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ダーウィンの類いまれな破壊的能力とは自然を〇〇としてとらえる能力にほかならず、それはメンデルに備わった能力と同じだった。『遺伝子―親密なる人類史ー』第1部②

ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー1位、ビル・ゲイツが年間ベストブックにも選出した名著遺伝子―親密なる人類史ーが待望の文庫化! 刊行にあたり、本書の第1部「遺伝学といういまだ存在しない科学――遺伝子の発見と再発見(1865~1935)」を、権利上可能な限りのところまで数回にわたり連載します。前作『がん―4000年の歴史ー』でピュリッツァー賞に輝いた著者(現役医師)の圧倒的なストーリーテリングをお楽しみください。

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謎の中の謎

……ジャングルのアルビノの猿の心に行き着くまで
あらゆるものは闇雲に転がっている
それでもやはり猿は手探りし、失敗する
ある年にダーウィンが地上に現れるまで
                ──ロバート・フロスト
       「たまたま故意に(Accidentally on Purpose)」

一八三一年の冬、メンデルがまだシュレージエンの学生だったころ、修行中の若き聖職者チャールズ・ダーウィンは一〇門の砲を搭載したチェロキー級ブリッグ、ビーグル号に乗船してイングランド南西のプリマス港を出港した。著名な医師を父と祖父に持つダーウィンはそのとき二二歳だった。父親譲りの角張ったハンサムな顔立ちと母譲りの滑らかな肌、そして何世代にもわたるダーウィン家の特徴である垂れ下がった濃い眉が印象的だった。エディンバラで医学を学んだものの、「手術室で耳にする、ひもで縛られ、血と骨粉にまみれた子供の叫び声」に耐えきれずに、半ば逃げるようにして医学から離れ、ケンブリッジ大学クライスト・カレッジで神学を学びはじめた。だがダーウィンの興味の対象は神学の域をはるかに超えていた。シドニー通り沿いのたばこ屋の階上の部屋で、彼は昆虫を集めたり、植物学や地質学を研究したり、幾何学や物理学を学んだりし、神や、聖なる介入や、動物の創造について熱い議論を展開した。神学や哲学よりも自然史(体系的な科
学原則を用いた自然界の研究)にひきつけられた彼は、植物学者で地質学者でもある聖職者のジョン・ヘンズローの弟子となった。ヘンズローはケンブリッジ大学植物園の園長をつとめており、ダーウィンは屋外の広大な自然史博物館であるその植物園で、植物や動物の収集、識別、分類について初めて学んだ。

学生時代のダーウィンをとりわけ夢中にさせた本が二冊あった。ひとつはダルストンの元教区牧師ウィリアム・ペイリーが一八〇二年に出版した『自然神学』で、ダーウィンはペイリーの主張に深い共感を覚えた。その本の中で、ペイリーはこう書いている。荒れ地を歩いているひとりの男が地面に落ちている時計に気づいたとする。男は時計を拾い上げ、中を開けてみる。するとそこには歯車でできた複雑な構造があり、それらが回転することによって、時を伝える機械が生み出されている。このような複雑な機械について説明するには、時計職人の存在がどうしても必要だ。ペイリーは、それと同じ理論が自然界にもあてはまると考えた。「頭をまわす際に中心となる軸や、股関節腔の中の靭帯」といったような、ヒトをはじめとする生物の各器官の精巧な構造から考えうるのは、ただひとつの事実だ。あらゆる生物はきわめて有能な設計者、つまり聖なる時計職人である神によってつくられたのだ。

二冊目の本は一八三〇年に出版された天文学者ジョン・ハーシェル卿の『自然史哲学研究に関する予備的考察』で、ハーシェルはその本の中で、過激なまでに斬新な考えを提唱していた。自然界は一見きわめて複雑に見えるが、科学を用いれば、そうした表面的には複雑に見える現象を原因と結果に分けることができる。動きは物体に力が加えられた結果であり、熱はエネルギー移動に関係しており、音は空気の振動によって生まれる。化学的な、そして最終的には生物学的な現象も、原因と結果のメカニズムで説明することができるはずだとハーシェルはほぼ確信していた。

