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感染症が蔓延した世界。身体を"売った"少女の末路は? SF小説「身体を売ること」

女性の《今》と《性》を描いた官能SF小説「ピュア」が早川書房「note」歴代アクセス数第1位の20万pv超え、Apple Books「2020年ベストブック」選出で話題の小野美由紀さんの最新短篇、SFマガジン2021年2月特別増大号百合特集2021に掲載された「身体を売ること」を全篇公開します。ウイルスや大気汚染の蔓延で義体化が恒常化した世界の元少女娼婦のメイドとお嬢様の物語です。

小野美由紀特集短篇扉SFM2102p104

 わたしがこの銀色に光る新しい体を手に入れた時、まずはじめに思ったのは、
「ああ、これでもう男たちに好き勝手にされずに済むんだな」ということだった。

 身体を売ることだけしか知らずに育って来た。このスラムに住む他の多くの女の子たちと同じように。
  
 泥の中に妹(シスター)がいる。妹の手は変形している。スコールが上がったばかりの道はぬかるんでいて、ゴミ山から溢れてくる汚水で地面は7色にきらきらしている。小屋の前に座り込んでいた彼女はわたしを見つけると、最初は目をまん丸にして、次には変形した手をひらひらと振りながら、満面の笑みで迎えてくれる。
「いい体じゃん。おめでと、ニナ」
「ありがと……あんた、今日は?」
「あと2人とったら終わりだよ。アナル好き2連チャンだから嫌んなっちゃう」
「そっか。頑張って」
 妹の指は3本しかなく、折れた傘の骨みたいにクネクネと曲がっている。こういう子が好きな客もいるから稼ぎには困らない。好きなくせして、お前みたいなのでも買ってやってるんだ、って態度を取るから、その分手荒く扱われることは多いけど。

 瞬き3回でカメラ・アイが起動した。パチリと音がして、妹の歯の抜けた笑顔がカメラロールに保存される。カメラ・アイは唯一、義体化(サイボーギング)の際にわたしがオーダーしたアクセサリだった。写真を撮るのは好きだ。
 右手の指先をこすり合わせると、半透明のメディアパネルが顔のすぐ前に立ち上がった。SNSにログインして書き込む。
「今日で上がります。バイバイ、くそチンポども!」
 たちまち近所の女の子たちからメッセージが届く。
「いいなぁ、ニナ!」
「どのモデルにしたの?」
「アタシももうすぐ卒業予定。友割チケットちょーだいね」
 画面から吐き出されたカラフルな3Dスタンプが空中を跳ね回る。わたしはその1つ1つに「いいね」をつける。
「これで病気とか気にせずゴミ山の作業員になれるね!」
 何も持たないわたしたちにとって、唯一の救いは機械の体を手に入れること。
 暴力と支配と惨めな思いを弾き返す、合金製の丈夫な義体(ボディ)を手に入れること。
 他に撮るものを探して空を見上げた。小屋の裏手には巨大なゴミ山が広がっていて、そこから吹き出す有毒ガスと、近所の工場から流れてくる煙のせいでこのへんの空は常に紫色だ。おばあは寝たきりのベッドからよく空を見上げては「ジャカランダの色だね」と言って微笑む。ジャカランダって何、と聞くと、お花の名前よ、とおばあは言う。
「おばあは見たことある?」
「あるわよ、この辺りはわたしの若いころからゴミ山だったけど、それでも植物は生えてた」
 そう言っておばあは腕のボタンを押し、メディアパネルを立ち上げる。おばあの腕は錆びついて赤茶け、あちこちから神経コードが飛び出している。やがて紫の花をどっさりとつけた、空まで届く巨大な木の3D映像が浮かび上がった。おばあの体は数十年前、数々の感染症が世界中で蔓延し、多くの人が義体を求めた第1次義体化ブームの頃に買ったものだ。いまではメーカーが倒産し、バージョンアップは不可能だった。
「ニナちゃんの生まれ月には、それはそれは綺麗な花が咲いてねぇ、よくデートの口実に、ジャカランダを見に行こう、なんて言ったものよ」
 わたしは花なんて見たことがない。花だけじゃない。植物なんて、ここらには滅多に生えない。義体化でもしない限り、このへんで生き物が長く命を保つのは難しかった。地球規模の環境汚染と数々の伝染病、生まれた時から吸い込み続ける有害物質、1年中降り注ぐ超強力な紫外線。それらのせいで、わたしたちの身体は成人する頃にはボロボロになってしまう。だからそれまで必死で身体を売り、稼いだ金でフルボディ義体化するのが、わたしたち娼婦にとっての〝当たり前〟だった。
 わたしの場合は、ちょっと特殊だったけど。

 16歳の誕生日の朝、高級スーツに身を包んだ男たちがやってきて、わたしの肉体が欲しい、と言った。
「16歳の、健康な若い娘の身体を探してる金持ちがいるんだ」
 悪趣味なフェイク・ダイヤを義体(からだ)じゅうに埋め込んだ、その生体エージェントの男は言った。
「あんたの身体を俺たちに売らないか。もちろん、最新のH/T(ヒューマンテック)社の義体と交換だ」
 今や、健康な生身の肉体で生きることは限られた富裕層だけの特権だった。彼らはスラムの住民が絶対に足を踏み入れることのない超高級エリアに住み、完璧に密封、滅菌された清浄な空間から決して出ることなく暮らしている。それでも世界人口の60%が遺伝病に冒されているこの世界では、生まれ持った身体を保つのは難しい。だから彼らは身体を買う。莫大な金をかけて他人の肉体に脳を移植し、若々しく健康な姿を保つ。
「もちろんお前さんの身元はバレないさ。運悪く脳死した中産階級の子女ってことにして高く売ってやる。処女膜は再生するし、傷跡やなんかは培養皮膚で一発だ。──金持ちなんて、バカだから簡単に騙せる」
 なんで金持ちたちは義体にしないの、とおばあに聞くと、おばあは
「生身の肉体でないと、味わえない喜びってもんがあるんだよ、スポーツとか、食べることとか」と言った。
「スポーツって?」
「肉体の能力を競うことだよ。昔はね、強靭な身体を持つことは、人間の誇りだったの。おばあが子供の頃にはオリンピックってものがあってね、世界中から強い肉体を持った人たちが集まって、それぞれの能力を競ってたの」
「何それ。義体の方がずっと便利だし、頑丈じゃん」
「まあ、そうだけど、あとは、セックスだろ、あとは、出産とか、育児とかね。昔は誰もがあの苦痛を味わっていたものだよ」
「げぇ。最悪」
「わざわざ苦痛を背負うなんて馬鹿げてると思うけど、一部の金持ちってのは懐古趣味なんだ」
 それにね、とおばあは続けた。
「生身の身体(オリジナル)を保つことは、一種のステイタスなんだ。己の資金力を見せつけるためのね。わたしたち貧乏人はさ、生きるために、義体化するしかないだろ」

 変なの。生身の身体があったことで、喜びなんてあったかな。

 男たちは常に、乱暴にわたしの身体に押し入ってきた。どれだけ痛くても怖くても、それに耐えなければいけなかった。若い頃は高級娼婦だったおばあに似て、わたしは美人だったし、元の体にはスラムの子には珍しく、なんの遺伝病も基礎疾患も、外見上の奇形も見られなかった。五体満足で、思春期を迎えてもなんの病も発症せず、超健康優良娼婦として稼げたのは、わたしを産んですぐに逃げたママがどっかの超健康優良客(バカ)にナマでやられて孕んだおかげ。おばあはお前には変な客を取らせたくないと言って、回転率が落ちてもわたしを高く売ってくれた。だから他の子たちよりは少しは扱いはましだったけど(もうすぐ義体化するからいいだろと言って、客に指を切り落とされた子もいるし、変な薬を山ほど打たれて死んだ子もいる。そんなこと、ここじゃ日常茶飯事)それでも男たちは一様に乱暴だった。まるで他人の身体を無下に扱えることを、一種の特殊能力として誇るみたいに。
 ばっかみたい。
 あんたたちのチンケなパワーなんて、機械の体でたやすく代用できる程度の、しょっぽいもんでしかないのに。

 話を戻すと、そんなわけでエージェントの男たちと契約し、新しく手に入れた義体を初めて見た時、わたしはホッとしたのだ。これでもう、少なくとも「女(モノ)」として扱われることはない、って。
 わたしはゲットしたばかりの機械の腕を曲げ伸ばしてみる。まだ神経接続が上手くいってなくて力加減がわからない。指先まで完璧に磨き上げられた美しいアルミ合金の外殻(フレーム)は、太陽を浴びてきらきらと光った。爪も欠けない。ささくれもない。綺麗だね。そう、はじめての客の男がわたしの手を握って言ったことを思い出す。すべすべで、おまんじゅうみたいで可愛い手だね、この辺りの子らなんて、16歳過ぎればボロ雑巾みたいな身体になっちまうだろ、だからさ、やっぱり女は10歳までに限るんだ。

