そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第17章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第17章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

17

 記憶喪失者にとって、自分の過去を知るための手掛りとして、これほど厄介な所持品はほかにあるまい。七百万円の札束と拳銃──この二つから彼の〝失われた過去〟を推測するとなると、楽観的にみるか悲観的にみるかで、まさに天と地ほどの差があった。
 彼は単に裕福な警察官だったのかも知れない。物騒なおまけ付きで大金を盗んだ鞄泥棒かも知れない。大金を所持しているので用心深くなり過ぎた凶器不法所持者かも知れない。賭博のあがりを集金してきた暴力団員かも知れない。売れ残りが一挺だけという腕のいい拳銃密売人かも知れない。逃走中の銀行強盗かも知れない。あるいは、その拳銃をすでに最大限に活用した殺人者なのかも知れない……。病院のベッドでアタッシュ・ケースの中身に眼を奪われている男の脳裏にも、これらのいささか歓迎しかねるイメージが次々に浮かんだはずだった。
 海部雅美は、淹れたてのコーヒーをテーブルに運びながら言った。「あの人は一晩中考え続けたわ。助けを呼んで自分の運命を他人の手に任せてしまうか、とりあえず拳銃を隠して様子を見るか、病院を抜け出して失った記憶を自分の手で取り戻すか……彼がどの道を選んだかはすでにご存知ね」
 私は自分のコーヒーを受け取った。事務所の廊下で彼に初めて会ったときの、彼の憔悴した様子が思い出された。
「最も困難な道を選んだ彼の勇気には敬服するが、ことは彼の思惑通りには行かなかったようですね」
「ええ。あの人は、わたしに打ち明けた時には、一人で調べられることは大概調べ尽くしていたようだわ。新聞記事は最近のものから一年以上もさかのぼって眼を通し、行方不明の警察官や未解決の強盗事件などを調べている。暴力団に関係のある恐れもあるので、盛り場でそういう人たちに酒をふるまって噂話を聞いたり、それらしい行方不明の組員がいないかと訊ねたりしているわ……そういえば、都知事選のときの狙撃事件は時期的に近いので、あるいはと思ったらしいのよ。だけど、犯人はとうに逮捕されて事件は解決しているから、まったくの見込み違いだったわ」
 真夏の夜の全都を騒がせ、新聞の紙面を賑わせたその狙撃事件は周知のことだが、私の記憶では狙撃犯人は彼女の言うように逮捕されたわけではなかった。事件は投票日の二日前、立川駅頭で演説中だった保守系の向坂候補が車中から狙撃されたもので、犯人はそのまま現場から車で逃走しようとした。しかし、直ちに追跡を開始した警察の手で、わずか十分後には隣接する日野市を流れる浅川べりに追い詰められた。警官隊のバリケードを突破しようとしてガードレールに激突した犯人は、車ごと川の中に転落し、逮捕されたときは頭部を強打してすでに死亡していたのだ。狙撃された向坂候補は心臓に近い左肺に銃弾を受けて、一時は危篤と報じられたが、投票日前夜に行なわれた手術で奇蹟的に一命を取り止めた。しかも、三選を狙っていた革新系の矢内原候補との激戦の末、見事に都知事の椅子を獲得したのだった。時期的に接近しているといえば、狙撃事件が確か七月十二日、投票日だった十四日の日曜日が〈府中第一病院〉に例の患者が入院した日で、翌十五日に無断退院している。しかし、犯人の死亡で事件が事実上解決したと報道されていることは確かだった。
 彼女は溜め息をついた。「あの人は、何か手掛りを掴んでもあまり積極的な行動を取れない場合が多いのよ。その男は私に似ていませんでしたか──そうは訊けないような手掛りばかりですからね。時間と手間のかかる遠回りな調べ方をしなければならないので、あの頃は自分ひとりの力ではどうにもならないと考えはじめていたようだわ」
 私はコーヒーを飲んで、催促される前に三本目のタバコに火をつけた。「彼が佐伯氏に初めて会ったのはいつですか」
