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大前粟生さん推薦。アイスランドから届いた、ちょっと変わった家族の物語『花の子ども』試し読み

アイスランド発、フランスで40万部を突破した小説『花の子ども』。旅をつうじて青年の成長を描くとともに、家族のあり方をさぐる本作を、2021年4月14日に早川書房より刊行します。
ここでは、本書の魅力を語る賛辞と、冒頭部分を公開します。

書影_花の子ども

花の子ども
オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティル
神崎朗子訳
早川書房より4月14日発売

◉あらすじ

母が遺したバラをもって僕は旅に出る。遠くの修道院にある庭園に植えるのだ。ところが、温室育ちの僕の旅は、ままならない。飛行機内で腹痛にもだえ、森でさ迷う。旅で会った女性たちとの関係を妄想しては、空回り。当の庭園は荒れ果てており、手入れを始めたところ、意外な人物が訪れる。かつて僕と一夜をともにした女性が、赤ん坊を預けにきたのだ。こんな僕が父親に!? ゆったりした時が流れる小さな村で、右往左往しながら成長する青年と家族をあたたかく描く長篇小説。


日本版には、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』が話題の大前粟生さんからコメントをいただいています。

「誰もが温かく、「普通」に凝り固まりながら、とても静かに変化していく」――大前粟生[小説家]

また、読者モニター募集でご応募いただいた方々からも、多くの感想をいただいています。まずはその一部をご紹介。

「主人公のまあ情けないこと! それでも彼が父になろうとする懸命な姿は愛おしい。」――富田晴子[未来屋書店 有松店]

「異国を旅するように読めるのに、実家で家族の会話を漏れ聞いているみたいな懐かしさ。」――AS

「バラの匂い、色あざやかな朝焼け、教会の鐘の音。とにかく美しい。」――KK

「料理について嬉々として語る男性たちが祝祭的で、その眩さに目を細めてしまう。」――楠本ラリアット

「一緒に過ごす人がいるから、慣れない料理に向き合う。「何を作ろう?」と食べる人のことを考え、喜んでもらいたいから相手をもっと知ろうとする。相手への想いが深くなるほど、料理への関心も高まる。その循環が読んでいて気持ち良い。」――グルテンふり子

それでは『花の子ども』の冒頭を公開します。


もうすぐ旅立つ僕がいつ帰国できるかわからないから、出発前夜は思い出に残る夕食にしようと、77歳の父さんは張り切っている。母さんの手書きのレシピを見て、なにか作ってくれるらしい──こんなとき、母さんがいかにも作りそうな料理を。

「コダラのフライにしようと思ってね。それから、ホイップクリームを浮かべたココアスープも」

父さんがココアスープのレシピを探しているあいだに、僕は17年落ちのサーブに乗って、施設で暮らしている双子の弟、ヨセフを迎えにいった。待ちきれずに歩道に出ていたヨセフは、僕を見てすごくうれしそうな顔をした。弟がよそゆきの恰好をしているのは、僕の旅立ちを見送るためだ。母さんが最後に買ってやった、蝶模様のすみれ色のシャツを着ている。

スライスした玉ねぎを揚げている父さんのわきには、パン粉をまぶしたコダラの切り身が並んでいる。僕は旅に持っていく挿し木用のバラの枝を取りに、家の外に出て温室へ向かった。すると、父さんはコダラのフライのためのチャイブが欲しいのか、ハサミを手にあとからやってきた。ヨセフもおとなしくついてきたが、ガラスの破片を見てぴたりと足を止めた。2月の暴風雨で、温室のガラスが何枚も割れたのだ。ヨセフは温室に入らず、こんもりとした雪だまりのそばに立って、なかの様子を窺っている。ヨセフと父さんのベストはおそろいで、ヘーゼルブラウンの編地にゴールドのダイヤ柄だ。

「母さんはいつも、コダラにはチャイブを散らしていたからな」父さんが言った。僕はハサミを受け取り、温室の隅で青々と茂っているチャイブの細長い葉先をカットして、父さんに渡した。父さんがたまに念を押すとおり、母さんの温室を受け継いだのはこの僕だ。とはいえ、べつに大規模な菜園じゃない──トマトが350株にキュウリが50株とか、そんな大量の株が母から息子へ託されたわけじゃない。ほとんど自生に近いバラの茂みと、トマトがせいぜい10株くらいだろうか。僕の留守中は、父さんが水やりをすることになっている。

「私は昔から野菜はあまり好きじゃないんだが、母さんは好きだったな。トマトなんて、1週間に1個しか食べられないよ。いったい、どれだけたくさん実がなることやら」

「じゃあ、ひとにあげたらいいじゃないか」

「近所にしょっちゅう、トマトを配り歩くわけにもいかないだろ」

「じゃあ、ボッガは?」

母さんの昔からのその友人は、たしか父さんと同じで好き嫌いが多いはずだけど、あえて言ってみる。

「トマトの袋を3つもぶら下げて、毎週ボッガに会いにいけって言うのかい? そしたら夕食を一緒にいかが、って話になるじゃないか」

そうやって、矛先をこちらに向けてくる。

「あの娘と子どもを今晩、うちに招いてやりたかったんだがね。おまえがいやがるだろうと思って」父さんが言う。

「ああ、いやだね。あの娘、あの娘って父さんは言うけど、僕と彼女は付き合ってるとか、そういう関係じゃないんだから。まあ、子どもはできちゃったけど。あれはアクシデントだったんだ」