ハーシェルがとりわけ強く興味をひかれたのは生物の創造であり、彼の整然とした思考は、その問題を根本的なふたつの部分に分けた。ひとつめは、生命が存在しないところからの生命の創造、つまり無からの発生だった。だが彼はこの点に関して、神による創造という教理に挑むことができず、こう書いている。「あらゆる物の起源までさかのぼり、創造について熟考するのは自然哲学者の仕事ではない」器官や個体は物理や化学の法則にしたがっている可能性があるが、生命そのものの創造はそうした法則では決して説明できないと考えたのだ。まるで、神がアダムにエデンの小さな研究室を与えたあとで、庭の塀の外をのぞくことを禁じたかのように。

しかしふたつめの問題は、より扱いやすいとハーシェルは考えた。いったん生命がつくられたあと、どんな過程が作用して、自然界の多様性を生んでいるのだろうか? たとえば、ある動物の種からどのようにして、べつの新しい種が生まれたのだろうか? 言語を研究する人類学者は、古い言語から新しい言語が生まれる過程には単語の変化が介在することを実証していた。たとえば、サンスクリットとラテン語はともにインド゠ヨーロッパ語族の言語が変化したものであり、英語とフラマン語は共通の起源を持っていた。地質学者は岩や、深い割れ目や、山といった現在の地球の形状はかつて存在した要素が変化した結果、生まれたと提唱していた。「過ぎ去った時代の壊れた遺物には、理解可能な記録が消えずに残っている*」とハーシェルは書いているが、それは鋭い洞察だった。科学者は「壊れた遺物」を調べることで現在と未来を理解することができると彼は考えたのだ。ハーシェルは種の起源の正しいメカニズムを理解していたわけではなかったが、彼が投げか
けた疑問は的を射たものだった。彼はその疑問を「謎の中の謎」と呼んだ。

ケンブリッジ大学のダーウィンをとりこにした自然史というのは、ハーシェルの「謎の中の謎」の解明を目指したものではなかった。猛烈な探究心を持つギリシャ人は、生物の研究は自然界の起源に密接に関連していると考えていたが、中世のキリスト教徒はすぐに、そうした路線で生物を探究しつづけたなら、いずれかんばしくない説にたどり着くだけだと気づいた。「自然」はあくまでも神が創造したものであり、キリスト教の教義に反しないためには、自然史学者たちは自然の歴史を創世記という観点から語らなければならなかった。

植物や動物を識別したり、名づけたり、分類したりして、自然を記述的に分析することはまったく問題なかった。自然の驚異を記述することは事実上、万能の神によって創造された生物の無限の多様性を祝福しているのと同じだったからだ。だが自然のメカニズムを分析したならば、神による創造という根本的な教義に疑問が投じられるおそれがあった。動物がいつ、なぜ、どんなメカニズムや力によって創造されたのかと問いかけることは、神による創造という神話に異議を唱えることであり、危険なまでに異端に近づくことだった。一八世紀末に自然史という分野にたずさわっているのが主に教区牧師、聖職者、大修道院長、執事、修道士などの牧師博物学者と呼ばれる人々だったことは驚くに値しない。そうした人々は庭を耕したり、動植物の標本を集めたりして神の被造物の驚異のために奉仕したが、その根本的な前提に疑問を投げることはなかった。教会はそのような科学者に安全な隠れ家を提供し、それと同時に、彼らの好奇心の芽を効果的に摘んだのだ。好ましくない種類の研究に対する禁止令のあまりの厳しさに、牧師博物学者は創造の神話について問うことすらしなかった。教会と心理状態は完璧に切り離されており、その結果、自然史という分野は奇妙にゆがんでしまった。植物や動物の種を分類する学問である分類学ばかりが栄える一方で、生物の起源について問うことは禁断の領域として退けられた。自然史は歴史を持たない自然についての研究へと退化してしまった。

ダーウィンが問題視したのは自然を静的にとらえるこうした考え方だった。物理学者が空中のボールの動きを記述する場合と同じように、自然史学者は自然界の状態を原因と結果という観点から記述しなければならないと彼は考えた。ダーウィンの類いまれな破壊的能力とは自然を事実としてではなく、過程として、進行中のものとして、歴史としてとらえる能力にほかならず、それはメンデルに備わった能力と同じだった。自然界を取り憑かれたように観察したふたりの男、ダーウィンとメンデルは「自然」はどのように生まれたのかという同じ質問を異なる形で投げかけることによって決定的な大ジャンプをした。メンデルの質問は顕微鏡的だった。生物はいかにして子に情報を伝えるのか? ダーウィンの質問は巨視的だった。生物は何世代も経るあいだにいかにして自らの特徴についての情報を変化させるのか? やがてこのふたつの視点が収束して、近代生物学における最も重要な統合と、ヒトの遺伝についての最も力強い説明がもたらされることになる。

