人は誰でも、世界(宇宙)の長い時間のなかで束の間の生を得て世界(宇宙)を"通り過ぎゆく者"である──訳者の黒原敏行さんによる徹底解説。コーマック・マッカーシー遺作『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』
訳者あとがき
●マッカーシー文学の集大成。どちらから読み始める?
コーマック・マッカーシーは2023年6月13日に逝去した。1933年7月20日生まれで、享年89。大ベテランだったが、最晩年まで創作意欲は旺盛で、亡くなる前年2022年の10月と12月に、新作長篇を二作たてつづけに発表した。それが本書『通り過ぎゆく者』The Passenger と、『ステラ・マリス』Stella Maris である。邦訳はこのたび二作同時に刊行する運びとなった。
この二作は、実質的には一つの小説といってもいい。読むのはやはり本書が先のほうがいいだろう。二作の主人公はアリシアとボビー(ロバートの愛称)のウェスタン兄妹である。『ステラ・マリス』はアリシアが主役。『通り過ぎゆく者』はそれぞれのパートが交互に現われるが、タイトルに直接関わるストーリーはボビーの身に起きる出来事だ。
ボビーは物理学研究の道を断念したあと、ヨーロッパでカーレースに身を投じるが、事故で瀕死の重傷を負い、その後はニューオリンズでサルベージダイバーとして働いている。ある日、墜落して海底に沈んだ飛行機の調査に潜ったところ、フライトバッグ等がなくなっているほか、乗っていたはずの乗客のうち一人の遺体がないという不可解な事態に遭遇する。これをきっかけに何かの陰謀に巻きこまれたかのように、ボビーは身辺に不安を覚え、逃亡を決意する。
主人公が何かの理由で流浪や逃亡の旅に出るというのはマッカーシー作品の特徴だ。本作もそのようなプロットに沿って展開し、過去の作品のあれこれを連想させる点でマッカーシー文学の集大成といえ、さらにそこへ新たな試みと、マッカーシー自身の自伝的要素が加わっている。
●マッカーシーの科学への強い関心──サンタフェ研究所
新たな試みの一つは女性主人公の導入だが、アリシアについては『ステラ・マリス』の訳者あとがきに回すことにしたい。もう一つは、量子力学と数学についてのマニアックなまでの言及だ。従来の作品には知識人がほとんど登場しないので、唐突なように感じられるかもしれないが、マッカーシーは子供の頃から文学よりも科学に強い関心を持っている人だった。大学では物理学と工学を学びかけたが、自分はそこそこの能力はあっても飛び抜けて優秀ではないと悟り、小説を書きはじめたという。本書でボビーが似たようなことを言っているのは作者自身の経歴を反映しているのである。
マッカーシーは、文学者との付き合いを全然しないかわりに、科学者の友人が多かった。その一人、ノーベル物理学賞受賞者のマレー・ゲルマンに誘われて、複雑系の研究で有名なサンタフェ研究所の評議員/研究員になり、2000年頃からは研究所にオフィスを持って科学者たちの議論に加わるなどの活動をしていた。
●世界と人間の関係から、宇宙と人間の関係へ
世の小説の多くが"人間と人間の関係"を描くのに対して、マッカーシーの小説は"世界と人間の関係"を描く。ここで"世界"というのは哲学的な意味のそれだが、科学的に見ればそれは"宇宙"ということになる。本作と『ステラ・マリス』では科学的な立場での真理の探求や宇宙と人間の関係が初めて表に出てきたというわけである。
本作でボビーは何かの陰謀に巻きこまれたかのようにして逃亡者となる。しかしこの"陰謀"をスリラー小説に出てくるような現実的なものだと思って読んでいくと困惑することになる。やはりこの謎の事態は、"世界(宇宙)と人間の関係"のなんらかのメタファーだと考えるのが妥当だろう。あの無人のはずなのに何者かの気配が感じられる海上の石油掘削リグのくだりなども、メタフィジカルな寓話のような趣がある。
"陰謀"といえば、ケネディ暗殺事件のことが私立探偵によって語られるのも不思議な感じがする。この探偵はケネディ兄弟に批判的で、頭で考えただけの理想を押し通せるほど"世界"は甘くないと言いたいようである。これは、たとえば『すべての美しい馬』で、メキシコの大牧場主がフランスの啓蒙主義を批判して、"優しい騎士よ心せよ。理性より大いなる怪物はなし"と言う、オルテガ・イ・ガセット風な保守主義に通じているかもしれない。
●"世界"は人間の理屈や都合に合わせてはくれない
ざっくり言うなら、マッカーシー作品の提示する世界観は、"世界"は人間の"理性"や"理想"や"善意"を斟酌してくれないということになるだろう。『すべての美しい馬』と『平原の町』のジョン・グレイディの熱い純真も、『越境』のビリーの素朴な善良さも、『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』のモスの清しい豪胆も、『ザ・ロード』の父子の正義感も、この"世界"の非情さにぶち当たることになるのだ。
この作品には"世界"は人間の理屈や都合に合わせてはくれないという真理が身に染みている人物たちが登場する。それはシェダンやボーマンなどの理性的な規範に沿って生きていけない"はみだし者"たちだ。ボビーと同じように、マッカーシーも若い頃はそういう犯罪者ともいえるような人たちとの付き合いをしていたという。長篇第四作の Suttree (1979年)はその頃のマッカーシー自身をモデルにした自伝的小説だ。もっともそれに限らず、彼の小説の主人公たちはみんな"はみだし者"なのである。
●タイトル『通り過ぎゆく者』に込められた意味
最後に本書のタイトルの The Passenger を『通り過ぎゆく者』と訳したことについて書いておきたい。
このthe passenger は、まずは水没した飛行機から消えた謎の"乗客"を指しているだろうが、それだけだと、なぜそれがタイトルなのかよくわからない。
passenger は古語だと"旅人"や"通行人"を意味する。"通行人"は"通りすがりの人"と訳してもいいだろう。前述したとおり、マッカーシー作品は主人公が広義の"旅人"になる話がほとんどで、その旅の途中で多くの"通りすがりの人"と出会い、しばしばその人が不思議な哲学談義をしはじめる。主人公に何か"世界"の謎や秘密を暗示してくれる存在が"通りすがりの人"だ。本書では謎の"乗客"が、姿は現わさないとはいえ、ボビーの人生のなかで近くを通り過ぎて、大きな影響を与えていく。
しかしもっと重要なのは、ボビー自身が"旅人"になるのだから、the passengerはボビー自身をも表わしていると言えるのではないだろうか。この作品には、人は誰でも、"世界(宇宙)"の長い時間のなかで束の間の生を得て"世界(宇宙)"を"通り過ぎゆく者"であるという世界観があり、the passengerはそれを表わしているのではないか、と訳者は考えたのである。
マッカーシー作品を読んでいると、この世界観にときどき出会う。たとえば『すべての美しい馬』の最初のほうで、主人公のジョン・グレイディは、夕陽を浴びた古い街道に白人に故郷の土地を追われて滅亡への旅をするアメリカ先住民の部族の幻影を見る。長い列をなすその幻影は、"つかのまの現世しか知らない猛々しい生をまるごと聖杯のように運んで、この無機質な荒野を渡り闇のなかへ消えていく"と書かれている。この"渡り"の部分がpassing (passの現在分詞)であり、彼らもまたpassengerなのだ。
本書では、ウェスタン兄妹が原水爆の開発に携わった人物を父に持つことが重要なモチーフになっているが、これについては『ステラ・マリス』の訳者あとがきで触れることにする。
2024年1月
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『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』は早川書房より3月18日に刊行予定です。
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