このことについてはもう、ちゃんと説明してあるのだから、父さんにもいいかげんわかってほしかった。子どもができてしまったのは、ついうっかりしたせいだ。子どもの母親と僕との関係は、ひと晩どころかその4分の1、いや5分の1くらいであっさり終わった。

「母さんなら、おまえの出発前の夕食にあの娘たちを招いたって、反対なんかしなかったはずだ」

父さんは自分の言葉に重みを持たせたいとき、すぐに亡くなった母さんのことを引き合いに出して、あたかも母さんの意見のように語るのだ。

いまこうして妊娠の現場(とでも言おうか)に立っているのは、何だか妙な感じだった。すぐ隣には年老いた父親、ガラスの向こうには発達障害のある弟が、この場に居合わせるなんて。

父さんは偶然を信じない──少なくとも、誕生や死といった人生の重要なできごとについては。「人生の始まりや終わりは、たんなる偶然なんかじゃない」と父さんは言う。ふとしたはずみで寝た相手が妊娠したとか、気がついたら女性とベッドインしてたとか、そんな話は理解できないのだ。濡れた砂利道の急カーブのせいで人が死ぬなんてことも、当然、理解できない。父さんは数字やら、数値計算やら、さまざまな要素を考え合わせずには納得できないからだ。そういった物事について、父さんはまったくちがう見方をする。すなわち、世界はつながりを持った数字の集合体であり、それが創造の中核をなしている。そして日付の解釈は、深遠な真実と美をもたらす可能性を秘めている。僕にとっては、偶然とかその場のなりゆきとしか思えないことでも、父さんにとっては、すべて複雑なシステムの一部なのだ。「度重なる偶然は、たんなるなりゆきなどと片付けるわけにいかないよ。一度ならず三度、しかも3つが重なっているのだから」母さんの誕生日、孫娘の誕生日、そして母さんの亡くなった日が、3つとも同じ日付──8月7日なのだ。僕としては、父さんのそういうこじつけには納得がいかない。僕の経験では、ようやくなにかを理解できた気がしても、すぐにそれを覆すようなできごとが起こるから。ともかく、僕が避妊を怠っただけのことに、よけいな意味づけなんかしないで放っておいてくれたら、僕だって、リタイアした電気技師の娯楽にけちをつける気など、さらさらなかった。

「じゃあ、べつに逃げているわけじゃないんだね?」

「ちがうよ。あのふたりにはきのう、挨拶してきた」

これ以上話してもらちが明かないと思った父さんは、話題を変える。

「母さんときたら、ココアスープのレシピをいったいどこにしまい込んじゃったんだろうな? せっかくホイップクリームを買ってきたのに」

「さあ。でも一緒にやってみたら、たぶん作れるんじゃないかな」


僕が温室から戻ってくると、ヨセフは両手をひざに置き、背筋をすっと伸ばしてテーブルについていた。すみれ色のシャツに赤いネクタイを締めている。弟は服装や色合わせにこだわる性質で、父さんと同じように必ずネクタイを締める。父さんは電気コンロを同時に2口使って、一方では鍋でじゃがいもを茹で、もう一方で魚のフライを揚げるつもりらしい。何だか手際がよくないのは、僕の出発がいよいよ明日に迫って、気もそぞろなせいだろうか。僕はそんな父さんのまわりをうろちょろして、フライパンに油を入れる。

「母さんはいつもマーガリンを使ってたぞ」父さんが言う。

父さんも僕も、料理はあまり得意じゃない。キッチンでの僕の役割といえば、赤キャベツの瓶詰の蓋をこじ開けたり、缶切りで豆の缶詰を開けたりするくらいだった。あとは母さんの言いつけで、僕が食器を洗って、ヨセフが拭く。でも、弟の拭き方は1枚1枚やたらと時間がかかるから、しまいには僕が布巾を引ったくって拭き終えるのがつねだった。

「しばらくは、コダラはおあずけだろうね、ロッビ」と、父さんが言う。気を悪くさせたくないから黙っているが、僕は4か月も海に出て漁に明け暮れたあとでは、魚なんかもう一生、一口も食べられなくたって平気だった。

ごちそうを振る舞おうと張り切った父さんは、カレーソースで僕たちを驚かせた。

「ボッガにもらったレシピどおりにやってみたんだ」

ソースの色は風変わりだがきれいなグリーンで、春の通り雨のあとで煌めく緑のようだ。この色はどうやって? と僕はたずねた。

「カレー粉に着色料を混ぜたんだよ」ふと見ると、父さんはルバーブジャムの瓶を取り出して、僕の皿のわきに置いた。

「母さんの手作りジャムは、それで最後だ」父さんが言った。茶色っぽいダイヤ模様のベストを着て、ソースをかき混ぜている父さんの肩のあたりを僕は見つめる。

「でも、この魚料理にルバーブジャムは合わないよね?」

「いや、おまえが旅先に持っていったらいいと思ってさ」

弟は口を利かないし、父さんも食事中は口数が少ないから、3人そろっても話が弾むわけでもない。僕は弟の皿にじゃがいもをふたつ取り分け、半分に切ってやる。彼はグリーンソースの見た目が気に入らないらしく、魚の身からソースを徹底的にこそげ落として、皿の隅によけている。茶色の瞳のヨセフを見ていると、あらためて、ある映画スターに不気味なほどそっくりだなと思う。でもヨセフが頭のなかでどんなことを考えているかは、まったくわからない。彼の無作法の埋め合わせに、僕は父さんが作ったソースをたっぷりかけた。最初にお腹が痛くなったのは、ちょうどそのころだ。