 わたしは思う。
 生身の肉体を信奉する奴なんて、皆ばかだ。

 生まれつきの身体なんかより、この体の方がよっぽどいい。そうはいってもわたしが手に入れたのはH/T社の販売する義体の中では1番安価な汎用モデルだったから、何年も使えばすぐにガタがくるだろう。メンテにも金がかかり、みなそれを賄うために月額制の割高なプランに入る。解約には莫大な違約金がかかるため、家族を思うと自死(セルフ・スクラップ)もできない。バージョンアップは目まぐるしく、ローンを払い終わる頃には見計らったように新しいモデルがリリースされる。ローンの返済に追われ、メンテとマイナーチェンジを繰り返し、脳の寿命が尽きるか、メンテ費を払えなくなるか、そのどちらかが来るまで働き続ける。それがわたしたち超貧困層の、ありふれた一生。
「義体を買うために生きてるのか、生きるために義体を買うのかわからないね」とおばあに言っても、おばあは「そいが言うても、おばあはニナちゃんに生きていて欲しいが」と笑うだけだった。劣化によって、あらゆる痛みも苦しみも悲しみも記憶から脱色されたおばあの笑顔は、年に1度の夏祭りで見る、祭壇の中の仏様の顔に近い。納得はできなかったけど、感染症にかかって内臓がむしられるほどの苦痛を味わい、周りにウイルスを撒き散らして死んでゆくのとどっちがマシか考えると、一生の負債を背負うことになってでも、義体を手に入れた方がいいと思えるのだった。それに、わたしがいなくなったら、おばあの面倒は誰が見るんだろう。

 バイバイ、わたしの肉体(からだ)。

 もう、ちぎれそうなほど乳首を噛まれたり、顎関節がおかしくなりそうなほど喉奥にペニスを突っ込まれることもない。毎月血を垂れ流す、やっかいなあの穴も、新しいこの義体にはない。代わりに6本の腕があるわけでも、超高性能AIが入ってるわけでもないから、わたしにできることといえばAIすらやらないような最低賃金の肉体労働だけだ。でも、それでよかった。生身の時からわたしはずっとモノだったし、義体を得た今から先もずうっとモノだ。同じモノなら、男に押し入られないモノの方がずっといい。 
 もう一生、目にすることもないだろう。あんなもの、持ってるだけなんの意味もない。
 
 そう思っていたから、スラムから15㎞離れた市街地の役所におばあの給付金を受け取る手続きのために行った帰り道、車の窓から外を覗くわたしの姿を見かけた時、わたしは死ぬほどびっくりしたのだ。
 その高級車は、やけにゆったりとした動きで、──どこかへ向かうというより、そこにいること自体が目的、といったスピードで、市街地の喧騒の中にそのばかみたいに長い体を割り込ませて来た。
 その時のわたしは路上のスタンドで義体の充電をしている最中だった。路上は人でごった返し、視界は排気ガスとPM2.5であいかわらずドロンと濁り、50m先もよく見えないくらいだったけど、それでも、他でもないわたし──いや、ついこの前までわたしだった肉体(モノ)──が何かを探すように車の後部座席の窓から外を見ているのを、わたしは見逃さなかった。
「すげえ車だな。どっから来てんだよ」
 わたしの隣で、同じように腰にチャージャーを差した男(たぶん。各人が好みの外殻を選べるようになった現在では、外見の特徴から中身の性別を推測するのは難しい)がひとりごちた。
「ありゃGFD(グリーンフィナンシャルディストリクト)の金持ちだな」
 その隣に立つ男が、車のナンバーにちらりと目を注いでそう返す。
 GFDは国の富の80%がそこに集まると言われている経済特区だ。ガラスのドームに覆われ、遠くからは巨大なシャボン玉のように見える。入り口には幾重もの厳重な警備がなされ、許可を得た人間しか中に入れない。その中心にそびえ立つのは、1000mを越す巨大な「GFDタワー」だ。超強力な空気清浄装置によって内部の空気は濾過され、AIロボットによって1秒ごとにエリアの隅々まで滅菌され、許可を得ていない有機体は、ウイルス1粒すら中に入れない。あらゆる健康被害から住人たちを守る、超高級マンション。誰もが1度は住むことを夢見る、地上のサンクチュアリ。そこに住めるのはこの国のトップ1%の富裕層だけだ。
「そんなところの人間が、なんでこんなところまでわざわざ出てくるんだよ」
「下々の人間の生活でも眺めたくなったんだろう。物見遊山さ」
「そんなに病気が怖いなら、GFDにすっこんでろよ」
 男は忌々しそうに悪態をついた。
「金持ちの考えることにゃわからん」
 男たちの会話はそこで途切れた。
 わたしは狭い道の上で立ち往生する、巨大な車の後部座席を見つめた。その子は──わたしの身体の新しい持ち主は、分厚いUVフィルタに遮られながらも、懸命に何かを探すように目を凝らしていた。首元と、窓に添えられた手首の端には着ている洋服の一部が見え、ほんの少しだけでも、それがとても高価なものであることは分かった。
 車が一瞬、バックした。その途端、どきりとした。その子がわたしを見た。わたしの瞳が──正確には、元の体(わたし)のなかに入った誰かが、わたしを見つめている。
 いや、勘違いだ。わたしの平凡な外殻には、目立つ要素は1つもない。だから、あの子がわたしに気を止めるはずもない。ましてやわたしが、あの子の新しい身体の元の持ち主だなんて、気づくわけがない。
 思ったとおり、すぐに目は逸らされた。後ろの車のクラクションに押し出されるようにして、車はゆっくりとコーナーを曲がり、雑居ビルの向こうへと消えて行く。
 車体が見えなくなる寸前、わたしは3回瞬きして車のナンバーの写真を撮った。なぜ、自分がそんなことをしたのかわからなかった。
 わたしはわたしの身体を売った生体エージェントの男にコールした。
「ねえ、わたしの身体を買った人って、どこのだれかわかる?」
「そいつは教えられないな」エージェントは言った。
「お前も知ってるだろう。生体の買い手の個人情報は厳重に保護される。売り手にすら教えられない決まりだ」
「実はね」
 わたしは嘘をついた。
「この前さあ、わたしが生体(オーガニック)だった頃にずっと診てもらってた医者に会いに行ったんだよ。あんたたちに売る前に、検査して診断書書いてもらったやつね。90を越す爺さんなんだけど、もうすぐお迎えが来るって言うからさ。そしたらあの耄碌じじい、実は診断書をごまかした、なんて言うんだよ。実はわたしの身体には重要な疾患があってね、けど、病気が発覚したら売れなくなるだろうって、なかったことにしたんだって」
 わたしはよく知られている疾病の名を口にした。
 メディアパネルのスピーカーから、男が息を飲む音が聞こえた。生体移植後に申告されていない疾病が見つかった場合、エージェントは莫大な損害賠償と違約金を請求される。
「……畜生、ぶっ殺してやる」
「残念ながら、爺さんはもう死んじゃった。安心して。すぐにどうにかなるような病気じゃないのは知ってるでしょう? 薬さえ飲めば、進行は限りなくゆっくりになる」
 男の荒い鼻息だけが聞こえてくる。一応、聞く耳はもっているようだ。
「──あんたたち、富裕層向けの家政婦のエージェントにもつながりがあるよね? わたしがその家にメイドとして潜り込んで、薬をいまの生体保持者(オーナー)にどうにかして飲ませるようにする。病気の進行を遅くすれば、違約金を請求されることもないし、相手の寿命が延びた分だけ、あんたたちは生体のメンテ費を搾り取れる。それだって、あんたたちの重要な収益源なんでしょう。どう?」
「くそっ! どうもこうもねえよ」
「報酬は、メンテ費を分けてくれればいいよ」
「調子に乗るんじゃねえぞ!」
「7:3で。プラス、おばあに新しい義体を用意して」
「ふざけるな! 殺されてえのか!」
「今すぐ 〝疾患のある16歳の生体をあんたたちに売った〟 ってネットに書き込んでもいいんだけど」
 男は舌打ちした。
「お前、先はねえと思えよ」
 数分後、ファイルが通信画面にドロップされた。偽の履歴書と、メイド・エージェントの連絡先だった。
「どうも」
「エージェントには、こっちから手を回しておく。メンテ費の取り分はこっちが8でお前が2。中古の義体をつけてやるからそれで我慢しろ……言っておくが、絶対に身バレするんじゃねぇぞ。俺たちまで消されるからな」
「そんなにやばい相手なの?」わたしは聞いた。
「あのな」男は声を潜めて言った。
「お前の身体を買ったのは……H/T社のCEOだよ」