一八三一年八月、ケンブリッジ大学を卒業した二カ月後、ダーウィンは師であるジョン・ヘンズローから手紙を受け取った。手紙によれば、南米での実地「調査」がおこなわれることになり、その調査旅行には、標本採集を手伝う「紳士科学者」が必要だということだった。ダーウィンはどちらかといえば科学者というよりもただの紳士だったが(まだ主要な科学論文を発表したことはなかった)、自分は適任だと感じ、ビーグル号に乗船することに決めた。「一人前の博物学者」としてではなく、「採集と、観察と、どんなものであれ、自然史的観点から注目すべきものについて記録する資質を十分に持った」修業中の科学者として。

一八三一年一二月二七日、ビーグル号は七三人の船員を乗せて出港した。嵐を無事にくぐり抜け、テネリフェ島に向かって南に針路をとった。一月初めには、カーボベルデに向かっていた。船はダーウィンが思っていたよりも小さく、風は思っていたよりも危険だった。海は絶えず彼の下で激しく揺れていた。ダーウィンは孤独を抱え、吐き気を催し、脱水症状を起こしており、レーズンとパンでなんとか生き延びていた。その月に、彼は日記を書きはじめた。海水でごわごわになった調査地図の上のハンモックに横たわって、ジョン・ミルトンの『失楽園』(彼の今の状態にあまりにぴったりだった)や、一八三〇年から三三年にかけて出版されたチャールズ・ライエルの『地質学原理』など、船旅の友として持ってきた数冊の本を熟読した。

とりわけ印象深かったのはライエルの本だった。その本の中でライエルは、巨礫や山などの複雑な地質学的形状は膨大な時間をかけて生み出されたという、当時にしてはかなり過激な説を提唱していた。神の手によってではなく、浸食、堆積、沈殿といった緩やかな自然のプロセスによってつくられたのだと。聖書に書かれているような大洪水が実際に起きたわけではなく、普通の洪水が何度も起きたのだ。神は激変によってではなく、何百万回も少しずつ削るようにして地球を形づくったにちがいない。ゆっくりと加えられる自然の力が地球を形づくり、自然を形成するというライエルの中心的な考え方は、ダーウィンを大いに刺激した。一八三二年二月、依然として「吐き気がし、気分が優れない」ダーウィンを乗せた船は、南半球に入った。風向きが変わり、潮の流れが変わり、そして、新しい世界が眼前に現れた。

師が予想したとおり、ダーウィンは優れた標本の収集家であり、観察者だった。ビーグル号が南米の東海岸を南下し、モンテビデオ、バイアブランカ、プエルトデセアドなどに立ち寄るたびに、ダーウィンは入り江や熱帯雨林や崖をくまなく探しまわって、動物の骨、植物、動物の皮、石、貝を大量に持ち帰った。船長は「がらくたにしか見えない積み荷」だと不平を言った。生物の標本だけでなく、古代の化石も見つかり、ダーウィンは甲板にそうしたものをずらりと並べて独自の比較解剖学の博物館をつくった。一八三二年九月、プンタ・アルタ近くの灰色の崖と泥の低地を探検していたときに、彼は驚くべき自然の墓地を見つけた。目の前に、絶滅した巨大な哺乳類の化石化した骨が散らばっていたのだ。ダーウィンはあたかも熱狂的な歯医者のように、岩から顎の化石をほじくり出した。翌週に再度訪れ、今度は石英の中から大きな頭蓋骨を取り出した。それはメガテリウムという名の巨大なナマケモノの頭蓋骨だった。

その月、ダーウィンは小石や岩の中に散在している骨をさらに発見し、一一月には、ウルグアイの農民に一八ペンスを払って、かつてその土地の上を歩きまわっていた絶滅哺乳類(リスのような大きな歯を持つ、トクソドンという名のサイに似た哺乳類)の巨大な頭蓋骨を手に入れた。「私はとてもついている。巨大な哺乳類の標本をいくつか採取できたうえに、初めて発見されたものも多い」ブタ並みの大きさのモルモットの骨、戦車のようなアルマジロの鱗甲板、ゾウくらいの大きさのナマケモノの巨大な骨などをさらにいくつか集め、木箱に詰めて、イングランドへ持ち帰った。

