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メンデルは生物学という問題に向き合うことになり、生物学もまた、メンデルという問題に向き合うことになった。『遺伝子―親密なる人類史ー』第1部①

ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー1位、ビル・ゲイツが年間ベストブックにも選出した名著『遺伝子―親密なる人類史ー』が待望の文庫化! 刊行にあたり、本書の第1部「遺伝学といういまだ存在しない科学――遺伝子の発見と再発見(1865~1935)」を、権利上可能な限りのところまで数回にわたり連載します。前作『がん―4000年の歴史ー』でピュリッツァー賞に輝いた著者(現役医師)の圧倒的なストーリーテリングをお楽しみください。

遺伝子_上_帯

遺伝子_下_帯

壁に囲まれた庭

遺伝学の研究者というのはとりわけ、自分の研究テーマについて隅々
まで理解しているようで、その核心は理解していないものだ。おそらく
は、狭いイバラの茂みの中に生まれ育って、そこを探索しながらその限
界にはたどり着けなかったのだろう。つまり、彼らが研究しているのは
自分が追究している問題以外のことなのである。
──G・K・チェスタトン「遺伝について」

大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。
──『旧約聖書』(「ヨブ記」一二章八節)

その修道院はもともと、女子修道院だった。聖アウグスチノ修道会の修道士たちはかつて、中世都市ブルノ(チェコ語ではブルノだが、ドイツ語ではブリュン)の中心にある大修道院で暮らしており、(修道士たちがのちによくこぼしたように)丘の頂に立つその石造りの大修道院はもっと広い、贅沢な建物だった。四世紀かけて、大修道院のまわりに街が広がっていった。まずは丘の下へ向かって急速に拡大し、ふもとに到達すると、今度は農園や牧草地からなる平らな土地の上を無秩序に広がっていった。一七八三年、修道士
たちは皇帝ヨーゼフ二世らの寵愛を失った。街の中心地区の不動産は修道士たちを住まわせておくには貴重すぎる、と皇帝はぶっきらぼうに宣言し、その結果、修道士たちは追い出され、旧ブルノの丘のふもとにある崩れかけた建物に住むことになった。それだけでもすでに十分に屈辱的だったのだが、もとは女たちのために設計された建物に住まわされるという事実が、彼らの屈辱感をいっそう強めた。廊下には湿ったしっくいの放つ動物のにおいがかすかに漂い、地面は芝生や、イバラや、雑草で覆われていた。肉の貯蔵小屋のようにひんやりとし、刑務所のように殺風景なこの一四世紀の建物の唯一のいいところは、日陰をつくる木と、石段と、一本の長い小道のある長方形の庭だった。修道士たちはそこで散歩したり、ひとり考えごとをしたりした。

修道士たちは新しい環境を最大限に活用した。二階の図書館を修復して勉強部屋をつなげ、松材の読書台と、ランプを備えつけた。自然史、地質学、天文学の最新の本を含む蔵書はしだいに増えていき、やがては一万冊近くになった(幸運なことに、聖アウグスチノ修道会の修道士は、ほとんどの科学は宗教と対立しないと考えていた。実際、この世に神の秩序が働いていることのさらなる証拠だとして、科学を積極的に受け入れていた)。ワインセラーが地下に設けられ、アーチ形の質素な食堂がその上につくられた。二階に末な木の家具を備えつけた一部屋ずつの小室が並び、修道士たちはそこで寝起きした。

一八四三年一〇月、シュレージエン(現在のポーランド南西部からチェコ
北東部に属する地域の歴史的名称)の小自作農の息子が修道院の生活を始めた。まじめな顔つきの小柄な男で、近視で肥満気味だった。信仰生活にはほとんど興味がないと公言していたが、知的好奇心にあふれ、手先が器用で、そして、天性の庭師だった。修道院は彼に、読書したり、学習したりするための一軒の家をあてがった。一八四七年八月六日、彼は司祭に叙階された。本名はヨハンだったが、グレゴール・ヨハン・メンデルに改名された。

