【第2部刊行記念】〈キングキラー・クロニクル〉第1部『風の名前』の冒頭試し読み第1弾をアップ!
「解説者として断言する。『風の名前』は、指折りの傑作。」 大森望(第1巻帯より)
放浪の旅×親の仇×魔法学園×竜退治
映画&ドラマ化進行中の正統派本格ファンタジイ
全米大ヒットの王道的ファンタジイ巨篇、〈キングキラー・クロニクル〉、待望の第2部『賢者の怖れ』の第1巻が、5月1日より、全7巻7カ月でいよいよ刊行!
刊行に先立ち、第1部『風の名前』(全5巻)より第1巻冒頭第1章を試し読みのため2度に分けてアップします。
〈キングキラー・クロニクル〉とはどんなシリーズ?
作品紹介はこちらから。
【シリーズ紹介】映像化にサム・ライミ監督が名乗りをあげた《キングキラー・クロニクル》3部作とは? 第2部『賢者の怖れ』2018年5月より日本版刊行開始!
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〈キングキラー・クロニクル第1部〉『風の名前 1』
冒頭試し読み公開
パトリック・ロスファス著
山形浩生・渡辺佐智江・守岡桜 訳
序 三つの静寂
再び夜が訪れた。道(みち)の石(いし)亭は静寂の中にあり、その静寂には三つの沈黙が潜んでいた。
いちばんはっきりとわかるのは、そこにないものが作り出す、虚(うろ)のような反響する静寂。もしも風が吹いていたなら、風はため息のような音を立てて木々のあいだを通り抜け、腕木から下がる宿の看板をきしらせ、あとを追うように走る枯れ葉のごとく、道をかすめて静寂を運び去っていただろう。もしも宿に人が集(つど)っていたなら、それがたとえ数人でも、真夜中の居酒屋ではあたりまえの談笑、ざわめきやどよめきで、その静寂はうずめられていただろう。もしも音楽が流れていたなら……だが、もちろん音楽など聞こえてはこなかった。そういったものはいっさい存在せず、ただ沈黙が流れ続けたのである。
道の石亭の中では、二人の男がカウンターの隅で身を寄せ合っていた。気にかかる噂を深刻に論じ合うようなことは避け、黙ってひたすら酒を飲んでいた。そのため、小さく陰(いん)鬱(うつ)な沈黙がより大きく虚(うつ)ろな沈黙に添えられ、うまい具合に点景を作り出していたのである。
三番目の静寂は、すぐにそれとわかるものではなかった。一時間耳をすましていれば、足元の木の床や、カウンターの向こうに置かれたざらざらしてトゲのある樽の中に、やっと探りあてられるかもしれない。それは、炎が消えても長いこと熱を保っている、黒い石でできた炉の重みに宿っていた。それは、カウンターの木目に沿ってゆっくりと行ったり来たりする白い布の動きの中にあった。そしてそれは、カウンターのところに立ち、ランプの明かりに照らされてすでに光沢を放っている長いマホガニーの板を磨く、男の両手に宿っていた。
その男の髪の毛は深紅、炎のような赤。目は暗く、彼方を見るかのようだ。そして多くのことを知る者に備わった、節度ある迷いのない物腰。
道の石亭は彼のものであった。三番目の静寂が彼のものであるように。これは理にかなっていた。それは三つの静寂の中で最大の静寂で、ほかの静寂を包みこんでいたのだから。それは秋の終わりのように、底深く、どこまでも広がっていた。それは川の水でなめらかになった巨石のようにずっしりと重かった。それは、死を待つばかりの、辛抱強い、切り花の音のような男であった。
第一章 魔物たちの場所
伐(ばつ)曜夜のこと。常連が道の石亭に勢ぞろいしていた。五人では大勢とも言えぬが、近ごろ道の石亭では五人以上の客などお目にかかったこともない。そういうご時勢だったのである。