ビーグル号はティエラ・デル・フエゴの顎のような形の先端をまわって南米の西海岸を北へ進んだ。一八三五年にはペルーの海岸都市リマを出発し、エクアドル本土より約九〇〇キロメートル西にある、火山活動でできた黒焦げの群島、ガラパゴス諸島へと向かった。その群島では「黒く……割れた溶岩が陰鬱に積み重なり、悪魔の巣窟のような海岸を形づくっていた」と船長は書いている。まさに、エデンの園の地獄版といった感じだった。孤立し、手つかずで、乾き切った岩石が広がり、「おぞましいイグアナ」やカメや鳥が凝固した溶岩の上に群がっていた。島は全部で一八島あり、船はそれらの島を順番にめぐった。島に着くと、ダーウィンは陸へ上がって溶岩の上を歩き、鳥や、植物や、トカゲを採取した。どの島にも独自のカメが生息しているようで、一行はそうしたカメの肉を毎食のように食べた。五週間のあいだに、ダーウィンはフィンチや、ツグミや、クロウタドリや、グロスビークや、ミソサザイや、アホウドリや、イグアナの死骸に加え、海や陸の植物をいくつも採取した。船長は顔をしかめ、首を振った。

一〇月二〇日、一行はタヒチに向けて出発した。ビーグル号の船室で、ダーウィンは採取した小鳥の死骸を系統的に分析しはじめた。とりわけ彼を驚かせたのはツグミだった。二、三種類の亜種があったが、それぞれの亜種の特徴は明確に異なっており、どの亜種もある特定の島でしか見つからなかった。ダーウィンがそこで何気なく走り書きした文章は、彼の生涯で最も重要な科学的文章となる。「どの亜種も、それぞれの島だけに生息している」ほかの動物でも同じパターンが見られるのだろうか、と彼は考えた。たとえば、カメでも? どの島にも、それぞれの島に固有のカメが生息しているのだろうか? 彼はカメについても分析しようとしたが、遅すぎた。ほかの乗組員と一緒に昼食に食べてしまったからだ。

五年の航海のあとでイングランドに戻ったダーウィンはすでに自然史学者のあいだでちょっとした有名人になっていた。彼が南米から持ち帰った戦利品である大量の化石は木箱から出され、保存され、目録がつくられた。それだけで博物館がひとつできそうだった。剥製師で鳥専門の画家でもあるジョン・グールドが鳥の分類を引き受けた。地質学者のライエル自身も、地質学協会の会長演説の際にダーウィンの標本を展示した。イングランドの自然史学者たちの頭上をあたかも貴族のハヤブサのように旋回していた古生物学者のリチャード・オーウェンも、イングランド王立外科医師会から降下して、ダーウィンの持ち帰った化石の骨の検証と分類を受け持った。

しかしオーウェンと、グールドと、ライエルが南米の宝に名前をつけ、分類しているあいだにも、ダーウィンの思考はべつの問題へと向かっていた。小さな特徴にもとづいて生物を多くのグループに分類するのではなく、共通の特徴をもとに生物を大きなグループにまとめるのを好んだ彼は、より根本的な解剖学的特徴を探していた。彼にしてみれば、分類や学名命名法というのは目的のための手段にすぎなかった。その鋭い直感で、ダーウィンは標本の背後にあるパターン、すなわち体系の規則性を見定めようとした。生物を界や目に分類するのではなく、生物界を貫いている秩序を見定めようとしたのだ。メンデルがウィーンで高校教師資格試験を受ける際に悩まされることになるのと同じ質問が、一八三六年にダーウィンの頭に取り憑いて離れなくなった。生物はなぜ、こんなふうに分類されるのだろう?

