では年代を特定しないようあまり盛り込まないようにしているんです。『愚か者死すべし』は時事ネタを入れないつもりで書いたのだけど、二千円札を出してしまった。お札を人物で表現するのはマーロウが五千ドル札を大統領の名前で呼んだことのいただきでもあるんですけど。とにかく時事ネタとはそういうものですね。

――2011年の3・11は、原さんご自身の執筆姿勢になにか影響を与えたのでしょうか。

 少なくとも、『愚か者死すべし』の発表後、2005年から六年間は何も影響がなかったわけですよね。だけど、震災をまたいで書き始めて、どこの時代に設定するかということでいうと、僕はさっきも言ったようにあまり時代を特定しないように書こうとしているのだけど、震災以前に書きはじめたから今回は前の話で、次作は震災後にしようと思いました。ではいざ震災を描く段になると、源氏物語がヒントになると思う。僕は原文と谷崎潤一郎版をあわせて読んでいるのだけど、光源氏が亡くなったあと、短い「雲隠」という章が挟まれるんです。光源氏に関する記述は何もないのだけど彼が死んだことが仄めかされる。そして息子の話が続く。紫式部は空白が一番いいと思ったんでしょうね。それになぞらえているところはたぶんあるかと思いますね。
 地震ということでは、僕は九州に住んでいるから類推するしかないわけですけど、阪神淡路大震災と東日本大震災でも性格がずいぶんと違いますね。日本は自然災害と隣り合わせで、そういったことをつねに考えているとしんどくなるのだけれど、それを忘れて生活するということもまた難しい。作家としては、沢崎の目を通して、震災前とその後の東京で生きる人たちをどのように描くかというのが課題でしょうね。
 
沢崎という名のおじさん
 
――『それまでの明日』では、原さんが考える親子関係や家族のあり方というものが反映されているように思いますが、こうしたテーマを取り上げたきっかけは? 現代日本の親子関係に物申すということでしょうか。

 僕自身、子供がいないし、考えてみれば沢崎もそうです。僕の作品では『天使たちの探偵』のなかで子供を依頼人や、事件の鍵を握る登場人物として選びました。これまでの作品は子供のない人間の見る親子、子供であったわけですが、そこから一歩踏み出したくなったんですね。かといって今から子供を作るわけにはいかないから、小説という形を使ったんですけれど。子供がいる人が読んで喜んでくれるようなものにはしたいなと思って書いていたような気はします。今になって日本の親子関係が変節してきたとは思わないんです。それよりは子供が少なくなって、両親のきょうだい、つまり叔父・伯父、叔母・伯母がいなくなってきていることのほうが問題だと思う。他人と身内の中間にいる彼らの存在は大事だし、それがいなくなることは異常事態の第一歩だと思う。両親しかいない、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんしかいない、あとは他人というのは。

――そういう状況を憂いて、沢崎にそういった口うるさいおじさんの役割を担わせていると?

 そこからあやうく一歩踏み出しそうになるシーンもあるわけだけど、そういう日本のおじさんを一人描くという陰のテーマがあるかもしれないですね。若い読者にとっての、ぼくなりのおじさん、沢崎というおじさんを残してみたいという。

自分にとっての『長いお別れ』

――以前から、今回の作品はチャンドラーの長いお別れに匹敵するような代表作にしたいと話していらっしゃいましたが、依頼人や海津という青年はどこかテリー・レノックスを思わせるところもありますし、ロバート・B・パーカーの初秋のような感じもします。

