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「生命の設計図」を自在に操作する革命的技術の光と影とは?『ゲノム編集の世紀』訳者あとがき【試し読み】

2020年ノーベル賞受賞で世界の話題をさらったゲノム編集技術「CRISPR(クリスパー)」。自在にDNAを切り貼りできる新技術に大きな期待が寄せられる一方、倫理的課題や熾烈な特許レースなど多くの問題も明らかに。
日本人研究者をはじめとする数多くの影のヒーローの活躍から、「人体実験」とも言うべき歴史的愚行まで、「現代の科学革命」をめぐる数々のドラマをつぶさに描く傑作ノンフィクション『ゲノム編集の世紀 「クリスパー革命」は人類をどこまで変えるのか』(ケヴィン・デイヴィス、早川書房)、いよいよ11月2日に出版です。
話題の新刊から、翻訳を手掛けた田中 文氏の「あとがき」を特別公開します。

『ゲノム編集の世紀 「クリスパー革命」は人類をどこまで変えるのか』ケヴィン・デイヴィス、田中文訳、早川書房
『ゲノム編集の世紀』早川書房

訳者(田中 文)あとがき

2020年のノーベル化学賞は、ジェニファー・ダウドナ、エマニュエル・シャルパンティエ両氏に贈られた。受賞理由はCRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)と呼ばれる、画期的なゲノム編集技術の開発だ。ZFN、TALENという名のゲノム編集技術はすでに開発されていたが、いずれも作製がむずかしく、高額なために、広く普及するまでには至っていなかった。それに比べ、CRISPRははるかに安価で、特定の遺伝子を驚くほど簡単に標的化できるため、2012年6月にCRISPR-Cas9についてのダウドナらの歴史的論文が科学誌《サイエンス》に発表されると、この技術はまたたくまに世界中に広がった。

それまで遺伝子編集をおこなった経験のない人々まで、CRISPR用キットを購入し、さまざまな生物のDNAを次々と「クリスパー」しはじめるようになった。まさに、CRISPR開発の前と後(「ゲノム編集紀元前と紀元後」)で、生命科学の世界が一変したのだ。

CRISPRとはそもそも、細菌のゲノムに存在する奇妙な繰り返し配列のことだ。数十塩基のまったく同じ回文のような配列(リピート)が繰り返され、そのあいだに、それぞれ異なる配列(スペーサー)がはさまれた配列だ。このCRISPR配列の近くには必ず、Casという遺伝子群が存在することが判明し、やがて、全容が解明された。細菌は、かつて感染したウイルス(ファージ)のDNAを、犯人の顔写真をキャビネットに保管するように、スペーサーに取り込む。そしてふたたび同じウイルスが侵入してきたら、スペーサー配列をコピーしたRNAがガイド役となってCasタンパク質を標的まで誘導し、酵素であるこのCasタンパク質が標的のウイルスDNAを切断するのだ。

ダウドナとシャルパンティエは、2012年の歴史的な論文で、この細菌の獲得免疫システムを遺伝子編集技術として応用できることを試験管内で実験的に示した。任意のDNA配列を選び、それに対応するようにガイドRNAを設計すれば、あとは、ハサミ役のCas9タンパク質がガイドに導かれて標的配列を切ってくれる。こうして、CRISPR遺伝子編集技術は誕生したのである。

二人のノーベル賞受賞ばかりが注目されるが、じつは、ダウドナらの発見につがなる、過去から続く道筋と、さらには、ダウドナらの物語と平行するように走っていたもうひとつの物語があった。そしてまた、ダウドナらの発見からさらに未来へと続いていく(今も進展しつづけている)道筋もある。本書は、それらの道筋を丁寧に追いかけるとともに、2018年のCRISPRベビーの誕生という、衝撃的なCRISPRの悪用例について、詳細に書き綴っている。

過去から続く道筋のはじまりは、正確には、太古の地球でウイルスと闘うためにCRISPRという免疫システムを生み出した細菌ということになるかもしれない。しかし、科学研究の歴史という観点からは、その始点は、石野良純博士(現・九州大学教授)による、大腸菌DNA内でのCRISPR配列の発見(1987年)だろう。本書の物語は、この奇妙な配列がウイルスに対抗するための細菌の獲得免疫システムであることを突き止めたスペインの研究者フランシスコ・モヒカ、およびデンマークの食品会社〈ダニスコ〉のフィリップ・ホーヴァートらの物語からはじまる。