修行中の若き司祭にとって、修道院での生活はすぐに決まりきった日常へと落ち着いていった。一八四五年、修道院の教育の一環として、メンデルはブルノ神学大学で神学、歴史、自然科学の講義を受けた。一八四八年の暴動(フランス、デンマーク、ドイツ、オーストリアで起こった激しい市民革命で、社会、政治、宗教の秩序が覆された)はそのほとんどが、まるで遠くの雷鳴のように彼の脇をただ通り過ぎただけだった。若き日のメンデルのどこを取ってみても、のちの革命的な科学者を彷彿とさせるようなところはなかった。規律正しい、勤勉で慇懃な男であり、しきたりを重んじる男たちの中で暮らす、しきたりを重んじる男だった。権威に対する彼の唯一の抵抗は、教室に学者帽をかぶっていくのを拒むことくらいだったが、結局、上司にたしなめられて、丁重にしたがった。

一八四八年の夏、メンデルはブルノで主任司祭として働きはじめた。誰もが口をそろえて言うことには、彼の仕事ぶりは散々だったらしい。大修道院長が述べているように、「克服できない臆病心にとらわれたまま」、たどたどしいチェコ語を話し(ほとんどの小教区民の言語はチェコ語だった)、司祭として人々に感銘を与えることもできなければ、貧しい人々に囲まれて働くという重荷にも耐えられなかった。その年のうちに、メンデルは完璧な逃げ道を見つけた。ズノイモ高校で数学と自然科学と基礎的なギリシャ語を教え
るという仕事に応募したのだ。修道院からの支援もあって、彼は選任されたものの、そう簡単にことは運ばず、結局、メンデルが教師としての訓練を受けていないことを知った学校側から、自然科学の高校教師資格試験を受けるようにと言い渡された。

一八五〇年の晩春、メンデルは熱意に駆られたままブルノで筆記試験を受け、そして、落第した。とりわけ、地質学の点数はひどかった(「無味乾燥で、不明瞭で、言いたいことがわからない」と採点官のひとりはメンデルの地質学のレポートについて不満を述べている)。七月二〇日、うだるような熱波がオーストリアを襲うなか、メンデルは口述試験を受けるためにブルノからウィーンへ向かった。八月一六日には自然科学の試験を受けたが、今回の成績はさらにひどく、とりわけ生物学は散々だった。哺乳類について説明し、哺乳類を分類せよ、という課題に対し、メンデルは不完全ででたらめな分類をなぐり書きした。分類上のいくつかの区分を書き落としたり、新たにこしらえたりし、カンガルーとビーバー、ブタとゾウを一緒くたにした。「この志願者は専門用語を何ひとつ知らないようだ。すべての動物をドイツ語の口語表現で呼び、生物学の命名法を完全に無視している」と試験官のひとりは書いている。メンデルは今度もまた、落第した。

メンデルは試験結果をたずさえて八月中にブルノに戻った。試験官の判断は明白だった。メンデルが教師となるには、まずは自然科学についてしっかりとした教育を受ける必要があった。修道院の図書館や、壁に囲まれた庭から得られるよりももっと高度な訓練を受けなければならなかった。そこでメンデルは、自然科学を学ぶためにウィーン大学に出願し、修道院側からの手紙や懇願のおかげもあって、無事に合格した。

一八五一年の冬、メンデルは列車に乗り、ウィーン大学に入学した。こうしてメンデルは生物学という問題に向き合うことになり、生物学もまた、メンデルという問題に向き合うことになった。