夕食後、僕が食器を洗っているあいだに、ヨセフはポップコーンを作る。週末に帰宅するたびに、必ず作るのだ。戸棚からいつもの大鍋を取り出し、きっちり大さじ3杯の油を引いて、袋入りのコーンの黄色い粒々で鍋底が隠れるまで、丁寧に並べていく。つぎに、鍋に蓋をして、強火で四分加熱。油がパチパチ音を立て始めたら、火力を「2」に弱める。ヨセフはガラスのボウルと塩を両手に持ち、できあがるまで、一瞬たりとも鍋から目を離さない。それから、3人でテレビのニュース番組を観る。弟はソファーでくつろいで、僕の手を握っている──ガラスのボウルを目の前のテーブルに置いて。やがて、帰宅して1時間半が過ぎたころ、弟は僕に歌のCDを手渡す。おつぎはダンスの時間だ。


僕は身軽に旅立つつもりで、荷物のあまりの少なさに父さんが驚いている。僕は湿らせた新聞紙でバラの切り枝を包み、バックパックの前面のコンパートメントに入れた。みんなでサーブに乗り込む──僕が物心ついたころからずっと、父さんが乗っている車だ。ヨセフは後部座席でおとなしく座っている。父さんは、遠出にはお決まりのベレー帽をかぶっている。父さんの運転は法定速度をはるかに下回り、あの事故以来、時速40キロを超えたためしがない。起原岩伏の多い溶ではさらにスピードを落とすから、夜明けのすみれ色に染まった岩峰のごつごつした稜線に沿って、等間隔に止まっている鳥たちを眺めることができた。クレッシェンドで盛り上がっていく哀愁のメロディーのように、音符のような鳥たちが、見渡す限り果てしなく並んでいる。そもそも、父さんは車の運転には不慣れだった。おもに運転していたのは、母さんだったから。僕たちの後ろには後続車が列をなし、隙あらば追い越そうとしている。だが父さんは、そんなことは気にもとめない。まあ、父さんはどこへ行くにもたっぷりと時間の余裕を持つ人だから、僕も飛行機に乗り遅れる心配はしていなかった。

「運転しようか、父さん」

「ありがとう、でもいいんだ。おまえはゆったりと外の景色を眺めておくといいよ。しばらくはもう、溶岩原を走ることもないだろうから」

見納めに外の景色を眺めているあいだ、僕も父さんも黙っていた。やがて、灯台へと続く脇道を通り過ぎたころ、父さんが話しかけてきた。僕が将来についてどう考え、なにをしたいのか、少し話をしようという。僕が園芸に興味を持っていることが、父さんには物足りないのだ。「将来のことで、少し訊いてもかまわないかね、ロッビ。おまえもよくわかっているだろうが、うるさいことを言うつもりはないんだよ」

「いいよ」

「大学でなにを勉強するか、決めたかい?」

「僕には園芸の仕事がある」

「おまえほど学力に恵まれた者が……」

「やめてよ、父さん」

「せっかくの才能を無駄にしていると思うんだよ」

このことを父さんに説明するのは難しかった──庭と温室のバラに情熱を傾けていたのは、母さんと僕だけだから。

「母さんなら、わかってくれたのに」

「まあそうだな、母さんはおまえが本気でやりたいと思ったことは、何だってやらせてやったからね。だけど母さんだって、大学には行っておいたほうがいいと思ったはずだよ」

昔、家族で新しい造成地に引っ越してきたとき、あのあたりには平坦な荒れ地が広がっているだけだった。しかも大きな岩だらけで、岩のまわりには、風に飛ばされた小石が吹き溜まっている。新しい建物や宅地がそこらじゅうにできていたが、宅地の半分くらいは黄色い水に浸かっていた。低木の茂みができたのは、ずっとあとのことだ。海に面したこの土地では、海風がしょっちゅう吹き荒び、庭に風よけを作ることもできない。だから、ここの人たちは花を植えるのをあきらめていた。そんななか、最初に木を植えようとしたのが、うちの母さんだ。はじめのうちは、どうせ無理に決まっているのに、変わった人だと思われていた。近所の人たちは、庭に芝生を張れば満足だった。あるいはちょっとがんばって庭まわりに生垣を作り、夏の三日間、そよ風を楽しめれば最高だと思っていた。ところが母さんは、家の周囲の風がやや当たりにくい場所に、キングサリやカエデ、セイヨウトネリコ、シモツケなどを植えていった。母さんは絶対にあきらめなかった。岩だらけの地面に挿し木をしてでも、根付かせようとした。

2年目の夏、父さんは家の南側に温室を建てた。僕たちはまず温室のなかで植物を育て、6月の第1週か第2週のころ、夜中に霜が降りなくなったら、植物を温室の外に出した。最初のうちは、植物を屋外に出しておくのは夏のあいだだけだったが、秋の気候が穏やかなときは、もうひと月くらい出しておいた。そしてある年、思い切って屋外で冬を越させた──植物たちは2メートルも降り積もった雪の下で休んでいた。やがて、母さんの庭で育たないものはなくなった──母さんの手にかかると、どんな植物も花を咲かせるようだった。小さな茂みが少しずつ育っていき、やがて夢のような庭になった。近所の人たちの注目を集め、感嘆されるようにもなった。母さんが亡くなってから何度か、僕は近所の女のひとたちにアドバイスを求められたことがある。必要なのはほんの少しの世話、あとはなにより時間ですよ、と母さんなら言っただろう。母さんの園芸の哲学をひとことで言ったら、そんな感じだ。

