原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第24章
ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。
刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。
本日は第24章を公開。
『そして夜は甦る』(原尞)
24
ライフル銃を手にした四人のタキシード姿の男たちが、地下駐車場に停めた大型車に乗り込み、外科医のマスクのようなもので覆面をする。ボスらしい運転席の男がエンジンをスタートさせ、車をバックさせる。駐車場を出るのかと思っていると、ギアを前進に切り換え、猛烈な勢いで駐車場の壁に激突させる。車のフロント部分がコンクリートの壁を突き破って、半壊させる。運転席の男は再び車をバックさせ、二度、三度と壁にぶち当てる。ついに壁は車が通るのに十分な穴を開け、彼らの大型車は悠々と隣りのビルに侵入する……
意表を衝くシーンで、十年ばかり前に観た映画だった。
「これ以上時間をむだにしたくない」レインハットの男は私の右隣りの座席で言った。二十代後半のがっしりした体格の男は左側に坐って、相変わらず私の脇腹に気分の悪いものを押しつけていた。女は私の前の座席で、首だけうしろにまわしていた。三十才前後の小柄な女で、清和会の橋爪が目撃した女と違って、髪をカールさせていないし、黒ずくめの服装でもなかった。最近の女性に、前日と同じ髪型や同じ服装を期待するほうが間違っている。彼女は赤茶色の革のハーフコートにジーンズ、若い男は濃紺のピーコートを着ていた。
私たちは場内の最後列の右の隅にいた。学生街の映画館は平日のこの時間は客席もまばらで、私たちの近くに人影はなかった。
「お宅は、昨夜の海部雅美の電話に出た人かね」と、レインハットの男が訊いた。「佐伯直樹氏の〝協力者〟という人物かね。つまり、お互いの利益のために話し合いのできる条件を備えた相手かね」
私は正直に答えることにした。「答えはイエス、ノー、クエスチョン・マークだ。訊かれた順にね」
レインハットの男は前の座席の女と顔を見合わせた。暗い場内でも、女がちょっと斜視ぎみの大きな眼をした瓜ざね顔の美人であるのが分かった。
「すると、お宅は昨日の電話で嘘をついたことになる」彼は腹を立てている様子もなく言った。
「はからずも」と、私は言った。
「海部雅美というのが電話に出た女性の名前だとすると、佐伯氏が協力者と呼んでいる、例の人物の名前は?」
「それは言えない」
「知らない、じゃないだろうね?」
私は答えなかった。嘘をつくよりも黙っているほうが見抜かれにくいものだ。
「お宅は一体何者なのかね」と、彼は訊いた。ピーコートの男が上体をぐっと近づけると、私は脇腹に針の先が当たるような不快な痛みを感じた。彼のポケットにあるのはナイフではなく、たぶんアイスピックのようなものに違いない。
「沢崎──渡辺探偵事務所の沢崎という者だ」と、私は言った。「すでにお聞き及びだと思うが」
レインハットの男は女をちらっと見た。そして、白髪混じりの口ひげを指先で撫でながら言った。「恐れ入るね。お宅がそんな有名人だとは知らなかった。私たちは探偵に知り合いなどないが」
「よしてくれ」と、私は言った。「私の事務所から海部雅美の電話番号を失敬していったのは、こちらの美人に違いない。それに、今朝私を事務所から尾行したレイ・バンのサングラスの男がどうなったか、知りたくはないか」
三人はまったく何の反応も示さなかった──むしろ、不自然なくらいに。レインハットの男が落ち着いた口調で言った。「何のことだか解らないな。どうも私は人に誤解されやすい性質でね。何か不都合なことが起こると、人は決まって私を振り返る……困ったものだ」
彼はレイ・バンのサングラスの男から足がつく心配はないと確信しているのだろう。私は見当違いをしているとは思わなかった。
彼は身を乗り出した。「そんなことより、お宅がクエスチョン・マークだと答えた件について話し合いたいね」
「いいだろう」と、私は言った。「私の神経はいま左の脇腹に集中しているから、ろくな話はできそうもないがね」
彼が合図すると、ピーコートの男は私から少しだけ上体を離した。