 初めてわたしがその家に足を踏み入れたのは、それからひと月後のことだった。

 何重ものセキュリティチェックを受け、汚染物質が体表に付着していないか確認され、殺菌処理をこれでもかと施されてわたしはGFDタワーの中に入った。
 気が遠くなるほど長い間エレベーターに乗り、やがてたどり着いたのは、タワーの最上階にある超豪華邸宅だった。
 すごく変な場所だった。これまで見たことがない、という意味で。
 屋敷のあちこちには、大量の植物が植えられていた。エントランス・ホールは様々な種類の草木で埋め尽くされ、中央には浅い水の流れるベルトがある。おばあが教えてくれた、紫の花弁をフサフサと垂らしたジャカランダの木も何本も立っている。木々の間には、宙をひらひらと舞う小さな生き物が見える。あれ、きっと『蝶』だ。
 何より奇妙に感じたのは、その木々の間を縫うようにして置かれている、巨大な人間の裸体の彫刻たちだった。
「古代ギリシャのものだよ」
 彫刻を見上げるわたしに、この家の主である男は言った。H/T社のCEOだ。
「見たまえ、この力強さを。……このころの作品が1番、人体の美しさを表現できていると思うんだ。この生き生きと弾むような曲線、神々しい陰影を生み出す凹凸は、どんな科学技術を駆使したところで再現はできないね」
 男は隣に立ち、わたしを見下ろしながら言った。驚くほど背が高く、胸や二の腕の筋肉がこんもりとスーツの布を押し上げていた。年齢は30ぐらいだろうか。肌も歯も光り輝いている。こんな人間を、今までわたしは1度も見たことがなかった。もっとも、彼が身につけているのが生まれつきの身体かどうかは不明だ。生まれてから死ぬまで、同じ身体で生き続ける人間の方が少ない。
「生身の肉体が持つ美しさは、他の何にも代え難いものだよ。そう思わないかね」
「……はぁ」
「君は16歳だったね」男は意味ありげな目線をわたしに向けた。
「妹と同い年だ──来なさい」

 通された部屋に足を踏み入れた時、わたしは息を飲んだ。
 わたしだ。
 つい2ヶ月前まではわたしだったもの──わたしの肉体が、そこにいる。
「ごきげんよう」
 それはわたしの唇、わたしの声でそう言った。高さも、発音のくせも、まるきり同じで、けれどもまるきり、元のものとは違う口調で。
「美しいだろう。私の妹だ」
 CEOは満足そうに呟いた。
「つい先日、生体移植したばかりなんだ。それまでは病気がちでね。自室からほとんど出ることもなく暮らしてきた。両親が死んでから、私が養育しているんだ」
 CEOは彼女の横に立ち、わたしの身体を──違う、わたしのじゃない。わたしの身体を持つ人間の──頭を、その大きな手で撫でた。髪に指を差し入れ、ゆっくりと梳き下ろす。わたしの持ち物だったときより、何倍も艶やかで、丁寧にブラッシングされたその髪は、されるがままにさらりと従う。
 わたしは彼女をまじまじと見た。
 美しい刺繍入りのドレスに身を包み、高そうな靴を履き、ほんのりと化粧をしている。小屋の女の子たちが使い回しの化粧品で互いの顔に描き合うメイクとは、まるきり違った。こんな風に美しく着飾ったわたしの姿を鏡の中に見たことは、もちろん1度としてない。
 目の前にいる人間は、まさにわたしが2ヶ月前に売り払ったわたしの身体を持ち、けど、決してわたしではない、別の人間だった。視線はキョロキョロと落ち着かなく、猫背で、これだけ豪奢な装いに身を包んでいるものの、心なしか貧相に見えた。何より、彼女を弱々しく見せているのが、彼女の座っている厳めしい自動車椅子(カート)だった。
「担当医は健康上は何の問題もないと言うが、念のため、この家の中だけで育ててるんだ。これまで病気がちだったこともあって、1人じゃ何もできない。君には妹の身の回りの世話をしてもらいたい。いいね」
「仰せのままに。ご主人様」わたしは教えられた言葉を口にした。初めての敬語に舌がもつれそうになり、隠すために一層深くお辞儀する。
 兄が去った後で、彼女はわたしに言った。
「私の名前はニナ。よろしくね」
 びっくりした。思わず呼吸が止まる。
 それ、わたしの名前じゃん。
「あなた、名前は?」
「……リタです」
 わたしは嘘をついた。
「いい名前ね」
 ニナは──わたし(ニナ)の体を持ったニナは──そう言うと微笑んだ。
 わたしは金持ちって、すごく嫌な奴だと思ってた。おばあが好きで繰り返し見ている昔のドラマの中では、金持ちってのはたいてい嫌味ったらしく振る舞い、使用人には無関心で、弱い人間に意地悪をする。
 けど、目の前のニナは、その気力もないような青ざめた顔をして、車椅子にもたれている──わたしがひと月前、街中で見たニナと、目の前の彼女は本当に同一人物だろうか。
「お兄様がね、家の外にはあまり出ないようにって言うの。屋敷の中でも自動車椅子を使えって。元の身体がとっても弱かったから」
 ニナはほんの少し自嘲気味に笑った。金持ちも、そんな非科学的な根拠で物事を判断するのか、とわたしは思った。
「あなたも私と同じ16歳って聞いたわ。よろしくね。リタ。外の世界のことを教えてちょうだい」

 奇妙な感じだった。わたしがわたしの身体を世話するのは。
 わたしは実質、ニナの話し相手として呼ばれたようなものだった。ニナの部屋付きのメイドは他にもたくさんいたが、彼女と歳が近いこともあって、わたしがよく呼ばれた。
 この家にいる完全生体の人間は、ニナと、わたしの雇い主であるニナの兄のホセだけだった。両親は10年前に事故で他界し、以来、ホセが会社を継ぎ、2人きりで暮らしている。
「この家の環境はね、お兄様が私のために用意したものなの」
 ニナはわたしにそう言った。最初は弱々しそうに見えた彼女だけど、わたしと話す時には幾分か弾んだ声になった。
「兄は、お花やら木やら草やらの中に身を置くことが、私の健康にいいと信じてるの。本当はどうか、よくわからないわ。でも、この家の中にいたら、1年中変化がないでしょう。……お花は良いわ。毎日に変化をもたらしてくれるもの」
 ニナの身体は、ホセによって常に管理されていた。
 毎日同じメニューを食べ、山ほど薬を飲み、決まった時間に運動をし、睡眠時間まできっちり定められている。ニナは言いつけ通り、ほとんど部屋から出ることもなく、風呂と、兄との食事、医師の診察、わずかに庭を散歩する以外は1人きりで過ごす。
 正直、おかしくてたまらなかった。
 こんなに労力をかけてまで、なぜ生身の身体にこだわるんだろう。生の肉体は、不便だ。脆いし、すぐに変調するし、臭くなる。大抵の信仰は外から見ると奇妙でばかばかしいが、本人たちはそのことに気づかない。
 GFDタワー内の社交にもニナは参加させてもらえず、同い年の女の子との交流はほとんどないと言ってよかった。
 タワー内は閉鎖的な1つの国で、外で聞いていた通り何でもあった。高級ブランドが立ち並ぶショッピングエリアがあり、フィットネス、スポーツ競技場、プールに遊園地。空気は吸ったことがないほど新鮮で、スラムの、目を開けていられないほどの排ガスも、鼻を突き刺す腐臭もない。医療設備も完璧で、生身の人間たちが防護服もマスクもつけずに楽しそうに歩いていた。ここから出ずとも、人々は一生幸せに過ごすことができる。ここで暮らして、何か不満を持つことなんてありえない。
 なぜ、あの時ニナは──
 あれは本当にニナなのだろうか。
 いや、あの時見かけた車のナンバーは確かにGFDタワーのものだったし、自分の身体を見間違えることなんてありえないけど、わたしはなかなかニナに聞けずにいた。街中でニナを見かけたことを。そもそも、それを伝えていいかどうかすらわからなかった。ニナは怪しんで、わたしの身元を調べるかもしれない。
 ホセの心配に反して、ニナは新しく手に入れた身体を上手に使いこなしているように見えた。
 ニナの声は心地よい。わたしの唇が、わたしの使ったことのない上品な言葉を紡ぐのを、わたしはうっとりと聞いた。ニナは使用人にも常に優しく、弱々しいながらも明るく振舞った。ホセも使用人には丁寧な態度で接する。だがそれは立場の違う人間が、最低限通じる言語を使おうとした時の、そぎ落とされた切れ端のようなものだ。機械や道端の石ころ、あるいはフォークやナイフに使い心地が悪いからといって悪態をついたりしないのと同じ。ニナはそうではなかった。誰のことも、自分と接する数少ない人間として、大切に扱っているように見えた。
 なみなみと、周囲の誰もからありったけのものを注がれて育たないと、こんな人間は出来上がらないだろう。
 ありったけの美徳、ありったけの富、ありったけの愛。
 わたしがこれから一生この体で働いても、手に入れられないもの。
 これまで乱暴に床に押し付けられたり、突き飛ばされたりしてきたわたしの身体は、今や、上質な絹のドレスに包まれ、粉を叩かれ、宝物のように扱われていた。メイドの皆から美しいともてはやされ(それは、わたしがこれまで男からかけられてきた肉体を形容する言葉とは、全く別の種類の賞賛だった)、お嬢様にお似合いの肉体ですよと褒められて、ニナはニナで、新しい身体をとても気に入っているようだった。
 それを見るたび、わたしは言いようのない気持ちになった。
 もしニナが、真実を知ったらどう思うだろう。
 あなたが不幸な中産階級の子女から買い取ったと思っているその容れ物はね、ペニスを日に何本も収容していたのよって。
 何も知らないニナ。
 まがい物を愛するニナ。
 生き残るために、まがい物になったわたし。

