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人は誰でも、世界(宇宙)の長い時間のなかで束の間の生を得て世界(宇宙)を"通り過ぎゆく者"である──訳者の黒原敏行さんによる徹底解説。コーマック・マッカーシー遺作『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』

 ピュリッツァー賞を受賞した『ザ・ロード』、『すべての美しい馬』に始まる〈国境三部作〉、アカデミー賞四冠のコーエン兄弟監督映画「ノーカントリー」の原作者で現代アメリカ文学を代表する作家として知られ、惜しくも2023年にこの世を去った小説家コーマック・マッカーシー。登場人物の台詞をかぎ括弧でくくらず、地の文に読点をほとんど打たずに淡々と描かれる事物。心理描写を差し引いた独特の文体で暴力と哲学、そして人間の在り方を描き、多くの作品が映画化されました。

そんなマッカーシーの『ザ・ロード』から実に16年ぶりの新作にして、惜しくも遺作となった二部作『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』の邦訳が2024年3月に刊行となります。今回は、第二次世界大戦中の原爆開発に参加した科学者を父親に持ち、その影を背負うかのような人生を歩んだ兄と妹の物語。まさに、マッカーシー文学の集大成ともいえる二作。その読みどころ、そしてマッカーシー既刊との違いや共通点は? 訳者の黒原敏行さんによる『通り過ぎゆく者』あとがきです。

訳者あとがき

 

 ●マッカーシー文学の集大成。どちらから読み始める?

コーマック・マッカーシーは2023年6月13日に逝去した。1933年7月20日生まれで、享年89。大ベテランだったが、最晩年まで創作意欲は旺盛で、亡くなる前年2022年の10月と12月に、新作長篇を二作たてつづけに発表した。それが本書『通り過ぎゆく者』The Passenger と、『ステラ・マリス』Stella Maris である。邦訳はこのたび二作同時に刊行する運びとなった。

この二作は、実質的には一つの小説といってもいい。読むのはやはり本書が先のほうがいいだろう。二作の主人公はアリシアとボビー(ロバートの愛称)のウェスタン兄妹である。『ステラ・マリス』はアリシアが主役。『通り過ぎゆく者』はそれぞれのパートが交互に現われるが、タイトルに直接関わるストーリーはボビーの身に起きる出来事だ。

ボビーは物理学研究の道を断念したあと、ヨーロッパでカーレースに身を投じるが、事故で瀕死の重傷を負い、その後はニューオリンズでサルベージダイバーとして働いている。ある日、墜落して海底に沈んだ飛行機の調査に潜ったところ、フライトバッグ等がなくなっているほか、乗っていたはずの乗客のうち一人の遺体がないという不可解な事態に遭遇する。これをきっかけに何かの陰謀に巻きこまれたかのように、ボビーは身辺に不安を覚え、逃亡を決意する。

主人公が何かの理由で流浪や逃亡の旅に出るというのはマッカーシー作品の特徴だ。本作もそのようなプロットに沿って展開し、過去の作品のあれこれを連想させる点でマッカーシー文学の集大成といえ、さらにそこへ新たな試みと、マッカーシー自身の自伝的要素が加わっている。

1980年。ルイジアナ州の沖に小型飛行機が沈んだ。サルベージダイバーのボビー・ウェスタンは、海中の機内で9名の死者を確認する。だがブラックボックスがなくなっており、彼は10人目の乗客がいたのではないかと推測する。 この奇妙な一件の後、彼の周囲を怪しい男たちがうろつきはじめる。徐々に居場所を失った彼は、追われるように各地を転々とする。 テネシー州の故郷の家、メキシコ湾の海辺の小屋、雪に閉ざされた古い農家――原爆の開発チームにいた父の影を振り払えないまま、そして亡き妹への思いを胸底に秘め、苦悶しながら。
1972年秋。20歳のアリシア・ウェスタンは、自ら望んで精神科病棟へ入院する。医師に問われ、彼女は語る。異常な聡明さのため白眼視された子供時代。数学との出会い。物理と哲学。狂人の境界線。常に惹かれる死というものについて。そして家族――原爆の開発チームにいた物理学者の父、早世した母、慈しんでくれた祖母について。唯一話したくないのは、今この場所に彼女が行き着いた理由である、兄ボビーのこと。 静かな対話から孤高の魂の痛みと渇望が浮かび上がる、巨匠の遺作となる二部作完結篇。