コブじいさんの役まわりは、物語を話して聞かせ、忠告を与えることだった。カウンターに向かう男たちは、酒を飲みつつ耳を傾けていた。奥の部屋では、宿を切り盛りする若い亭主が扉の陰に姿を隠し、笑みを浮かべながら、おなじみの物語が子細に語られるのに聞き入っている。
「勇者タボーリンが目を覚ますと、高い塔に閉じこめられとった。剣を取り上げられ、鍵、硬貨、蝋燭といった持ち物も、何もかもはぎ取られとっての。だがそれだけじゃあすまんかった……」コブはここで、気を持たせようとひと呼吸置いた。「……壁のランプがどれも青く燃えとったんじゃ!」
グレアム、ジェイク、シェップがうなずいた。三人は友だち同士で、コブの語る話を聞き、忠告を無視して、ともに成長してきた。
最近数少ない聞き手の中に加わり、ほかの三人よりも熱心に聞き入る鍛冶屋の見習いを、コブが間近に見据えた。「坊主、これがどういうことかわかるか?」その場のだれより十センチは背が高いのに、鍛冶屋の見習いはみんなに“坊主”と呼ばれていた。小さな町の常として、その名は当分そのままだろう。髭が生えそろうか、あるいは坊主呼ばわりをとがめて相手の鼻づらを血まみれにするまでは。
坊主はゆっくりと一つうなずいた。「チャンドリアンだ」
「そのとおり」とコブが応じた。「チャンドリアン。青い炎はやつらのしるしの一つだってことはみんな知っとる。するとタボーリンは……」
「だけどやつら、どうやってタボーリンを見つけたんだい?」と坊主が口を挟んだ。「それに、なんで殺せるときに殺しとかなかったんだよ」
ジェイクが答えた。「黙ってろ、最後まで聞けば全部わかるから。じいさんにしゃべらせとけ」
「ほっとけ、ジェイク」とグレアム。「坊主は知りたいだけなんだから。酒飲め」
「もう飲んじまったよ」とジェイクがぼやいた。「おかわりがいるのに、亭主は奥の部屋でまだネズミの皮はいでやがる」声を上げ、空(から)のジョッキをマホガニーのカウンターに打ちつける。「いよう! おれたち喉(のど)渇いてんだけどな!」
宿の亭主が、シチューを入れた器五つと、温かい丸いパンを二つ手にして現われた。そして、ジェイク、シェップ、コブじいさんに、きびきびと手ぎわよくビールを注いでまわった。
物語を中断して、男たちは食事に集中した。コブじいさんは、ひとり身で通してきた者特有の貪(むさぼ)らんばかりの勢いで、すばやくシチューを平らげた。ほかの者たちは、じいさんが自分のパンを食べ終えてまた物語を話し始めたときもまだ、器から立ちのぼる湯気を吹いていたのだった。
「それで、タボーリンは逃げ出そうとしたんじゃが、あたりを見まわすと、その部屋には扉がない。窓もない。あるのはつるつるした堅い石だけ。これまでだれ一人として脱け出すことのできなかった独房だったんじゃよ。
しかしタボーリンはあらゆるものの名前を知っとってな、あらゆるものは彼の命令に従ったんじゃ。石に“割れよ!”と言うと、石は割れた。壁が紙切れみたいに裂け、その穴からタボーリンは空を見て、かぐわしい春の空気を吸うことができた。縁に歩み寄り、見下ろすと、なんのためらいもなく空中に踏み出した……」
坊主が目を見開いた。「まさか!」
コブが真顔でうなずく。「そしてタボーリンは落ちていったが、絶望してはおらんかった。勇者は風の名前を知っていたから、風が彼に従っての。風に語りかけると、風はタボーリンをそっとかき抱(いだ)いた。風はタボーリンをひと吹きのアザミの冠毛が地面に着くときのようにそうっと運び、母親の口づけほどもやわらかく両足で着地させたんじゃ。
そして地面に降りて刺された脇腹を触ると、それが引っかき傷より軽いものだとわかった。運がよかったのかもしれないし」と、コブは心得たように自分の鼻の脇をちょんちょんと叩いた。「シャツの下につけていたお守りのおかげだったのかもしれん」