「ねえ、リタ……あなた、恋ってした事ある?」
 ニナはバスタブの縁に添えた腕を、壊れ物のように撫でさすりながら言った。
 月の灯りがえぐるようにバスルームの内側を暴いている。大理石のバスタブの縁に手をかけ、空を見上げるニナの姿が光の中に浮かび上がる。バスタブから流れ出た泡が波のように床をたゆたっている。わたしはバスタブの後ろに回り込み、ニナの髪を丁寧に洗っている。ニナの身体に異常がないかを確かめるのも、メイドの役目だ。
「何でそんなことを聞くんですか」
 高級シャンプーのむっとする様な香りに遮られながら、わたしは言った。これがわたしのものだったときは、石鹸しか使ったことがなかった。シャワーで丹念にすすぎ、オイルを馴染ませた櫛で丁寧に梳いてやる。毛先の1本も逃さずに、隅々まで行きわたる様に。
「私たちの年ごろの女の子は、外の世界では恋をするものなのでしょう」ニナは迷いを含んだ声で聞いた。
「教えて。外の世界の普通の16歳は、どんな風に恋をして、どんな風にデートをして過ごしてるの」
「普通の16歳なんていませんよ」
 わたしは少し、ぶっきらぼうに答えた。櫛の歯が止まる。
「それぞれの生活があるだけです。おうちが裕福かどうか、両親が揃っているかどうか、健康か病気か、学校にいけるかどうか、で全然違います」
「そんなに違うものなの」
 ニナは勉強熱心な割には少し、考えが浅いと思う。けどそれはきっと、深く考えられるほど自分とは異なる世界を見たことがないだけなのだ。
「そうですよ」
「それでも少し共通項があるはずだわ」
「アイスクリームが好きとか? お兄さまの長ったらしい話に付き合うのが嫌い、とか? 遠隔授業(テレスクール)の間は靴下を脱ぎ散らかして、先生の話を聞く代わりに机の下で猫をあやしている、とか?」
「それ、全部私じゃない」
 ニナはふくれっ面をしてこちらを見た。
 どきりとした。かわいい、と思った。わたしを買った男たちも、こんな風にわたしを見る瞬間があっただろうか。
「映画を見たり、ドラマを見たりされているでしょう。あれが普通の」
「お兄様はね、あんなの全部フィクションだっていうの。あんなくだらないものが真実だと思うな、って」
 あの極端な兄の言いそうなことだ。
「恋、してみたいんですか」
「してみたいわよ」
 ニナは再び、遠くの空を見た。
「私ね、この身体になるまでは、外の世界にまるきり無関心だったの。ずっとこのタワーの中で一生を終えるんだ、それが当たり前なんだ、って思ってたし、外で何が起きているかなんて、気にしたこともなかった。けど、」ニナはそう言って自分の胸に手を当てた。
「この身体になった後から──ふと、思うようになったの。この身体の元の持ち主は、一体どんな人生を送ってきたんだろう。一体どんな暮らしをして、どんなものを見て、どんなことを感じて、彼女の人生を生きていたんだろう、って」
 それを教えられる人間が、あなたのすぐ後ろにいますよ。そう言いそうになるのを、わたしはぐっとこらえた。
「それで、この前お兄様に無理を言って、1時間だけ車でタワーの外に出たの。もちろん、車窓から眺めるだけよ。──でも、すごく新鮮だった。私ね、外の世界にも、このお家の中みたいに、木や草やお花がたくさん生えてるんだと思ってた。でも、全然違った」
「このお屋敷の環境は、ご主人様がお嬢様のためを思って作られた特別なものですよ」
 わたしは櫛を再び動かし始めた。心臓がどきどきしていた。
 やっぱり、あれは見間違いじゃなかったのだ。
「でも、すごく楽しそうに見えたわ。私と同じ、生身の体の人ばかりじゃなかったけど。みんな生き生きして、すごく楽しそうに見えた。私が知っている世界とはまるで違った。皆、誰かと出会ったり、会話をしたり、一緒に生きるために、暮らしているみたいに見えたわ」
 ニナは上体を起こした。ミルクバスの湯の縁に、2対の乳首がほんの少し覗いている。うそみたいにきれいに見える、わたしの2つの丸い乳房。
「なぜかわからないけれど、この身体を持って以来、外に出たくてしょうがないのよ。もっと外の世界のことが知りたい。……ねえ、リタ、あなたも外の世界では、好きになった男の人とデートしたり、キスしたり、その、」
「セックスですか」
「……」ニナは恥ずかしそうに俯いた。
「したいんですか」
「……」数秒ののち、ニナはまたこくりとうなづく。
「わたしの住む地域では」わたしは努めて冷静に答えた。「皆劣悪な環境で暮らしていますから、大人になるまでに高い確率で病気になります。だから皆、16歳になる頃には身体のほぼ全てを義体化します。義体になれば、生殖もありません。手術時に卵子と精子は凍結され、子供がもし欲しくなったら人工授精して人工子宮で育てます。生身の人間同士のセックスで生まれてくる子供は、わたしたちの住む地域では8%にも満たないのです。──だから、恋愛なんて、存在しません」
「そう」ニナは肩を下ろした。哀れみからなのか、自分が知りたいことを知れないことへの落胆からなのか、わからなかった。
「それは残念なことね」
 わたしはイライラした。純粋に、兄の与えるものを善と信じ、与えられるものだけを享受して生きる、ニナの盲目的な価値観が。
 ぎゅっとニナの髪を絞った。おばあに似て、まっすぐでつるんとして、少し引っ張ったくらいじゃ切れない、丈夫で艶やかな、自慢の髪。今すぐこれを引っ張って抜いたら、ニナはどう思うだろう。──無理な話だ。全ての義体には倫理制御装置(モラリティ)が搭載されている。生身の人間を傷つけようとすれば、たちまちフリーズ。
「……お嬢様にはご主人様が、きっと、とびきりの相手を連れてきてくださいますよ。それまで安心してお過ごしください。この場所は幸せな場所です。幸せというのは、今いる場所をありがたいと思える才能のことだとわたしは思います」
「なんだか、先生みたいなことを言うのね」
「そうですか」
 ニナはバスタブから出た。身体を拭こうとタオルを構えたわたしから逃れ、裸のままガラス窓に近づく。月光に照らされ、濡れた身体は真珠の様に輝いている。わたしだったもの。けどいまは、別の人のもの。
 身体の方だって、元の持ち主のことなんかとっくに忘れているだろう。
「この身体の前の持ち主がね、生きている時、少しでも幸せだったらいいなと思うのよ」
 ニナは静かに振り返る。
「私の知らない世界をたくさん見て、いろんなことを感じていたら良いなって。……不思議な気持ちなの。私は世界に1人しかいない。でも、いまの私は2人分の人生を持っているんだわ」