「さて、お宅は佐伯氏が協力者と呼ぶ人物について何を知っている? まずそれから聞かせてもらいたいね」
私はうなずいた。答えは慎重を期すべきだった。こうなっては、佐伯が掴んでいたことを私も知っていると思わせたほうが、佐伯の安全に役立つような気がした。
私は言った。「佐伯氏が協力者と呼ぶ男は、今年の七月十二日にある人物の狙撃事件に加担した疑いがある。狙われた人物は危うく一命を取り止めた。警察はその事件の犯人はすでに逮捕し死亡したと判断しているが、死亡した男は単なる共犯者にすぎないのかも知れない。佐伯氏が協力者と呼ぶ男に事件の真相を語らせることができれば、あの狙撃計画の詳細とその首謀者の名前を知ることができるかも知れない。逆に彼の口を永久に封じれば、狙撃事件は警察の見解のままで決着がつく……いずれにしても、狙撃事件の首謀者──もし、そういうものが存在するなら──彼にとっては大いに気のもめる話だろうな」
三人はしばらく黙ってお互いの顔を見つめ合った。レインハットの男は一度私の顔を見たが、すぐに視線をそらして考え込んだ。
スクリーンから哀愁のある音楽が流れている。タキシード姿の男たちの一人が、灰色に塗り変えた消防自動車のスイッチを入れると、梯子が音楽の口笛に合わせたように水平に伸びて行く。高層ビルの十数階にある駐車場で、梯子の先端は開け放された窓を抜け、地上七、八十メートルの空中をスルスルと伸びて、道路を隔てた向かいのビルの窓の一つに到達する。男たちはライフル銃を手に、梯子づたいに目的の場所──モントリオール警察の中の病棟に襲撃をかける……
レインハットの男がようやく口をきいた。「お宅は佐伯氏とは面識があるのかね」
「私は佐伯氏には会ったこともないし、話をしたこともない。しかし、共通の知人がいる」
「なるほど。それは誰かね」
私は首を横に振った。「ご要望通り、佐伯氏の〝協力者〟についてはすでに答えた。話を先に進めてくれないか」
レインハットの男は前の座席の女に言った。「仕方がないようだな。こっちの知りたいことを都合よく喋ってくれる男でもなさそうだ。ここはお互いに協力し合ったほうがいいかも知れない」彼女の大きな眼にかすかに不安の色が浮かんだが、口は出さなかった。
彼は私に視線を戻した。「佐伯氏もお宅が言ったのとほぼ同様の説明をしてくれたよ。飽くまで臆説にすぎないが、非常に信憑性のある臆説だと思う。しかし、佐伯氏は一つ大きな間違いを犯している。昨夜の電話でも言ったが、彼はどういうわけか私を狙撃事件の首謀者、あるいは首謀者に通じる人間だと考えているのだ。だから、彼の〝協力者〟とも当然旧知の間柄だと思い込んでいる」
「違うのか」と、私は訊いた。
「もちろんだよ。昨夜の電話でも分かるだろう。旧知の人間にどうしてあんな話し方をしなきゃならない。旧知の人間の声と、会ったこともない探偵の声の区別もつかずに、新宿までのこのこと会いに来る馬鹿もいないだろう」
「旧知の人間になりすましているのは一体何者かと、確かめに来たのかも知れない」
彼はゆっくりと頭を振った。「とにかく、佐伯氏の協力者なる人物に会えば何もかもはっきりすることだよ。こんな所でむだな時間を費やしているのもそのためだ。私たちが知りたいのは、肝腎のその人物に会う段取りを、お宅がつけられるかどうかということだ」
「然るべき時間を与えてくれれば、ご要望にお応えできると思う。だが、その人物をあんた方に引き合わせた途端に、例えばこのピーコート氏のポケットの中身が、彼の心臓に突き立てられて口を塞いでしまう、などということが起こらない保証が必要だ。それでは、昨夜電話で聞いた報酬を考慮に入れても、仲介者として少々寝覚めが悪いからな。佐伯氏があんた方を狙撃事件の首謀者ないしは関係者と誤解あるいは正解したのには何か根拠があるはずだ。その理由を聞かせてもらわないと、迂闊に仲介の労はとれないね」
「困ったな。そこは信用してもらうしかないね」
「そうはいかない。私なりにあんた方の立場を推測してはいるよ。だが、あんたの口からはっきりしたことを訊いておきたい」
「ほう。私たちはどんな立場にあると言うんだね」
「例えば、狙撃事件にはあんたのコウモリ傘と雨みたいに無関係かも知れないが、もう一つの〝怪文書事件〟にはどっぷり首まで関わっている」