「たしかにおまえと母さんには、ヨセフと私には入り込めない、ふたりだけの世界があったな──たぶん、私らにはわからない世界が」

そういえば最近、父さんは自分とヨセフのことを、ユニットみたいに「ヨセフと私」と言うようになった気がする。

母さんはよく真夏の夜中に外に出て、庭や温室で土いじりをしていた。まるで母さんは、普通の人たちと同じように眠る必要なんかないみたいだった。とくに夏のあいだは。僕が友だちと夜遊びに行って、早めの時間に帰ってくると、たいてい母さんが外で花壇の手入れをしていて、いつものプラスチックの赤いバケツと、ピンクの花柄の園芸手袋が目に入ったものだ。父さんは家のなかでぐっすりと眠っている。あたりにはもちろん人影ひとつなく、ひっそりと静まり返っている。母さんは「おかえり」と言い、なにかを知っているような眼差しで、僕を見つめる──僕のことで、僕自身すら知らないなにかを。やがて、僕は母さんと並んで草の上に腰を下ろし、3、40分ほどぼうっと過ごす。まだ一緒にいたいから、僕も形ばかり草むしりをする。ときには瓶ビールを片手に庭に出て、飲みかけの瓶を花壇の土にそっと挿して、寝転がったりもした。草の上に腹ばいになって、両手のひらであごを支え、ちぎれ雲が流れていくのをぼんやりと眺める。母さんとふたりになりたいときは、いつも温室か庭に行けばよかった。そうすれば、ふたりきりで話せるから。ときどき、母さんがうわの空に見えることがあって、なにを考えてるの、と僕は訊いた。母さんはただこう言った。「ううん、べつに。さっきの話、いいんじゃない」そして満足そうな、励ますような笑顔を僕に向けた。

「おまえみたいな優等生が園芸の道に進んだって、素晴らしい将来など待っていないよ」父さんは言った。

「僕がいつから優等生になったんだよ?」

「おい、私は年寄りだが、ぼけちゃいないぞ。おまえの成績表は全部取ってあるんだ。12歳のときクラスで1番。16歳で学年1位になって、優秀な成績で高校を卒業したじゃないか」

「全部取っておいたなんて、信じられない。たしか、地下室のどこかの箱の上に置いてあったやつでしょ。そんなものさっさと捨ててくれよ、父さん」

「もう遅いよ、ロッビ。スルストゥルに額装を頼んだから」

「まじか?」

「それで、大学への進学はどうするんだい?」

「いまは考えてないよ」

「植物学は?」

「いや」

「生物学は?」

「いやだね」

「じゃあ、植物バイオテクノロジーに重点を置いた、植物生理学とか植物遺伝学は?」

どうやら、いろいろと調べていたらしい。父さんは両手でハンドルをしっかりと握ったまま、道路から一瞬も目をそらさない。

「いや。僕は科学者になる気はないし、大学で教えるのも興味ないから」

僕は土いじりをしているほうが、ずっと自分らしくいられる。生きた植物とふれ合えるのは、やっぱり特別だ──実験用の花じゃ、通り雨のあとの匂い立つような香りもしないだろう。母さんと僕の世界を、父さんにわかるように説明するのは難しい。僕が興味を持っているのは、豊かな土壌で育つものなのだ。

「それでも知っておいてほしいんだが、もしおまえが大学に進学したくなったら、いつでも使えるように、いくらかお金を貯めてあるからね。それは母さんの遺産とは別だよ。ヨセフも、施設での暮らしを気に入っていることだし」父さんは付け加えた。「もちろん、この先もあの子が困らないようにするつもりだ」

「ありがとう」

園芸のことも、これ以上父さんと話すつもりはなかった。生真面目な電気技師に向かって、自分が本当はなにをしたいのかもわからないなんて、言えるわけがない。ある程度の年齢になったからといって、一生を左右するような決定を下すなんて、とてもじゃないが難しい。

「夢を追いかけたって物にはならんよ、ロッビ」と父さんは言うだろう。

「自分の夢を追いかけて」母さんなら、きっとそう言ったはずだ。そして、キッチンの窓の外に目をやる──果てしなく広がる大地を見渡すような眼差しで。ほんの数メートル先の温室でもなく、その向こうのフェンスでもない、はるか遠くへ。庭じゅう緑であふれ、草花や木々や低木が生い茂っているから、フェンスの向こうは見渡せないのに、まるで遠方からの来客でも待っているかのように。やがて母さんは、プラムを袋から出してボウルに入れ、シンクの蛇口の下に置く。水がさっと流れ、ボウルからあふれ出す。

「小さな漁船に乗り込んで、何か月も船酔いに苦しんだのは、やっぱり相当きつかったんだな」父さんがぽつりと言った。


僕たちは黙ったまま、溶岩原を進んでいった。僕は昨夜のごちそうがまだ胃にもたれ、あのグリーンソースのせいか、ずっと胃がむかむかしていたのだけど、こんどはしつこい痛みが襲ってきた──よりによって溶岩原の真ん中で、母さんの車が転覆した現場のすぐ近くで。車がどのカーブでコントロールを失ったのか、僕は知っている──草やぶに隠れた窪地があるところだ。車の残骸を切断して、母さんが運び出されたあの場所が、まざまざと目に浮かんでくる。「母さんは私より先に逝くべきじゃなかった。16歳も年下なのに」現場を通りかかったとき、父さんが言った。

「そうだね、そう思うよ」

母さんのことだから、きっと自分の誕生日の夜明けとともに起き出して、ブルーベリーでも摘みに行ったんだろう──ひっそりとした、お気に入りの場所へ。だからこそ、溶岩原を走っていたにちがいない。わが家の男たちに──父さんとヨセフと僕のことを、母さんはそう呼ぶのが好きだった──摘みたてのブルーベリーとホイップクリームを添えた、ワッフルを食べさせたくて。いまさらながら、うちは男ばかりで大変だったんじゃないかと思う。つまり、娘がいなかったから。