 ニナが突然、街に行きたいからついて来て、と言い出したのはそのひと月ののちだった。
「16歳の女の子が遊びに行くような場所を見せて欲しいの」
 わたしは二つ返事でOKした。このお嬢様が見たがるようなところを、数カ所車で巡って帰るだけだと思っていたのだ。〝車〟に乗るのも楽しみだった(乗り合いジプニーではなく)し、ずっとタワーの中にいるのも気が滅入る。
 だから、繁華街のど真ん中で、ニナがいきなり運転手から鍵を奪ってドアのロックを外し、外へと転がり出たときには心臓が止まるほど驚いた。
「お嬢様を止めろ!」運転手も使用人もそう叫んだが、なかなか外には出ない。半端にしか義体化していない彼らにとって、繁華街はウイルスのるつぼだ。そんな所にみすみす飛び込んでも行かれない。
 仕方がない。一息遅れて、わたしも車の外へと転がり出た。途端に蒸し暑い空気がむわりと体を押し戻してくる。排気ガス、屋台のホットドッグ、チーズソースの匂い。安っぽい香水の香りが入り混じる。嫌悪感で、思わず存在もしない胃の中のものをぶちまけそうになった。数ヶ月出ていなかっただけで、わたしはタワーの清潔な空気に慣れてしまったらしい。汗と雑菌にまみれた繁華街を、ニナは走ってゆく。
 タバコの匂い。汗の香り。けたたましい笑い声。
「ニナお嬢様!」
 ニナはあっという間に人混みをすり抜け、どんどん遠ざかる。あの身体のどこにあんな力があるのだろう。大通りを走りきり、人混みの途切れたあたりで追いついた。ニナの口には超小型の酸素ボンベが装着されている。最初からこの抜け出しを計画していたのだ。
「お嬢様、お願いです、お戻りください」
 ニナは嬉しそうな顔で笑った。
「やっと来たわ」
 街行く人々を見れば、義体化率は50%といったところだった。高額なワクチンや投薬を受け、生体をそこそこ維持できるくらいの小金持ちたちが好むエリアなのだろう。とりわけこの辺りは年ごろの女の子に人気のスポットで、アイドルグッズを売る店や、アイスクリーム店、雑貨店、服屋が所狭しと並んでいる。わたしはもちろん、来るのは初めてだった。カフェでコーヒー1杯飲むのに、おばあとわたしを合わせた3日分の食費ぐらいする。
「ねえ、1時間だけでいいから付き合って頂戴な。──1時間経ったら、必ず戻るから」
 わたしは彼女に従うことにした。無理に連れ戻そうとして反抗されるより、1時間経って車を呼んだ方が面倒なことにはならなそうだと思ったからだ。もちろん、ホセにはこっぴどく叱られるだろうけど。
 ニナは近くにあるカフェを指差して、ここに入ろう、と言った。
 カフェ店員はわたしたちを見て嫌そうな顔をした。安物外殻を纏ったわたしが、常客たちより低い身分であることは一目でわかるのだろう。その上、何世紀も昔のメイド服を着ているなんて、奇天烈もいいとこだ。ニナは気づいていないのか、わたしの腕をとると「あそこにしよう」と中央の1番いい席に強引に連れていった。柔らかな胸が、わたしの金属の腕に当たる。
 わたしたちは向き合って2人がけの席に座った。わたしだけじゃない、古典趣味の服装のニナも、店内でとても浮いている。ニナはケーキセットを注文した。店内は海中をイメージした内装で、深く沈み込むようなブルーの照明が、心地よく神経を撫で下ろした。ホログラフのフェイクフィッシュが店内を泳ぎ回り、時折ニナの体を通り抜ける。軽やかなリラックスポップが流れ、椅子はフカフカで、とても居心地がいい。
 やがて注文の品が運ばれてきた。着色料だらけのソーダ水を飲み、フェイクフルーツで飾られたタルトを一口食べて、ニナは美味しい、と顔をほころばせた。栄養士が指定していないものを食べたことがバレたらクビになるかもしれない。けど、まあ良いか、とわたしは思った。
「ねえ、リタ、リタはどんな食べ物が好きだった?」
「そうですね、K・F・Cの骨つきチキンと、クイーンバーガーのメガワッパーが好きでした」
 ……ゴミ山に放り投げられた生ゴミの袋の中から、まだ食べられるハンバーガーを見つけた時の嬉しさったら。
「それを山ほど食べることが、肉体を持っていた時の夢でしたね」
 今、ニナが食べているケーキだって、もしも肉体があった頃ならきっとよだれを垂らして見つめていただろう。今は、なんとも思わない。義体は充電によって動くし、脳は高濃度栄養ゼリーを注入することで維持していた。しかし食欲中枢は一体どこと繋げられたのだろう。バッテリーを消耗し残量が減った時の、クラクラするようなめまいと飢餓感。偽の生理的欲求に悩まされる 〝幻欲〟 は、義体化したばかりの人々を悩ます症状だった。
 ニナは、今まで見た中で1番楽しそうだった。周囲の客を眺めては、いちいち驚いたり、喜んだり、物珍しそうにしている。
 瞬きを3回して、ニナの姿の写真を撮った。ニナがこちらを向く。
「満足ですか」
 ニナはこくりと頷く。
「私ね、前の身体の時は、病気のせいでずっと寝たきりだったの。子供なのに、おばあちゃんみたいにしわくちゃで、ガリガリで、髪も抜けてて…自分でも自分が美しくないって知ってた。顔を合わせるのなんて、お医者様と、画面の向こうで勉強を教えてくれる先生くらいだったけど、すごく惨めだった。友達もできなかった。作りたくなかったの」
 ニナの指先が細かく震えている。
「だからね、健康な身体を、お兄様が買い与えてくださった時、すごく嬉しかった。目が覚めて、鏡を見たとき、ああ、やっと私は私の人生を生きられるって思った。私、本当にこの身体が手に入って幸せなの。腕も足も長くって、肌も髪もすごく綺麗」
 ニナはそう言って、結った髪の毛先を指先でつまんで持ち上げ、じっと見つめた。
「でも、それだけじゃないの。──以前はね、みんな、私の外側しか見なかった。『病気のかわいそうな女の子』か『H/T社のCEOの妹』のどっちかよ。少なくとも、この身体が手に入ってから、前者は解消されたわ」
 ニナは嬉しそうに微笑んだ。わたしも思わず笑顔を作ろうとした。外殻には表情筋がないから、無理だったけど。
「この身体は私に生きる理由を与えてくれた。この身体のおかげで私は普通の女の子になれたのよ……だからね、この身体の持ち主がしたかったことをしたいなって思うし、この子の分まで生きたい。この子と一緒に、幸せになりたいの」
 一体誰の物語を聞かされているんだろう。目の前にあるのは確かに元のわたしの身体だ。でも今はわたしのものじゃない。わたしが値段をつけて売った。ニナはわたしの身体を手に入れ、偽の物語を生きている。手に入れた生を、手に入れたモノを、精一杯に使って生きようとしている。
「ねえ、リタは? リタには何か、夢がある?」
「夢……」
「そう、これから先、やってみたいことがある?」
 これから先、わたしはどうするのだろう。
 生身の身体だった時は、ただただ、義体が欲しくてしょうがなかった。それが果たされた今、身体から自由になった今、わたしは一体どうしたいのだろう。わたしは今、一体何をやっているんだろう。売り飛ばした身体の持ち主に近づいて、どうしようと言うのだろう。