ブルノからウィーンへと向かう夜行列車は、荒涼とした冬景色の中を走り抜けていった。農地とブドウ園は霜に覆われ、凍てついた運河は淡青色の細静脈のようで、ときおり目にする農家は中央ヨーロッパの閉ざされた闇にすっぽり包まれていた。凍りかけたターヤ川がゆっくりと流れ、やがてドナウ川に浮かぶマルギット島が見えた。四時間ほどかけて約一五〇キロ移動しただけだったが、翌朝、列車が到着して目を覚ましたメンデルは、新しい宇宙にやってきたような気がした。

ウィーンでは科学はどこまでも刺激的で、活気づいていた。メンデルはインヴァリデン通りの路地裏の下宿からほんの数キロ離れた大学で、ブルノ時代に熱烈に求めていた知的な洗礼を受けた。物理学を教えていたのは、かの恐るべきオーストリア人科学者、クリスティアン・ドップラーで、彼はメンデルのよき指導者となり、教師となり、崇拝の対象となった。一八四二年、痩せこけ、辛辣な話し方をする三九歳のドップラーは数学的な推論を用いて、音の高低(あるいは光の色)というのは一定ではなく、観測者の位置と速度に依存していると主張した。観測者へ向かってくる音源から発せられる音は圧縮されて高くなり、反対に、観測者から離れていく音は低く聞こえるのだと。疑り深い人々はそんな彼の主張をあざ笑った。同じランプから放たれる同じ光が、観測者ごとにちがう色に見えるなどということがあるものか。一八四五年、ドップラーはトランペット奏者の一団を列車に乗せて、列車が前方へ向かって走るあいだ、同じ高さの音をずっと吹きつづけるように指示した。プラットフォームの観衆が半信半疑で耳を傾けていると、列車から実際より高い音が聞こえ、そして列車が通り過ぎたあとは、実際より低い音が聞こえた。

音と光は普遍的な自然の法則にしたがっているとドップラーは主張した。たとえそれが、普通に見たり聞いたりしている一般の人たちの直感とはまったく相容れないとしても。実際、注意深く見たならば、この世界で起きているあらゆる混沌とした複雑な現象というのは、非常に系統立った自然の法則の結果なのだ。本能や知覚によって、われわれがこうした自然の法則を把握できることもときにはある。だが、たいていは、走行中の列車にトランペット奏者を乗せるといったようなきわめて人為的な実験をおこなって初めて理解できる。

メンデルはドップラーがおこなった実演と実験に魅了されたと同時に、やり場のない気持ちにさせられた。メンデルの専攻科目である生物学はまるで雑草が伸び放題の庭のような学問分野であり、そこには系統化原則など何ひとつないように感じられたからだ。確かに表面的には、たくさんの秩序があるように見えた。というか、たくさんの「目(もく)」があるように見えた。生物学において支配的な学問分野は分類学、すなわち、あらゆる生物を別々のカテゴリーに分類し、さらに亜分類するという入念な試みだったからだ。界、門、網、目、科、属、種といったように。しかしこうした分類は、一七〇〇年代半ばにスウェーデンの植物学者カール・リンネが考案したもので、完全に記述的であって、機序にもとづいたものではなかった。地球上の生物をどう分類すればいいか記述してはいたが、その分類の根拠となる理論には触れていなかったのだ。生物学者はこう尋ねたかったはずだ。なぜ生き物はこんなふうに分類されるのだろう? こうした恒常性や、カテゴリーに対す
る忠実さを保持しているものはなんなのだろう? ゾウがブタになったり、カンガルーがビーバーになったりしないようにしているものはなんなのだろう? 遺伝のメカニズムとはなんなのだろう? なぜ瓜の蔓に茄子はならぬのだろう?