●マッカーシーの科学への強い関心──サンタフェ研究所

新たな試みの一つは女性主人公の導入だが、アリシアについては『ステラ・マリス』の訳者あとがきに回すことにしたい。もう一つは、量子力学と数学についてのマニアックなまでの言及だ。従来の作品には知識人がほとんど登場しないので、唐突なように感じられるかもしれないが、マッカーシーは子供の頃から文学よりも科学に強い関心を持っている人だった。大学では物理学と工学を学びかけたが、自分はそこそこの能力はあっても飛び抜けて優秀ではないと悟り、小説を書きはじめたという。本書でボビーが似たようなことを言っているのは作者自身の経歴を反映しているのである。

マッカーシーは、文学者との付き合いを全然しないかわりに、科学者の友人が多かった。その一人、ノーベル物理学賞受賞者のマレー・ゲルマンに誘われて、複雑系の研究で有名なサンタフェ研究所の評議員/研究員になり、2000年頃からは研究所にオフィスを持って科学者たちの議論に加わるなどの活動をしていた。

●世界と人間の関係から、宇宙と人間の関係へ

世の小説の多くが"人間と人間の関係"を描くのに対して、マッカーシーの小説は"世界と人間の関係"を描く。ここで"世界"というのは哲学的な意味のそれだが、科学的に見ればそれは"宇宙"ということになる。本作と『ステラ・マリス』では科学的な立場での真理の探求や宇宙と人間の関係が初めて表に出てきたというわけである。

本作でボビーは何かの陰謀に巻きこまれたかのようにして逃亡者となる。しかしこの"陰謀"をスリラー小説に出てくるような現実的なものだと思って読んでいくと困惑することになる。やはりこの謎の事態は、"世界(宇宙)と人間の関係"のなんらかのメタファーだと考えるのが妥当だろう。あの無人のはずなのに何者かの気配が感じられる海上の石油掘削リグのくだりなども、メタフィジカルな寓話のような趣がある。

"陰謀"といえば、ケネディ暗殺事件のことが私立探偵によって語られるのも不思議な感じがする。この探偵はケネディ兄弟に批判的で、頭で考えただけの理想を押し通せるほど"世界"は甘くないと言いたいようである。これは、たとえば『すべての美しい馬』で、メキシコの大牧場主がフランスの啓蒙主義を批判して、"優しい騎士よ心せよ。理性より大いなる怪物はなし"と言う、オルテガ・イ・ガセット風な保守主義に通じているかもしれない。

〈国境三部作〉第一作。1949年。祖父が死に、愛する牧場が人手に渡ることを知った16歳のジョン・グレイディ・コールは、自分の人生を選びとるために親友ロリンズと愛馬とともにメキシコへ越境した。この荒々しい土地でなら、牧場で馬とともに生きていくことができると考えたのだ。途中で年下の少年を一人、道連れに加え、三人は予想だにしない運命の渦中へと踏みこんでいく。至高の恋と苛烈な暴力を鮮烈に描き出す永遠のアメリカ青春小説の傑作。全米図書賞、全米批評家協会賞をダブル受賞。


●"世界"は人間の理屈や都合に合わせてはくれない

ざっくり言うなら、マッカーシー作品の提示する世界観は、"世界"は人間の"理性"や"理想"や"善意"を斟酌してくれないということになるだろう。『すべての美しい馬』と『平原の町』のジョン・グレイディの熱い純真も、『越境』のビリーの素朴な善良さも、『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』のモスのすがしい豪胆も、『ザ・ロード』の父子の正義感も、この"世界"の非情さにぶち当たることになるのだ。

この作品には"世界"は人間の理屈や都合に合わせてはくれないという真理が身に染みている人物たちが登場する。それはシェダンやボーマンなどの理性的な規範に沿って生きていけない"はみだし者"たちだ。ボビーと同じように、マッカーシーも若い頃はそういう犯罪者ともいえるような人たちとの付き合いをしていたという。長篇第四作の Suttree (1979年)はその頃のマッカーシー自身をモデルにした自伝的小説だ。もっともそれに限らず、彼の小説の主人公たちはみんな"はみだし者"なのである。

