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【試し読み】「障害」とは何かを深く考えさせる、文化人類学の名著『みんなが手話で話した島』本文

「障害」とは何かを深く考えさせる、文化人類学の名著。
アメリカ・ボストンの南に位置するマーサズ・ヴィンヤード島――今やオバマ元大統領ら多くの著名人が別荘を構える風光明媚な観光地として知られるこの島では、20世紀初頭まで遺伝性の聴覚障害のある人が多く暮らしていた。ここでは聞こえる聞こえないにかかわりなく、誰もがごく普通に手話を使って話していた。
多数のインフォーマント(情報提供者)の証言をもとに、島の人々の暮らしを鮮やかによみがえらせたのが、『みんなが手話で話した島』(ノーラ・エレン・グロース、佐野正信訳、早川書房)です。本書の第1章を一部編集し、特別に試し読み公開します。

『みんなが手話で話した島』ノーラ・エレン・グロース、佐野正信訳、早川書房
『みんなが手話で話した島』ハヤカワ・ノンフィクション文庫

第1章「他の人とまったく同じだった」

お客を車に乗せて島めぐりに連れ出すのが、ゲイル・ハンティントン〔1902〜93。島の郷土史家〕の楽しみの一つになっている。島というのは、マサチューセッツ州のマーサズ・ヴィンヤード島。速度を60キロ以内におさえ、ところどころ島の史跡を案内してくれるのだ。一帯についてのゲイルの記憶は80年以上も前にさかのぼる。80年前といえば、ヴィンヤード・ヘイヴン・ハーバーに沿岸航行船がひしめき合い、ニューベッドフォードでまだ捕鯨船が活躍していた頃である。まさにゲイルこそ島の語り部というにふさわしい。1978年の10月下旬、私もまたゲイルの案内で「島西部(アップ・アイランド)」をまわる一人となった。道中、ゲイルはジェディダイアの家をさしてこう切り出した。

「あれは付き合いのいい男でした。漁や牧畜で生計を立てていました。島でも一、二を争うドーリー〔タラ漁などに用いる平底の小舟〕の使い手で、片腕なのにたいした男だと感心したものです」
「片方の腕をどうかしたんですか」
「芝刈り機にはさまれまして――まだ15かそこらの頃でしたが」
そういってからゲイルはふと思いついたように付け加えた。
「それにあれはつんぼ(※)でした」
「それもそのときの事故のせいですか」
「いいえ、生まれつきです」

ヴィンヤード・ヘイヴンへの帰路、眼下にヴィンヤード海峡の大海原をのぞみながら、砂質の尾根をのそのそとくだって行ったとき、ゲイルが左手の風雨にさらされた下見板張りの家に視線を走らせた。
「ジェディダイアの弟があそこに住んでいました」

弟のナサニエルは大きな酪農場の所有者だったという。
「この弟というのが」喋りながらゲイルは、ググッとブレーキを入れた。
「近辺ではちょっとしたお大尽だったのです――まあ、チルマークの連中から見ればの話ですが。そうそう、この弟もつんぼでしたよ」

兄弟そろって生まれつきろうだったのですか――私はゲイルにたずねてみた。ゲイルによると、原因はよく分からないが、たぶん聾が遺伝したせいだという。病気のためかもしれませんね――こんな私の思いつきにゲイルは首を振った。島西部に大勢の聾者がおり、みな縁続きなので、そうは思えません。この島には、長きにわたって聾者がくらしていましたが、1950年代の初めにその最後の一人が亡くなっています。

「聾の人はどのくらいいたんですか」
「そうですね、すぐに思い出せるのが6人――いや7人います」
「当時のチルマークの人口はどのくらいだったんですか」
「200人くらい――いや250人くらいかな。それ以上ということはないでしょう」

それではかなりの割合になりそうですね――私がこういうと、ゲイルは一瞬、驚きの表情を浮かべ、それからこんなふうに説明した。私もかつて、聾者の多さに首をかしげることがありました。けれども、あそこの住民が何ということもなく振る舞うので、いつしか私も気にかけなくなっていたのです。

次にヴィンヤード島を訪れた、ある雨の日の午後、私はゲイルに同席してもらって、彼の記憶にある島の聾者の家系を探り出そうとした。島西部に聾があらわれたのは、聾の遺伝的性質が存在したためかもしれない――こう考えた私は、このテーマについて少し調べてみたいと思ったのである。