何世紀ものあいだ、科学者や哲学者は「類似」という問題に心を奪われてきた。紀元前五三〇年ごろ、クロトン(訳注:イタリア共和国カラブリア州東部にある都市。現在の名は「クロトーネ」)に住む古代ギリシャの学者(科学者でもあり、神秘主義者でもあった)ピタゴラスは、親と子の類似性を説明する最古の、そして最も広く受け入れられた説を提唱した。ピタゴラスの説の中心にあったのは、遺伝情報(「類似性」)というのは主に男性の精子によって運ばれるという考えだった。精子が男性の体内を駆けめぐって情報を集め、それぞれの身体部分から神秘的な気体を吸収するという考えだ(目からは色を、皮膚から肌質を、骨から長さを、というように)。男性の一生のあいだに、精子はまるで身体のあらゆる部分についての移動図書館のようになっていくにちがいないとピタゴラスは考えた。自分自身を濃縮した蒸留液のように。

この精子の持つ重要な自己情報は性交の際に女性の体内に送られ、子宮内で母親から栄養を受けて胎児へと成長すると彼は説いた。生殖においては(ほかのどの生産活動もそうだが)、男性の役割と女性の役割ははっきりと区別されている。父親は胎児をつくるために必須な情報を提供し、母親の子宮は父親からのデータが子供へと姿を変えられるように栄養を提供する。最終的に「精子論」と名づけられたこの理論は、胎児のあらゆる特徴を決定するうえでの精子の中心的な役割を強調していた。

ピタゴラスの死から数十年後の紀元前四五八年、悲劇詩人のアイスキュロスはこの奇妙な論理を用いて、母殺しに対する歴史上最も風変わりな法的弁護をおこなった。アイスキュロスの『慈みの女神たち』の中心的テーマは、母親であるクリュタイメストラを殺したアルゴスの王子オレステスに対する裁きである。たいていの文化では、母殺しは究極の道徳上の堕落とみなされているが、『慈みの女神たち』では、殺人の裁判においてオレステスの弁護人に選ばれたアポロンが驚くほど独創的な主張を展開する。オレステスにとって、母親は他人にすぎないのだとアポロンは言う。妊娠中の女性というのは人間の栄誉ある保育器にすぎず、静脈内の袋が臍帯をとおして子供に栄養素を滴下している。すべての人間の祖先は父親であり、父親の精子が「類似性」を運んでいる。「真の親というのは子供を宿す女性の子宮ではない
」とアポロンは同情的な市民の裁判官たちに向かって言う。「母親の役目は、新たに蒔かれた種子を育てることだけだ。男こそが親であり、オレステスにとって母親は胚芽を蓄える役割しか持たない」

ピタゴラスの弟子たちは、男性があらゆる「遺伝」を提供し、女性が子宮の中で最初の「環境」を提供するというこの遺伝理論の明らかな矛盾について、とくに気にしなかったようだ。というよりも実際には、この説に満足していたようだった。ピタゴラスは三角形の神秘的な幾何学に取り憑かれていた。彼は三平方の定理(直角三角形の二辺の長さがわかれば残りの一辺の長さもわかる)をインドとバビロニアの幾何学者から学んだのだが、その定理は彼の名前と密接に結びつけられて「ピタゴラスの定理」と呼ばれるようになり、彼の弟子たちは、自然界のあらゆる場所にこうした数学的パターン(「ハーモニー」)が潜んでいることの証拠として、この定理を持ち出すようになった。三角形のレンズで世界を見ようと努力していたピタゴラス学派の人々は、遺伝にも三角形のハーモニーが働いていると主張した。母親と父親はそれぞれが一辺であり、子供は三番目の辺、すなわち両親の二辺がつくる直角に相対する生物学的な斜辺だった。ちょうど直角三角形の斜辺が数学
の公式によって導き出されるように、子供もまた、両親それぞれの貢献から導き出される。つまり父からの遺伝と、母からの環境によって。