その年、ふたつの注目すべき事実が明らかになった。ひとつめは、オーウェンとライエルが化石を調べていくうちに、発見された化石のほとんどが、発見場所に現在も生息している動物の、すでに絶滅した巨大なバージョンの化石だということがわかったのだ。小さなアルマジロが茂みのあいだを歩いているまさにその同じ渓谷で、その昔、大きな鱗甲板を持つアルマジロが歩きまわっていた。小さなナマケモノが現在生息している場所で、その昔、巨大なナマケモノが食べ物を探していた。ダーウィンが土壌から採取した大きな大腿骨はゾウ並みに巨大なリャマのもので、その現代版の小さなリャマは南米固有の種だった。

ふたつめの奇妙な事実に気づいたのはグールドだった。一八三七年の初春、グールドは、ミソサザイ、アメリカムシクイ、クロウタドリ、そして「グロスビーク」の変異体だとしてダーウィンが自分に送ったそれぞれの標本は、実際にはそうではなかったとダーウィンに告げた。ダーウィンは分類をまちがえていたのだ。それらはすべてフィンチで、じつに一三もの種が存在していた。くちばしも、かぎ爪も、羽もあまりにちがっていたため、訓練された目しか、その背後にある共通点を見いだすことはできなかった。喉の細い、ミソサザイに似たアメリカムシクイと、ハムのような首とペンチのようなくちばしを持つクロウタドリは解剖学的な親類、つまり同じ種の変異体だった。アメリカムシクイのようなフィンチの餌は果物と虫で(フルートのような形のくちばしはそのためだと思われた)、スパナのようなくちばしを持つフィンチは地面をあさっては種子を砕いて食べた(くるみ割りのようなくちばしはそのためだった)。ツグミにもそれぞれの島に固有な三つの種が存
在した。フィンチはそこらじゅうにいた。まるでそれぞれの島が特有のバーコードを持った固有の変異体を生み出しているかのようだった。

ダーウィンはどのようにしてそうしたふたつの事実に折り合いをつけたのだろう? 彼の思考の中ではすでに、ある考えの概要ができあがりつつあった。きわめてシンプルでありながら、あまりに過激なために、今まで誰にも検証されたことのない考えだ──「もしすべてのフィンチが共通の祖先の子孫だとしたら?」今日の小さなアルマジロは巨大なアルマジロの子孫なのではないか? 現在の地球の地形というのは何百万年ものあいだに蓄積した自然の力の結果だとライエルは主張していたではないか。一七九六年、フランスの物理学者ピエール゠シモン・ラプラスは、今日の太陽系ですら、何百万年ものあいだに物質が徐々に冷えて凝縮した結果、生じたものだと提唱していた(ナポレオンから「なぜその説からは神が露骨に消されているのか」と尋ねられたラプラスは、歴史的なまでに厚かましい返事をした。「その仮説は必要なかったからです」)。だとしたら、現在の動物もまた、長い年月のあいだに蓄積した自然の力の結果なのではないだろうか?

ダーウィンは一八三七年七月、マールボロ・ストリートの息が詰まりそうなほど暑い書斎で、時間の経過とともに動物がどう変化するかという点について思いつくままに新しいノート(いわゆる、Bノート)に書き綴っていった。彼の書き込みは暗号めいており、自由で、未検証のものだった。彼があるページでひとつの図を描くと、その図が思考にこびりついた。神による創造を中心にしてあらゆる動物がそこから放射状に存在しているのではなく、「木」の枝や大きな川の支流のように、祖先の幹が枝分かれして、その枝がさらに小さな枝に分かれていき、やがて現在の数十の動物になったのではないのだろうかと彼は考えた。言語のように、地形のように、ゆっくりと冷えていった宇宙のように、動物も植物も、ゆっくりとした持続的な過程をとおして、昔の形から進化していったのではないのだろうか。

そうした考えが明らかな神への冒涜であることはダーウィンも承知していた。キリスト教の種形成の概念では、神が絶対的な中心に据えられており、神によってつくられたすべての動物が創造の瞬間に外に向かって放たれたとされていた。しかしダーウィンの絵には、そもそも中心というものがなかった。一三種類のフィンチは神の気まぐれによってではなく、「自然進化」によってつくられたのだと彼は考えた。祖先のフィンチから下流へと、外側へと枝分かれしていったのだ。現在のリャマも同様に、巨大な祖先の獣から進化して生まれたのだ。あとから思いついたように、彼はページの上に「私が思うには」とつけ足している。あたかもこれを境に、生物学的・神学的思考の本土から旅立つことをほのめかしているかのように。

だが神の力が働いていないとしたら、種の起源の背後にはどんな力が働いているのだろう? どんな推進力が、荒れ狂う種形成の小川を介して、そう、たとえば一三種類のフィンチの進化をもたらしたのか。一八三八年の春、ダーウィンが新しい日記(えび茶色のCノート)に取りかかったころには、この推進力の性質について、彼の頭の中には多くの考えが生まれていた。

