そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第22章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日は第22章を公開。

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『そして夜は甦る』(原尞)

22

 私は運転手の長谷川を秘書室から連れ出して、ロビーのような廊下の突き当たりにあるガラス張りのパノラマの前に立っていた。地上十階からの眺めは、何かを見おろしにすることが自分の社会的地位の象徴にならない私にとっては、ただの眺めにすぎなかった。私はパノラマに背を向けて、長谷川に言った。「先週の木曜日に、佐伯氏をベンツに乗せたときのことを訊かせてもらいたい」
「話は奥様からじかに聞いたのだろう? おれが付け加えることは何もないよ」彼は運転手の帽子を脱いで、禿げ上がった額の汗をハンカチでぬぐった。
「そうとも限らんさ」と、私は言った。「彼女は義理の娘と佐伯氏の問題で頭がいっぱいだったようで、佐伯氏との話もその辺のことしか憶えていない。佐伯氏の失踪のことは聞いているだろう? あんたならもっとほかのことを憶えているかも知れない」
「佐伯さんのことは聞いたよ。しかし、ベンツをブルーバードと一緒にしてもらっちゃ困るな。あれには運転席とバックシートの間に強化ガラスの仕切りが装備してあるんだ。ほとんど完全防音に近いから、たとえ奥様と佐伯さんがデュエットで『ふたり酒』を歌ってくれたとしても、おれは拍手もできやしないのさ」
「では、彼らの会話は全然聞いていないのか」
「一言も」
「話しているときの二人の様子は見えただろう?」
「バックシートをじろじろ見るような真似はしない。偶然、ルームミラーに映ったのを見た感じでは、何かむずかしい話のようだったな」
 長谷川の証言に望みをつないでいたが、期待したような手掛りは得られなかった。しかし、訊くべきことは訊き終えなければならない。
「佐伯氏を降ろした場所は?」
「元の場所だよ。彼のマンションの前だ」
「彼がベンツに乗っていた時間は?」
「三十分足らずかな。計っていたわけじゃないから正確なことは分からんがね」
「何か気のきいたことの一つも憶えていないのか」私はポケットからタバコを出した。
「おれの仕事は車の運転だ」と、彼はそっけなく言った。そして、付け加えた。「佐伯さんがベンツを降りて運転席の窓をノックしたので、ほんのちょっと言葉を交わしたがね」
「ほう」私は長谷川にタバコをすすめた。彼は一本抜き取り、ポケットからヤニ取りのパイプを出してタバコに付けてから、口にくわえた。用意のいい男だ。
「何を話したんだね?」私は紙マッチで二本のタバコに火をつけた。
「佐伯さんは弟のことを訊ねたよ」と、長谷川はタバコの煙を吐き出しながら言った。
「弟だって、誰の?」
「おれの弟さ。おれと違ってできのいい弟でね、大学まで行って、ちゃんと試験を受けて東神に入社したんだ。ニューヨーク支社に五年いて、二代目が会長に就任したとき呼び戻された。いまは秘書課にいて、会長付きの三人の秘書の一人だ」
 長谷川の口調からは、弟を自慢にしているのか馬鹿にしているのか、よく分からなかった。
「佐伯氏はあんたの弟さんの何を訊いたんだ?」
「ただの挨拶代わりだよ。だいぶ会ってないが元気にしているか、もう子供はできたのか、相変わらず毎朝のランニングは続けているか──弟の靖彦は学生時代は長距離の選手だったんでね──そんなことを訊かれただけさ」
「答えは?」
「元気で、子供は女の子が一人、ランニングのほうは外車にかぶれてからはさっぱりで、最近はダークブルーのBMWなんか乗りまわしている──そう、答えたよ」
「そんなことを訊ねる間柄なのかね、二人は?」
「そうでもないさ。弟はおれより七つ年下の四十一才だから、佐伯さんよりだいぶ先輩なんだが、どっちも〈早稲田〉の出身なので会えば口をきく程度の付き合いはあった。とくに、弟がニューヨークへ行く前、佐伯さんが〈朝日〉に入社したばかりの頃は……しかし、弟が向こうから帰ってからは、佐伯さんもあんな状態になっていたし、最近は誰かに訊かなきゃお互いに近況も分からないということじゃないか」