三人が緊張したのが判った。レインハットの男はしばらく考えてから言った。「私たちはどんな犯罪にも無関係だよ。だが、ここにある男がいる。仮にXと呼ぼう。Xと彼の仲間は、財力を持ったある人物の依頼で仕事をした。ある選挙のある候補のスキャンダルを暴いた怪文書の印刷と配布──それがその仕事だ。誓ってそれだけなのだ。あとは選挙の結果を待つだけだった。ところが予想もしないことが生じた。その第一は、怪文書の中に書かれている女性の弟が登場して狙撃事件を起こしてしまったこと……Xたちの驚きは想像できるだろう?」
「狙撃事件に無関係ならな」と、私は言った。
「もしその弟がXの仲間なら、怪文書の内容が事実無根であることを知っているわけだから、姉のためにあんな行動を取るはずがない。そうだろう?」
私は話の先を聞くために、うなずいた。
「その弟の背後に、もし頭脳的な首謀者がいるとすれば、彼が狙撃事件をXたちに押しつけるためにどんな手を打っているか想像もつかない。Xたちはそれを非常に恐れていた。ところが、何事もなく夏は過ぎ、秋も終わろうとしていた。予想もしないことの第二は──」
「佐伯氏の登場か」と、私は言った。
「その通り。彼は怪文書の女性の愛人の線から、Xにたどり着いたようだ。そして、Xに接触すると、例の弟は狙撃事件の共犯者にすぎず、本当の狙撃者は別にいて、自分はその男を押さえている、と告げた。つまり、彼の〝協力者〟のことだ。しかも、その狙撃者の背後にいるのがX及び怪文書の依頼者だと主張するのだ。もちろん、Xは否定した」
「狙撃者に訊けば誰が本当の首謀者か分かるはずだ、と言ってやらなかったのか」
「言ったさ。だが、佐伯氏は「狙撃者はまだ自分が彼の正体に気づいていることを知らない、それを知られたら彼は行方をくらましてしまうに違いないから」と言うのだ。Xは方針を変え、狙撃者の身柄を引き取るための条件を訊いた。佐伯氏は狙撃事件の首謀者の名前と引き換えに彼を引き渡すと言う。Xは首謀者の名前など知るわけがないのに、だ。それはできないと答えると、彼は今度は一億の金を要求して来たんだ」
「おかしいとは思わなかったのか。いやしくもジャーナリストである彼が、現金を要求するなんて」
「そう……しかし、一億という金はどんな人間がどんな人間に豹変しても不思議ではない金額だよ。Xと怪文書の依頼者は相談の上で、佐伯氏に一億支払うことに決めた。狙撃者を手中にすれば自分たちが狙撃事件に関して潔白なことは証明できるし、狙撃事件の全貌を明らかにできれば一億の金はそれほど高くはない。もちろん、怪文書の件の口止め料も含まれる。眼の上のこぶの佐伯氏を、とりあえずおとなしくさせられる。そのまま取引が成立していれば問題はなかったんだ」
「佐伯氏の目的はほかにあった」
「そういうことだ。一億円を要求することによって、Xが狙撃事件の首謀者と接触するはずだと思い込んで、監視していたのだ。迂闊にも、Xたちは怪文書の依頼者の正体を佐伯氏に知られてしまった」
「それはいつのことだ?」
「先週の木曜日の午前中だった。佐伯氏の計画は、狙撃者を警察に引き渡した上で、一億円を証拠に、怪文書の依頼者およびXを狙撃事件の首謀者としても訴えるつもりなのだ。Xたちは一億円の支払いを中止して、佐伯氏の身柄を拘束せざるをえなくなった」
「佐伯氏のあんた方に対する誤解はとけないのか」
「Xたちに対する、だろう? 拘束されてからは、ますます誤解を深めるばかりだよ。そういう次第で、Xたちとしては狙撃者を手中にして、佐伯氏立ち会いのもとに狙撃事件の真相を明らかにするしかほかに方法がないというわけなのだ」
レインハットの男は疲れた顔をして、大きく肩で息をした。相当入り組んだ話ではあるが、一、二の疑問点を除いて筋は通っているように思われた。
スクリーンでは、タキシード姿の男たちがギャングたちと取引をしようとしている。警察の病棟から奪って来た証人──実は仲間の女の偽装──と、巨額の身代金を交換するのだ。計画通りの銃撃戦となり、ギャングたちを倒して大金を手に入れる。だが、死んだと思っていたギャングの一人が撃った銃弾が、ボスの脇腹に命中して……
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