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優等生の弟がなぜ見捨てられた? 移民社会の孤独を描く文芸ミステリ『偽りの空白』(トレイシー・リエン、吉井智津訳)訳者あとがき 6/19発売

オーストラリア出身の作家、トレイシー・リエンによる文芸ミステリ『偽りの空白』を2024年6月19日に早川書房より刊行します。

本書は、2023年本屋大賞翻訳小説部門第1位に選ばれた『われら闇より天を見る』著者のクリス・ウィタカーと、『消失の惑星【ほし】』著者のジュリア・フィリップスが熱い賛辞を送っています(後述)。

さらに、2022年に原書が刊行された当初から注目を集め、パブリッシャーズ・ウィークリーなど有力媒体による年間ベストブックに選出されるほか、ロサンゼルス・タイムズ文学賞ミステリ/スリラー部門の最終候補作に選ばれ、国際的なベストセラーとなりました。

その読みどころを、訳者の吉井智津さんに語っていただきます。

『偽りの空白』トレイシー・リエン、吉井智津訳
2024年6月19日発売
368頁/定価3,080円(税込)
装画:六角堂DADA 装幀:田中久子

訳者あとがき

吉井智津

本書は、トレイシー・リエンのAll That's Left Unsaid (2022)の全訳である。

メルボルンの新聞社に就職し、ジャーナリストとして第一歩を踏み出したばかりのキー・チャンは、弟が殺されたという報せを受けて、実家のあるシドニー郊外の街カブラマッタへひさしぶりに帰省する。

亡くなった弟のデニーはキーより5歳下の17歳で、幼いころにベトナムから両親とともに難民として渡ってきたキーとは違い、オーストラリアで生まれた。成績優秀で、努力家で、おとなしい、どこから見ても“いい子”だったデニー。同級生たちと出かけた高校卒業パーティーの二次会がおこなわれていたレストランで、何者かに殴り殺されたというのだが、キーには不思議に思えてならない。事件現場となったレストランは、結婚披露宴に使われるような健全な場所であり、デニー自身もそのような場所で、暴力事件に巻きこまれるような子ではなかったはずだからだ。

ショックから立ち直れない両親は、ほとんど口をきかない。弟にいったい何があったのか、誰からも説明されないまま葬儀を終えて、ようやく父とことばを交わしたキーは、弟の死の詳細について両親が何も知らないことを知る。警察からは何も知らされていないというのだ。そこで父に言われるままに、キーは事件の詳細を確認しようと警察署を訪れるのだが、担当巡査から不可解な話を聞かされる。事件当夜、現場にはデニーの同級生や一般客が合わせて十数人もいたのに、目撃証言がひとつもないというのだ。みんな「何も見ていない」と言っている。それに警察は、捜査を進める気配すら見せない。普段は友達と夜に出かけたりしないデニーから、遅い時間の二次会にどうしても行きたいと相談をもちかけられたとき、だいじょうぶだからと両親を説得したのはほかならぬキーであり、そのことをキーは悔やんでも悔やみきれない。どうしても真相を知りたいキーは、なんとか手に入れた巡査の手書きのメモをたよりに、事件当夜、現場にいた人々をひとりひとり訪ね歩くことにした。

ところが、実際に調査を始めてみると、誰よりも真面目な優等生だったはずのデニーがしたという不正行為に話が及ぶし、そもそも警察はあたかもデニーが違法薬物に手を出していたかのような話の進め方をしている。弟とは仲良しの姉弟だと思っていたのに、自分が不在のあいだに弟は変わってしまったのか? それとも、最初から弟のことなんて何も知らなかったのか――?

物語の舞台は、1996年のオーストラリア、シドニー南西部の街カブラマッタ。この国最大のベトナム人街があることで知られ、とくにアジアからの移民が多く暮らす地域だ。主人公キーの視点から描かれるいくつかの章と、交互に現れる、事件の目撃者やキーの家族といった身近な人物の視点から語られる章を追っていくうちに、薬物がらみの問題を多く抱え、アジア系ギャングによる暴力事件が絶えず起こっていた街の不穏さと、おなじ街で懸命に生きる人々の活気が入り混じる、複雑な移民街の姿が見えてくる。と、同時に、複雑な街の様子を背景に、思春期のころの友達どうし、とくに女の子どうしの関係や、親世代との価値観の違いや衝突、そして親しい人とのあいだに生じる嫉妬心や執着や気持ちのずれや絡まりあいといった登場人物たちの心理が、息が詰まるほどの切迫感をもって描かれる。

とくに強調されるのが、キーにだけ聞こえる声として登場する、元親友のミニーの存在だ。キーとミニーは、ともにベトナムからの移民家庭に育ち、学校での差別ともいっしょに闘ってきた誰よりも仲良しのふたりだった。だが、似ているようで違いすぎる家庭環境や、関係が近いからこその息苦しさから傷つけあい、喧嘩別れしたままになり、キーはミニーの居場所を知らない。それでもミニーの声は、ときにキーをいらだたせながらも行動に駆り立て、キー自身は、みずから動くことによって自分と向きあい、それまで見えていなかったものにたいして目をひらいていくことになる。

