世界の「見方」を更新する抜群の手腕――リチャード・ドーキンス『神のいない世界の歩き方』解説:佐倉統(東京大学大学院情報学環教授)
解説 世界の見方
佐倉 統(東京大学大学院情報学環教授)
この世界をどう見るか。その見方を提供してくれるのが科学だ。正確に言えば見方のための材料である。見方のひとつではないのか? と思う方もいるだろうが、ここではあえてそうは言わないでおきたい。
地球は平らで太陽や月は地球の周りを回っていると思われていたのが、いや違う、中心は太陽で丸い地球がその周りを回っていると16世紀にコペルニクスが主張した。科学による世界観、宇宙観の一大転換である。科学以外の領域でも物事に対する見方がガラッと変わることを「〇〇のコペルニクス的転回」と言ったりする。
このコペルニクスと並ぶ世界観の大転回をもたらしたもうひとりの科学者がチャールズ・ダーウィン。人間も他の動物から進化したという進化論の元祖である。この本の内容は、そのダーウィンの進化論にもとづいている。
著者のリチャード・ドーキンスはもともとは動物行動学や進化論が専門で、1960年代から70年代に大きな発展をとげた現代版ダーウィン進化理論の意義や内容をわかりやすく説明した『利己的な遺伝子』(1976年、邦訳紀伊國屋書店)で颯爽とデビューした。その真髄は、生物の進化を個体や種ではなく遺伝子の視点で説明したところにある。
それは単に説明の仕方としてうまかったというにとどまらない。ダーウィンおよびその後の研究者たちによる現代進化理論の中核にあるのは生物の進化を遺伝情報のダイナミクスとして捉える見方だということを、単純かつ活き活きと描いたのだ。それまで生々しさや可愛さが先に立っていた生物とその進化に対する見方を、ガラリと変えたと言ってもよい。
そう、ドーキンスは昔から、「見方」を更新することに抜群のセンスを発揮してきたのである。『利己的な遺伝子』が世に出る前の、動物行動学の専門的な研究論文でも彼のこの資質はいかんなく発揮されている。目の付けどころが良いだけでなく、通説や一般常識のようになんとなく思われていることを、いやいやそうではないでしょ、と切れ味鋭くひっくり返す。決して力技で強引にというのではない。オセロの終盤、会心の一手で相手のコマがくるくるくるとひっくり返るような爽快感がある。
そのようなセンスに、これまた天才的な比喩やアナロジーの使い方が相まって、ドーキンスは動物行動学や進化論の最新知見に限らず、科学的な物の見方や考え方をわかりやすく解説するスターとして引っ張りだこになった。かつて天文学者のカール・セーガンが占めていた地位と役割を、分野は違うが引き継いだのはドーキンスだと言ってよいのではないか。
そこからさらに、ドーキンスの批判の矛先は宗教に向かった。2006年、神の存在を完膚なきまでに否定した『神は妄想である』(邦訳早川書房)を出版、これは欧米、とくにキリスト教信仰が今でも根強いアメリカでベストセラーになり大論争を巻き起こした(ヨーロッパ諸国の多くはアメリカに比べるとはるかに無宗教である)。
神の否定もダーウィン進化論の帰結のひとつなのだが、普通の進化学者はこのような宗教批判を積極的に展開したりはしない。だがドーキンスは、進化論と科学の伝道師として、宗教との関係を避けて通るわけにはいかなかった。アメリカでは、ダーウィンの進化理論を否定して神が地球上の生物を創ったという創造論を信じている人が、今でも大勢いるからだ。彼ら彼女らは公立学校の教科書に創造論についての記述を入れよと州政府に圧力をかける運動を起こし、実際アメリカのいくつかの州ではそういった教育課程を採用するという、日本では考えられないような事態が現実の出来事になっている。
このような状況に対してドーキンスは、同じ無神論を唱える哲学者や評論家たちと共同戦線を築き、アメリカでは差別される対象にもなりうる無神論者を支援する財団を立ちあげ、無神論普及活動を活発に展開している。創造論を唱えているアメリカの宗教の総本山を訪れて、いわば敵陣に乗り込んでいって対談をおこなったりもしている(YouTube に動画がある)。