「あの人が記憶をなくしていることをわたしに打ち明けた、あの夜のことなの。ちょっとした勘違いが二人を結びつけることになったのよ」
「勘違い?」
「ええ。あの夜、彼はゲーム機賭博のあがりを持ち逃げした暴力団員の噂を聞いて中野まで出かけたんだけど、そっちは全くのむだ足だったの。彼は中野駅の近くの小料理屋に入って、ビールを飲みながら食事をしていたそうだわ。すると、あとから店に入って来た三十才ぐらいの男の人が、彼にちょっと頭を下げて挨拶しかけたかと思うと、いや、人違いかなって顔で離れた席に坐ったらしいの。普通の人ならよくあることですませられるでしょうけど、彼にとっては大変なショックだった。分かるでしょう?」
「食欲の増進するような状況じゃないね」
「あの人は早めに店を出ると、その男が出て来るのを待ってあとを尾けたの。男があるマンションへ入ったことは突きとめたけど、何階のどの部屋に入ったのか分からなかった。男がそのマンションの住人ではない場合も考えて、ずっと出入口を見張り続け、とうとう明かりが全部消えるまで待ってから引きあげて来たらしいわ。だから、あの夜はあんなに帰りが遅くなってしまったのよ」
「三階の三〇三号だった」と、私は言った。
「そう。元新聞記者でルポ・ライターの佐伯直樹という人だと分かるまで、まる二日かかったそうよ。あの人は、中野の小料理屋でのことをどうやって確かめたらいいかいろいろ思案したらしいけど、直接本人に訊いてみるしか方法がないので、佐伯さんのマンションを訪ねることにしたわ。でも、佐伯さんがあの人に挨拶しかけたのは、彼によく似た古い知り合いと勘違いしたからだということが分かったの……ところが、今度は佐伯さんのほうがあの人に、これは何かいわくのある人間ではないかと興味を持ってしまったらしいの。佐伯さんの職業柄、当然のことかも知れないわ。それから数日は、お酒を飲んだりしてお互いに相手を探るような付き合いが続いたようだけど、結局あの人は自分が記憶をなくしていることを佐伯さんに打ち明けることにしたの。ひとりではもうどうにもならないと思っていたし、この人なら信用できると思ったんでしょうね。札束のことや、特に拳銃のことを話したのは、もっとずっと後のことだけど……」
 彼女はコーヒーを一口すすって、付け加えた。「あの人は、わたしをトラブルに捲き込みたくないと言って、いまだにわたしのことやこのアパートのことは佐伯さんに内緒にしているわ」
「彼と佐伯氏のあいだには、何か取り決めのようなものがあったのではないですか」
 彼女はうなずいた。「佐伯さんの条件は、すべてが明らかになったときは〝ある記憶喪失者の記録〟としてまとめたルポを発表させること……あの人が出した条件は、もし自分が犯罪に関わっていた場合は、自首するか逃亡するかの選択の余地を与えてくれること──それで、二人は〝協力者〟として手を打ったんです」
「なるほど。協力者ができて、何か成果がありましたか」
「あの人が自分では白黒をつけられなかった手掛りに、はっきり結論を出してもらえたわ。結果はどれも彼の過去とは関係のないものだったけど……でも、そんなことより、彼にとっては自分の悩みを知っている人が現われて、相談相手ができたということがとても大きかったと思うわ。そういうことは、女のわたしではどうにもならないものだから……ひとりで走りまわっていたときに較べると、落ち着きや余裕が感じられるようになった。しばらく前から、あの人は断片的なことを少しずつ思い出せるようになっているわ」
「どんなことを思い出しました?」
「最初はタバコのことだった。そのことは話したわね。自分ではタバコは喫わないものだと思っていたのに、その日はなぜか急に喫いたくなって、気がつくとそのタバコを買ってむさぼるように喫っていたって言うの。佐伯さんは、そのフィルターの無いタバコはどんな銘柄でも構わない者が喫うタバコじゃないから、おそらく以前はそのタバコを喫っていたのじゃないかって」
「ほかには?」と、私は訊いた。