「お守りって?」と、シチューを口いっぱいに頬張ったまま、坊主が熱心に訊いた。
コブじいさんはこれで事細かに語れるぞとうれしがって、腰掛けの上で体をそらした。
「何日か前、タボーリンは道中で一人のよろず屋と出会った。タボーリンはほとんど食べ物を持っていなかったのに、その老人に食事をめぐんでやったんじゃよ」
「実に賢明なことだぜ」とグレアムが坊主に小声で言った。「だれでも知ってる。“よろず屋は親切倍返し”って」
「そりゃちがう」とジェイクがぶつぶつ言った。「正しく言いなよ。“よろず屋の忠告は親切の倍返しの値”だろ」
ここで宿の亭主が、その晩初めて口を開いたのである。カウンターの向こうの戸口に立ってこう語ったのだ。「それでは半分以上も抜かしてますね。
“よろず屋は返済信用石のごとし
通常取引は掛け値なし
無料(た だ)の助けは二倍返し
侮辱されたら三倍増し”」
カウンターの男たちは、亭主コートが立っているのを見て驚いた様子であった。みなはもう何カ月も伐曜の夜になると道の石亭へ通ってはいたのであるが、いまだかつてコートは一度たりとも口を挟まなかったのだ。もちろん、それもまったく無理のないことであろう。この町に来てからほんの一年ほどで、まだこの町の一員と思われてはいなかったのだから。鍛冶屋の見習いは十一歳からここに住んでいるが、いまだに“あのラニッシュの坊主”と呼ばれている。ラニッシュは五十キロも離れていない町なのに、それがどこかよその国だとでも言うように。
「一度聞いたことがあって」とコートは言って沈黙をかき消そうとした。明らかにきまり悪そうだった。
コブじいさんはうなずくと、咳払いしてまた語り出した。「さて、このお守りはバケツいっぱいの金貨ほども値打ちがあったんじゃがの、よろず屋はタボーリンの親切に感謝して、鉄の硬貨一枚、銅貨一枚、銀貨一枚だけで売ってやった。このお守りは冬の夜みたいに真っ黒で、氷みたいに冷たかったが、首にかけているかぎり、タボーリンには邪悪なものの危害は及ばん。魔物とかそんなのじゃな」
「近ごろなら、おれだってそういうものにだったら大枚はたくぜ」とシェップが陰鬱に言った。シェップはその夜だれよりも酒を飲み、だれよりも口数が少なかった。この前の焚(ふん)曜の夜に彼の農場でよくないことがあったのは周知のことだったが、気心の知れた友人たちなので、詮索しないほうがいいと心得ていた。少なくとも、まだ夜も浅いうち、互いに素面(しらふ)のうちは。
「ああ、そうじゃな」とコブじいさんが思慮深げに言い、ゆっくりとひと口飲んだ。
「チャンドリアンが魔物だなんて知らなかったよ」と坊主。「おれが聞いたのは……」
「魔物じゃない」とジェイクがきっぱり言った。「彼らはテフルが選んだ道を拒んだ最初の六人で、辺土をさまようようテフルが呪いをかけて……」
「この物語を語るのはおまえかね、ジェイコブ・ウォーカーよ」とコブが鋭く言った。「もしそうなら、このままおまえに先を語ってもらおうじゃないか」
二人の男はしばらくにらみ合っていたが、やがてジェイクが目をそらし、お詫びらしきものを口にした。
コブが坊主に顔を向け、説明した。「それがチャンドリアンの謎なんじゃよ。どこから来るのか。血なまぐさい行ないをやったあとでどこへ行くのか。魂を売った連中なのか。魔物か。霊か。だれも知らん」コブはジェイクに、心の底から蔑(さげす)むような視線を向けた。「まぬけどもはみんな、知っていると言い張るがの……」
物語をめぐって、さらに激しい口論になった。チャンドリアンの正体、注意深い者たちに存在を示すしるし、お守りは悪党や狂犬や落馬からもタボーリンを守るのか。やりとりが激しくなってきたところで、入口の扉がバンと開いた。
