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あなたの運や不運を数学的視点で見てみると? 『それはあくまで偶然です』本文試し読み

宝くじの連続当選、ビギナーズラックで大成功、恋愛相手と運命的な出会い……自分にとって幸運なことも(あるいは不運なことも)、統計学的な視点からみれば「ぜんぶたまたま」に過ぎないとしたら?
なぜ人は、「偶然」に過ぎないことに運命や必然的な「何か」を見出してしまうのか? 数学者であり、即興コメディアンやミュージシャンとしての顔も持つ著者がその疑問に迫る『それはあくまで偶然です』(ジェフリー・S・ローゼンタール、石田基広監修、柴田裕之訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫・数理を愉しむシリーズ)から、冒頭部分を試し読み公開します。
身近な星占いやギャンブルの必勝ジンクスも、「統計学や数理」の視点から覗いてみると――。

それはあくまで偶然です 早川書房 ハヤカワ・ノンフィクション文庫
『それはあくまで偶然です』早川書房

あなたは運を信じていますか?

私は確率と統計を専門とする、数学の大学教授だから、無作為ランダム性と不確実性についての知識と知恵を広めることに打ち込んでいる。これまで、宝くじ、飛行機の安全性、選挙前の世論調査、犯罪率、ギャンブルの勝ち目、スポーツの統計、医療検査など、確率に関連したありとあらゆる種類のテーマについての質問に、自信を持って答えてきた。ところが、その一方で、ときどき訊かれることがある。あなたは運を信じていますか、と。気まずい沈黙の後、私はなんとか答えをひねり出す。

運を信じているか、ですか? いや、それはもちろん、信じています。物事は、うまくいくこともあれば、いかないこともあります。外部の力が働いて、なかなか大変な目に遭うときもあれば、逆にこれ以上ないほどうまくいくときもあります。自分自身について言えば、教育を重視する中間層の家庭に生まれたのは運が良かった。おかげで、成功への道を歩みはじめることができましたから。平和で安全で繁栄している国で育ったのは、とてもラッキーでした。一流の大学に入学できたのも、ついていた。それを足掛かりに、学者として申し分のない地位に就き、終身在職権も得て、身分が保証されましたから。もちろん、運を信じています!

運を信じているか、ですか? いや、それはもちろん、信じていません。不吉な数や星占い、幸運のお守りのたぐいを信じている人もいますけれど、そういうものはみんなナンセンスに思えます。お守りのような変わったアイテムと現実の生活での結果とのあいだに因果関係を生み出す物理法則は、一つとして知られていませんし、念入りな実験を行なって、両者のあいだに何かしら一貫した関係を示せたためしもありません。ですから、不吉な数などのどれであろうと本気で信じるのは、少しばかり馬鹿げているように思えます。それに、これまで誰かに良いことがいくつも起こったからといって、そのパターンが続くとはかぎりません。過去は未来を予言しているわけではないですし、パターンが決まっているわけでもなく、幸運が保証されている人など一人もいません。もちろん私は、運を信じていません!

私は運を信じているか? けっきょくそれは、運とは何か次第だ。運とは、じつにさまざまな解釈が可能な言葉だからだ。あるラジオのインタビューのときに、まず、運を単純明快に定義してください、と言われた。ほどなく私は、それができないことを思い知らされ、インタビューは、これはいったい何についての話なのかをめぐる議論の泥沼にはまり込んでしまった。

何かが「運良く」あるいは「運悪く」起こったと言うときには、立証済みの科学的因果関係(たとえば、ボールが引力のせいで地面に落ちる)や、努力(たとえば、一生懸命勉強して期末試験に合格する)、特定の意図(たとえば、悪戯いたずら好きの友人がドアの上にバケツを置いておいたために、そうとは知らずにドアを開けたあなたがびしょ濡れになる)で起こったのではない●●というつもりなのは明らかだ。けれど、それが運のせいではないのなら、運とはいったい何なのか?

人はときどき、たんに自分にはコントロールできない出来事予備知識のない出来事を指して「運」という言葉を使う。「まぐれ」や「ランダムな運」の類だ。そうした運は予測することができず、後から振り返って初めて気づく。

たとえば、店にスニーカーを買いに行くと、その週はたまたまセールをやっていたときがそうだ。出かける前には知らなかったし、思いもしなかった。あるいは、外国の都市でホテルに滞在中にテロ攻撃があったものの、爆弾が炸裂したのは町の反対側だったと聞いてほっとするときがそうだ。

こういうものは、たしかに運が良かった例だけれど、それは、自分ではどうしようもない状況やまったく予測できない状況の恩恵に浴したという意味で、運が良かったにすぎない。そして、もしそれだけのことなら、それはただの偶然でランダムな運以外の何物でもない

その一方で、人は魔法のように未来に影響を与える何かしら特別な力を暗に指して、「運」という言葉を使うこともある。ウサギの足や四つ葉のクローバーのような幸運のお守りから、ホロスコープ(占星術の天宮図)による超自然的な「予言」、占いの入ったフォーチュンクッキー、お茶の葉、どうしても起こらざるをえなかった●●●●●●●●●●●ことにまつわる「運命」、胸のすくような復讐劇を起こす「カルマ(ごう)」、いつも良いことばかり決まって起こる、魔法がかかったようについている人まで、さまざまな例が挙げられる。そのどれもが、必然の運●●●●、つまり、前もって予測でき、未来の出来事の確率に影響を与える特別な種類の運で、科学の法則や努力、その他の、事実を基にする説明などではなく、何か超自然的な原因に基づいている。

それでは、どちらが正しいのか?「運」は何か偶然で意味のないものを指すのか、それとも、必然的で魔法のようなものを指すのか?