答えの最初の部分は、シュルーズベリーとヘレフォードの農場で過ごした子供時代からずっと彼のすぐそばにあった。地球をおよそ一・三万キロも旅をして、彼は単にその答えを再発見したにすぎなかった。それは変異体と呼ばれるもので、動物がときおり誕生させる、親のタイプとは異なる特徴を持つ子を指す。農家の人たちは大昔からこの変異体を利用しており、交配や交雑によって自然変異体をつくっては、そうした変異体を選択するという作業を繰り返してきた。イングランドでは、畜産家が新種や変異体の繁殖をきわめて洗練された科学にまで磨き上げており、たとえば、ヘレフォードの短角牛はクレイヴンのロングホーンとはほとんど似ていなかった。ガラパゴスからイングランドにやってきた(ダーウィンの逆だ)好奇心旺盛な博物学者がいたとしたら、それぞれの地域に固有の牛が生息しているという事実を知って驚いたかもしれない。だがダーウィンや牛の繁殖者は、そうした繁殖は偶然起きたわけではないことを知っていた。同じ祖先から生まれた変異体を選択的に交配させるという作業をとおして、人為的におこなわれたのだ。

変異体と人為的な選択を巧みに組み合わせることによって、驚くべき結果がもたらされることをダーウィンは知っていた。雄鶏やクジャクに似たハトをつくることもできれば、イヌを短毛にも、長毛にも、雑色にも、まだら模様にも、がに股にも、無毛にも、短い尻尾にも、獰猛にも、おだやかな性質にも、内気にも、警戒心の強い性格にも、好戦的にもすることができた。しかしウシやイヌやハトの選択をおこなったのは人間の手だった。ではいったいどんな手が、遠くの火山島で多種多様なフィンチが生まれるように、南米の平野で巨大なアルマジロから小さなアルマジロが生まれるように導いたのだろう?

ダーウィンは、自分が今では既知の世界の危険な端を異端へ向かってひっそりと進んでいることを自覚していた。そうした見えざる手を神に帰することは簡単だった。だが一八三八年一〇月に、同じく聖職者のトマス・ロバート・マルサスの本が彼にもたらした答えは、神とはまったく無関係なものだった。

トマス・ロバート・マルサスは、昼間はサリーのオークウッド教会で副牧師として働いていたが、夜には隠れ経済学者として活動していた。彼が真の情熱を注いでいたのは、人口と成長についての研究だった。一七九八年、マルサスは匿名で、『人口論』と題した扇動的な論文を発表し、その中で、人口の成長は必ず、それを養う資源の成長を上まわると論じた。人口が増加するにつれ、生活資源は枯渇し、人間同士の争いは激しくなる。限りある資源は人口の本質的な増加傾向に追いつかない。人口の自然な傾向には必然的に欠乏が伴う。やがて世界の終末をもたらすような力が働いて(「季節的な流行病、疫病、伝染病が次々と襲いかかっては、何千、何万という人間をなぎ倒し」)、「人口を世界の食糧」に釣り合わせる。こうした「自然選択」を生き延びた者たちは、ふたたび残酷なサイクルを始める。ひとつの飢饉からべつの飢饉へと、シーシュポスの徒労は終わらない。

ダーウィンはマルサスの論文の中に、袋小路を突破する答えをすぐに見つけた。この生存のための闘いこそが、見えざる手だったのだ。死こそが自然の選択者であり、残酷な形成者だった。「すぐにわかった」と彼は書いている。「(自然選択という)状況のもとでは有利な変異体が生き残り、不利な変異体が死に絶え、その結果、新しい種が形成されるのだ」

ダーウィンは今では彼の主要な説の骨格をつかんでいた。それは以下のようなものだった。動物の繁殖の際には親とはちがう変異体が生まれる† 。同種の個体同士はつねに、限られた資源をめぐって争っている。たとえば飢饉などが起きて、こうした資源が枯渇した場合には、新しい環境によりうまく適応できる変異体が「自然選択され」、環境に最もうまく適応できるもの、つまり「適者」が生き残る(「適者生存」という言葉はマルサス派の経済学者であるハーバート・スペンサーから拝借したものである)。こうして生き残った動物同士が繁殖して自らの仲間を増やすことで、同じ種の中で進化が起きる。