ジェイクが目をやった。「いいとこに来たよ、カーター。このバカに魔物と犬の違いを教えてやってくれ。だれでも知っ……」ジェイクは言葉を切り、扉に走った。「ご神体にかけて、どうしたんだ?」
明かりの中に踏み入ったカーターは、顔は青ざめ、血にまみれていた。古びた鞍敷(くら しき)を胸元にしっかり抱いている。それは、もつれた焚きつけ用の枝をくるんでいるように、不格好だった。
友だち連中は、その姿を見るなり腰掛けから飛び出して駆け寄った。「だいじょうぶだよ」とカーターが、のろのろと部屋の真ん中に進みながら言う。怯えた馬のように狂った目をしている。「だいじょうぶ。だいじょうぶだから」
包みになった鞍敷を近くにあったテーブルに落とすと、それは石が詰まっているように強く木を叩いた。カーターの服には、長くまっすぐな切りこみがいくつも十字に交差していた。灰色のシャツがぼろぼろになってだらりと下がっていた。赤黒く体に粘りついているところをのぞいては。
グレアムがカーターを椅子に促そうとした。「なんてことだ。座れよ、カーター。何があったんだ? 座りなよ」
カーターはかたくなに首を振った。「言っただろう、だいじょうぶだって。そんなにひどくないから」
「相手の数は?」とグレアム。
「一。だけどおまえが思ってるのとは違う……」
「まったく。だから言わんこっちゃない、カーター」とコブじいさんが、親戚や親しい友人だけが見せる、怯えて怒ったような様子でまくしたてた。「あれほど言って聞かしたじゃろが。一人で出かけちゃいかんって。バーデンくらいでも。危ないって」ジェイクはじいさんの腕に片手を置き、なだめた。
「とにかく座れよ」とグレアムが言い、またカーターを椅子に座らせようとした。「シャツを脱げ。体を洗ってやる」
カーターがかぶりを振った。「平気だよ。ちょっと切られたけど、血はほとんどネリーのだから。あいつがネリーに飛びかかったんだ。町から三キロはずれたとこの、古石橋を過ぎたあたりでネリーを殺した」
その報告に、深刻な沈黙が流れた。鍛冶屋の見習いが同情し、カーターの肩に片手を置いた。「くそう。つらいな。羊みたいにおとなしい馬だったのに。蹄鉄(てい てつ)をつけるのに連れられてきたときも、絶対にかんだり蹴ったりしなかった。町でいちばんの馬だよ。くそう。おれ……」言葉をなくす。「くそう。なんて言ったらいいのかわかんないよ」力なくあたりを見まわす。
コブがようやくジェイクの腕を振りほどいた。「言わんこっちゃない」と繰り返し、カーターに向かって指を一本振る。「このところはした金のために殺す輩(やから)が出没しとる。馬や荷車を手に入れるためならなおさらだ。これからどうするつもりだ? 自分で荷車を牽(ひ)くのか?」
しばらく間が悪いほどに静かになった。ジェイクとコブがにらみ合っているあいだ、ほかの者たちは途方に暮れて、友だちをどうなぐさめたらいいのかわからない様子である。
亭主が沈黙の中を注意深く動いた。両手いっぱいにものを抱え、すばやい足取りでシェップのまわりを歩き、近くのテーブルにものを並べ始めた──お湯を張った器、裁(た)ち鋏(ばさみ)、清潔な布、ガラス瓶数本、針とてぐす。
「そもそもわしの言うことを聞いとったら、こんなことにはならなんだ」とコブがつぶやいた。ジェイクが黙らせようとしたが、コブは払いのけた。「本当のことを言ってるだけじゃ。ネリーはかわいそうなことをしたが、これで言うことを聞かなきゃこいつも死ぬぞ。そういう男どもを相手に、二度まで運よくいくわけがない」
カーターが唇を引き締め、血だらけの鞍敷の端に手をかけ、引っ張った。中のものが一回引っくり返り、布をこすった。またいちだんと強く引っ張ると、テーブルの上で、平たい川の石が入った袋が引っくり返ったような音がカタカタと鳴った。
それは、荷馬車の車輪ほども大きく、粘板岩(スレート)ほども黒い一匹のクモであった。