『神は妄想である』を書いた直後は、「この問題を論じる本はこれが最初で最後だろう」という趣旨のことを言っていたのだが、おそらくドーキンスはさまざまな活動をおこなう中で、キリスト教原理主義の信仰と教団の性質を変えないことには進化論が社会に定着できない、それどころか場合によっては排除されてしまうかもしれないという危機感を抱いたのではないか。今になってみると、『妄想』は最後どころか彼の反創造論活動の始まりのマイルストーンだったことがわかる。
だが、ドーキンスたちの精力的な活動にもかかわらず、創造論者たちの勢力は一向に衰えない。それどころか、そのような科学的な批判を新たなエネルギーに変えて、よりパワーアップしているようにすら見える。本書の326ページでドーキンスは、アメリカの創造論者たちは生物学では勝ち目がないと判断して撤退し、宇宙論に戦線を移していると書いているが、だとしたらとてもうれしい話だけど、事態はそんなに楽観視できないのではないか。アメリカの一風変わった博物館をフィールドワークしたアメリカ研究者の矢口祐人は、創造論者たちが自説を宣伝するための自然誌博物館(と言ってよいのか?)を訪問し、その豪華さ、スケールの大きさと、すみずみまで「科学的」であろうとする展示や説明の巧みさを報告している(『奇妙なアメリカ──神と正義のミュージアム』新潮社、2014)。何より印象的なのは、その展示を作った創造論者たちのある種のまじめさと熱意である。これは、そう簡単に戦線を変えるような連中には思えないのだが。
さて、この本はそんなドーキンスの、先に挙げた『神は妄想である』の入門編である。本の出来としてはこっちの方が良いと思う。説明もくどすぎず(彼、時にくどくなりがち。次段落参照)、論旨はよりわかりやすく明快になり(これは元から超明快、切れ味抜群だがさらに一層)、具体例も印象的なものが効果的に取り上げられている。入門編ということで肩の力が良い意味で抜けている。あるいは『妄想』以降のさまざまな論戦、論争を通じて、ドーキンスも鍛えられたのかもしれない。科学伝道師としての腕前は一段と冴え渡っているように見受けられる。
思えばドーキンスはかなりの粘着質である。一見華麗で派手な空中戦好きのイメージがあるが、論争を巻き起こしてきた自説を擁護し、論敵の難点をひとつずつ丹念に批判し、じっくりと論理を積み上げていくその筆運びは、かなりのドーキンジアンであるぼくでも辟易することがある。『妄想』でも結構そういう箇所が散見された。なにもそこまでしなくても、と思ってしまう。
だがこの『神のいない世界の歩き方』は、もう少し軽やかだ。思い返せば、ドーキンスは昔からこういうスタンスのとき──論敵を論破するとか批判者への再反論をおこなうとかではなく、自分が言いたいことをわかりやすく解説するときの方が、持ち味がより発揮されていたようにも思う(デビュー作の『利己的な遺伝子』が典型例)。蒙を啓くことが何より大好きで、得意なのである。良くも悪くも、根っからの啓蒙主義者なのだ。
この本でドーキンスは何度か、科学は正しい知識を提供してくれるがそれを知ることが人間の幸せにつながるとは限らないと警告している。だから今でも多くの人たちが、「不都合な真実」の進化論を受け入れることに抵抗し、なんとなく心地よい神の存在にいつまでもしがみついているのだ、と。
科学の成果が必ずしも人に心地よくないというのは、本当にそのとおりだ。太字で強調しておきたい。氾濫する反科学や疑似科学やトンデモ科学の原因のひとつは、ここにある。昨今の新型コロナウイルス感染症の蔓延に際しても、嫌になるほどそういう事例を見てきた。ワクチンは害悪だとか、マスクはいらないとか。
ぼくはドーキンスほど厳しい知性の持ち主ではないので、少しは科学的でなくても人々が幸せを感じるなら、そっちの方が良い場合もあるだろうと思っている。血液型占いで合コンの席がなごんだり、夜の墓場の肝試しで夏合宿が盛り上がったって良いじゃないかと思うのだ。人は科学のみにて生きるにあらず。
だけど、それが勢い余って科学の恩恵まで否定するようになってしまったら、明らかに行き過ぎだ。一線を越えたもの、たとえば、反ワクチンには断固反対する。
この綱引き、あるいは人の感情と科学の理性のバランスを探る作業は、これからも、いたるところで問題になることだろう。それがぼくたち人間の宿命なのだ。
最終的に、そのどこで折り合いをつけ、科学の成果をどう使うかは、ぼくたちあなたたちの手に委ねられている。そしてドーキンスのこの本は、その折り合いの付け方の最良のお手本のひとつだ。
(ゴチック強調は編集部、傍点は原文)