 更科頼子の執務室と同じ並びの、ビルの北東の角に当たる部屋のドアが開いて、男が二人出てきた。長谷川が彼らを見て「噂をすれば影だ」と言った。スリーピースのダークスーツにしゃれた金縁の眼鏡をかけ、長谷川を一まわり若くしてスマートにした感じの男が、仰木弁護士と一緒だった。弁護士は昨日と同じ冴えない風采で、古ぼけた鞄をさげていた。彼らは私たちに気づいて、近づいてきた。
「ご精勤じゃないか」と、仰木は私に言った。「紹介しよう。神谷会長の秘書の長谷川君。運転手の長谷川さんの弟でなかなかの秀才だ」東大卒が早稲田卒をなかなかの秀才と褒めるときの口調は、余人にはとうてい真似のできないニュアンスがあった。
「こちらは、探偵の沢崎氏。名緒子さんの依頼で、佐伯君の行方を捜してもらっている」
「長谷川です。よろしく」と、彼は言った。私は、こちらこそと応じた。
 秘書は運転手に眼を移した。「兄さんはこんなところで何をしてるんだ?」
「探偵さんに呼ばれて、厳しい訊問を受けたところさ」兄はタバコを棄てるために、廊下の向こうの隅にある陶製の灰皿のほうへ歩み去った。
 弟は私に視線を戻した。「では、ぼくにもお訊きになりたいことがあるんじゃないですか。いま仰木弁護士の質問には答えたばかりですが」
「佐伯氏の失踪について、何か心当たりがおありですか」と、私は訊いた。
「いいえ、まったく。ただ、驚いているだけです」
「佐伯氏に最後に会われたのはいつですか」
「それが、仰木弁護士にも訊かれたんですが……二年前にニューヨークから帰って来てからは、彼に会っているかどうかはっきりしないんですよ。それ以前なら、彼は大学の後輩でもあるし、二、三度一緒に酒を飲んだりしたことがあるんですがね」
「そうですか。ご協力いただいて、どうも……ちょっと、失礼」
 私もタバコを棄てに行き、途中で運転手の長谷川と擦れ違った。
「沢崎さん」と、仰木が私を追ってきて、低い声で訊いた。「佐伯君にあんたを紹介した人物ははっきりしたかね?」
 私は少し考えてから、うなずいた。「新宿署の刑事だった。正確には、錦織という警部だが」
「警部だって? それは意外だったな。佐伯君の知人なのかね、その錦織という警部は?」
「佐伯氏が新聞記者だった頃に知り合ったそうだ」
「その警部は佐伯君があんたを雇おうとした理由を聞いているだろう?」
「いや、聞かなかったと言っている」
「では、佐伯君の失踪の理由も知らないのかね?」
「そう言っている」
「それは残念だな」仰木弁護士は大きな溜め息をついた。
「警官の言うことを素直に信用できるのは、ただ一つこちらも同じ警官である場合に限る」と、私は言った。
「どういうことだ?」と、仰木が訊いた。「その錦織という警部が何か知っていて、隠しているということか」
「その可能性もある」
 仰木弁護士はしばらく考えてから、言った。「少し圧力をかけてみるか。コネを使って、その男に」
 私は頭を振った。「どうぞご随意に。しかし、後で苦情を言われても困るから忠告しておくが、錦織に圧力をかけたりしたら、あんた、一生後悔することになるよ」
「その手の刑事か」仰木は眉をひそめた。
「その手以上の刑事だ」と、私は言った。
 更科女史の執務室のドアが開いて、更科頼子本人と佐伯名緒子が出て来た。二人は私たちを見つけて、近寄って来た。二人の様子からは、娘は義母の話を思ったより平静に聞いたように見受けられた。長谷川兄弟も、彼女たちのあとに従った。
「皆さん、お集まりですね」と、相談役が言った。「沢崎さん、長谷川からお話はお聞きになりまして?」
「ええ。ついでに、彼の弟さんからも」
「そうですか。名緒子と相談して、わたくしの弟もあなたに紹介しておこうということにしました。弟には内線で知らせてありますから、参りましょうか」
「神谷会長にですか」と、私は訊いた。
「そうです。弟も是非あなたにお会いしたいと言っています。何かご都合でも?」
「いや。しかし、神谷会長には私ひとりでお会いしたいですね」
 誰もが、頼子女史の顔色をうかがった。彼女は背筋をぴんと伸ばし、こみあげる怒りを抑えて言った。「そうでした。それがあなたのお好みの訊問方法でしたわね。どうぞ、ご自由に。そこを入って、秘書の誰かにそうおっしゃれば、会長室に通してくれるはずですから。では、わたくしはこれで失礼します」彼女は義理の娘にひとこと声をかけ、私たちに背を向けて自分の部屋へ戻った。
