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「すぐれた生還譚」では終わらない実話の凄みとは。『絶海』書評:小川一水

遠洋での難破、軍人たちの叛逆、殺人、そして人肉食――300年前の人間の血と汗、飢餓、絶望を読む者に生々しく体感させる“圧倒的筆致”が話題の新刊が『絶海 英国船ウェイジャー号の地獄』(デイヴィッド・グラン、倉田真木訳、早川書房)
当初の乗組員250名のうち奇跡的に帰還できた僅か33名の生存者を、母国で待ち受けていたものとは? 本書の暴く本当の地獄とは? 本書の読みどころと著者の特異な視点を、作家・小川一水氏による書評で紹介します。

『絶海 英国船ウェイジャー号の地獄』(デイヴィッド・グラン、倉田真木訳、早川書房)
『絶海 英国船ウェイジャー号の地獄』
デイヴィッド・グラン、倉田真木訳
早川書房

『絶海』書評 小川一水

すぐれた生還譚は悲劇の果てに希望を感じさせて終わる。しかしデイヴィッド・グランの『絶海』は、最後の笑顔を不気味な逆光で照らし出し、読者にそれとなく皮肉な苦みを味わわせることで、傑出した生還譚だと認められるに至った。

何やら格好つけて語り始めたが、18世紀のイギリス帆船がぶっ壊れた話のことだ。250人乗りの軍艦ウェイジャー号が寒くてつらいチリの孤島に流れ着いて、怒ったり揉めたりちょっとだけ助け合ったりした末に、大勢死んでほんの一握りが生きて帰った、そういう事件を扱ったノンフィクション作品である。これがどう認められたかは帯にあれこれ書いてあるから略するが、何しろアメリカで評判がいいらしい。最初にざっと読んだときは首を傾げた。港町から無理やりひっぱってきた男たちを軍艦に乗せて、獲物のスペイン船の莫大な財宝をチラつかせつつ、死ぬほど苦労させる伝統のイギリス海軍冒険物語と、みんな大好き、これから皆さんに殺し合ってもらいます的なデスゲームをドッキングさせた話のようだ。落ちたら死ぬ危険な帆の上げ下げだの、手足が吹っ飛ぶ大砲の撃ちあいだの、有名な壊血病だの南米ホーン岬の大嵐だの、士官の責任感だの水兵の意地だの、楽しいやつをあれこれ全部盛ってある。そういうのは個人的に大好きだし、帆船もの初体験の読者へのチュートリアルとしてもってこいな作りだけど、それにしてもずいぶんおいしいところだけ集めたな? と思ってしまった。

話が逆である。あちこちからおいしい部分をつまみ食いしたのではない。あちこちに広範な影響を与えるほど衝撃的だったのが「ウェイジャー号事件」なのだ。1740年に起こったこの事件は生還者の手記によって世に知れ渡り、当時のルソーや後世のダーウィン、メルヴィルやオブライアンにまで読まれた。オブライアンと言ったらオーブリー&マチュリンシリーズというクソおもしろバディもの帆船小説の書き手で、C・S・フォレスターと並んでこっちを帆船好きに引きこんだ当人なのだから、その彼に影響を与えた事件に既視感があるのも当然なのだった。

『絶海』の高評価の理由として、著者グランの徹底的な文献調査とチリへの現地踏査が挙げられているが、出てくる水兵の体臭まで感じ取れるような臨場感は、当事者たちが残した手記によるところが大きい。中でも艦長チープ、掌砲長バルクリーの両者は、島で起こった仲間割れの指導者でもあり、確たる発言を残した。もう一人、16歳のジョン・バイロンという少年がいて、これも若者視点での記録を提供した。このバイロン、実は詩人のバイロン卿の祖父という大物だった。日本人には映画「紅の豚」のポルコ・ロッソの会話「そりゃバイロンかい」「いやおれだよ」のバイロンの祖父だといえば通じるか。

彼らを含む145人が荒れ果てた島に流れ着き、その地をウェイジャー島と名付ける。船は250人乗りじゃなかったのかって? その通りだが他は着くまでに死んでいた。もうこのことから旅のひどさが表れている。寒冷な僻地のこととて獣も魚もろくに獲れず、手に入るのはわずかな貝と海草だけで、やってきた先住民の奇跡的な支援を得られるも、無礼を働いて逃げられる。他に救助の当てはなく、乗組員が次々に力尽きていく中で、負傷して思うように指揮が執れないチープの代わりに、決断力のあるバルクリーに人望が集まっていき、緊張が高まった末、ついに破局的な暴力が……といったところが山場だが、ここではやや細かい部分に触れたい。それは彼らが記録を残したことそのものと、チープがしつこく艦長の特権とスペイン攻撃にこだわったことや、バルクリーが上官であるチープに対してぎりぎりまで直接的な行動に出ず、あくまでも軍規に則って書簡や日記の形で不満を表そうとしたことなどだ。これは安全に暮らす現代日本人の感覚では奇妙に思える。故郷から一万キロメートル以上離れた絶境で、頼みの綱の艦も沈んでしまったのに、なぜ彼らはそんなことにこだわるのか? 獣のような無法に陥って当然だろうに、どうすればそれほど任務や秩序を忘れずにいられるのか?