ピタゴラスの死から一世紀後の紀元前三八〇年、著書を執筆中だったプラトンはこの隠喩に魅了された。彼の著書である『国家』の中の最も興味深い箇所(そこではピタゴラスの言葉も引用されている)のひとつで、プラトンは、もし両親から子供を数学的に導き出すことができるのならば、少なくとも原理上は、その公式を巧妙に変化させられるはずだと主張した。妊娠のタイミングも、両親の貢献も完璧だったなら、完璧な子供が導き出されるはずだ。遺伝の「定理」は存在するのであり、発見されるのを待っているだけなのだ。定理が発見され、その定理が規定する組み合わせが実行されたなら、どんな社会であれ、最適な子供ばかりが生まれてくるはずだ。つまり数秘術的な優生学のようなものが解き放たれるはずだ。「守護者が誕生の法則に無頓着で、花嫁と花婿を時宜を得ずして結びつけたなら、その子供は美しくもならなければ、幸福にもならないだろう」とプラトンは結論づけた。社会の守護者であるエリート支配階級が「誕生の法則」を解明したならば、調和のとれた「幸運な」結婚しかおこなわれなくなるはずだ。遺伝子の理想郷が誕生し、その結果、政治的な理想郷が誕生するはずだ。

ピタゴラスの遺伝理論を系統的に覆すためには、アリストテレスの綿密かつ分析的な思考を必要とした。アリストテレスはべつに女性を擁護したいと強く思っていたわけではなかった。しかし、理論構築の土台には証拠が必要だと信じていた。アリストテレスはまず生物界から得られた実験データを使って、「精子論」の利点と問題点を分析することから始めた。その結果を簡潔にまとめた研究書『動物発生論』は、プラトンの『国家』が政治哲学の教科書になったのと同様に、人類遺伝学の教科書となった。

アリストテレスは遺伝がもっぱら男性の精液や精子で運ばれるという考えを却下している。子供というのは母親からも祖母からも特徴を受け継ぐものであり(父親と祖父から特徴を受け継ぐのとまったく同じことだ)、そうした特徴というのはときに世代を飛び越える。ある世代では消えた特徴が、次の世代ではまた現れることもあるのだ。さらに、次のように書いている。「奇形からは奇形(足の異常からは足の異常、盲目からは盲目)が生まれ、一般に異常な点が(親に)似ていて、しばしばまた、瘤や傷痕のような(親と)同類の徴を持った者が生まれてくる。すでにこういったものが三代目に、ふたたび現れた例があり、ある人の腕に焼き印があったが、息子にはなくて、孫の同じ箇所に、あまりはっきりしてはいないけれども、あると思われた……黒人と姦通したエーリスの女の場合のように、何代もたってから(類似性が)ふたたび現れることもある。すなわち、彼らの娘は黒人ではなく、その娘の子が黒人であった」。祖母から鼻の形や肌の色(父親と母親にはない特徴)を受け継いだ孫息子が生まれる場合もあり、そうした現象はピタゴラスの提唱する父系遺伝では説明できなかった。

アリストテレスは、精子が体内を駆けめぐって遺伝情報を集め、身体の各部分から秘密の「指示」を受け取るというピタゴラスの「移動図書館」説に異議を唱えた。「男性はひげや白髪といったような特徴が現れる前に子供をもうける」とアリストテレスは抜け目なく指摘している。にもかかわらず、そのような特徴を子供へと受け渡すのだ。遺伝によって伝わる特徴には、歩き方や、宙を見つめるときの表情や、心の状態などのように、身体的なものではないものも含まれる。そうした特徴は物質ではないため、精子の中に物質として入ることはできない、と彼は主張した。そして最後に、最も明白な主張でピタゴラスの説を攻撃した。ピタゴラスの説では女性の身体を説明することはできないではないか。父親の精子はどのようにして、娘の「生殖器」をつくるための指示を「吸収する」のだ? 父親の身体にはそうした部位がまったくないというのに。ピタゴラスの説を用いれば、発生についてのあらゆる側面を説明できるかもしれない。だが最も重要な点、すなわち性器について説明することはできないのだ。