「少し待っていて下さい」と、私は名緒子に言って、会長室のドアのほうへ向かった。秘書の長谷川が先に行って、銀のプレートに神谷惣一郎の名前を刻んだドアを開けてくれた。
 会長室に通じる秘書室の広さは、相談役の秘書室と大して変わらなかったが、こちらは男女数名の秘書がデスクについて忙しそうに仕事をしていた。長谷川秘書は自分のデスクの内線電話を取ってボタンを押した。
「沢崎さんがおみえになっております……そうです。相談役からご連絡の……はい、承知しました」彼は電話を切って、私に言った。「そのドアから、どうぞ」
 私は〈東神グループ〉のピラミッドの頂点に位置する会長室に入った。神谷惣一郎は、相談役の部屋の配置とは反対になっているデスクのところで立ち上がって、私を迎えた。
「さァ、どうぞこちらへ」
 会長室もまた相談役の部屋と広さに変わりはなかったが、角部屋で二方がガラス張りになっているので一段と明るく、機能的かつ実務的に見えた。
 私は彼のデスクまで歩いた。「沢崎です。お忙しいところを申しわけありません」
「神谷です。どうぞ、お坐り下さい」
 私は、デスクの手前に並んでいる二脚の椅子の一つに腰をおろした。少し前まで、仰木弁護士と長谷川秘書が坐っていた椅子だと思われた。会長の背後の壁に、初代会長・神谷惣之助の肖像画が掛かっていた。大胆な筆使いは梅原龍三郎のような画風だった。彼にこの種の肖像画の作品があるのかどうか知らないが、美術界に勢力を持つ更科修蔵の存在を考えるとありえないことではなさそうだった。
 神谷惣一郎は年齢三十二才なのだが、デスクの向こうに坐っているこのビルの所有者はかなり老けて見えた。以前テレビや新聞で見ていた頃は、私と同世代だとばかり思っていたのだが、こうして実物を見ても三十二才には見えなかった。頭髪には白いものがまじり、姉と違って父親似ではない中高な顔にも小さなしわが目についた。年上の人間ばかりを部下として使っていると、早く老けるのかも知れない。中肉中背の筋張った体格に、眼の細い大陸系の顔が短い首でつながっている感じは、こういう宏壮なオフィスよりも工事現場でヘルメットをかぶっているほうが似合いそうだった。着ている茶系統のスーツにしても高級なものに違いないのだが、彼が自由にできる資産を考えると何となくみすぼらしく見えるから不思議だった。彼は腕時計を見て言った。「ちょうど十二時ですが、沢崎さんはお食事は?」
「いや、実は一時までにすませたい用事がもう一つあって、あまり時間がないのです。できたら、十五分ばかり時間をもらって、お訊ねしたいことがあるのですが」
「どうぞ。姪の名緒子と佐伯君のために働いておられるあなたには、全面的に協力させていただきます」
 私は、彼にも佐伯の失踪についてのお定まりの質問を二、三繰り返した。予想した通り、答えは今までに聞いたものと大同小異だった。そこで、少し違った角度から質問してみることにした。私の記憶の中に、神谷惣一郎と〝ある人物〟が豪華なヨットを背景に並んで立っているイメージがちらついていたからだった。
「あなたは、都知事になられた向坂晨哉氏とは懇意にしておられますか」と、私は訊ねた。
 彼は急に話題が変わったので、戸惑っているように見えた。「さァ、懇意とは言えないが、何度かお会いして話したことはありますよ。向坂知事はともかく、弟の晃司氏とはかなり懇意にしていると言っていいでしょう。私が東神の会長に就任する以前のことですが、当時彼が国際的なレースに出場したヨットはすべてうちで製作したものでしたから」
 私の記憶力もまんざらではなかった。「会長就任後はどうなのですか」と、私は訊いた。
「少しお互いに足が遠のいているようですね……最も接触があったのは私の東神電鉄の社長時代で、姉が会長を務め、まだ更科の義兄が東神の全体を運営していた頃でした。晃司氏の国際的なヨット・レース出場を使った宣伝は、確かにかなりの出費でしたが、長い目で見れば東神のイメージ・アップとして相当なプラスになったと考えています。でも、会長に就任してからはさすがにああいう道楽めいたことはやりにくくなりました。本当は、私と同世代の部課長クラスの連中にはもっと大胆な発想と企画を立ててもらって、私たち重役がそれをチェックしながらも生かして行くというのが本当は理想なんですが、皆さん私よりも堅実な考えの人ばかりで……」彼は頭を振って、苦笑した。
