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【全文掲載】コーマック・マッカーシーが教えてくれた「書くことの本質」──直木賞作家・佐藤究さん解説『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』

米文学界の巨匠コーマック・マッカーシーの傑作犯罪小説が待望の復刊です。『血と暴力の国』(扶桑社ミステリー)から改題、改訂した上での再文庫化で、訳者の黒原敏行さんが今回の文庫用に書き下ろしたあとがきと、直木賞作家・佐藤究さんによる解説が収録されています。映画「ノーカントリー」は観たことがあるけれど、原作はまだ……という方にもぜひともお薦めしたい一冊です。

この記事では、文庫巻末に収録されている佐藤究さんの解説を全文公開いたします。佐藤さんがいかにして映画「ノーカントリー」と出会い、その後マッカーシー作品の虜となったのか。必読の解説文です。

※一部、作品の結末に触れている箇所がありますので未読の方はご注意ください。


解説 佐藤究


すばらしいかぎりだ。

長らく邦訳を入手できない状況にあったコーマック・マッカーシーの傑作が文庫で復刊され、しかも黒原敏行氏による名訳はそのまま、さらにタイトルは原題どおりの『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』になった。扶桑社より刊行時の邦題『血と暴力の国』も悪いとは思わなかったが、やはりこの小説のタイトルは『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』でなくてはならない。それでこそ各章の冒頭に置かれたベル保安官のモノローグの効果が十二分に発揮され、絶望と温もりが混濁したような、重厚な小説的構造がより立体的に浮かび上がってくる。

『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』(ハヤカワepi文庫)
コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳


復刊と原題どおりのタイトル。これだけでもすばらしいのに、解説の依頼が舞いこんでくるなんて、私は夢を見ているのだろうか? そうなのだろう、これは夢だ。だとしたら、せめて醒めないうちに解説を終えなくては──

『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』と名づけられた作品は、この世に二つ存在する。一つは言うまでもなく本書であり、もう一つは本書を原作としてコーエン兄弟が撮った映画である。アカデミー賞で四冠に輝き、日本では『ノーカントリー』の邦題で知られるその映画を観たうえで、これからはじめて小説を読む、という方も多いだろう。かく言う私も、かつて〈映画→小説〉の順番をたどって作家コーマック・マッカーシーを知り、作品の魅力に取り憑かれた一人だ。

一つの作品が二つの道、つまり小説と映画に分岐して、そのどちらも不滅の完成度を誇っている、といったケースはあまり思い浮かばない。映画が大ヒットしても、原作の小説はどちらかと言うとマニア向けだったり、逆に小説は世界中で愛読されているのに、小説に基づく映画は人々の記憶からひっそり消えていったりする場合は少なくない。

だが、何ごとにも例外はある。

小説と映画、双方が「記念碑的傑作」「金字塔」と評されるケースを、私は二つ挙げられる。アーサー・C・クラークが小説を、スタンリー・キューブリックが映画を手がけた『2001年宇宙の旅』。そしてコーマック・マッカーシーが小説を書き、コーエン兄弟が映画を撮った『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』。

『2001年宇宙の旅ー決定版ー』(ハヤカワ文庫SF)
アーサー・C・クラーク/伊藤典夫訳

ちなみに映画ファンならすぐお気づきになったと思うが、コーエン兄弟の『ノーカントリー』冒頭の映像は、キューブリックの『2001年宇宙の旅』の導入部と、とてもよく似ている。似ているというより、そこには古代と現代の差異があるだけで、二人の映画監督は同じものを撮影したと見るべきだ。人間のいない広大な荒野。地平線。光と闇のコントラスト。本書の文中から引用すれば、「自分に従う土地を塩と灰できれいに磨くあの神は沈黙のうちに生きている」という印象を観客にもたらす、荒涼とした自然の風景である。人間の文明を翻弄する暴力性の根幹に迫ろうとすれば、自然という深淵を直視するほかない。

現代の私たちは、深淵を象徴する宇宙的な現象を知っている。それは光さえ逃れられない、強烈な重力場を持つ天体だ。そういう意味で、世界の深淵を直視するような本書は、犯罪小説の形をしたブラックホールなのである。

***

ところで、先ほど〈映画→小説〉の順番をたどったと記したように、コーエン兄弟の『ノーカントリー』を観るまで、私はコーマック・マッカーシーの名前すら知らなかった。マッカーシーの小説から受けた影響をいろんな取材で口にしている今となっては、じつに恥ずかしいかぎりだが。

映画の日本公開は2008年。私はその数年前に作家デビューし、しかし作品はまるで売れず、原稿依頼もなく、時給の安いアルバイトでどうにか生計を立て、映画を観る経済的余裕もなかった。それでも新宿歌舞伎町の近くに住んでいたので、映画館の外に掲げられた『ノーカントリー』のポスターは幾度も目にする機会があった。殺人者アントン・シガーを中心に、ルウェリン・モスとベル保安官が一列に並ぶ、忘れがたいあの構図だ。