僕はゆっくりと近づいていく──溶岩原の窪地に落ちて転覆した、車のなかの母さんに。じっくりと時間をかけ、自然の風景に目を凝らしながら、僕は現場の周辺を歩き回る。まるで映画のカメラマンが、クレーンを使って空撮しているみたいに。主演女優の母さんにズームインしようとしたとたん、画面全体がぐるぐると回転しだす。8月7日、早くも秋の訪れを感じるころ。赤や輝かしい黄金色が、まわりの自然にあふれている。事故現場で目に映るありとあらゆるものが、赤っぽい色をしている。深紅のヒース、血の赤に染まった空、近くの小さな木立の赤紫色の葉っぱ、金色の苔。母さんも、赤ワイン色のカーディガンを着ていた。父さんが家の浴槽であのカーディガンを水洗いするまで、固まった血がこびりついていたのに気づかなかったけど。こんなふうにこまごまとしたことをつぶさに思い出すことで──まずは絵画の背景に目をやって、しだいに主題へと視線を移していくように──僕は母さんの死をいっとき保留し、逃れられない別れの瞬間を遅らせようとする。最後のシーンで、母さんは車の残骸のなかに取り残されたままのこともあれば、切断した車体から運び出され、地面に横たわっていることもある。そこは溶岩原の窪地の底面の平らな部分だ。2株のタソックの上のほうの葉っぱが、事故の衝撃であちこちに飛び散って、傷だらけの身体にもたくさん付いている。その場所に、母さんはそっと寝かされる。まだ生きているようにも、死んでいるようにも見える。

父さんののろのろ運転のおかげで、あの木を確かめることもできた。こぶりな松の木が、僕が植えた場所にちゃんと生えている。ごつごつした溶岩原の真ん中に、僕は木を植えたのだ。岩だらけの荒涼とした風景にぽつんと佇む木──母さんが最期を迎えた場所を、神聖な場所にするために。

「寒いかな?」父さんはそう言って、ヒーターの風量を最大にした。車内は暑いくらいなのに。「ううん、寒くないよ」

お腹が痛いけど、父さんには言えない。やたらと心配して大騒ぎするに決まってるから。母さんも心配したけど、そんなふうじゃなかった。母さんは、僕のことをわかってくれていたから。

「さあ、着いたぞ、ロッビ。飛行機は見えるかい?」

僕たちが空港に着いたとたん、山並みに降りていた夜の帳が明け始め、水色にたなびく煙のような曙光が見えてきた。水平線から現れた2月の太陽は、汚れたフロントガラスの埃をくっきりと浮かび上がらせた。

弟と父さんも、僕のあとをついてターミナルまでやってきた。

別れ際に、父さんから小包を渡された。

「向こうに着いたら開けなさい」父さんは言った。「なに、ちょっとしたものだよ。寝るときに、親父さんのことを思い出してくれるようにね」

じゃあ、行ってくる、と言いながら、僕は父さんをしっかりとハグした。長く抱きしめるのではなく、ぎゅっとハグして、男らしくぽんと背中をたたいた。弟のヨセフにも同じようにしたが、弟はさっとあとずさりし、父さんの手を握った。おもむろに、父さんがズボンの後ろのポケットから分厚い封筒を取り出して、僕に渡した。

「銀行でいくらか現金を下ろしておいたよ。外国じゃ、なにが起こるかわからんからね」

肩越しに振り向くと、弟を連れてターミナルを出ていく父さんの姿が見えた。後ろのポケットから、長財布が半分はみ出している。ふたりとも買ったばかりのグレーのベストを着ていて、どちらも負けず劣らずおしゃれだ。ヨセフの外見は僕とはまるで正反対で、背は低く、茶色の瞳で、海辺からふらりと現れたような小麦色の肌をしている。色のコーディネートはともかく、あの隙のない着こなしときたら、僕の自閉症の弟はパイロットと間違えられても不思議じゃないくらいだ。僕は蝶模様のすみれ色のシャツを着た弟の姿を、心の目に焼きつけた。真昼ごろにはもう、この茶色くぬかるんだ大地から遠く飛び立っているはずだ。地の塩を思い出させるのは、僕の靴の縁に残った、白い輪っかの雪染みくらいだろう。


飛行機が滑走路を離れ、霜の煌めくピンクの雪景色から勢いよく飛び立った瞬間、激しい腹痛に襲われた。それでも最後にひと目、窓の外の景色が見たくて、僕は隣の席に身を寄せた。眼下の山は、白い脂肪の筋が入った赤紫色の肉の塊みたいだ。黄色のポロシャツを着た隣の女性は、僕に窓がよく見えるよう、背もたれに身体を押し付けている。でも僕は、谷間のくっきりとした、彼女の大きな胸に目を奪われてしまい、景色なんかどうでもよくなってしまった。もっと晴れやかな気分を味わって当然なのに、胃が痛いせいで、解放感に浸ることもできない。すべてを置き去って、はるか彼方の上空へやってきたというのに。実際には見えなくても、僕は心のなかで思い浮かべる──真っ黒な溶岩原、黄色い枯草、乳白色の川、タソックの波打つ草原、湿地、萎れかけたルピナスの群生地、その向こうに果てしなく広がる岩山。まったく、岩ほど手ごわいものがあるだろうか? こんなごつごつした岩だらけの土地で、バラが普通に育つわけがない。たしかにこの国はものすごく美しいし、場所も人びとも含めて、大好きなところはたくさんあるけど、記念切手のデザインにでもするのがいちばんだ。