「病院を抜け出したあと、あの人は競馬場や厩舎のそばを歩いた記憶があると言うの。佐伯さんの話では、府中競馬場のことらしいわ。病院については、調布のわたしの店の周辺にあるものを何軒か調べただけで諦めていたの。隣りの府中なら可能性が高いので、競馬場周辺の病院に佐伯さんが自分の名前を使って探りの手紙を出したそうだわ。電話で調べようとしたら、そういう問い合せは病院に出頭していただかないとお答えできないと言うので、仕方なく手紙で反応をみることにしたと聞いたわ」
 その返事の一つが私のポケットに納まっていたが、今は伏せておくことにした。
「ほかには?」と、私は重ねて訊いた。
「あなたは、あの人の右手の指のことはご存知かしら?」
「ポケットに隠して見せたがらないことなら」
「右手の人差し指の第二関節から先がなくなっているからなの。その原因は銃の暴発のような気がすると、あの人は言っている。そういう夢にうなされて、少なくとも三度は夜中に飛び起きたことがあるそうだわ。単なる夢にすぎないかも知れないけど、それにしては暴発の瞬間に指がなくなる感じが夢とは思えないような実感があったそうよ」彼女はまるで自分の指がなくなったように苦痛で顔を歪めた。
「ほかには?」と、私は三度訊いた。彼の取り戻した断片的な記憶はそれだけだと、彼女は答えた。
 私は念のために訊いた。「佐伯氏が彼の記憶喪失のこと以外に、何かの調査をしているということは聞いていませんか」
「それは分からないけど、あの人からそういう話を聞いたことはないわ。わたしの感じでは、佐伯さんは彼のことにかかりっきりだったような気がするけど」
「彼が最後に佐伯氏と会ったのはいつだろう?」
「二十日の水曜日の夜……だと思うわ。その翌日から佐伯さんとは連絡が取れなくなって、あの人が心配しはじめたので憶えているの」
「何のために、どこで会ったのか分かりますか」
「あの人が競馬場のことを思い出してから、調布から府中にかけてのあのあたりを一度車で一緒に走ってみよう、という案があったの。水曜日の夜、それを実行するから遅くなるって、彼がわたしの店に電話をかけて来たわ。九時頃だったかしら。これから中野へ行って佐伯さんと合流すると言ったの」
 佐伯名緒子が、八王子方面へ行くと言う佐伯直樹にマンションの前で会ったのは、その夜の十時頃だった。佐伯のマークⅡの助手席に坐っていたのは、やはり海部と名乗った男だったことになる。
「彼が帰って来たのは何時でした?」
「もう四時近くで、明るくなる時分だったわ」
「何か成果はあったんですか」
 彼女は頭を振った。「見憶えがあるような気がする所はいくつかあったようだけど……」
「見てまわったのは調布と府中の周辺だけですか」
「いいえ、甲州街道をもっと西のほうまで足を伸ばして、日野から八王子付近まで行ったらしいわ」彼女の口調には非難がましい響きがあった。「とにかく、あの人は帰って来たときは酷い頭痛に苦しんでいて、翌日の木曜日と金曜日は全然起きられなかったの。佐伯さんには、病気のことは話していないから仕方がないんだけど……」
「そのことだが、医者には診せていないんですか」
「ええ……わたしがいくらすすめても駄目なのよ。あの人は頭痛と記憶喪失はつながっていて、病院へ行けば何もかも暴かれてしまうと考えているようだわ。記憶が戻れば頭痛も治ると思いたがっているし、「いまさら病院へ行くくらいなら、最初から出て来なければよかったんだ」って言うの。その話になると、わたしたち必ず口論になってしまう……」
 彼女の眼に予告もなく涙が溢れてきた。「わたしが今いちばん恐れているのは、あの人は今頃どこかで気を失って倒れていて、眼を覚ましたときには、わたしのこともこの部屋のこともすべて忘れてしまって……」彼女の言葉の最後は聞き取れなかった。テーブルの上で組んだ自分の両腕の中に顔を埋めてしまったからだ。
 私は四本目のタバコに火をつけ、数分間待った。やがて彼女は顔を上げ、恥ずかしそうに微笑んだ。眼が赤くなっている以外は、泣く前とどこも変わりがなかった。
「質問を続けていいわ」と、彼女が言った。
 私はそうした。他に何ができる。「彼は私の事務所のことを佐伯氏の卓上メモで見つけたらしいが、佐伯氏のマンションへはどうして入れたのだろうか」