 カフェを出ると空が曇っていた。いつもの淀んだ空がさらに濁り、ものすごい速さで雲が流れている。
 スコールだ。わたしは焦った。生身の身体に高濃度の酸性雨は毒だ。早く車を呼んで、タワーまで帰ろう。そう思ってメディアパネルを立ち上げたその時、
「ニナ」
 呼ばれて振り返った。2人の体格のいい男が、道の向こうからわたしを見ている。
 片方は顔中傷だらけで、首から肩にかけてびっしりとタトゥーが入っている。もう片方はより身長が高く、髭を無造作に伸ばしていた。上腕二頭筋のあたりから下は軍事用のフルメタル装甲に義体化している。2人ともに見覚えがあった。──わたしが小屋にいた頃の常連客だ。軍上がりで、他の店を出禁になるような素行の悪い奴ら。
「おい、ニナ」
 2人はわたしに一瞥もくれず、素通りしてニナに近づいた。──そうだ。今はわたしじゃなくて、ニナがニナなんだ。
 ニナはきょとんと2人を見る。
「お前、最近小屋じゃ見かけねえけど、何やってんだよ」
「なんだよその服は。似合わねーもん着ちまってよ」
「暇なら俺たちに付き合えよ」
 やばい。わたしはとっさにニナと男たちの間に入ろうとする。
「どちら様でしょうか」
 ニナが先に口を開いた。2人は同時に眉をひそめた。からかわれたと思ったのだろう。「おいおい、そりゃないぜ。上客の名前忘れたってえのかよ。あんだけひいひいヨガらせてやっただろうが」
 記憶が蘇る。筋肉自慢のつもりなのか、後背位で腕がもげそうなほど引っ張られ、しばらく使い物にならなかったこと。無理な体位で首が折れそうになった時のこと。太い指で引っ掻き回されて血が止まらなくなった時のこと。そのくせ「お前も気持ちよくしてやったんだから、料金をまけろ」と言われたこと。
「店の外じゃ他人ですってか? つれねえな」
「もっかいやれば思い出すだろ。ほら、行こうぜ」
 タトゥーの方がニナの腕を引っ張った。ニナがきゃっと声をあげる。
「お嬢様!」
 わたしは慌てて止めに入った。
「はぁ? お嬢様? この1発8ペソの安マンコが?」
 なんだよこいつは、そう言いながら髭の男が太い義腕でわたしを突き飛ばした。ギンと嫌な音が響く。わたしの軽い義体はたやすく弾かれ、建物の壁に激突する。金属の体は何も感じない。そのはずなのに、海馬が勝手に吐き出す痛みが全神経を引き絞り、ありもしない心臓をぎゅっと縮み上がらせる。体が震えて言うことを聞かない。脳のどこかに閉じ込めていた恐怖が溢れ出て、全身を支配する。
 幻だ。これは。神経のエラーだ。いまのわたしが感じているわけじゃない、幻なんだ。
「ちょっと、何するの!」
 腕を掴まれたニナが、わたしを突き飛ばした男に食ってかかった。
「私のメイドに乱暴しないで!」
「はあ? メイドだあ?」2人の男がせせら笑う。「おい、ニナ、俺たちをおちょくるのもいい加減にしろよ。売り上げが苦しいからって2発目ねだってきた時に付き合ってやったのは誰だ。クソ娼婦の分際で、俺たちに舐めた口利くと……」
「いい加減にしなさい!」
 ニナが大声で叫んだ。2人の男は思わずぽかんとする。
「口を慎むのはあなたたちの方です。あなたたち、さっきから女性を侮辱的な呼び方で呼んで、恥ずかしくないんですか。誰かに構って欲しいのなら、最低限相手を尊重したやり方があるはずです。それがわからない人のこと、構ってちゃんって言うんですよ。私だって、それぐらい知ってます」
「お前、ぶっ殺すぞ」ニナの腕を掴んでいた男が拳を振り上げた。
 危ない!
 次の瞬間、ばち、という破裂音がして、男の体が跳ねた。ニナが男の顔に向かって拳を突き出している。中指の第二関節には大きな飾りのついた金属の指輪が光っている。超小型のスタンガンだ。
 男は大きく体を反らせたまま地面に倒れこんだ。全身をビクつかせ、口から泡を吹き始める。股間のあたりにたちまち水溜まりができた。
「乱暴な人間は、私嫌いです」
「てめぇ、何しやがる」わたしに向かっていた髭の方の男が、ニナに向かって掴みかかる。わたしは体を起こした。立ち上がりざま、地面を思い切り蹴る。ニナが拳を受ける寸前、わたしの体当たりが男の胴にめり込んだ。
「ぎゃっ」
 男とわたしはもつれ合いながら地面に倒れる。
「リタ!」
「ニナ、逃げて!」ニナは一目散に走り出した。わたしも後に続く。「お前ら、ふざけんなよ!」後ろから男の声が追いかけてくる。ニナに追いつき、身体を抱きかかえた。義体の方がスピードも腕力もスタミナも高い。そのままニナを肩に担いで走りだす。
「このくそアマ! 次会ったらただじゃおかないからな!」
 掠れた男の声が遥か後方に消えてゆく。無我夢中で走り続け、寂れた街外れの路地裏でやっとわたしはニナを降ろした。
「ここまでくれば大丈夫です」
 ニナは荒い息を吐き、さっき起きた出来事を反芻しているのか、呆然とした顔で地面を見つめている。
「とんだ目に遭いましたね……すみません。わたしの対応がもっと早ければ」
「……私は平気。それよりリタは大丈夫?」
 だいじょうぶです、そう言いかけた瞬間、急に目の前が暗くなった。猛烈なめまいと飢餓感。足の力が抜け、ふらふらとよろめいた。視界が明滅する。もしや、と思いパネルを開くとバッテリーランプが点滅していた。残り1%。
 まずい。ニナを抱えてダッシュしたせいだ。
 がしゃん、と音を立てて、わたしは地面に倒れこむ。同時に雨が降り始めた。まずい。ニナを早く、安全なところに──。
「リタ! リタ!」
 ニナがしゃがみこんでわたしを揺さぶる。
「……お嬢様、お願いです、あそこに」
 わたしは最後の力を振り絞り、雨に霞む景色の中、ぼんやりと灯る看板を指差した。