離陸後まもなく、僕はバックパックに手を伸ばし、高度1万メートルでバラの切り枝が無事かどうかを確かめた。湿った新聞紙で包み直す前に、緑色の新芽の部分を少し直してやる。訃報欄のページを選んでしまったのはただの偶然だけど、いまの僕の体調を考えたらおあつらえ向きと言えそうだ。それに偶然というのは、いかにさりげなく起こるものかを示してもいる。はるか下の大地から身を引きはがしたいま、僕が死について考えるのは不自然なことじゃない。僕は22歳の男で、気がつけば1日に何度となく死について考えている。2つめは身体のことで、自分の身体もひとの身体も気になってしかたがない。3つめは、バラや植物たちのことだ。3つのことを考える順番は、日によってちがうけど。僕はバラの切り枝を元の場所に戻し、女性の隣に座った。

絶え間なく疼き始めた痛みもさることながら、こんどは吐き気も襲ってきて、僕は思わず前かがみになってぎゅっと腹をつかんだ。飛行機のエンジン音は漁船を彷彿させ、僕は4か月間、毎日、船酔いがどれだけつらかったかを思い出した。海が荒れていなくても、船に乗り込んだ瞬間、胃のなかのものがせり上がってきて、立ちくらみがした。漁船が波のうねりを増幅させ、波止場に打ちつける波に揺られだすと、僕はとたんに冷や汗をかき始め、まだ船が錨を上げもしないうちに、一度は吐いてしまうのだった。船酔いがひどくて眠れないときは、デッキに出た。波の動きでぐらつかないように足を踏ん張りながら、霧のなかに目を凝らし、ぼんやりとした水平線が上下に弾むのを眺めていた。9回目の漁を終えたころには、僕は地球でいちばん青ざめた男になっていた──目の色まで、揺らめく波の色になった。

「赤毛には付き物だな」古参の漁師が言った。「船酔いがいちばんひどいと決まってるんだ」

「まあ、たいていのやつは二度と戻ってこない」べつの漁師が言った。


室乗務員たちが、座席のあいだの通路を急ぎ足でやってくる。茶色のストッキングにハイヒールのミュールを履いた脚が、不時着時の姿勢のように前かがみになった僕の視界に、ぬっと現れる。みんなで僕に気を配り、通路をあわただしく行き来しては様子を見にやってきて、あれこれ世話を焼く。

「枕を使いますか? ブランケットはいかがですか?」彼女たちは心配そうに声をかけ、座席の背もたれの埃を払って、僕の頭の下に枕をすべりこませたり、ブランケットをかけたりする。それからまた向こうで集まって、どうしたものかと話し合っている。

「気分が悪いの?」隣の黄色のポロシャツの女性が声をかけてきた。

「あ、ちょっと調子が悪くて」僕は答えた。

「大丈夫、心配しないで」女性はそう言って、僕のブランケットを直してくれた。よく見ると、たぶん母さんと同じくらいの年齢だ。3人の女性が機内で僕の面倒を見ている──いまにも泣き出しそうな子どもみたいに。僕は座ったまま身体を起こし、トレーに載った機内食のアルミの蓋の下を覗こうとした。ちょうどそのとき、キャビンアテンダントが通りかかったので、機内食になにか入ってたんでしょうか、と訊いてみた。

「確認いたしますので」彼女はそう言って、通路の向こうに姿を消した。

けれども、なかなか戻ってこない。僕はしかたなく、自分が育ちのいい若者であることを隣の女性にわかってもらうため(母さんはもちろん太鼓判を押してくれたはずだ)、自分から手を差し出して名乗った。

「アルンリョウトゥル・ソウリルです」

おまけに、僕は革ジャケットのポケットに手を突っ込み、グリーンのベビー服を着た、頭のつるんとした赤ちゃんの写真を取り出した。たぶんこのひとは、僕のことをあんまり男らしくないと思ったんじゃないだろうか──濡れ新聞の訃報欄で包んだ切り枝なんか持っているし、機内食は吐いてしまうし。個人的なことを訊かれるのも面倒だが、はい、チョコレート、なんて子ども扱いされるのはまっぴらだ。さっさと先手を打っておかないと。

「僕の娘です」そう言って、僕は写真を渡した。

隣の女性は一瞬、驚いたように見えたが、すぐににっこりと笑顔を浮かべ、ハンドバッグから眼鏡を取り出して、写真を明るいほうへ向けた。

「かわいいお子さんね。いくつ?」

「その写真を撮ったときは5か月です。いまは6か月半」6か月と19日と言いたいところだが、お腹が痛くて、細かいことまで頭が回らない。

「とってもかわいくて、かしこそうな赤ちゃんだこと。おめめもぱっちりして」女性は言った。「だけど、女の子にしてはちょっと髪の毛が少ないわね。てっきり男の子かと思ったわ」

女性は温かい眼差しを僕に向けた。

「えっと、たしかあのとき目を覚まして、ボンネットを取ってやったんじゃないかな。だから、髪がぺたんこなんですよ」僕は言った。「そうそう、ベビーカーからおろしたばかりで」僕は写真を受け取って、ポケットに戻した。これ以上、娘の薄毛のことで言うべきことはなにもないから、この話題はおしまいだ。しかもきゅうに、僕はもうお腹が痛いことしか考えられなくなってきた。また吐きそうだ。目を閉じると、ゆうべの魚のフライにかかったグリーンのソースが目に浮かんでくる。隣の女性が心配そうに僕を見ている。もう言葉を交わす気力もなくて、考えごとをしているふりをしながら、僕はバックパックに手を突っ込んでごそごそと探った。押し花をいくつもはさんだ本を取り出すと、まるで運命のいたずらのように、いちばん古い押し花のページが開いた──6つ葉のクローバーで、3本とも、僕がわが家の小さな裏庭で、同じ朝に採ったものだ。6歳の誕生日に6つ葉のクローバーを3本も見つけるなんて、すごいことだと父さんは言った。これは幸先がいい。きょうの誕生日パーティーで、きっといいことがあるぞ。それともおまえの夢がかなって、庭の木がぐんぐん大きくなって、木登りできるようになるかな?