 『長いお別れ』のマーロウとレノックスは、親子というよりは兄と弟ぐらいの差ですかね。私の作品では『さらば長き眠り』もタイトルからもわかるとおり『長いお別れ』への一つの挑戦だったんです。『長いお別れ』がすごいのは、事件が起こる前にマーロウとレノックスとの接触をたっぷりと描いているところ。そっちの話のほうがあたかもメインのように。たいがいのハードボイルドは大なり小なり『長いお別れ』に挑戦しようとするものだけれど、その関係を小説の外側で描こうとするんですよね。二人はベトナム戦争の戦友だったとか、昔の因縁で片付けてしまう。でもチャンドラーはそれをせず、しかもコンパクトに二人の出会いから最後までを描いている。あれをそのまま持ってくれば別だけど、なんらかの形で書こうとすると省略形になる。
『それまでの明日』の場合、二人には過去の因縁も何もないんだけれど、それにあたるような人間として描けないかなと思って挑戦したんです。書き始めの意図とはちょっと違った形にはなったけれど。依頼人の望月は、沢崎が「ジェントルマン」と表現しているように、それに反する人間ではないけれど、歳はちがうし、友達にはなれない。海津という青年も人好きがする人物でハンサムボーイなのだけど、そんなにきれいごとばかりでもない。いい人間だから気にいったというようなつまらない話ではないと思います。
 今回の話は、沢崎の探偵の人生のなかに、踏みこんできている人間を描いているといえます。沢崎には、自分は探偵という意識がつねにあって、相手が依頼人であろうと女性であろうと子供であろうと、つねに探偵というキャラクターであり続けようとするんだけれど、そこを突破してくる人間を描いてしまったともいえるし、描きたかったともいえる。どっちなのかはよくわからないのだけど。
 考えてみれば沢崎は、かつてのパートナー、渡辺賢吾にとってのテリー・レノックスかもしれない。道を踏み外してしまった男というか、僕にとっての探偵になったレノックスのような気がする。

小説作法

――原さんの小説作法というか、執筆のスタイルを教えてください。

 『それまでの明日』は最後の献辞にあるように、沢崎が調査をしている第三章から書き始めたものの、途中から窮屈になってきたんです。あまり考えすぎて行き詰まってしまったんですね。そこで依頼人が事務所を訪ねるところから始めたら筆が進むようになり、少しずつアイデアが湧いてきた。時間がかかったせいもあるのだけど、完成稿にするときに、一貫したものになっていないんじゃないかという不安もありましたが、読んでみると全然そんなことはないし、意外な展開もある。とあるシーンでは、自分で書いていてなんですがびっくりしました。これも数式のように組み立てて書かないことのプラス要素だと思いますね。遊びといってもいいし、脱線といってもいい。そういうこともふくまれていないといけない。一直線じゃない小説といいますか、筋は通すのだけれど、その筋がごまかしではなく、面白く感じるようにいろんな手を使っている。

――では例えば『私を殺した少女』は誘拐ものといったように、核となるアイデアだけがあって、そこから書き出しやその後の展開を考えるという書き方でしょうか。

 原則的にどうしようかということを考えずにその章を書くんです。その章を書いているうちに、次はこうなるだろうということになっていきますけど、章の最後でどうしたらいいかわからないということは、どこかがおかしいということの証明になる。今回は幸いそうしたことはありませんでしたけど。百パーセントは決まっていないのだけど、九十パーセントは決まっていないといけない。次はこうなると考えて順当にその通りになるのは、僕に言わせれば六十点、七十点。書いている途中でこういうものを入れたほうがもっと面白くなるという、別のアイデアが出てくるのがいいんですよ。余計なものを入れるということではないけれど、方向がわからないにしても、俄然面白くなってくる。探偵は客観的で冷静な傍観者じゃないですか。でも決めている性格も変わっていくことがある。僕の場合は、小説を書いているうちに明かりがチラっとみえたりするんですよね。その時は自分自身わからずに書いていて、あとからそういうことだったのかと感心することもある。

タイトルに込められた願い

――原さんのタイトルは毎回七文字ですが、今回の『それまでの明日』に込められた意味、思いを教えてください。

 ある登場人物の「それまで」を描き、今日から違う人間になるというか、その人物がそういう道を歩むという、人生のことでもあるかなと思うんです。それまでのことを明日にしてしまう。彼の昨日が見える瞬間を描いている。沢崎にはその自覚はなくとも、彼との接触によってそういうふうになる。そんな意味でしょうかね。