じつに多くの人が、何かしらの形の特別な運の力を信じている。彼らは私がいつもとる、ランダム性と運への「科学的」アプローチをあざ笑い、確率と科学的原因がすべてだなどと、どうして私が思えるのか、信じられないとさえ言う。彼らが正しく、私が間違っていることなど、ありうるのだろうか? 

どうすれば、運をほんとうに測定したり評価したりできるのか? どの予測が正確で、どの予測がでたらめか、どうやって判断できるのか? 何が何を引き起こしているのかを、どう突き止めればいいのか? 私たちの周りじゅうに見られるランダム性を、実際には何が支配しているのか、どんなふうにして特定できるのか?

そして、これらいっさいを、いったいどうまとめたらいいのか? まあ、本を1冊書けばいいかもしれない。

この後に続くページでは、運が働いているさまざまな例を考察し、運の意味(あるいは、意味の欠如)を整理してみたい。これから検討する疑問には、次のようなものがある。

●なぜ私はほかの大勢の人同様、運や運命や宿命といった発想を軸に筋が展開する『マクベス』や『シューレス・ジョー』のようなフィクションにかれるのか? なぜ私たちは、不思議な力が働く話が大好きなのか? そうした話を読むときはいつも、私たちは科学的な物の見方を退けてしまうのか? それならば、人生もこうした作品にならって、宿命と魔法のような意味から成る独自のルールに従うものだと見込むべきなのか?

●木漏れ日は自分に慰めをもたらしてくれる「しるし」だったと友人に言われたら、彼女の見方は当たっているのだろうか? その日光は、その友人を元気づけるべく、特別に意図されたものだったのか、それとも、ただのランダムなものだったのか? そして、ランダムなものだったとしたら、その友人が感じる慰めの現実味が薄れるのだろうか?

●スポーツファンは、応援しているチームが負けてがっかりしたときには、なぜたちまち根も葉もない呪いのせいにするのか? そう信じれば、何かの欲求が満たされるのか? このファン心理には、何かロジックがあるのだろうか?

●核爆発やハリケーンや津波のような恐ろしい悲劇で何千何万もの人が亡くなるときには、何か「理由」があるのか? それが犠牲者の「宿命」なのか? それとも、ただのひどいランダムな運で、それが何の理由もなしに苦しみを引き起こしているだけなのか?

●私は自分が一三日の金曜日に生まれたと知って、どう反応するべきなのか? この事実のせいで、私は失敗と不運の人生を運命づけられるのか? 私はそこそこの成功を収めてきたのだから、その呪いを「解いた」のか? それとも、呪いなど初めからなかったのか?

●私は学問の世界で収めた成功を評価するときに、自分の業績を誇りに思うべきなのか? それとも、すべて無意味で分不相応な幸運にすぎないとして、あっさり忘れるべきなのか?

●教えている学生がブラインドデートに行って、相手もまったく同じ型の車に乗っているのがわかったら、それは二人が結ばれるべくして出会ったしるしだったのか? それは、愛と無上の幸福を保証してくれたのか? それに基づいてあれこれ判断するべきなのか?

●予想外の成り行きで訪れたあるハワイの浜辺で、それまで存在すら知らなかった異母兄にたまたま出会い、それがきっかけで人生が変わり、苦境を脱せたといった類の驚くべき話から、私たちは何を学べるのか? これは宿命だったのか? 神のなせるわざだったのか? それとも、ただのランダムで幸運な巡り合わせで、起こっていなくても少しも不思議ではなかったのか?

●なぜこれほど大勢の人が、ホロスコープや霊能者の予言、占い師、数秘術、その他の超自然的現象を信じているのか? このすべてに、何か根拠があるのか? その根拠を評価する科学研究があるのか?

●宝くじ券を買ったり、カジノでギャンブルをしたり、盤上ゲームでサイコロを振ったりするときには、ランダム性は動かし難いのか、それとも、私たちの影響を受けるのか? 私たちには、自分の運を上向かせるためにできることがあるのか? ほかの人よりも生まれつき幸運な人がいるのか?

●最新の医学研究や新しい世論調査、驚異的な一致についてのニュース記事を目にしたら、それを信じるべきなのか? そういう一致などには意味があるのか? ほんとうに重要なものと、運だけによって起こることとを、どうやって区別できるのか?

●そして、これが何より大切なのだけれど、以上の疑問にはどうすれば答えられるのか? ランダムで無意味な運と、ほんとうに意味や意義、影響、宿命を伴う事例とを見分けるのに、どんな原理が役立つのか? 私たちは、間違った結論を引き出すのを避けるために、どんな「運のわな」に気をつけなくてはいけないのか? 原因があるときには、どうすればそれを見分けられるのか? そして、原因などないときには、どうすれば勝手な想像をしないで済むのか?

こうした疑問には、簡単な答えはない。私は長年、それについて考え続け、ときには心を掻き乱されてきた。私の観点は、周りの人々の観点とは一致しないことがよくある──うまく口に出して言い表せたときにも。だから、本という形でこういう問題に取り組むことには、多少の不安があったけれど、けっきょく思い切ってやることにした。
それでは、さっそく冒険の旅を始めよう。

この続きは▶本書でご確認ください!

【この記事で紹介した本】

『それはあくまで偶然です 運と迷信の統計学』
ハヤカワ・ノンフィクション文庫(数理を愉しむシリーズ)
ジェフリー・S・ローゼンタール:著
石田基広:監修
柴田裕之:訳
1,360円(税抜価格) 2022年8月3日発売 560頁

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