「佐伯さんから合鍵を渡されていたのよ。あの人は何か手掛りを掴んだりするとすぐに佐伯さんに会いたがって、彼のマンションのロビーで何時間も待っていたりするの。そんなことが何度か続いたあと、佐伯さんが気の毒がってスペアキーを預けてくれたの」
「それにしても、メモに書いてある探偵事務所をいきなり訪ねるのは、いささか無謀な気もするが」
「それは、探偵を雇うという話が以前から出ていたからだと思うわ。佐伯さんは、自分の調査ではあの人の身許をなかなか突きとめられないので責任を感じていたらしいの。専門家に頼めばもっと有効な方法に通じているはずだ、という意見だったの。でも、あの人は自分のことを知る人間が一人でも増えることには抵抗があったようだわ。結局、もう少し二人だけでやってみる、ただし、佐伯さんは適当な探偵がいるかどうか、二、三当たってみる──そういう話になっていたの。メモであなたの事務所の名前を見つけたとき、あの人がすぐに訪ねてみる気になったのも不思議ではないと思うわ」
 私はうなずいた。「では、アタッシュ・ケースに入っていたという札束を使用したことはありますか」
「ええ。あの人はできることなら手を付けたくなかったらしいけど……用心して、わたしが買物をするときに小さくしたものを使うようにしていたの。でも、昨日はうっかりして両替済みのお金を切らしていたので、わたしが二、三日前にキャッシュ・カードで引き出していたお金を、あの人にむりやり持たせたのよ。それが、これだったの」彼女はテーブルの上の都民銀行の封筒を指差した。
「あの人が初めてわたしのお金を受け取ってくれたというのに、伝票を入れたままにするなんて迂闊な話ね……それが、わたしたちにとって幸運なミスになってくれればいいんだけど」彼女は私の顔をうかがった。
「幸運の女神という柄じゃないが、少なくとも疫病神にはならないようにしよう」
 私は立ち上がって、キッチンの壁に掛かった時計を見た。まもなく二時になろうとしていた。「あなたのお蔭で、かなり様子が掴めて来ましたよ。こんなに遅くまで付き合わせて申しわけない。約束は忘れていないから、安心してもらいたい。何か分かれば連絡します」私はポケットから名刺を一枚出して、テーブルの上に置いた。「あなたも何かあったら、ここへ電話して下さい」
 彼女はうなずき、椅子を立って、テレビの棚から私のコートを取ってくれた。
「一つだけ訊いておきたい」と、私は言った。「彼は例の拳銃を持ち歩くことがありますか」
「いいえ、決して。アタッシュ・ケースに入れたままです」
「念のために確認してくれますか。できれば、どういう拳銃か見ておきたいんですが」
 彼女はためらった。
「ああ、うっかりしていた」と、私は言った。「アタッシュ・ケースの中には拳銃と一緒に大金が入っているんでしたね。では、こうしよう。私はこれでアパートの外に出ますから、ドア・チェーンを掛けて、ドア越しに拳銃を見せてもらえませんか」
「そんな必要はないわ。拳銃はすぐにお見せします。ただ、あの人はずっとあの拳銃に苦しめられているのに、心のどこかでは、あの拳銃を自分の分身のようにも感じているらしいから……」
「解らなくはない」と、私は言った。元来、武器にはそういう性質があるのだ。嫌悪され、愛好される。
「拳銃を取ってきます」と言って、彼女は部屋を出た。ほとんど待つ間もなく、彼女が口を開けたままのアタッシュ・ケースを持って戻って来た。顔色がなくなっていた。
「あの人、拳銃を持ち出したんだわ!」彼女はアタッシュ・ケースをテーブルの上に取り落とした。五、六個の札束が不換紙幣の正体を暴露するように軽々しい音を立てて跳びはねた。そのとき、電話のベルが鳴った。
「あの人よ、きっと」と、彼女が言った。そして、部屋の外へ走り出ると、廊下の突き当たりにある電話に駈け寄って、受話器を取ろうとした。だが、私の手が彼女の手を押さえつけていた。

次章へつづく

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