「災難だったわね」
 シャワーを浴びたニナがバスローブ姿で脱衣所から出てきた。部屋の中、ぼんやりとニナの体が動くのが見える。ダウンライトだけを灯した室内は薄暗い。わたしはベッドの上で、充電プラグを腰に差して寝転んだまま、横目でニナを見た。
「すみません。こんなに早くバッテリーが切れると思っていなくて」
「いいのよ。それより、巻き込んで悪かったわ」
 ニナは冷蔵庫から水を取り出して一口飲むと、まだ半乾きの体のまま、わたしの隣に寝転んだ。
「1度ね、何もかも自分で決めてみたかったのよ。……お兄様は言うでしょ。健康な肉体こそ、人間の作り出す至高の美だって。確かにそうかもしれない。けど、今のわたしに自分の意思はないわ。食べるものも、着る物も、やることも、全部。1度でいいから、私は私の身体を好きなようにしてみたかったの。それだけなの」
 ニナの服とメイド服はクリーニングに出した。あと数時間で乾くはずだ。円形のベッドはぺらぺらのベッドシーツとカバーがかかっていて、消毒薬のきつい匂いがする。狭い部屋はほとんどベッド1台がぎゅうぎゅうに占領している。薄い壁の向こうからは、下手くそなカラオケの声と、シャワーの音が一緒くたになって響いてくる。天井は悪趣味な鏡張りで、ぼやっとしたわたしたち2人の姿が映っていた。この体になった今、もう2度と用もないだろうと思ったこの施設に、ニナと2人で入ることになるとは。
 それにしても、とニナは言った。
「あの人たち、なんだったのかしら。すごく怖かったわね。……なんで私の名前を知ってるんだろう。知り合いと間違えた? ううん、そうじゃないわよね……」
 ニナはそのままブツブツとひとりごちている。
 わたしは黙る。鈍いニナも、これで少しは自分の身体の秘密を疑うはずだ。ニナが兄に調査を依頼し、エージェントの嘘がばれ、莫大な違約金請求とともに体は返品・交換される。そうなれば、わたしは。
「……ごめんね、リタ。あなたまで怖い目に遭わせたわね」
 ニナはわたしの方を向くと、片手でわたしのほおを撫でた。顔が近い。
「いいんです。お嬢様」わたしは上体をひねってニナの方を向く。
「それより、これでわかったでしょう。外の世界は、あなたが思うほどいいところじゃないんです。これに懲りたら、もう2度と」
「……ええ、そうね。これまで知らなかったことがよくわかった」ニナは言った。さっきよりも力がこもった声で。
「女性の肉体を持っている、ただそれだけのことで、外では怖い思いをする可能性があるってことが」
「……そうですよ」
 わたしは答えた。同時に、なぜだか苦しくなった。わたしが責められているわけじゃない。なのに、なぜだかわたしがニナに怒られている気がした。
「おかしいわよ」ニナが体を乗り出してきた。
「なんで? どうして? 同じ人間なのに、片方が片方に怯えて暮らさなきゃいけないなんて、絶対におかしいわよ。どうして社会はそれを許しているの」
「……おかしなことは、金になるんですよ、お嬢様」
「どういう意味」
「おかしなことを許すことが、金になることもあるんです。わたしたち底辺の人間は、そうすることでしか金を稼げないこともあるんです」
「けど」
「いいんです。それを労働と呼んで、耐えるだけの人生もあるんです。お嬢様は知らなくていい」
 わたしは天井を見た。ニナの顔を見られない。
「わかったら家に帰って、今日のことは忘れることです」
 ニナは眉根を寄せ、わたしを見つめている。ニナが傷ついた顔をしているのが、なぜだろう、たまらなく嫌だ。
 さっきだってそうだ。ニナが男たちに傷つけられるのが、わたしは、たまらなく許せなかった。
「──わたしは」恐る恐る口を開いた。
「この体を買うために、身体を売って金を稼いできました」
 途端に黒い鉛のようなものが、ずん、と胸の内側に落ちてきた。フラッシュバック。とっくに捨てた身体のはずなのに、感覚はリアルで重くて苦しい。
 こうするしかなかったから。
 わたしにはそれしかないから。
 ニナの顔がこわばる。失望されるだろうか。でも、それでよかった。もう終わりにしよう。どうせ、妹を危険な目に遭わせたことで、すぐにクビになる。
「わたしのいる世界では、それが当たり前です。少なからず身体は何かと交換するものだからです。あなたたちが学力や知識や立ち回りを売るのと同じで、わたしたちはそこにあるものを利用する。それだけのことです。今だってそうです。価値のあるものは売ればいい。肝心なのは、それが等価交換になることはほぼまれってことです。お嬢様は、そういう理不尽な目に遭ってないからわからないでしょう。けど、そうなんです。怖い目に遭うのも、痛い目に遭うのも、辛い目に遭うのも、それが等価交換でないからなんです。おかしいと思うかもしれません。でも、おかしいことは金になるんです。おかしなことを許すことで、わたしたちは金を稼いでる。そうすることでしか、できないんです。……それを、軽蔑されたところで、その事実は変わらない」
 一気に言った。胸の重みが熱くなる。出口を求めている。けど、言葉にはならない。ざらついた音(ノイズ)だけが、口腔スピーカーから漏れ出る。
「それを許すこと自体も間違っているかもしれません。けど、間違えるだけの人生もあるんです」
「つまり、あなたはお金のために」
 ニナが眉をひそめた。
 わたしは目をそらす。
「嫌なことや辛いことを、これまでたくさん我慢してきたのね」
 不意に、白くて柔らかなものがわたしの視界を包んだ。ニナの胸だ。ニナがわたしを抱きしめている。
「偉いわ。リタ。あなたはすごく偉い。私なんかよりもずっと」
 不意に、視神経に熱が走るのを感じた。出るはずのない涙が行き場を探してさまよっている。これも幻覚だ。これまでの記憶を捨てきれない脳が起こしているバグだ。でも、たまらなく熱い。
「あなたのことを話してくれてありがとう。いろんなことを教えてくれて、ありがとう」
 ニナを恐る恐る抱きしめ返す。ニナの身体は柔らかい。重くて厚くて、わたしだったときより丸みがある。元はわたしの身体。でも、いまは、違う人間のからだ。
 そっと、覆いかぶさるニナの髪に触れてみた。金属の無骨な指の間からさらりと髪がこぼれ落ちる。
「あなたと一緒にいるおかげで、私、色々なことを知ったわ。街中にこんなに小さなお部屋を貸すところがあるなんてことも」
 ニナは思い出したように言うと、顔を上げて天井を指差した。
「見て、鏡がついてる。自分がお昼寝するところを、鏡で見たい人なんているのね」
「ここはセックスするための場所ですよ。お嬢様」
 わたしは言った。ニナは驚いてこちらをみる。「街中でセックスしたくなったときに、入るための場所です」ニナが赤くなった。「そう、なの」身体を折り曲げて、もじもじしている。
 わたしはニナの手を取った。視線が絡まる。
「お嬢様、セックスもしてみたいって言ってましたね」
「う、うん」
「真似事だけでもしてみますか」
 え、と言う小さな声が聞こえた。わたしはニナに覆いかぶさる。ぎゅっと抱きしめた。ニナがあ、と声を出した。頭に当てたままの手を動かして、優しく頭皮に指を這わせる。耳の後ろから首筋へ。首筋から背中へ。ニナの体の輪郭に添って、薄い空気の層を撫でるように。義体の指先はつるりとしていて引っ掛かりがない。むしろ好都合だ。
 あ、あ、ニナが声帯を震わす。濡れた口の中から舌がのぞいている。乳房の下線を、脇からカーブに合わせてくすぐるように撫でた。ニナの身体が跳ねる。谷間から脇腹に避け、ウエストのラインから鼠蹊部へ。太ももの内側を撫で下ろしたら、また乳房の脇へ。何度も繰り返す。中心は後回しだ。いきなり女の体の真ん中に突き進む男は、女のことを何もわかってない。女の身体は、どこだって境界が1番良いのに。
 はあ、と喘ぐ声が聴覚に刺さる。やがて手のひらを足の間に滑り込ませた。まだ、触れない。皮膚に指先が届く、0.1ミリ手前を撫で続ける。ニナが足をこすり合わせる。本当に優しくしたかったら、迂闊に触れてはいけないのだ。
 小屋の女の子とは、売春を始めた頃によくセックスの真似事をした。最低限何をやれば自分の身を守れるか。男に致命傷を負わされずに済むか。どうやってつまらない男をやり過ごすかを共有した。思い出す。まだ身体がいまよりもっとふわふわだった頃、身体の上を拙く這った、柔らかい舌。細い指。皮膚の上を行き来する髪の先。自分を守ることで精一杯だった、あの子やあの子やあの子。
 ニナの足の間から水が溢れる。わたしは上体を起こし、ニナの下半身を覗き込む。指をくぼみに差し入れると、ピタリとはまる箇所があった。ニナが甘い声をあげる。足先まで力が入り、細かく震えた。自分の身体のいいところは、自分が1番知っている。相手にどうされたいかだって。
 ニナが絶頂した。手足を投げ出し、荒く息を吐く。その瞬間、わたしの脳にも弾けるものがあった。じんじんと、そこにないはずの身体中の神経が暴れる。毛穴1つない肌から、汗が噴き出す心地がする。潤んだ1対の目がわたしを、恍惚とした、けど、澄んだ視線で見ている。ニナを再び抱きしめた。ニナもしがみついてくる。何かが視神経から溢れ出そうで、でもそれは決して有機物にはならなくて、脳の付け根であつくじんじんと行ったり来たりする。光が目の中で跳ねた。何かが解き放たれ、金属の身体の内側で何かになって弾ける。力が抜け落ちる。
「ありがとう。リタ」
 ニナがわたしを抱きしめたままキスした。

 ──ああ。

 わかった。

 わたしがなぜ、捨てたはずの元の肉体に、ここまで執着したのか。

 なぜ、ニナに近づきたいと思ったのか。

 わたしはこんな風に、1度でいいからだれかに抱きしめられたかったのだ。

 1度でいいから、わたしはわたしの肉体が、こんな風に誰かに大切に扱われているところをこの目で見たかったのだ。

 ニナとわたしはタワーに戻った。
 思った通り、ホセからはこっぴどく叱られた。てっきりクビになるだろうと思っていたが、ニナが泣いてわたしをここに置くようホセに頼んだらしく、わたしは追い出されずに済んだ。
 ニナはわたしをますます側に置くようになった。
「このままずっと一緒にいてね、リタ」
 それを聞くたびわたしは嬉しくなったが、一方でわたしがニナの元の身体の持ち主だとは伝えられずにいた。
 あるとき、ニナはわたしに彼女の母親の形見である真珠のネックレスをくれた。
「たくさんあるし、あなたの好きなのを1つあげるわ」
 似合わないし、もったいないから、と言って断ったが、ニナはいいの、と言って強引に真珠の束を押し付けた。
 たくさんあるうちから1つ、迷った末に選んだ。1番小ぶりで控えめなものだ。ニナは嬉しそうにわたしに後ろを向かせ、首にネックレスをかけてくれる。合金アルミの寒々しいデコルテは、せっかくの真珠の光を素っ気なく跳ね返す。
「うん、似合うよ」そう、ニナは言ってくれたけど、鏡の中に写るのは、相変わらず性別も判断不能なロボットの顔で、優しい風合いのパールは不釣り合いにしか見えなかった。

 突然ニナが自室から出ることを禁じられたのは、それからすぐのことだった。
 表向きは、新型ウイルスの流行がきっかけだった。外の世界ではまた新しいウイルスが発見され、拡散しているという話題で持ちきりだった。とはいえ数年に1度は同じような事態が起き、その度に人が大量に死ぬのだから、季節行事みたいなものだ。しかし、ホセの処置はあまりに厳しい。一体なぜ彼が突然そんなことを言い出したのか、わたしにはわからなかった。ニナが相変わらず外の世界に強い関心を持っていることと、いくらか関係があるかもしれなかった。
 わたしはニナの部屋付きのメイドではなくなり、料理番に回された。コック長の下で、ジャガイモの皮を剥いたり、ロブスターの殻を砕いたりする。朝から晩まで忙しく、厨房から出ることすらままならない。手先の不器用なわたしには向かず、たちまち邪魔者扱いされたが、元の役目に戻してはもらえなかった。ニナは部屋に閉じ込められ、顔を合わせることすらなくなった。
 ニナの食事は、毎度半分以上残されて戻ってきた。ニナの異変を感じて、わたしの気持ちはざわめいた。とても奇妙なことだけど、わたしの体はその頃から幻痛を覚えるようになった。神経系の誤作動(バグ)であることは間違いない。けれどもときおり、とりわけ夜中にメイド部屋で雑魚寝している時なんかに、突然、鋭い痛みが体じゅうを走るようになり、わたしはよく眠れなくなった。