鍛冶屋の見習いは後ろに飛びのき、体をテーブルにぶつけて倒し、自分も床に倒れそうになった。コブの顔が呆(ほう)けたようになった。グレアム、シェップ、ジェイクは、驚いて言葉にならない声を上げ、離れ、手を顔に持っていった。カーターが一歩下がったが、それはほとんど痙攣のようだった。部屋に、冷や汗のような沈黙が満ちた。
宿の亭主が眉をひそめ、「まだこんな西まで来ているはずがない」とつぶやいた。
静まり返っていなければ、だれにも聞こえなかっただろう。だが聞こえた。みんな目をテーブルの上の物体(も の)から離し、びっくりして赤毛の男を見つめる。
ジェイクがまず口を開いた。「こいつがなんなのか、知ってんの?」
亭主の目は、遠くを見ていた。「スクラエルだ」と上の空で言う。「信じられん。山があるからこんなことは……」
「スクラエルだと?」とジェイクが口を差し挟んだ。「黒焦げのご神体にかけて、コート。この手の代物を見たことあるのか?」
「え?」赤毛の亭主が、いきなり我に返ったように鋭く目を上げた。「あ。いや。いいえ、もちろんありません」その黒っぽいもののすぐ近くにいるのは自分だけだとわかり、一歩適度な距離まで下がった。「聞いたことがあるんですよ」全員、亭主を見つめる。「二旬間(じゆんかん)ほど前にやって来た商人を覚えていますか?」
全員がうなずく。「あの野郎、二百グラムちょっとの塩に十ペニーふっかけようとしおった」とコブが思い返し、これで百回目かというほどそれについて文句を言った。
「いくらか買っておけばよかったな」とジェイクがつぶやくと、グレアムが無言でうなずいた。
「あいつは薄汚いケチじゃよ」とコブが得意のせりふを持ち出して吐き捨てた。「品不足の時なら二は払ってもいいが、十なんてぼったくりじゃ」
「ああいうのがそのへんにもっとはびこってんならそうでもないぜ」とシェップが陰気に言った。
全員がまたテーブルの上のものに目をやった。
「メルコムの近くでそれのことを耳にしたと商人が言っていました」とコートが、テーブルの上にあるものを観察しているみんなの顔を見ながら、早口に言った。「そういう話で値段をつり上げようとしているのだろうと思いました」
「何かほかに言ってた?」とカーター。
亭主は少し考える様子をしてから、肩をすくめた。「話を全部聞いたわけじゃない。商人が町にいたのは二時間ほどでしたから」
「クモはきらいだ」と鍛冶屋の見習い。見習いはずっと、テーブルから五メートルほど離れた反対側にいた。「覆いをしてくれよ」
「クモじゃない」とジェイク。「目がねえもん」
「口もない」とカーター。「どうやって食べるんだ?」
「何を食べるんだ?」とシェップが陰気に言った。
亭主は興味深げにそれを見つめ続けた。体を寄せ、片手を伸ばす。全員がさらにじりじりとテーブルから離れた。
「気をつけて。そいつの脚、ナイフみたいに鋭いんだ」とカーター。
「というよりかみそりのようですね」とコート。長い指で、スクラエルの黒く特徴のない体をさっとなでる。「なめらかで硬い。陶器のように」
「手を出しちゃだめだって」と鍛冶屋の見習い。
亭主はなめらかな長い脚の一本を注意深く手に取り、両手で枝のように折ろうとした。「陶器ではありませんね」と訂正する。それをテーブルの端に置いて体重をかけると、パキッという音を立てて折れた。
「石に近い」カーターを見上げる。「どうやってこんなにひびが入ったんです?」なめらかな黒い体の表面に細かく入ったひびを指さした。