プンタ・アルタの入り江やガラパゴスの島々で、こうした過程が進行していくさまがダーウィンにはもうほとんど見えるようだった。それは永遠に長い映画が早送りされて一〇〇〇年が一分に圧縮されたかのような光景だった。フィンチの群れは果物を食べ、やがて、増えすぎてしまう。やがて厳しい季節(すべてを腐らせてしまうモンスーンか、あるいは乾き切った夏)が島に到来し、餌となる果物が激減する。そのフィンチの大集団のどこかで、植物の種子を砕くことのできる不格好なくちばしを持った変異体が誕生する。飢饉がフィンチの世界に襲いかかると、この不格好な大きいくちばしを持つフィンチだけが固い種子を食べて生き延びる。そのフィンチは子孫をつくり、やがて、新種のフィンチが誕生し、奇形の種が正常の種となる。病気、飢饉、寄生虫といった新たなマルサス的限界が課せられるたびに、べつの種が有利になり、集団の構成が変化する。奇形の種が新しい正常の種となり、かつての正常の種は死に絶える。こうして、奇形から奇形へと進化は進んで
いく。

一八三九年の冬には、ダーウィンは自説の概要をまとめていた。その後の数年にわたって、彼は取り憑かれたように自説に何度も手を加えた。化石の標本を扱うときのように、「整然としていない部分」を整理したり、さらに整理しなおしたりしたが、結局、自説を論文として発表するまでには至らなかった。一八四四年、自らの主張の最も重要な部分だけを抜き出して二五五ページのエッセイにまとめ、ある友人に個人的に送ったが、そのエッセイを出版することはなかった。その代わり、フジツボの研究に熱中し、地質学の論文を執筆し、海獣類を解剖し、家族の世話をした。彼のお気に入りだったいちばん上の子供であるアニーが感染症にかかって亡くなると、ダーウィンは悲しみに打ちひしがれ、無気力になった。クリミア半島で激しい戦争が勃発し、男たちは戦線に送り出され、ヨーロッパは恐慌に陥った。あたかもマルサスの生存のための闘いが現実世界で起きたかのようだった。

ダーウィンが初めてマルサスのエッセイを読み、種形成について明確な考えを持ちはじめてから一五年が経過した一八五五年の夏、若き博物学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスが《アナルズ・アンド・マガジン・オブ・ナチュラルヒストリー》にダーウィンの未発表の説ときわどいほどに近い内容の論文を発表した。ウォレスとダーウィンの社会的、イデオロギー的な背景はまったくちがっていた。紳士生物学者であり、ほどなくイングランドで最も裕福な自然史学者となるダーウィンとはちがって、ウォレスはモンマスシャー州の中流階級の家に生まれた。書斎の肘掛け椅子ではなく、レスターの公立図書館(マルサスの本はイングランド本土の知識人のあいだで広く回覧されていた)の固いベンチに座って、彼もまた人口についてのマルサスの本を読んでいた。そしてダーウィンと同じく、ブラジルへ船旅をして標本や化石を集め、生まれ変わったのだった。

一八五四年、海難事故でわずかな所持金と収集したすべての標本を失ったウォレスは、東南アジアの端に位置する火山島の集まりであるマレー諸島へ向けてアマゾン流域から移動した。そこで彼はダーウィンと同じく、同種でも、海で隔てられた場所に生息する個体同士の特徴がかなりちがっていることに気づいた。一八五七年の冬には、ウォレスはこうした島々で個体差を生み出しているメカニズムについての一般的な理論を組み立てはじめていた。その春、熱による幻覚に悩まされながらベッドで横になっていたときに、彼は自分の理論の最後の一ピースを見つけた。マルサスの本を思い出したのだ。「答えは明らかに……最も環境に適応した(変異体)が生き延びる……そのようにして、動物集団の構成は環境の要求どおりに修正されていくにちがいない」多様性、変異、生存、選択といった彼の思考を表す言葉すら、ダーウィンの言葉にはっとするほど似ていた。いくつもの海と大陸に隔てられ、まったく異なる知性の風波にもまれたふたりの男がたどり着いたのは同
じ港だったのだ。