 ある日の深夜、突然わたしは飛び起きた。背中に大量の汗をかいている様な気がして腕を回したが、金属の体が液体を出すはずはなかった。にもかかわらず、この嫌な感覚はなんだろう。
 わたしはメイド部屋をそっと抜け出した。廊下は真っ暗で静まり返っている。階段を上がり、広間を抜け、ニナの寝室に向かう。ニナの部屋は、この家の1番奥だ。
 ニナの部屋の前に来た。ドアの外に張り付いて耳を澄ませる。中からホセの声が聞こえて来た。ニナの声は聞こえない。なぜ、この時間に彼が──。
 続いて何かが床に落ちるがしゃんという音。ニナの、何かを懇願するような細くわななく声。
 わたしはドアを引いた。内鍵がかかっている。おかしい。ニナはいつも鍵を掛けない。わたしがいつ部屋に入って来てもいいようにと。メイド部屋から持ち出したマスターキーを使い、鍵を開けた。中に足を踏み入れる。
「お嬢様、いかがなさいましたか」
 ニナのキングサイズのベッドの上で、ホセがニナを襲っていた。あっと声をあげる。ホセが振り返る。汗ばみ、目が血走っている。感情を無くし、代わりに何かに取り憑かれた様な目だった。この目をわたしは知っている。これまで何百何千とわたしに注がれてきた、1つとして違いのない、相手をモノの様に見る、彼らの目。
「何してるんですか」わたしは言った。ホセの下のニナと目が合う。恐怖に見開かれている。「……言えよ。ニナに何してる」
 ホセは何が起きているのかわからない、と言った顔で起き上がると、ニナに跨ったままこちらを向いた。はだけたナイトガウンの隙間から、行き場を無くしたものが頭をもたげている。
「なんでもないよ……ニナがね、急に錯乱したから、鎮めてたんだ」ホセは言った。食べ物を盗もうとしているところを見つかった野良犬のような顔つきで。
「リタ、助けて!」ニナが叫んだ。ホセの身体を突き飛ばそうとする。
「騒ぐな!」ホセが叫んでニナを打った。乾いた音が響く。「お前が言うことを聞かないから!」
「ニナから離れろ!」
 わたしは叫んだ。「ニナが嫌がってるじゃないか!」外殻を溶かして溢れそうなほどの怒りが体じゅうに燃え広がる。
「ああ……お前、ニナに余計なことを吹き込んだメイドだな」
 ホセはベッドの上に仁王立ちになった。
「いいか、ニナはな、俺の妹なんだ。俺の唯一の肉親なんだ。ずっとこの家で暮らせばいいんだ。外に出たり、あまつさえ恋愛なんて絶対に許さない」
「それはあんたが決めることじゃない。ニナが自分で決めることだ」
 はぁ、とため息をつくと、ホセはベッドから降りた。ズカズカと近づいてくる。
「話にならないな……おい、お前、いくら欲しい」
「は」
「いくら欲しいと言っているんだ。給料をあげてやる。だから今見たことは黙って」
「ふざけるな!」
 わたしはホセに掴みかかった。肩に手が触れる寸前、急にバスが急停車した時のような衝撃が体に走った。力が入らない。フリーズだ。倫理制御装置が発動している。
「いいかね、ニナの身体は私が大金を積んで買ったんだよ、私が買ったものを、私が好きにして何が悪い」
 ホセの手がわたしの首を掴んだ。ドアに押し付けられる。ホセの力は強い。わたしの体は操り人形のように脱力したまま、されるがままになっている。
「お前にはわかるまいよ……私がニナの擁護者として、どれほどニナを思っているか」
「……それでも、いまはその身体はニナのものだ」
 わたしは言った。
「あんたのものじゃない。ニナだけが好きにしていいんだ。ニナに触るな」
 不意に、どんという衝撃が走った。ぎゃっと叫んでホセの身体が崩れ落ちる。ニナがホセの後ろに立っていた。車輪を猛烈に回転させた自動車椅子が、ホセの身体を轢いている。
「リタ、逃げよう!」
 ニナに手を引っ張られ、一目散に廊下を駆け出した。
「おい、捕まえろ!」
 ホセの怒鳴り声に応えるように廊下に一斉に灯が点いた。足音が四方から響き渡る。
「メイドが急に暴力を振るったんだ。捕まえろ。破棄だ、破棄」
 エントランスへと走った。すでに何人もの警備員が塞いでいる。だめだ。引き返し、螺旋階段を上へ上へと駆ける。
 最上階の庭に走り出た。ガラスのドームに覆われた天空の温室は静かで、空間を埋め尽くす植物たちは彫刻のように静止している。端正で、綺麗で、けど、それは死んだ美しさだ。
 ホセと警備員たちが駆け込んで来た。壁際に追い詰められる。下を見れば、気が遠くなるほど下の方に、街の夜景が輝いている。
「そいつ、ニナを攫おうとしたんだ。早くぶっ殺せ」
 ホセがずかずかと近づいてくる。手にはぶっとい銃が握られている。義体用の電流弾が籠められた銃だ。あれを打ち込まれたら、体中に高圧電流が流れ、脳まで焼き切られて終わり。
「いいか、この屋敷の中で起きたことは、全部俺の一存でなかったことにできるんだ。お前の命さえもな」
 ホセはそう叫んで銃をぶっ放した。わたしはとっさにニナを抱えてしゃがみこむ。バリン、と凄まじい音がして、わたしのすぐ後ろで分厚いガラスの壁に亀裂が走る。
「H/T社の義体なしに生きられないクソ貧乏人が、俺に楯突くな」
「お兄様、やめて!」ニナが叫んだ。
「ごめんなさい、もう絶対に逆らわないから、外に出たいなんて言わないから、リタを許して。ごめんなさい、ごめんなさい、なんでもします」
「ニナ、思ってもないこと言わないで」
 わたしは言った。もし降参したところで、ホセは醜聞を恐れてわたしを殺すだろう。金持ちが役に立たない貧乏人を切り捨てるときの冷酷さは、わたしが何より知ってる。
 ならば。
「せっかく手に入れた身体なんだから、わたしの分まで大事にしてよ」
 ゆっくりとかがみ、膝下に力を込める。H/T社の最高技術で作られたこの義体は、最後まで持ち主の期待通り、最高の動きをしてくれるはずだ。
 ニナを思い切りホセに向かって突き飛ばした。ニナはよろけて地面に転がる。一瞬彼らがひるんだ隙に、わたしは駆け出す。目指すは庭の入り口じゃない。さっきホセがぶち開けた、背後の風穴だ。
「あ、おい!」
 渾身の力でガラスの亀裂に向かって突っ込んだ。がつん、という衝撃と、ガラスの砕け散る轟音とともに、わたしの体は宙へと放り出される。一瞬、なにもかもから解き放たれた気持ち良さを感じた。次の瞬間、わたしの体は暗い夜空を真っ逆さまに落ちはじめる。
 地上まであと1000m。ニナの金切り声が足裏の向こうから追いかけてくる。重力は感じる。怖さは感じない。メディアパネルを立ち上げた。SNSの画面を開く。カメラロールに保存された、ホセがニナの身体の上に跨ったまま裸で喚く写真を添付する。
「ヒューマンテック社のCEOが妹をレイプ」
 音声入力は瞬時にわたしのつぶやきを文字に変える。送信ボタンを押す。0.5秒の後に送信完了のマークが表示された。明日の朝には大ニュースだ。

 バイバイ、ニナ。

 わたしは顔をあげた。
 おびただしい量の光の洪水が、下から上に向かって流れてゆく。
 涙のように、視界を埋め尽くし、まぶたの裏に溢れかえる。
 地上の光だ。
 わたしが生まれた場所の。

 永遠とも思える数秒を経て、小さなわたしの体は光の海に吸い込まれてゆく。

(完)


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ピュア

著者略歴 小野美由紀(おの・みゆき)
文筆家。1985年生まれ。慶應義塾大学フランス文学専攻卒。2015年2月、デビュー作エッセイ集『傷口から人生。メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』(幻冬舎)を刊行。他に、絵本『ひかりのりゅう』(絵本塾出版)、旅行エッセイ『人生に疲れたらスペイン巡礼~飲み、食べ、歩く800キロの旅~』 (光文社新書)、小説『メゾン刻の湯』(ポプラ社)などがある。官能SF小説「ピュア」は、早川書房「note」歴代アクセス数第1位の20万pv超え、書籍版『ピュア』(早川書房)はApple Books「2020年ベストブック」に選出された。
note:https://note.com/onomiyuki Twitter:@Miyki_Ono

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