島の歴史と家系に関するゲイルの知識は多岐にわたっていた。居間に腰をおろしたゲイルは、医師から厳禁されている煙草をくゆらせ、大好物のニューイングランド産のラム酒を何度となくかたむけながら、遠い昔の出来事や半世紀かそれ以上も前に亡くなった人たちに思いをめぐらせた。話し合ううちに、ゲイルは少年時代に見知っていた聾者をさらに3、4人思い出してくれた。すべてをひっくるめると、ゲイルがまだ子供だった1900年代の初頭には、チルマークというタウンだけで10人の聾者がいたことになる。

タウンの健聴者が聾者をどう見ていたのかたずねようと思ったのは、すでに数種類の系図を書きとめるのに午後のかなりの時間を費やしてからのことだった。

「別にどうとも思っていませんでした。他の人とまったく同じでしたから」
「でも、どうやって話していたんですか。すべて筆談だったんですか」
「いや、いや――」ゲイルは私があまりに自明のことを訊くのに驚いたようだった。
つまり、ここではみんなが手話で話したんです
「みんな、というのは聾者の家族とか、そういった人たちのことですか」
「ええ、その通りです」

答えながらゲイルは、おぼつかない足どりで台所に入ると、からになったグラスに酒をつぎ、数本のマッチを探り出した。
それにタウンでくらす連中のすべて、ということでもあります。私も手話で話しました。母だって誰だって、手話で話したんです」

『みんなが手話で話した島』(早川書房)より

人類学と障害者

比較的孤立した共同体に遺伝性の障害(ディスオーダー)があらわれるのはかねてより知られていたことであり、すでに遺伝学者や自然人類学者は、小さな共同体にあらわれた潜性〔劣性〕遺伝の聾について、多くの実例を調べ上げている。ヴィンヤード島もそうした事例の一つだった。2半世紀以上にわたり、この島では遺伝性聾がきわめて高い発生率を示した。

19世紀には――おそらくそれ以前もほぼ同様だろうが――先天性の聾者の比率はアメリカ人全体では5728対1だったのに対し、ヴィンヤード島では155対1だった。私はこれまでに3世紀にわたって島の家系に生まれた聾者を全部で少なくとも72人確認している。よそへ移住した島の出身者の子孫からも少なくともさらに十数人以上の聾者が生まれている。

本書は、遺伝学、聾研究(デフ・スタディーズ)、社会言語学、民族誌学、口述と筆録の歴史に依拠しつつ、遺伝性障害の民族史を記述しようとしたものである。複雑な数理モデルについては医療遺伝学や自然人類学の機関誌に載せる方がふさわしく思われるので、ここでは扱わないこととする。そうしたたぐいのものは他の場を借り、いずれ公にされるだろう。

本書ではこの種の遺伝的性質の歴史とその保有者の歴史には不可分の関係があるとの観点に立ち、両者に焦点をあてることとする。遺伝性障害は、その障害を身に受けた人間のくらしから切り離され、それだけが独立したものとしてあらわれるわけではない。障害を身に受けた者は社会の中でどのように機能し、共同体における自己の役割をどのように認識するのか――私の関心はこんなところにあった。

これまで障害(ディサビリティ)は、主に医療の対象として、あるいは社会学の場合には逸脱の一つとして分析されることが多かった。社会学の文献では、逸脱を「ある個人を正常とされる大多数の人から引き離すその人の属性」と定義している。聾は主だった障害の中でもとりわけ受容しにくく、発生率も高いとされる。意思の疎通に支障をきたす聴覚障害(ヒアリング・インペアメント)を持つ者はアメリカだけでも1420万人おり、このうち200万人が聾者とされている。

聾者の最大の問題は、その聾者が聞こえないというだけにとどまらず、聴力の欠損が社会的な孤立を生み出しているということである。聾者が広い社会を認識したり意識したりしにくいとすれば、それは健聴者が聾者と意思の疎通をはかりにくい、あるいははかれないと思うためである。たとえ聾者が手話を知っていても、手話を使って聾者と自由に話せる健聴者はごくわずかしかいない。