ピタゴラスの説の代わりに、アリストテレスは当時にしてはきわめて過激なべつの説を提唱した。ひょっとしたら女性も、男性と同じく胎児に実際の物質(“女性の精液”のようなもの)を提供しているのではないだろうか。そして胎児は、男性と女性が提供する物質相互の貢献によって形づくられるのではないか。アリストテレスは男性が提供するものを「動きの原則」と比喩的に呼んだ。ここでいう「動き」とは、「運動」という意味ではなく、「指示」あるいは「情報」、現代の言い方をするならば、コードである。性交の際に交換される実際の物質というのは実のところ、よりあいまいで不可思議なものの代用物にすぎない。実際、物質というのはそれほど重要ではないのだ。男性から女性に受け渡されるのは物質ではなく、メッセージなのだから。男性の精液は建物の設計図のようなもの、大工の手仕事のようなもの、つまり子供をつくるための情報を運んでいるのだ。「大工が木材を組み立てているときに、大工の手から物質が出てきたりはしない」とアリストテレスは書いている。「しかし大工から木材へと、大工の動きをとおして形や構造が伝えられる……それと同じように、自然は精液を道具として使っている」

一方、“女性の精液”は、胎児の身体の原材料を提供する。それは大工にとっての材木のようなものであり、建物にとってのしっくいのようなもの、生命の材料と詰め物だ。アリストテレスはまた、女性が提供する実際の物質は月
経血だと主張し、男性の精液が月経血を子供の形にすると説いた(彼のこの主張は今聞くとずいぶん異様なものに思えるが、実はここでも、アリストテレスの緻密な論理が働いていた。彼は月経血の消失と受胎が同時に起きる点に注目し、胎児は月経血でつくられるのではないかと考えたのだ)。

男性と女性が提供するものを「メッセージ」と「物質」に分けた点こそまちがっていたが、アリストテレスは遺伝の性質の本質的な真実を抽象的につかんでいた。彼が見抜いたように、遺伝の伝達とは本質的には情報の伝達なのであり、伝達された情報はその後、生物をゼロからつくり出すために使われる。メッセージが物質になるのだ。そして生物が成熟すると、男性の精子(あるいは女性の精子)をつくり、物質をふたたびメッセージにする。そこに介在しているのはピタゴラスの三角形というよりも、円、すなわちサイクルだ。形が情報を生み、情報が形を生む。何世紀ものちに、マックス・デルブリュック(訳注:アメリカの生物物理学者、一九六九年にノーベル医学生理学賞を受賞)はこう冗談を言った。アリストテレスは死後にノーベル賞を授与されるべきだ。DNAを発見したのは彼なのだから。

しかし遺伝が情報として伝達されるなら、その情報はどのようにして暗
号化(エンコード)されるのだろう? 暗号(コード)という言葉の由来は「筆記者が文字を記した木の髄」という意味のラテン語のcaudex である。それでは、遺伝のcaudex とはなんなのだろう? 何が、どのように書き記されているのだろう? 物質はどのようにパッケージされて、ひとつの身体からべつの身体へと運ばれるのだろう? 何が情報をコードし、何がそれを翻訳して子供をつくるのだろう?