「足が遠のいた理由はあなたの会長就任だけですか」と、私は訊いた。
「晃司氏のほうにも事情があったようです」と、彼は言った。「レース出場は五十八年の〝太平洋グランプリ〟で三位入賞を果たしてちょうど一区切りつきましたし、彼の映画のプロダクションはテレビへ進出するかどうか大変むずかしい時期を迎えていたのです。兄上の都知事選出馬の話が持ち上がったのもその頃だったようです。ヨット・レースどころではなくなったというのが実情でした。彼自身はヨットを乗りまわすには少しばかり年を取り過ぎたと言っていましたがね」
 向坂知事が四十五才、弟の晃司氏は三十九才のはずだった。二年前に老け込むような年齢だったとは思えない。神谷会長は私の疑問を察して、先手を打った。
「ヨット・レースへの参加中止が発表されたとき、世間がいろいろ取り沙汰したようなことは根も葉もないことですよ。晃司氏と私が不仲であるとか、お互いの細君同士でトラブルがあったとか、フィリピンの〝アキノ暗殺〟の報道のときに対談した向坂知事と私の姉との口論が、弟たちの提携にまで飛び火したとか、まァ、うるさいことでしたが、どれも事実無根です……そういえば、八月に兄上の知事就任と銃傷の全快祝いをかねたパーティで、晃司氏に久しぶりに会って大いに歓談しましたよ。彼いわく「あなたも東神のトップに立ったのだから、ポンと二、三十億出資して映画製作の仕事に乗り出してもらいたい、こっちは外国映画に負けないようなスケールの大きな映画の企画を温めて待っている」などと、相変わらずの怪気炎をあげていました。しかし──」彼は私と会見していた理由を思い出して、訊いた。「そういうことが、佐伯君の失踪と何か関係があるのですか」
「はっきりしたことは分かりませんが、佐伯氏はこの三カ月ばかり都知事選の狙撃事件ないし怪文書事件の調査をしていたふしがあるのです。それで、あなたと向坂知事の弟さんとのつながりを思い出して、訊ねてみたのです」
「佐伯君は都知事選のことを調べていたのですか。そして、それが彼の失踪の原因だと言うんですか?」
「そこまでは断定できません。八月以降、佐伯氏とは一、二度しか会っていないだろうということでしたが、彼はそのとき向坂知事か彼の弟のことを話題にはしませんでしたか」
「そんなことはなかったと思います。会ったと言っても、更科と神谷の家族がそろうような場所ですから、とてもそんな話題にはなりませんでした」
 私はうなずいた。そして、少し考えてから言った。「あなたに面倒なことをお願いしたいのですが」
「どうぞ。協力すると申し上げたのは単なる社交辞令ではありませんよ。私は佐伯夫妻のためなら、できる限りのことをするつもりです」
 彼は私の顔を見つめた。そして、何かを決心したように握り合わせていた両手を広げた。「あなたに聞いておいていただきたいことがあります。名緒子は義理の姪であり、妹同様の存在ですが、私にとってはそれ以上の女性でもあるのです。彼女は私が十六才のとき更科の義兄と一緒に田園調布の邸へ越して来ました。まだ十二才の少女だった。わがままに育った私にとって、生まれて初めて自分の意のままにならぬものがこの世に存在することを知らされました。それどころか、むしろ私のほうが彼女の意のままになりたがっている……私は〈慶応〉に入学したとき、更科の義兄に将来は名緒子を自分の妻に下さいと頼んだことがあります。しかし、義兄は悲しげな顔で「神谷家のような一族に入って苦労させられるのは自分一人でたくさんだ、どうか名緒子のことはそっとしておいてもらえないか」と、逆に懇願されてしまいました。そのせいというわけではないが、私は学生時代と卒業してからしばらくは、かなり荒れた生活を送りました。それから立ち直れたのは、実は佐伯君のお蔭なんです。私より二つ年下の好青年が名緒子の心をしっかり掴み、社会的にも〈朝日〉の記者として活躍している。私の名緒子への気持は妹に対する感情にプラス・アルファしたようなものでしたから、あのカップルを見ていると自分も馬鹿なことはしていられないという気持が湧いて来たのです。私がこうして父の跡を継げるようになったのはあの二人のお蔭だし、あの二人がいつまでも幸せでいてくれないと、私は困るのです。佐伯君夫妻のためなら、私にできることは何でもするというのは、そういう意味なのです」