「それ、あなたの押し花帳?」隣の女性がとたんに興味を示した。僕は返事をせず、クローバーを一本取り出して読書灯にかざした──これは最近採ったもので、まだ完全無欠だ。はかなげで繊細でありながら、永遠を宿しているようにも見える。たぶん僕の症状はただの急性食中毒なのだろうけど、クローバーの葉っぱが、か細い茎の先でうなだれている様子は、いかにもいまの僕を象徴しているような気がする。


「おひとりで本当に大丈夫ですか?」出口へ向かって通路を歩いていく僕に、キャビンアテンダントが声をかける。「お顔が真っ青ですよ」

飛行機から降りた瞬間、こんどはチーフアテンダントが僕の肩をそっとたたいて言った。

「どの食材が原因だったのかを確かめるために、乗務員二名で試食をしたのですが、わかりませんでした。申し訳ありません。クリームチーズ詰めの魚のフライか、クリームチーズ詰めのフライドチキンのどちらかのはずなのですが」

空港の職員が行き先の住所を書いてくれたメモを、僕は汗ばんだ手のひらでぎゅっと握りしめる。

見知らぬ街、初めての海外旅行で降り立った街で、僕はタクシーの後部座席でうずくまっている。バックパックがすぐわきに置かれ、前面のコンパートメントに入れたバラの切り枝は、包んだ新聞紙の隙間から緑色の新芽を覗かせている。僕はふと、このタクシーの乗客は自分だけじゃないような気がしてきた。ひょっとしたら、あの黄色のポロシャツの女性が僕を送ってやろうと思って、同乗しているんだろうか?

タクシーが赤信号で止まるたびに、後部座席に寝転がった僕からは、通行人たちが窓に映った自分自身の姿をちらりと眺めていくのが見える。

運転手はときどきバックミラーをちらっと見て、僕の様子を窺っている。ふと助手席を見ると、大きなシェパード犬が座っていて、だらんと下がった長い舌から、よだれが垂れている。リードを着けているかどうかわからないけど、犬は食い入るように僕のことを見つめている。僕は目をつぶった。やがて目を開けると、タクシーはすでに病院の前に停まっていて、運転手が向き直って僕を見ていた。タクシーのなかでも吐いてしまったせいで、運賃の倍額を請求されたが、運転手はべつに怒っているようには見えなかった。むしろ、僕の子どもじみた振る舞いに、呆れているみたいだった。


とりあえず、僕はバックパックをそっと床に置き、バラの切り枝の包みから水気が出ないように注意した。そして、ビニールカバーのかかった診察台に横になった。22歳で、もうおしまいか。まだ始まってもいないうちに、旅は終わってしまった。用紙に名前を記入するだけなのに、ひと文字ずつ、えらく時間がかかる。蛍光灯に照らされた診察室で、僕が横になるとき手を貸してくれた女性は、艶やかな茶色の髪と茶色の瞳をしていて、細やかに気遣ってくれる。僕は上半身裸で、こんどはズボンも脱いでいく。母さんもこんな気持ちだったんだろうか──溶岩原で、見知らぬ人たちの腕のなかで死んでいったとき。ともかく、僕が死ぬ日だって、この地球上の多くの人たちにとっては、幸せな日になるのは間違いない。陽が沈むまでには、僕のかわりに大勢の赤ちゃんがこの世に生まれ、結婚式も数えきれないほど挙げられるんだろう。

死ぬなんて、べつにたいしたことじゃない。これまでだって世界じゅうで、善良な息子や娘たちが大勢死んでいったのだから。もちろん高齢の父さんにとっては、ショックにちがいない。自閉症の双子の弟は、きっと僕のいない新しいシステムを作り上げていくはずだ。だけど、生まれてまもないあの子は──まだ言葉も話せず、数時間おきに目を覚ますような赤ちゃんだから──父親がどんな人間だったか、知ることもないだろう。やっぱり、後悔はいくつかある。もっとたくさん女の子と寝ておけばよかった。あのバラの切り枝、ちゃんと土に挿してやりたかった。

艶髪の女性が僕のお腹にそっと手を置いたとき、蝶の形の緑色のヘアクリップをしているのに気づいた。僕の存在がこの世から消える最期のひとときに、面倒を見てくれる女性の髪に、生と死と復活のシンボルが留まっているとは。