一八五八年六月、ウォレスはダーウィンに自然選択による進化についての自説の概要をまとめた草稿を送った。ダーウィンはウォレスの理論と自分の理論との類似に驚いた。焦った彼は、すぐに旧友のライエルに自分の原稿を送った。抜け目のないライエルは、ダーウィンとウォレスがふたりともその発見の功績者として認められるように、その夏のロンドン・リンネ協会の会合でふたつの論文を同時に発表するようにとダーウィンに助言した。一八五八年七月一日、ダーウィンとウォレスの論文はロンドン・リンネ協会で共同の研究発表として読み上げられ、公の場で議論された。だが、聴講者はどちらの研究にもとくに感銘を受けなかった。翌年の五月、リンネ協会の会長はふと思いついたようにこう言った。「去年はこれといって注目すべき発見は何もなかった」

ダーウィンは今では、以前から出版しようと考えていた大著に研究結果を残らず盛り込んで完成させることに集中していた。一八五九年、出版業者のジョン・マレーに連絡して、ためらいがちにこう言った。「あなた方がこの本の出版を引き受けたことを後悔しないように、私の本が売れることを心から願っています」。一八五九年一一月二四日木曜日の真冬並みに寒い朝、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』がイングランドの書店に並んだ。価格は一五シリング。初版部数は一二五〇部だった。ダーウィンが驚きとともに書いているように、「初日に完売した」。

発売直後といっていいほどすぐに、熱狂的な書評が次々と現れた。『種の起源』の最初期の読者ですら、その本に含まれる途方もなく大きな意味に気づいたのだ。「ダーウィン氏が述べた結論は、もしそれが立証されたなら、自然史の根本原理に大革命を起こすだろう」とある評論家は書いている。「要するに彼の研究は、これまで世の人々にもたらされた研究成果の中で最も重要なもののひとつだということだ」

ダーウィンは同時に、彼に批判的な人々の感情をあおった。おそらくは意図的に、彼はヒトの進化について自説が暗示していることには触れていない。『種の起源』の中で、ヒトの進化について書かれている唯一の箇所は、「ヒトの起源と歴史について光が投じられるかもしれない」という一文であり、それは世紀の控えめ表現と言っても差しつかえないだろう。だがダーウィンの友人でもありライバルでもある化石分類学者のリチャード・オーウェンは、ダーウィンの理論の哲学的含意をすぐさま見抜いた。もし種の進化がダーウィンの説どおりに起きるのなら、ヒトの進化についてそれが意味することは明白だった。「ヒトはサルが変化したものなのかもしれない」あまりに不快な考えだったために、オーウェンはそれについて熟考することすらできなかった。十分な実験的証拠による裏づけもなしに、ダーウィンは歴史上最も大胆な生物学理論を提唱した、とオーウェンは書いている。ダーウィンが提供したのは果実ではなく、「知的な殻」にすぎない、と。そして(ダ
ーウィン自身の言葉を引用して)こう不満を表している。「とても広い空白を想像で埋めなければならないということだ」

(試し読み第3回につづく)

シッダールタ・ムカジー遺伝子ー親密なる人類史ー(上・下)(仲野徹監修、田中文訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫、上下各1,180円)は好評発売中です。

著者 シッダールタ・ムカジー(Siddhartha Mukherjee)
医師、がん研究者(血液学、腫瘍学)。コロンビア大学メディカル・センター准教授を務める。1970年、インドのニユーデリー生まれ。スタンフォード大学(生物学専攻)、オックスフォード大学(ローズ奨学生。免疫学専攻)、ハーバード・メディカル・スクールを卒業。デビュー作『がん―4000年の歴史―』(2010年。邦訳は早川書房刊)は、ピュリッツァー賞、PEN/E・O・ウィルソン賞、ガーディアン賞など多くの賞を受賞し、《タイム》誌の「オールタイム・ベストノンフィクション」にも選ばれた。本書『遺伝子ー親密なる人類史ー』も《ニューヨーク・タイムズ》ベストセラー・リストのノンフィクション部門1位を記録し、30カ国以上に版権が売れている。

翻訳 田中 文(たなか・ふみ)
翻訳家、医師。東北大学医学部卒業。訳書にムカジ―『がん―4000年の歴史ー』、ワトスン『わたしが看護師だったころ』、カラニシ『いま、希望を語ろう』、オゼキ『あるときの物語』、リー『健康食大全』(以上早川書房刊)など。