これらの疑問に対する最も独創的な答えは、きわめてシンプルなものであり、そこからは暗号という概念がすっかり省かれていた。それは次のようなものだ。精子の中にはすでに小さな人間が入っている。完全な人間の形をした極小の胎児が身体をまるめて小さく縮まっており、いずれ膨らんで赤ん坊になるのを待っている。この説はさまざまに形を変えて中世の伝説や民話の中に登場した。一五二〇年代には、神聖ローマ帝国のアインジーデルン出身の錬金術師パラケルススがこの「精子の中の極小人間説」にもとづいて次のように主張した。人間の精子を馬糞と一緒に熱し、通常の妊娠と同じ四〇週間にわたって泥の中に埋めておくと人間ができるが、その人間には怪物のような特徴が備わっている。正常な子供を妊娠するということは、極小人間であるホムンクルスが父親の精子から母親の子宮へと移されることにすぎず、極小人間は子宮の中で胎児サイズまで膨らむ。暗号などない。小型化されるだけだ、と。「前成説」と呼ばれるこの考え方には奇妙な魅力があった。永遠の繰り返し、という魅力だ。ホムンクルスは成熟し、自分自身の子供をつくる。だがそのためには、自分の中にあらかじめミニ・ホムンクルスを住まわせておかなければならない。無限に重なったロシアのマトリョーシカ人形のように、人間の中に小さな人間が入っており、現在の人間から最初の人間であるアダムまでが入れ子状に連なっている。さらには現在の人間から未来の人間までも連なっているのだ。中世のキリスト教徒は、人間の連なりというこの考えを用いれば、原罪を最も強力に、かつ独自に説明できると考えた。あらゆる人間の中に未来の人間がすべて入っているのだとしたら、われわれはみなアダムの身体の中に物理的に存在していたということになる。ある神学者が述べているように、アダムが罪を犯したその決定的な瞬間に、私たちは「〝最初の父〟の腰のあたりに漂っていた」ということになるのだ。
ゆえに、罪深さはわれわれが生まれる何千年も前からすでにわれわれの中に埋め込まれていたのであり、アダムの腰から彼の子孫へと受け継がれていったのだ。われわれはみな罪を背負っているが、その理由は、われわれの遠い祖先が遠くの庭で誘惑に負けたからではなく、われわれひとりひとりがすでにそのときアダムの体内に存在し、果実を実際に味わったからなのだ。

前成説のふたつめの魅力は、それが暗号の解読という問題を省いている点だった。たとえ昔の生物学者がコードという概念(ピタゴラスが説いたように、浸透によって、人間の身体をなんらかの暗号に変換するという概念)を思い描くことができたとしても、暗号を解読して人間をつくるという、その反対の過程についての考えにはたじろいだ。なぜ人間のような複雑なものが精子と卵子の結合から出現するのか? だがホムンクルスは、こうした概念的な問題を省略していた。子供の構造があらかじめできあがっているのなら、あとはその構造が拡大するだけでよかった。生物学的に膨張するだけでいいのだ。翻訳のための鍵も暗号も必要なかった。人間を発生させるには、水を与えるだけでいいのだ。

その説はあまりに魅惑的で、あまりに鮮明なイメージを与えたため、顕微鏡が発明されたからといって、ホムンクルス説が致命的な一撃を食らうことはなかった。一六九四年、オランダの物理学者で顕微鏡学者のニコラース・ハルトゼーカーは、膝を抱えて身体をまるめた恰好で精子の中に収まっている、大きな頭部を持つホムンクルスの図を描いた。一六九九年にはべつのオランダの顕微鏡学者が、人間の精子の中に漂う多数のホムンクルスを発見したと主張した。「月の表面に人間の顔が見える」といったような擬人化ファンタジーの例に漏れず、ホムンクルス説は想像力のレンズで拡大され、一七世紀をとおしてホムンクルスの絵が次々と描かれた。精子の尾部が人間の毛髪になっているものもあれば、精子の頭部が小さな人間の頭蓋になっているものもあった。一七世紀の終わりには、前成説は人間と動物の遺伝を説明する説の中で最も論理的かつ筋の通ったものだとみなされるようになった。大きな木が小さな挿し木から生まれるように、人間は小さな人間から生まれる。「自然界には無からの発生という現象はない」とオランダの科学者ヤン・スワンメルダムは一六九九年に書いている。「生長があるのみだ」

しかし人間の中に小さな人間が限りなく含まれているという説に誰もが納得したわけではなく、前成説に対抗する説として、次のような説が提唱された。すなわち、胚発生の過程で胎児の中にまったく新しい部分が形成されているにちがいない、というものだ。すでに構造ができあがった人間が縮んだ状態でただ膨張するのを待っているはずはなかった。人間というのは精子と卵子の中に含まれる特定の指示にもとづいてゼロから発生しているはずだった。四肢、胴体、脳、目、顔、さらには気性や性質といったものですら、ひとつの胚がヒトの胎児へと成長していくにつれて新たにつくり出されているはずだ。発生は起きている……そう、生成によって。