それは彼らが世界一形式を重んじるイギリス人ジェントルマンだったからだ、と賞賛することもできる。後代の話になるが、南極探検に挑んでこれと同じぐらい悲惨な目に遭いつつも全員を生還させたシャクルトンや、世界初の南極点到着を惜しくも逃したスコットもそんな姿を示した。不撓不屈の闘志と自制心を持つ、典型的なイギリス人リーダー。そういう英雄物語として受け取りたくなる。

しかし本書で明らかになる実情は、そんなまっすぐで美しいものではない。彼らが懸命を通り越して滑稽なほど形式にこだわり、ちっぽけなボートで再び荒海へ漕ぎ出した時にすら熱心に日記を書いたのは、弁明のためだった。いつか母国に帰り着いたとき、軍法会議の席に立たされたときに、決して祖国に背いたのではないと証明して、絞首刑を逃れるために必要だと考えたから、ぼろぼろになってまで文明的行動にしがみついていたのだ。

絶海の孤島から奇跡的にイギリスへ帰ることのできた乗組員たちは、やがて互いの行いを謗り合う。なぜ殺したのか、なぜ置き去りにしたのか。どちらの非難にも理があり、また自己保身に走る心情も汲み取れる。時空の霧に隔てられたウェイジャー島へ、想像と資料を駆使して肉薄したグランの筆致がなせるわざだ。本書の最後で、彼らに対する軍法会議が開かれる。13人の海軍将校からなる判士たちが、彼らの人生を左右する絶対的な判決を下す。

こうしてイギリス海軍により送り出された彼らが、イギリス海軍によって裁かれて、物語は幕を下ろした――とはいかないのが本書である。そう、この悲劇全体を包むさらなる外枠がある。本書の後段では、ウェイジャー島事件とは関係の薄い事柄や当時の情勢が、いくつも描かれている。中で目を引くのはアンソン提督という人の活躍と、スペイン艦で起きた先住民の反乱事件だ。そしてまた、ウェイジャー号唯一の黒人乗員の消息も付記される。本書をただの18世紀版デスゲームとしか見ないのであれば、不要にも思える諸事だ。だがこれらは古い意味での帝国主義の功罪という一本の太い綱によってつながっている。ウェイジャー号を出航の時から駆り立てたスペイン船の財宝は、そもそも誰のものだったか? ヨーロッパ人が「幸福な民」にしようとした先住民たちは、実際には何を受け取ったのか? そしてウェイジャー号を裁く軍法会議において、獰猛に醜く争ったはずの乗組員たちに、海軍本部はなぜそんな意外な判決を下したのか?

そういったことに想い馳せたときに、浮かぶ表情がある。南半球のムール貝の冷たい生臭さと征服の苦みとが、多くの人に賞賛されたという、本書の味わいである。


本書の内容はぜひお手に取ってご確認ください(電子書籍も発売中)。

本書の「冒頭試し読み」「訳者あとがき」も公開中です。

記事で紹介した書籍の概要

『絶海 英国船ウェイジャー号の地獄』
著者:デイヴィッド・グラン
訳者:倉田真木
出版社:早川書房
発売日:2024年4月23日
本体価格:2,500円(税抜)

著訳者略歴

著者: デイヴィッド・グラン (David Grann)
《ニューヨーク・タイムズ》ベストセラー1位となった『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』『ロスト・シティZ』の著者。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は全米図書賞の最終候補になり、アメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)を受賞した。ほかの著書にThe White Darkness、短篇集The Devil and Sherlock Holmes(いずれも未邦訳)など。優れたストーリーテリングで、ジョージ・ポーク賞などの栄誉に輝いている。妻と子どもたちとともにニューヨーク在住。

訳者: 倉田 真木(くらた・まき)
翻訳者。訳書にグラン『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』、キャンベル『千の顔をもつ英雄〔新訳版〕』(共訳)、シャーキー『死体とFBI』(以上、早川書房刊)、アハーン『ザ・ギフト』、アリソンほか『リー・クアンユー、世界を語る』など多数。

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