異郷に戦う数百万の日本軍兵士にとって、降伏の衝撃はいかなるものだったのか? ルイ・アレン『日本軍が銃をおいた日』序文
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争は終わった。しかし、海外各地で戦っていた数百万の日本軍兵士にとって、それは新たな戦いの始まりだった――。
ルイ・アレン『日本軍が銃をおいた日: 太平洋戦争の終焉』は、当時イギリス軍の語学将校として降伏交渉に身をもってあたり、その後太平洋研究の第一人者となった著者が、現代アジアを形成した歴史転換期を克明に描き出した一冊です。現代史家の大木毅氏の監修のもと戦争ノンフィクションの名著を復刻するシリーズ〈人間と戦争〉の第1巻として、この度復刻しました。
この記事では、本書の序文を全文公開します。
『日本軍が銃をおいた日』序
1945年8月15日のはるか以前から、日本政府は華々しくはじまったこの戦争が何百万という国民の犠牲に終わりそうな形勢にあることを知っていた。広島と長崎に原子爆弾が投下される以前に、ロシアが満州に侵攻する以前に、日本本土へのアメリカの絨毯爆撃と連合軍の飛行機および潜水艦による日本の制海権掌握がすでに、日本の最終的な敗北を確実にしていた。あらゆる中立筋を通じて、日本の外交官は列強諸国が日本に対して臨む態度を探ろうとしていた。スウェーデン、スイス、バチカン、そして──1945年8月9日の、不可侵条約破棄にいたるまでは──ソビエト・ロシアと、あらゆる筋にアプローチしていた。最期が来て、日本の天皇が最高戦争指導会議たる御前会議において自らの発意によって和平を請うことを決した時には、すでに故国の工業都市は荒廃しきっていた。
しかし、海外にはなお何百万という数の武装した日本兵がいたのである。アジア大陸および極東アジアにまたがる広大な地域の政治的支配権はなお日本陸海軍の掌中にあった。これらの軍隊のいくつかはとうに手痛い敗北を喫していた。フィリピンでは、掠奪的なゲリラ隊になりさがった日本軍も出ていた。太平洋の海の迷路のなかに、守備隊がいたるところでとり残されていた。ビルマでは、日本軍は大戦を通じて最も知れわたることになった大敗を喫し、全面的撤退の途にあった。彼らは他へ転戦することはなかった。中国においてさえ、抗日の敵意はすでに1937年に芽生えていたのだが、日本軍は最も生産的な地域の大部分をなお占領していた。タイおよび仏領インドシナに対しては、支配・統制を強化したのち、ついに1945年3月9日にはフランス政体を倒した。日本軍はジャワ、スマトラをはじめ、蘭印(オランダ領東インド)の無数の島々をなお押さえていた。東京の中央当局が結局ポツダム宣言を進んで受け入れると声明した時でも、たとえその声明が万世一系の天子の声によって告げられようと、実際に敗北を喫していない外地の日本軍が天皇の決定に従うということは決して確実なことではなかった。
日本の将軍たちが、東南アジア担当のマウントバッテンと太平洋担当のマッカーサー両連合軍最高司令官に和平の条件を請うために、マニラとラングーン(現ヤンゴン)へ飛んだ。しかし、当の皇居の内域では、天皇がポツダム宣言を受諾したということが知れると、これに背かんとする将校たちが降伏を告げる玉音放送の録音盤を奪おうと企て、それを実行に移して近衛師団を指揮する将官を暗殺した。この事件につづいて起こった殺人と自決は、日本軍部がそう易々と説得されて銃を置くことはないであろうということを裏づけていた。
巻きこまれた人々は他にもいた。軍の保護のもと〝東亜新秩序〟の開拓者たるべく満州や朝鮮へ出ていった民間の日本人植民者だけでなく、日本は西欧の植民地列強から自分たちを解放するために来たという日本の宣言を信じていたアジアの独立運動の指導者たちもいたのである。連合軍が戻ってきた時、一体彼らは、そして宣言されてまだ日も浅い彼らの独立はどうなるのであろうか?