少年時代の原尞

――ここで話題を変えまして、デビュー前の原さんについて教えてください。少年時代はどんなお子さんだったのでしょう。

 長兄の影響をいろいろと受けましたね。兄貴は日大の芸術学部の前身みたいなところに入って、二、三本の映画の脚本にも携わっていました。シナリオ協会の会長のような人がいて。そこで炊事、洗濯をしながら修行していたんだけど、上手くいかなくて結局田舎に帰ってきたんです。部屋は本だらけで、ミステリマガジンもあれば、ポケミスもありました。けっこう硬いものも読んでいたようです。福岡や博多にごそっと金を持っていって、朝昼晩と映画を四本くらい観てまわって帰ってきたり(笑)。こんな映画を観たという話が上手で面白かったことを覚えています。

――初めて読まれた本やミステリ、映画はなんでしょうか。

 映画は、自分で観に行ったというのでいえば、小学校の後半ぐらいから、鳥栖の映画館で東映チャンバラ映画を毎週観ていましたね。勧善懲悪ものだから観ていて半分嫌なんだけど、一種の逃避ですかね。中毒だったんだと思います。洋画では十二人の怒れる男が最初だったと思うけれど、本当にノックアウトを喰らったのは太陽がいっぱいですね。あれで突き抜けたなと。勧善懲悪とは違うし、音楽もいいし、アラン・ドロンの好き嫌いはあるだろうけどあれが今日に至るまで、一番影響を受けた映画ですね。
 本に関しては、僕は意外と本好きな少年じゃなかったと思います。鉄腕アトムを貸本屋で片っ端から読んだり、今注目を集めている吉野源三郎の君たちはどう生きるかも読みました。大学のころには白土三平のカムイ伝を読んで、ほかの漫画とちょっと違うなと思った記憶があります。小学校のころ、教科書に載っていたせいか井伏鱒二の山椒魚を読んで感銘を受けました。中学校の後半ぐらいには、博多の本屋で保篠龍緒訳のアルセーヌ・ルパンに出会い、虜になりましたね。全冊読んだんじゃないかな。ルパンものって子供からみるとわくわくするような話ですよね、探偵にもなれば、アウトロー、怪盗にもなるという。チャンドラー以前ではもっとも影響を受けたシリーズです。高校のころは、ポケミスは当然あったんだけど、ちょっと値段が高くて、創元推理文庫で安めのものを買い漁っていました。ちょうどそのなかにチャンドラーも入っていたかもしれないのだけれど、そのときはあまり意識しなかった。大学ではジャズに入れ込んでいたのであまり読書はしていなかったけれど、兄貴の書棚でグレアム・グリーン──水色のカバーに入った早川のやつ──を何冊か読みました。あのころは他にジョン・ル・カレの寒い国から帰ってきたスパイとかフレデリック・フォーサイスのジャッカルの日などを読んでいましたかね。そのあと就職で東京のレコード会社に勤めるんですが、会社員はうまくいかなくて二カ月ぐらいで辞めました。

充電時代

――会社を辞められたあとは何をされていたんでしょう。

 ジャズピアノの演奏を週一回、二回ぐらいして、あとはいろんなアルバイトをして生活費を稼いでいましたね。本代やレコード代のいくらかは「一部お願いできないものか」と親を当てにしていました。ジャズをやっている人たちは、フリージャズだけじゃなくてスタジオの仕事をやったり、オーソドックスなジャズもやったりしていましたし、若い連中はフリージャズ一本でやっていこうとするんだけど、まず食えないですよね。
 そのうち、映画ってどうやって創るのかと興味が湧いて、東陽一監督が立ち上げた独立プロの〈東プロ〉に映画音楽をやりたいといって接近したんです。そこでちょっとお手伝いをしたり、映画のイロハのイの字ぐらいまでは関わったのかな。ジャズの演奏活動が広がるにつれて、次第に〈東プロ〉からは足が遠のいたんですが、大変勉強になりました。そのうち、演出や脚本を学んでみようと〈黒澤プロ〉の門を叩き、のちに黒澤明監督の遺作シナリオ雨あがるを撮った小泉堯史監督らと知り合いました。事務所では用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄の耳の不自由な人のための字幕を担当したりしていました。
 