「ネリーがそいつの上に倒れたんだ」とカーター。「そいつが木から飛び出して、ネリーの上を這いまわって、脚で切りつけたんだ。ものすごい速さだから、何が起きてるのかわからないくらいだったよ」カーターはグレアムに強く促されて、ようやく椅子に身を沈めた。「ネリーが引き具にからまって、そいつの上に倒れて、そいつの脚を何本か折った。するとそいつはぼくに向かってきて、襲いかかって体じゅう這いまわったんだ」血まみれの胸の前で腕を組み、身震いする。「どうにか払いのけると、思いきりそいつを踏みつけた。そしたらまた襲いかかってきて……」言葉が消えていき、顔が青ざめる。
亭主は、うなずきながらそれをつつき続けた。「血はない。器官もない。中は特徴がない」一本の指でそれをつつく。「キノコのように」
「偉大なテフルにかけて、放っておきなよ」と鍛冶屋の見習いが切に頼んだ。「クモって、殺したあとにピクピク動くことがあるんだぜ」
「何を言っとるんだ、おまえらは」とコブがぴしゃりと言った。「クモはブタみたいにでかくはならん。これはな」一人ひとりと目を合わせる。「魔物だよ」
みんな壊れたものを見つめた。「え~、やめてくれよ」とジェイクがほとんどいつもの癖(くせ)で異議を唱えた。「そんなんじゃ……」あやふやな動作をする。「だってまさか……」
だれもがジェイクが何を考えているかわかっていた。この世に魔物たちがいるのは確かだ。でも魔物たちはテフルの天使と同じような、英雄や王と同じような存在でしかない。物語の世界にしかいない。あっちにいる。勇者タボーリンは、炎と稲妻を呼び出して魔物を滅ぼした。テフルは手の中で魔物を砕き、怒号とともに恐ろしい虚空に葬った。魔物というのは、幼なじみがバーデン・ブライトへの道すがら踏みつけて殺すようなものではないはずだった。ありえない。
コートは片手で赤毛をかき上げると、沈黙を破った。「確かめる方法はあります」と片方のポケットに手を入れる。「鉄か火です」ふくらんだ革の財布を取り出す。
「そして神の御名(み な)」とグレアム。「魔物が恐れるものは三つある──冷たい鉄、混じり気のない火、神の聖なる御名」
亭主の口が一文字になったが、渋い顔をしたわけではない。「そのとおりですね」と言うと、財布の中身をテーブルに空け、ごちゃまぜになった硬貨を指でより分けた。重いタラント銀貨、薄いビット銀貨、ジョット銅貨、欠けた半ペニー銅貨、ドラブ鉄貨。「どなたかシムをお持ちですか?」
「ドラブを使えばいいじゃないか」とジェイク。「まともな鉄だよ」
「まともな鉄はいりません」と亭主。「ドラブには炭素が含まれすぎている。ほとんど鋼です」
「そのとおり」と鍛冶屋の見習い。「ただし炭素じゃないけどね。鋼をつくるにはコークスを使うんだ。コークスと石灰」
亭主が坊主に向かって丁重にうなずいてみせた。「若だんな、あなたの言うことなら間違いないでしょう。ご商売ですから」
硬貨の山から長い指でようやくシムを見つけ、それを掲げる。「ありました」
「そいつを使うとどうなんの?」とジェイク。
コブの声は自信なさそうだった。「鉄は魔物を殺すんじゃよ。でもこいつはすでに死んどる。何も起こらんかもしれん」
「確かめる方法は一つ」亭主は、相手を測るようにそれぞれと一瞬目を合わせた。それから決然とテーブルに戻ると、全員がさらにじりじりとあとずさりした。
コートがその生き物の黒い脇腹のあたりにシム鉄貨を押しつけると、熱い火の中で松の丸太が弾けるように、短く鋭いパチパチという音を立てた。全員がびっくりしたが、黒いものがそのまま動かないのでほっとした。コブたちは、怪談を聞いて怯える子どものように、不安そうに笑みを交わした。その笑みも、腐りかけた花と燃える髪の毛のような甘い刺激のある匂いが部屋を満たしていくにつれ、こわばっていった。
亭主が、カチッという音を一つ立ててテーブルにシムを押しつけた。「さて」と前掛けで両手をぬぐう。「これでいまの話は片づいた。さあどうしましょうか」
第一章後半に続く(5月27日アップ)