この降伏の期間については、そこへいたるまでの外交上の駆け引きや、原爆投下や、阿南陸相の自決や、皇居での反逆等々に関して数えきれないほどの書物が著わされている。私が本書において意図したものはそれとは違う。私は、降伏が外地の日本軍に与えた衝撃を示そうと試みた。その決定は巨大な、だが短命に終わった帝国でいかに受けとめられたか、それは日本人自身にどのような悲劇をもたらしたか、それは戻ってきた連合軍にどのような問題を提起したか、解放が身近に迫るにつれて連合軍の戦争捕虜の心にどのような恐怖が湧いてきたか、そしてわけても、その余波としてそれはいかなる政治的変化を招いたか、である。なぜならば、現代アジアの地図は、日本が降伏した1945年8月から10月にかけての数カ月間に由来しているからである。
日本はその征服によって得たものを簡単には渡さなかった。アジア人民の解放者であるという日本の主張は、日本人憲兵のすさまじいまでの残虐さのもとに生きてきたマラヤやシンガポールの何千という中国系住民の耳には白々しく響いたことであろう。しかし、われわれが日本陸海軍のなかに理想主義者がいたということを無視したとすれば、それは愚かしいことであろう。日本には、そしてアジア大陸の側にも、日本がビルマに、ベトナムに、インドネシアに独立をもたらしたと真面目に信じている人たちが事実いるのである。だから私は、日本が征服した、あるいは解放した──どちらの動詞を採るかは各自の見解にまかせるが──国々、もしくは日本に協力するよう強いられた国々がいかにして日本とのつながりから脱皮して自らの独立という重荷を引きうけていったかを、ここに示そうと試みたのである。当時の詳細な史実は大部分が日本の書庫に埋もれたままになっていたり、日本人読者の目にしか触れず、それも本にはならずに内輪の会報といった形で印刷され、部数もごく限られているものもある。私はそういった種類のものを本書で用いたばかりでなく、当時の雰囲気や出来事についての私自身の回想を頼りにたどった。私の回想がおよぶのは、本書のビルマ、タイ、仏領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)、そしてインド国民軍に関する部分にあたる。私は幾多の降伏交渉にこの身をもってあたり、のちには東南アジアのほとんどの国で、政治家もしくは歴史的人物の訊問に加わった。その仕事を通じて、私が筆を執った事件のいくつかに関わった、かなり地位の高い日本の民間人や陸軍将官の知己も何人か得た。彼らのなかには、後年私が日本で再会した人たちもいる。その時にはもう彼らの多くは、民間の生活に戻るか、あるいは防衛庁に勤めはじめていた。
私は1946年サイゴンにおいて、フランス、イギリス、ベトナムの三者の間でもたれた錯綜した交渉の現場に立ち会った。バンコクでは、ある日本人の大佐が仏僧に変装して仏教寺院に隠れているという幻想的としか言いようのない噂を耳にした。だが、その噂は、タイを扱った章から分かるとおり、冷厳なる事実であった。私はまたビルマの新しい政治指導者層が戻ってきた英軍とうまく折り合いをつけてやっていくという企図をもってそれに着手するのを見た。またスバース・チャンドラ・ボースのインド国民軍の流れの分岐を探り、インドの軍部および政治に対するその影響を測ることもできた。私がただ単に一冊の政治史を著わすにとどまらず、個別の物語を通して、大きな歴史的転換期にあたる一時期にまつわる興奮を伝えたいと願った理由はそこにある。私の試みは、決定を下した、あるいはその決定ゆえに苦しみ悩んだ日本人の眼を通して、同時にアジアの新しい指導者たちの──日本による〝新秩序〟の灰の上に自らの夢をうちたてた人たちの──眼を通して、新しいアジアの姿を鮮明に示すことにあった。
ルイ・アレン『日本軍が銃をおいた日: 太平洋戦争の終焉』(監訳・解説:笠井亮平、訳:長尾睦也・寺村誠一、四六判上製、定価4400円)は早川書房より好評発売中です。
著者紹介
ルイ・アレン( Louis Allen)
1922年生まれ。マンチェスター大学でフランス語を学ぶ。ロンドン大学SOAS(東洋・アフリカ研究学院)で日本語通訳の訓練を受けた後、第二次大戦中のニューデリーやビルマで語学将校として軍務に服し、終戦時には多数の降伏交渉に立ち会う。除隊後はダラム大学でフランス文学を教えるかたわら、日本軍がアジアで関わった戦いについて研究し優れた業績を残した。他の著書に『シッタン河脱出作戦』『ビルマ 遠い戦場』など。1991年没。