作家への道
 
――ジャズの演奏活動と映画関係の仕事をしながら、徐々に作家になりたいという思いが強くなったのですね。

 映画製作の現場に関わりながら、シナリオの書き方を独学で勉強しました。テレビ時代劇や、太陽にほえろ!のエピソードも書いたんですけれど、どれも実現しませんでした。「太陽にほえろ!」のときは、露口茂演じる山さんが車にはねられて拳銃を奪われるシーンにクレームがついたんです。自動車のスポンサーが番組についているから車を凶器に使ってはダメだと。かといって製薬会社もスポンサーについているから毒殺はダメ。酒類販売会社がついている場合にはアル中はだめ。とにかく三つの「ダメ」があったんです。大変勉強にはなりましたが、それで嫌気がさしました。
 最後のシナリオは〝ミヤテン〟といわれた宮島義勇さんから「米騒動を描いてくれ」と依頼されて書いたものですが、正面から全貌を描いたら上映すればざっと八時間はかかるものになってしまった。積み上げたら『広辞苑』の二倍くらいはあった。宮島さんの作品で、東大の安田講堂の攻防戦を描いた、八時間にも及ぶ「怒りをうたえ」という有名な映画があるんで大丈夫だと思ったんです。宮島さんから三時間で撮れるものに縮めてくれといわれて、僕は僕で自由に料理してくださいと押し問答をしているうちに、立ち消えになってしまった。それから人から頼まれてシナリオを描くのがすっかり嫌になり、小説を書きたいという気持ちになったんです。

――自分で自由なものを書いてみたいと。

 その時点では、小説──それはアクションやサスペンス、ミステリもあるようなもの──を書いて、それがもし映像化されたら、最低でも僕がシナリオを書いて、上手くいけば監督も、ということをなんとなく思っていました。とにかく映画からはなれて、小説に専念しました。気がつけば「米騒動」の脚本から、かれこれ十年と少しが経っていました。私立探偵がいて、依頼人がいて、記憶喪失の男がいる。男のバッグのなかには大金と拳銃しかない──かつてシナリオで考えていた話をなんとか小説にできないかと苦闘していたある日、ロバート・ラドラムの暗殺者を読んで驚きました。ラドラムの主人公は工作員だったけれど、同じことを考える人はいるものだなという思いでした。その間に両親が亡くなったりとプライベートでもいろいろとありました。そうして試行錯誤しているうちに、ある日、話が次々と繋がるようになって、それを一年ぐらいかけて完成させたんです。それがデビュー作『そして夜は甦る』でした。

読者へのメッセージ

――最後に読者に向けてのメッセージをお願いします。

 これまでの作品を読んでいただいていて、新作も買おうと思っていらっしゃる方は、今回も沢崎をよろしくお願いします。そうでない方も、とりあえずは今作から読んでもらっても、第一作目からでも大丈夫です。僕の書くものは、けっして最近のミステリの流行ではないかもしれないけれど、ジャンル的にハードボイルドと呼ばれるものです。『愚か者死すべし』を出したときに、今はハードボイルドじゃなくてノワールの時代だろうと言われたものですが、ノワールだって決して新しいものでもなかったですし、大昔からあったものですから。今書くべきものを書いて、読者に読んでもらいたいという気持ちは、どんな先輩にも負けないつもりで書いています。ぜひ読んでいただきたいですね。この十三年間、書いていて一番楽しかったです。

――書きあげるのに必然の十三年間だったと。

 そう思います。しかるべき十三年間、かけがえのない十三年間です。

――読者がどう受けとめるか楽しみですね。チャンドラーが書いた長篇は七作。原さんは、短篇集と今回の新作をふくめて六作。チャンドラーに追いつくためにも間を置かずに書いていただきたいと思います。

 まだ詳しくは言えませんが、構想はいままでになく、はっきりとありますよ。

──本日はありがとうございました。

(二〇一七年十二月十五、十六日、鳥栖にて)

著者紹介ページ、原尞、その7つの伝説とは?