〈国境三部作〉第二作。十六歳のビリーは、家畜を襲っていた牝狼を罠で捕らえた。いまや近隣で狼は珍しく、メキシコから越境してきたに違いない。父の指示には反するものの、彼は傷つきながらも気高い狼を故郷の山に帰してやりたいとの強い衝動を感じた。そして彼は、家族には何も告げずに、牝狼を連れて不法に国境を越えてしまう。長い旅路の果てに底なしの哀しみが待ち受けているとも知らず―孤高の巨匠が描き上げる、美しく残酷な青春小説。
〈国境三部作〉の完結篇。十九歳になったジョン・グレイディ・コールは国境近くの牧場で働いていた。メキシコ人の幼い娼婦と激しい恋に落ちた彼は、愛馬や租父の遺品を売り払ってでも彼女と結婚しようと固く心に決めた。同僚のビリーは当初、ジョン・グレイディの計画に反対だった。だがやがて、その直情に負け、娼婦の身請けに力を貸す約束をする。運命の恋に突き進む若者の鮮烈な青春を、失われゆく西部を舞台に謳い上げる傑作。
1980年。ヴェトナム帰還兵のモスは、メキシコ国境付近で麻薬密売人の殺戮現場に遭遇する。男たちの死体と残された莫大な現金を前に、モスは決断を迫られる。この金を持ち出せば全てが変わるだろう──モスを追って残忍な殺し屋が動き始め、その逃亡劇はさらなる"血と暴力"を呼ぶ。実直な保安官ベルは相次ぐ凄惨な事件の捜査を進めるが……。『血と暴力の国』(扶桑社ミステリー)から改題、改訂した上での再文庫化。解説は作家・佐藤究さん。
空には暗雲がたれこめ、気温は下がりつづける。目前には、植物も死に絶え、降り積もる灰に覆われて廃墟と化した世界。そのなかを父と子は、南への道をたどる。掠奪や殺人をためらわない人間たちの手から逃れ、わずかに残った食物を探し、お互いのみを生きるよすがとして――。 世界は本当に終わってしまったのか? 現代文学の巨匠が、荒れ果てた大陸を漂流する父子の旅路を描きあげた渾身の長篇。ピュリッツァー賞受賞作。

●タイトル『通り過ぎゆく者』に込められた意味

最後に本書のタイトルの The Passenger を『通り過ぎゆく者』と訳したことについて書いておきたい。

このthe passenger は、まずは水没した飛行機から消えた謎の"乗客"を指しているだろうが、それだけだと、なぜそれがタイトルなのかよくわからない。

passenger は古語だと"旅人"や"通行人"を意味する。"通行人"は"通りすがりの人"と訳してもいいだろう。前述したとおり、マッカーシー作品は主人公が広義の"旅人"になる話がほとんどで、その旅の途中で多くの"通りすがりの人"と出会い、しばしばその人が不思議な哲学談義をしはじめる。主人公に何か"世界"の謎や秘密を暗示してくれる存在が"通りすがりの人"だ。本書では謎の"乗客"が、姿は現わさないとはいえ、ボビーの人生のなかで近くを通り過ぎて、大きな影響を与えていく。

しかしもっと重要なのは、ボビー自身が"旅人"になるのだから、the passengerはボビー自身をも表わしていると言えるのではないだろうか。この作品には、人は誰でも、"世界(宇宙)"の長い時間のなかで束の間の生を得て"世界(宇宙)"を"通り過ぎゆく者"であるという世界観があり、the passengerはそれを表わしているのではないか、と訳者は考えたのである。

マッカーシー作品を読んでいると、この世界観にときどき出会う。たとえば『すべての美しい馬』の最初のほうで、主人公のジョン・グレイディは、夕陽を浴びた古い街道に白人に故郷の土地を追われて滅亡への旅をするアメリカ先住民の部族の幻影を見る。長い列をなすその幻影は、"つかのまの現世しか知らない猛々しい生をまるごと聖杯のように運んで、この無機質な荒野を渡り闇のなかへ消えていく"と書かれている。この"渡り"の部分がpassing (passの現在分詞)であり、彼らもまたpassengerなのだ。

本書では、ウェスタン兄妹が原水爆の開発に携わった人物を父に持つことが重要なモチーフになっているが、これについては『ステラ・マリス』の訳者あとがきで触れることにする。

 2024年1月


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『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』は早川書房より3月18日に刊行予定です。


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