水分が不足したら、バラの切り枝が枯れてしまう。そう思った僕は、ひじをついて身体を起こし、バックパックを指差して言った。

「植物が」

彼女は腰をかがめてバックパックを取り、診察台のそばに持ってきてくれた。言葉がわからないから言いたいことが言えなくても、ただ指を差すだけで、このひとは僕の言いたいことをわかってくれる。もしこんなふうに僕がこの世を去る運命じゃなかったら、ひょっとしてこのひとと結婚してたりして──そんな考えがふと、僕の頭に浮かんだ。たぶん僕より10歳ほど年上の32歳くらいだろうけど、べつにたいした年齢差とも思えない。だけど、わけのわからないこの腹痛のせいで、こんなにもしっくりと感じるふたりの関係を深めることもできない。僕は胃に残っていた機内食のフライとチーズソースを吐き終えると、彼女に手伝ってもらいながら、バラの切り枝を包んだ湿った新聞紙を、そうっと開いていった。彼女の手つきはまるで、うまくいった手術のあと、患者の脚の包帯を外しているみたいだ。

「植物を持ってきたの?」彼女は言った。すぐそばにいる彼女のヘアクリップの蝶の翅に、黄色の斑点が見える。

「そうなんだ」僕はこの国の言葉で、ネイティブのような発音で答えた。

彼女は、ちゃんと言ってることがわかってるのね、というようにうなずいた。

おまけにもうひとこと、僕はラテン語で言った。

「ロサ・カンディダ」

こと植物と栽培法に関しては、僕の腕前と語彙はなかなかのものなのだ。

「棘がないんだ」僕は付け足した。

「棘がないの? ほんとに?」彼女は僕のジーンズをたたんで、椅子に置かれたケーブル編みのブルーのセーターの上に、きちんと重ねた。母さんの手編みのセーターは、これが最後だった。もうすぐこの蝶のヘアクリップをつけた女性も、裸の僕を見た7人の女たちの最後のひとりになる。

「あとのふたつの植物も──ロサ・カンディダなの?」彼女が訊いた。

「そう、念のために」僕は答えた。「挿し木をするのに万が一、枯れたらいけないから」そう言って、僕はまたビニールカバーのかかった診察台に横になった。

苦しんでいる僕をずっと見守り、吐いたときは介抱し、バラの切り枝に水をやってくれた彼女に、僕はもっと個人的なことを打ち明けたくなった。それで、子どもの写真を取り出して、彼女に見せた。

「僕の娘」

彼女は写真を手に取って、じっと見た。

「かわいい」そう言って、彼女は微笑んだ。「いまいくつ?」

これくらいの簡単な質問なら、この国の言葉をあまりしゃべれない僕でも、ちゃんと答えられる。

「約7か月」

「ほんとにかわいい」彼女はもう一度言った。「でも7か月の女の子にしては、髪が少ないかも」

これは、予想外だった。相手を信頼して大切なものを分かちあったとたん、がっかりさせられるとは。だけど、僕がこの世で誰かと言葉を交わすのはこれで最後なんだから、なにが何でも娘の髪の毛のことはちゃんと理解してもらわないと。写真なんて、実物どおりとは限らないし、ブロンドの子は普通一歳までは髪の毛が目立たないものだし、生まれたときからふさふさ頭の、黒っぽい髪の子たちとくらべられたって困るんだ。言いたいことは山ほどあるのに、お腹が痛いのと、この国の言葉をろくにしゃべれないせいで、娘をかばってやれない。

「約7か月だよ」僕は繰り返した──髪が少なくたって当然じゃないか、というニュアンスをこめて。やっぱり、いきなり写真なんか見せるんじゃなかった、と僕は思った。これ以上、いじられるのはごめんだ。

「返して」僕はそう言って手を伸ばし、写真を取り戻した。娘のフロウラ・ソウルが、下の歯ぐきに生えた2本の歯を見せて、にっこりと笑っている。そういえば、お風呂上がりのあの子のおでこに巻き毛がひとすじ、くるんと垂れていたのを思い出した。出発前の挨拶に、子どもと母親が住む家を、電話もかけずに訪ねていったときのことだ。

車椅子に乗せられて手術室へ向かいながら、僕は目を閉じた。シーツをかぶっていても寒気がする。いまの僕にとって、たしかな現実は痛みだけだ。もちろん、僕の苦しみなんて、この世界の惨禍や恐怖、干魃やハリケーンや戦争なんかにくらべたら、足元にも及ばないけど。

僕の生存率はどの程度なのか、グリーンの手術着に身を包んだ医療スタッフの表情や仕草から探ろうとしてみる。誰かがなにか言って、それを聞いた相手が、グリーンのマスクをしたまま愉快な笑い声をあげた。まるで深刻な事態などなにもなく、誰も死にかけていないかのように。最期のときに、僕にとってこれ以上残酷なことはなかった──こんな寄せ集めの連中に、いいかげんに扱われるなんて。僕が死んでも、きっと平然としてへらへらしているんだろう。こいつらは、僕の話すらしていない──聞きかじりだけど、たぶん──このうちの誰かが観にいった映画の話題で、べつの誰かが今夜観にいくらしい。『ひなげしの畑』か──その映画なら、僕も聞いたことがある。ある男が女にこっぴどく足蹴にされて、その女を誘拐して、ふたりで銀行強盗をするって話。最近、映画祭で特別賞かなにかを受賞した映画だ。

いきなり、誰かが僕の髪をなでる。赤毛のモップちゃん──母さんの声が聞こえる気がする。「心配しなくていいよ。急性虫垂炎だから」誰かがマスクの向こうから言った。

なでる、というのはちょっとちがうか。誰かが僕の髪をかき上げているような感じ。僕は小鳥で、重たい翼をばたつかせながら飛び立っていく。宙に浮かんだ僕は、下界のできごとをただ見守っているだけで、なにもしない。だって僕はもう、すべてから自由になったのだから。なにもかもが消え去る瞬間、すぐそばで父さんの声がした。

「バラに将来はないぞ、ロッビ」

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◉解説

◉訳者あとがき

◉作品概要