胎児や、その最終的な形である個体はどのような刺激や指示を受けて精子と卵子から発生するのだろう。一七六八年、ベルリンの発生学者カスパル・ヴォルフはこの疑問への答えとして、受精卵を段階的に人間へと成熟させるための指針が存在すると主張し、その指針に名前をつけた。アリストテレスと同じようにヴォルフも、胚にはなんらかの暗号化された情報、つまりコードが含まれていると考えたのだ。単なる小さな人間ではなく、人間をゼロからつくるための指示が含まれているはずだと。だがヴォルフは結局、そのあいまいな「指針」にラテン語の名前をつけただけで、それ以上の具体的な説明をすることはできなかった。さまざまな指示が受精卵の中で混じりあっており、やがて指針となって、見えざる手のように受精卵を人間へと形づくっていくのだとほのめかしただけだった。

生物学者や、哲学者や、キリスト教神学者や、発生学者は一八世紀をとおして、前成説と「見えざる手」とのあいだで激しい議論を闘わせた。だがそうした議論を冷ややかに眺める者がいたとしても、その人をとがめることはできない。結局のところ、そのような議論は今に始まったものではなかったからだ。一九世紀のある生物学者は「今日互いに対立している説はどちらも何世紀も前から存在していた」とこぼしているが、その意見は正しかった。実際、前成説というのは、精子が新しい人間をつくるためのすべての情報を運ぶというピタゴラスの説とたいして変わらなかった。そして、「見えざる手」のほうも、遺伝というのは物質をつくり出すためのメッセージという形で運ばれるというアリストテレスの考えを金箔で飾ったものにすぎなかった(胚をつくるための指示を運んでいるのが「手」に変わっただけだ)。

やがて、どちらの説も見事に立証され、そして見事に覆された。アリストテレスもピタゴラスも部分的に正しく、部分的にまちがっていた。一八〇〇年代初頭には、遺伝学と発生学という分野全体が概念的な袋小路にぶつかってしまったかに見えた。世界的に偉大な生物学者たちも、遺伝という問題についてしばらく熟考したあとは、二〇〇〇年前にギリシャに住んでいたふたりのギリシャ人の謎めいた説以上にその分野を進展させはしなかった。

(試し読み第2回に続く)

シッダールタ・ムカジー『遺伝子ー親密なる人類史ー(上・下)』(仲野徹監修、田中文訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫、上下各1,180円)は好評発売中です。

著者 シッダールタ・ムカジー(Siddhartha Mukherjee)
医師、がん研究者(血液学、腫瘍学)。コロンビア大学メディカル・センター准教授を務める。1970年、インドのニユーデリー生まれ。スタンフォード大学(生物学専攻)、オックスフォード大学(ローズ奨学生。免疫学専攻)、ハーバード・メディカル・スクールを卒業。デビュー作『がん―4000年の歴史―』(2010年。邦訳は早川書房刊)は、ピュリッツァー賞、PEN/E・O・ウィルソン賞、ガーディアン賞など多くの賞を受賞し、《タイム》誌の「オールタイム・ベストノンフィクション」にも選ばれた。本書『遺伝子ー親密なる人類史ー』も《ニューヨーク・タイムズ》ベストセラー・リストのノンフィクション部門1位を記録し、30カ国以上に版権が売れている。

翻訳 田中 文(たなか・ふみ)
翻訳家、医師。東北大学医学部卒業。訳書にワトスン『わたしが看護師だったころ』、ムカジ―『がん―4000年の歴史ー』、カラニシ『いま、希望を語ろう』、オゼキ『あるときの物語』、リー『健康食大全』(以上早川書房刊)など。


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