さらに、ダウドナらの物語と平行するように存在していたもうひとつの物語とは、2013年1月に《サイエンス》に発表した論文によって、哺乳類細胞でCRISPRが実際に働くことを示した、マサチューセッツ工科大学教授のフェン・ジャンの物語だ。本書が書かれたのはダウドナらのノーベル賞受賞が発表される前だったが、CRISPRがノーベル賞に輝くのはすでに確実視されていた。しかし、誰が受賞するかという点については、さまざまな臆測があり、もしCRISPRが化学賞ではなく、ノーベル生理学・医学賞を獲得するなら、受賞者はフェン・ジャンになるのではないかとみなす向きもあった。

しかし、ダウドナ&シャルパンティエ、フェン・ジャンの両陣営が争ったのはノーベル賞というよりもむしろ、バイオテク産業の花形となる、CRISPRという遺伝子編集技術をめぐる特許のほうだった。平行して走っていたかに見えた二つの物語がぶつかり、特許をめぐる激しい、そしてきわめて複雑な紛争となって火花を散らす様子が本書では詳細に描かれている。

CRISPRの開発から未来へと続く道筋のひとつをつくったのは、デイヴィッド・リュー博士の研究室による一塩基編集およびプライム編集の開発だろう。CRISPRよりさらに正確なこれらの技術の開発を導いたリュー博士の天才ぶりと、彼の研究室で活躍した研究者たちの物語も読みどころ満載だ。本書の後半では、気候変動や害虫に強い農作物の作出、家畜の改良、マラリアの撲滅、絶滅動物の復活など、CRISPRのさまざまな応用が紹介されている。さらに、人間に好ましい性質を授けるためのエンハンスメント(増強)目的でヒトの遺伝子を改変することの是非について、多方面の意見とともに論じられている。

CRISPRをめぐる物語をこれほど多面的に描き、数多くの影のヒーローたちにスポットライトをあてた本をほかに知らない。スペインのサンタ・ポーラの塩田から、リトアニアの首都ビリニュス、イタリアのフィレンツェ、そして米国各地へ。ジャーナリストらしいフットワークの軽さで科学者たちのもとを訪れ、直接話を聞いた著者といっしょに、この驚異の遺伝子編集技術開発の立役者たちの苦労話や研究秘話に耳を傾け、科学研究の躍動感と、研究者たちの情熱を感じていただければと思う。

遺伝子疾患の根治や食料問題の解決をはじめ、CRISPRが世界に計り知れないほどのポジティブな影響をもたらすのは疑いの余地がない。しかし一方で、この技術が悪用される可能性もある。ダウドナをはじめとする研究者たちがとりわけ心配していたのは、生きている患者の病気を治療するためではなく、まだ生まれていない子供の病気の発症リスクをなくしたり、子供をエンハンスメントしたりするために、CRISPRが使われることだった。ダウドナは2017年に出版されたサミュエル・スターンバーグとの共著『CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見』(櫻井祐子訳、文春文庫)のなかで、CRISPRがヒトの生殖細胞系列(子孫に遺伝情報を受け渡すことができる卵子、精子、受精卵[胚]の総称)の編集に使われることを懸念して、次のように述べている。

人間はかつてCRISPRのようなツールをもったことはなかった。CRISPRにできるのは、生きている人間のゲノムを変えることだけではない。未来のすべての人間のゲノムをパリンプセスト(上書き可能な羊皮紙)の束に変え、ひと世代の気まぐれでどんな遺伝子コードも消去、書き換えられるようにするのだ。……いつか誰かがCRISPRをヒト胚に使用することは避けられない。そしてそうするうちに、私たちの種の歴史の流れは予想できないようなかたちで変わっていくかもしれない。

生殖細胞系列の遺伝子編集についての公の議論が十分になされないまま、ヒト胚で実験がおこなわれれば、社会の激しい反発が起きるのは目に見えていた。そしてそのせいで、遺伝子疾患に苦しむ患者の治療へのCRISPRの応用の道が閉ざされてしまうのではないかと、研究者たちは危惧していたのだ。