 従業員一万五千人を超える大企業のトップとしてはいささか青臭い告白に当惑させられたが、私は構わずに話をすすめた。「お願いしたいことは二つです。まず、佐伯氏が失踪前に都知事選に関する調査をしていたことは、まだ依頼人以外には話していません。このことは、ほかの誰にも口外しないようにお願いしたい」
「解りました。そうしましょう」
「もう一つ。これは少々面倒なお願いなのですが──」私は上衣のポケットから名刺を一枚出して、デスクの上をすべらせた。神谷会長はそれを手に取った。
「向坂晃司氏を通して、こういう男が都知事選のときの狙撃事件の首謀者に関することで、知事に面会したがっているとお伝え願えませんか──できるだけ早く。私が直接に交渉したのでは会えるかどうかも分からないが、あなたの紹介があれば先方の応対も違ってくるでしょうから」
「やってみましょう。しかし、これは相手のあることだから確約はできませんよ……だが、狙撃事件の首謀者とおっしゃるとあまり穏やかではないが」
 私はうなずいた。「少なくとも首謀者につながる可能性のある手掛りは掴んでいるつもりです。佐伯氏はその首謀者に身柄を拘束されている恐れもあります。その首謀者が向坂氏の敵であることは十分考えられることですから、敵を知るには本人に聞くのが早道ではないでしょうか。向坂知事ほどの人が己の敵を知らぬということは考えられない。そういう人物の名が明らかになれば、私にとっては佐伯氏捜索の重要な手掛りになります。あの事件の首謀者を追及していた佐伯氏が危機に瀕していると聞けば、向坂知事も協力を惜しまないと思いますが」
「なるほど、よく解りました。早速、晃司氏に連絡を取ってみましょう」
「こちらは、いつでも結構です。名刺の電話に連絡して下さい」
 私たちは立ち上がって、挨拶を交わした。私は秘書室で仕事に戻っている長谷川秘書に軽く手を挙げて、ロビーのような廊下に出た。
 佐伯名緒子がひとりでガラス越しにパノラマの向こうを眺めていたが、ドアの音を聞いて振り返った。私たちはエレベーターのほうへ向かった。彼女が私のコートを渡しながら、言った。「母の話にはどこか無理があるような気がして仕方ありませんわ」
 私たちは立ち止まり、ベンツの中での更科頼子と佐伯の会話を確認した。彼女の義母は、娘にも私に話した通りを伝えていた。
「嘘をついているというのではありません。どこがおかしいのかと訊かれても困るんですけど、二人の会話があんなふうにすすむという感じがしないんですの」
「彼がマンションの前でベンツに乗車したことは確かなんです」私は、辰巳玲子がそれを目撃したときの状況を説明した。玲子の一方通行の逢曳きの話を聞いても、今度は名緒子もさほど微妙な反応は示さなかった。どんな苦痛でも、二度目は最初よりしのぎやすい。
 私たちは廊下を抜けて、エレベーターの前に出た。混血の受付嬢が立ち上がって挨拶した。私たちはエレベーターに乗り込んだ。
「一階の正面玄関以外に出口がありますか」と、私は訊いた。中野署の刑事たちとは顔を合わせたくなかった。
「地下一階へ降りれば、駐車場から守衛所の前を通って外へ出られます」と、彼女が答えた。地下一階のボタンを押すと、私たちは瞬く間に目的地に着き、エレベーターを降りた。十メートルほどの通路があって、その先に巨大な駐車場が広がっていた。通路の両側はそれぞれ〈輸送課〉と〈車両課〉の表札のある事務所になっていた。〈車両課〉の窓ガラス越しに、作業服の社員にまじって話している運転手の長谷川の姿が眼に入った。彼は私たちにはまったく気づかないようだった。〈輸送課〉のドアの横に病院の受付のような小窓があって、〝タクシーの御用命を承ります〟という貼り紙が出ていた。
「ここでタクシーを呼びましょう。あなたはもう少し私に付き合えますか」
「もちろんです。次ぎはどちらへ?」
「美術鑑賞の後は、写真というのはどうです」
 二人ともコートを着て駐車場の一郭で待っていると、タクシーは一分足らずで到着した。私は運転手に行先を告げた。

次章へつづく

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