原題のAll That's Left Unsaidは、直訳すれば「言われなかったすべてのこと」であり、もちろん、ひとつには事件の空白を指しているのだが、おなじコミュニティーに暮らし、おなじ事件を目撃し、おなじ嘘をついた人々がそれぞれに抱える異なる事情や嘘の理由がそこに隠れていることも含んでいるのだろう。それに、キーの両親やその他の登場人物たちが示すように、あえてことばにされなくても大切なことはたくさんあって、それに気づくことができれば、ひとはやさしくなれると伝えているようにも思える。

著者のトレイシー・リエンは、オーストラリア出身のベトナム系作家で、ロサンゼルス・タイムズの記者などを経て、カンザス大学大学院MFA(芸術学修士課程)で創作を学び、在学中に執筆した本作で作家デビューを果たした。いくつかのインタビューによると、著者は幼少期に、ベトナムからの移民である両親とともにカブラマッタに住んでいたが、子供だったため、わかっていなかったことも多く、作品の背景となる状況については、当時の新聞記事や研究書などの資料にあたり、あらたに調査を行って、フィクションとしてストーリーを組み立てたという。書くことへの興味は、十代前半のころ愛読していたティーン雑誌『Dolly』に“ヒューマンインタレスト”のカテゴリで掲載される、人に焦点を当てた読み物記事が好きで、いつか自分もそこに載るような長く人の心にのこるストーリーを書きたいと思ったことが始まりだったそうだ。その後、シドニー工科大学でジャーナリズムを学び、VoxMediaでゲームライターのポジションを得て、在職中に渡米、ロサンゼルス・タイムズに移ってからは、テック業界を中心にビジネス記事を手がける記者として充実した日々を送っていた。転機が訪れたのは、トランプ政権が成立してしばらく経ったころのことで、今日書いた記事が明日には忘れられてしまうようなビジネスニュースの仕事に限界を感じ、新聞社を辞めて大学院で創作を学ぶことに決めた。書きたいテーマはいつもおなじで、「1990年代のオーストラリアでアジア人として育つのはどういう感じがするか」で、気がつけばカブラマッタに住む女の子の話ばかりを書いていたという。そして、多文化主義を掲げる平等の国で居場所を確保しつづけるために、「模範的マイノリティー」でいることにとらわれた人物としてキーを主人公に据え、長篇小説として本作を書きあげた。殺人事件を軸にしたミステリのかたちをとったのは、人種差別や世代間のトラウマといった深刻な内容を、重くなりすぎずに読者に届けるためだったということだ。

本書は、刊行当初から、ミステリとしても文芸作品としても注目をあつめ、パブリッシャーズ・ウィークリーをはじめとする複数の有名媒体がそれぞれに発表する、2022年度のベスト本に選ばれたほか、ロサンゼルス・タイムズ文学賞のミステリ/スリラー部門などの文学賞の最終候補作となり、また、2023年度には、すぐれた文芸作品のデビュー作に贈られるMUD文学賞や独立系書店が選ぶ新人賞であるインディーブック・アワードを含めオーストラリアの文学賞を中心に受賞が続いた。書評誌や新聞、現役の作家からも賛辞が数多く寄せられており、そのいくつかはひじょうに印象的で、作品の本質をよく伝えていると思うので、ここで紹介しておきたい。

「この小説は、読む人を時を超えた旅につれていく。多くの問題を抱えた1996年のオーストラリアへ、親の心の痛みによってかたちづくられた若き日へ、あなた自身が人生最大の過ちを犯したつぎの日へ。トレイシー・リエンが書く物語は、あなたを20年前へと引きもどし、そして、心が張り裂け、愕然とするあなたを、今度は現在の明るい光のなかへと押しやる。正直で、痛くて、美しさに満ちた小説。この本はあなたを夢中にさせる」――ジュリア・フィリップス(『消失の惑星』)

「ショッキングで、深く心を揺さぶる、真に特別なデビュー作だ。殺伐として、心を引き裂くような本作は、いくつかのひじょうに重要な問題に取り組みつつ、それでいて、よくつくりこまれたミステリでもあり、読みはじめたら止められない。と、同時に忘れることのできない作品だ」――クリス・ウィタカー(『われら闇より天を見る』)

胸詰まる物語であるが、読んだ人の心に長く深い印象をのこす作品であることに間違いはなく、翻訳でもそれがうまく伝えられることを願うばかりだ。

先に少し触れたが、カブラマッタはシドニーの中心部から南西約30キロに位置する郊外の街で、第二次世界大戦後はおもにヨーロッパから、ベトナム戦争後はアジアからの移民を受けいれてきた一時滞在施設が近くにあったことから、移民人口の多い街として発展した。オーストラリアでは、1960年以降から増えはじめた違法薬物の問題が1990年代にピークを迎え、ヘロイン禍(エピデミック)と呼ばれる時期を経験していた。カブラマッタはその問題の中心であり、同国の“ヘロインの都”とまで呼ばれることもあった。本作に描かれているのは、そのころのことである。ヘロイン禍は2000年代初頭に終息し、それにはいくつかの要因があったが、作中で登場人物のひとりが語っているように、薬物の乱用によって健康を損ない、生活を破綻させてしまう大人たちを見ていて、つぎの世代がおなじ道を選ばなかったことが大きいのではないかと、これも著者はインタビューのなかで述べている。

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トレイシー・リエン『偽りの空白』はを2024年6月19日に紙・電子書籍同時発売です。

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