当時の新宿歌舞伎町には〈ドイツ酒場 昇華堂〉という店があって、新作映画を観る予算のない私は、そこでささやかな夜食をとりながら、封切られている映画の感想を友人であるマスターに訊くのが常だった。ある夜、マスターが劇場でやっている『ノーカントリー』を観てきたと言うので、感想をたずねたところ、「面白いよ」という答えが返ってきた。さらにマスターの隣にいた奥さんによれば、いかにも私が好きそうな武器が出てくるという話だった。今にして思えば、あれは武器というより、シガーの愛用する仕事道具なのだが(もちろん本書にも登場する)、そんな会話を真夜中にしていたときには、いずれ私自身がシガーの道具に匹敵するアイテムを考案しようと苦心するはめになる──などとは考えてもみなかった。

マスターとの会話から10年たって、私は『テスカトリポカ』という小説を書くことになり、その作中で特殊な拷問道具を登場させた。それは確かに『ノーカントリー』のシガーの影響下で考案されたもので、『テスカトリポカ』のなかでは麻薬密売人のバルミロが用いている。道具の形状が似ているため、お読みいただければおわかりになるはずだ。

佐藤究『テスカトリポカ』(KADOKAWA)


結局、私は映画をDVDで観るしかなかったが、とにかく傑作だった。シガーがモスを追跡するように、私はエンドロールを凝視して、そこではじめてコーマック・マッカーシーの名前を知った。それから『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』(当時は『血と暴力の国』)を読み、大きな衝撃を受け、「国境三部作」、『ブラッド・メリディアン』、『ザ・ロード』などを、いずれもむさぼるように読んだ。解説の役目から逸れてしまうが、原稿の依頼すら来ない、出版社の不良在庫的な作家だった私は、それらの作品群に触発されて、自分の創作の姿勢を再考することができた。何が足りないのか。書くことの本質とは。振り返ってみれば、コーエン兄弟の映画を観たのは、私にとって本書で象徴的に描かれるコイントスのような運命の分かれ道だったのかもしれない。

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どのページを開いてもおわかりのように、コーマック・マッカーシーは会話にカギ括弧を使わず、地の文に読点をほとんど打たない。だからといって、書き手の感情にまかせた饒舌じようぜつに陥ることはなく、行為と事物が淡々と描かれる。神なき時代の叙事詩的文体とも呼べる。

『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』冒頭より


言うまでもないが、たんに文章からカギ括弧や読点を排除するだけでは、マッカーシーのような文体にはならない。それは事実への冷徹な観察眼から生まれたもので、別に奇をてらって案出された文体ではない。もともと私たちの意識の〈流れ〉のなかに、カギ括弧や読点は存在していないのだ。

携帯電話で誰かと話しながら鍋でパスタを茹でて昨日の職場での失敗を悔やみ明日の出勤時間を考えつつ足下を歩きすぎる猫に目をやり突然外で鳴らされたクラクションの音にびっくりする──

というふうに、じっさいの意識においては、現在と過去と未来、行為と事物が継ぎ目なしシームレスに連続して展開されている。マッカーシーの文体はこうした意識、心理的事実の観察から生みだされているようにも思えるが、それを犯罪小説に適用することが驚きだ。そして他作品と同様に、人物の心理描写は徹底して差し引かれる。

マッカーシーは饒舌を拒否する。この世は謎めいた沈黙に支えられている──そんな信念こそが、彼の磨き上げられた文体に宿る眼差しではないだろうか。読めば読むほど、私たちは世界の沈黙の深さを思い知らされる。砂漠に一人で取り残された経験があれば、このような文体が魂の奥底から生まれてくるのかもしれない。遭難した自分自身に言い聞かせるような言葉。遭難までしなくても、疲れてもう一歩も進めないと思ったことは誰しもあるはずだ。そんなとき人はこう考える。まず右足を前に出し、つぎに左足を前に出して、と。マッカーシーの文体には、いつもそうした危機が感じられる。現に本書にはこんな文章がある。「よしいいぞ、とモスは言った。そのまま足を片一方ずつ前に出していくんだ」

そろそろ紙幅が尽きるので、最後に書くべきことを書いておこう。『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』という物語の幕が閉じたあとに、私はアントン・シガーの行為と言葉について、あらためて考えることになった。特にシガーの口にした〈約束〉という言葉の意味について。その謎解きは、マッカーシーがインタビューで「純粋悪」と呼んだシガーの存在自体を考えることにつながる。現時点で私が思うのは、たとえばウランやプルトニウムといった放射性元素に人格と肉体を与えたなら、それはシガーのような人間として出現するのではないか、ということである。ウラン238の半減期45億年や、プルトニウム239の半減期2万4千年といった数字は、私たち個々の人生にとって、ほとんど意味を持たない。なぜならその時間はあまりに長く、永遠に等しいからだ。そこにシガーの持ちだす常軌を逸した〈約束〉の実効性が暗示されている気がする。一度ふたを開けてしまえば、もう後戻りのできないパンドラの箱。本書をお読みになった皆さんは、はたしてシガーの存在をどのように感じられただろうか。コインは投げられた。あとは皆さんの選択しだいである。

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『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』はハヤカワepi文庫より、
3月23日に発売です。


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