こうした意思の疎通のむずかしさと、健聴者の世界に広くいきわたった聾についての無知や誤情報とがないまぜになり、教育を受けたり、仕事についたり、共同体の活動に加わったり、市民権を行使したりといった、一人ひとりの聾者のくらしのあらゆる面で、さまざまな困難が生み出されている。

ところがヴィンヤード島では、健聴者は英語とヴィンヤード手話の二言語を併用していた。この適応には、それによって聾者と社会との壁が取り除かれたという意味で、言語学的意義以上の意義があった。言葉の壁が完全に取り除かれたとすれば、また誰もが聾をなじみのものとして違和感なく受け容れるようになったとすれば、そのとき聾者はどの程度深く共同体にとけ込めるのだろうか。ヴィンヤード島で明らかにされた事実は、そうした状況に身を置けば聾者は難なく共同体にとけ込めることを示している。

私がおこなったすべての面接で聾の島民が一つの集団として、あるいは「聾者」として思い浮かべられたり、取り上げられたりするケースが一度もなかったという事実こそ、聾者が社会のすみずみまで完全にとけ込めていたことの端的な証拠に他ならない。今日こんにち記憶されている聾者は、その一人ひとりに一己いっこの人格が認められている。私が「聾者」についてたずねたり、インフォーマント〔情報提供者〕に知り合いの聾者を全員あげてもらったりしたとき、本当はもっとたくさん知っているのに一人か二人しか思い出せない人が少なくなかった。

特定の個人についてのコメントを引き出すためには、島に住んでいたとされる聾者全員のリストをそのインフォーマントに読み聞かせる必要があった。以下、私の覚書から、典型的な例を一つひろってみることにしよう。今では90代前半の老婦人に面接をおこなったときのやりとりである。

「アイゼイアとデイヴィッドについて、何か共通することを覚えていますか」
「もちろん、覚えていますとも。二人とも腕っこきの漁師でした。本当に腕のいい漁師でした」
「ひょっとして、お二人とも聾だったのではありませんか」
「そうそう、いわれてみればその通りでした。二人とも聾だったのです。何ということでしょう。すっかり忘れてしまうなんて」

アメリカ本土では重度の聾はまぎれもなくハンディキャップと見なされているが、ハンディキャップとはそもそも、それがあらわれる共同体によって規定されるものではないだろうか。私たちはヴィンヤード島の聾者を障害者(ディセイブルド)の中に含めることができるが、こうした聾者が社会的な不利益(ハンディキャップ)を負わされた者という意味での障害者とはどうしても思えないのである。このヤンキー〔ニューイングランド人〕の共同体で島の聾者はくらしのあらゆる面に自由にとけ込んでいた。彼らは健聴の親類や友人や隣人たちとまったく同じように大人になり、結婚し、家族を養い、生計を立てた。この点について先述の女性よりさらに高齢の男性は次のように語っている。

「私は聾のことなど気にしていませんでした。声の違う人のことを気にしないのと同じです」

ヴィンヤード島で聾者が手に入れたステータスを最もよく示しているのはおそらく80代の島の女性による次の言葉であろう。あなたが小さい頃、聾というハンディキャップを負わされていた人たちはどんなふうでしたか、とたずねると、この女性は断固とした口調でこう答えた。
「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾というだけでした」

この続きは▶本書でご確認ください

『みんなが手話で話した島』著訳者略歴

著者:ノーラ・エレン・グロース(Nora Ellen Groce)
文化医療人類学者。1952年生まれ。ミシガン大学で人類学を専攻、1983年に本書のもととなった論文でブラウン大学より博士号を取得。ハーヴァード大学医学大学院特別研究員、イェール大学准教授等を経て、現在UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)国際障害研究センター所長。貧困と障害、公衆衛生に関する論考を多数執筆。

訳者:佐野正信(さの・まさのぶ)
1959年生まれ。8歳で失聴。明治大学大学院博士課程在学中より翻訳家として活躍。訳書にサックス『手話の世界へ』(毎日出版文化賞受賞)、ストロング『田中正造伝』(共訳)など。日本社会事業大学非常勤講師。

(※)本書中には、今日の観点からみると差別的表現ととられかねない箇所がありますが、著者に差別を助長する意図はなく、文化人類学の調査手法の一つである口述記録を忠実に反映したものであることに鑑み、原文のままとしています。

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