2018年、彼らの心配は現実のものとなった。中国人研究者、賀建奎フー・ジェンクイが、CRISPRで受精卵に遺伝子編集をほどこし、双子の赤ちゃん、いわゆるCRISPRベビーを誕生させたのだ。賀建奎というひとりの科学者の「気まぐれ」で、赤ちゃんたちの遺伝子が受精卵の段階で人為的に書き換えられ、その遺伝子が子孫に永久に受け継がれることになった。社会的コンセンサスを得ることもないまま、十分な倫理上の議論がつくされていない段階でおこなわれたこの「人体実験」は、愚行と呼ぶにふさわしい行為だった。

しかし、最終的に3年の懲役に処されることになるこの中国人科学者を突き動かしていたのは、いったいなんだったのか。そこには、欧米とは異なる宗教的な考え方、中国という国の社会的な背景といったものが、少なからず影響していた。本書では、賀建奎なる人物の人となりや、彼の隠れた野心について、深く切り込んだレポートが提示されている。綿密な取材にもとづいたこのレポートは、それだけで一冊の本になるほどの読み応えだ。CRISPRの悪用の最初の例として、過ちにつながる道筋とはいったいどういうものだったのか、今後、こうしたことが繰り返されないためにはどうすればいいのか、深く考えさせられる。

米国の諜報コミュニティーが上院軍事委員会に提出する「世界の脅威に関する評価報告書」のなかで、遺伝子編集技術が潜在的な「大量破壊兵器」に分類された。ビル・ゲイツも「次の感染症のアウトブレイクは、ゲノム編集に夢中になっているテロリストのコンピューター画面上で発生する可能性が高い」と警告している。独裁者やテロリストが、生物兵器などの邪悪な目的のためにCRISPRを使ったらどうなるのか? そうした人々の暴走を阻止する手だてはあるのか? ソ連によるウクライナ侵攻や、米中の対立など、世界の分断が深まるいま、この問いかけはいっそう差し迫っているように感じられる。

2022年夏、衣料品メーカーの〈ユニクロ〉は「平和を願うチャリティーTシャツプロジェクト」を開始した。このプロジェクトにボランティアで参加した著名人には、ノーベル賞受賞者の山中伸弥氏もいた。氏がデザインしたTシャツには、DNAの二重らせんのグラフィックデザインとともに、次のようなメッセージが書かれていた。

Technologies progress. Science progresses. Humanity must progress.
(テクノロジーは進歩する。科学も進歩する。人類も進歩しなければならない)

「科学技術は諸刃の剣とも言えます。科学の進展によって世界が良い方向に向かうかは、それを使う人類に懸かっている」とは山中氏の言葉だ(〈ユニクロ〉HPより)。

科学技術の驚くべき進歩によって誕生したCRISPRというツールの存在する世紀に生きる人類は、このツールを使って、どうすれば世界をよい方向に向かわせることができるのか。本書がそれを考えるきっかけとなるならば、訳者としてこれ以上の喜びはない。

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◆本書概要

『ゲノム編集の世紀 「クリスパー革命」は人類をどこまで変えるのか』
著者: ケヴィン・デイヴィス
訳者: 田中 文
本体価格: 3,800円(税込4,180円)
発売日: 2022年11月2日(早川書房)

◆著訳者略歴

ケヴィン・デイヴィス(Kevin Davies)
作家、科学雑誌編集者。オックスフォード大学で生化学修士号、ロンドン大学で分子遺伝学の博士号を取得。そののち世界で最も権威ある学術誌のひとつ《ネイチャー》の編集に携わり、新雑誌《ネイチャー・ジェネティクス》の創刊編集長となった。現在はCRISPR(クリスパー)に関する専門誌《CRISPRジャーナル》の編集長をつとめている。著書に『乳ガン遺伝子をつきとめろ!』(共著)『ゲノムを支配する者は誰か』『1000ドルゲノム』など。

田中 文(たなか・ふみ)
東北大学医学部卒業。医師、翻訳家。訳書に、ムカジー『遺伝子――親密なる人類史――』、カラニシ『いま、希望を語ろう』、オゼキ『あるときの物語』(以上早川書房刊)など。

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