そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第21章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日は第21章を公開。

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『そして夜は甦る』(原尞)

21

〈東神ビル〉はブラック・ビルという通称の通り、副都心の高層ビル区域の一郭に位置して、三十六階建の黒光りのする偉容を誇っていた。磨きあげた黒曜石ふうの外壁とクローム仕上げの鋼材を多用した外観は、完成当時こそ不気味だとか墓石のようだと陰口を叩かれたが、見慣れると周囲の白っぽい高層ビルより遙かに穏やかで、重量感があった。好天には光り輝くが、雨天や夜とともに落ち着きのある、ひっそりとしたたたずまいを見せた。
 地階に新宿‐横浜間をつなぐ〝東神急行〟のターミナル駅と大駐車場を擁し、階上を〈東神グループ〉の本社、東神デパート、パークサイド・ホテル、それにテナント部門で四分していた。東神本社はビルの北東部を占めており、佐伯名緒子と私はその正面玄関を入って行った。
 広々としたロビーを横切って中央の受付へ向かうと、カウンターの中の三人の受付嬢と談笑していた三十代後半の女性が、待ち構えていたように名緒子を迎えた。「いらっしゃいませ、奥様。秘書課の成瀬と申します」彼女は上品な服装と上品な化粧の内側に、見慣れない同伴者に対する好奇心を上品に隠して、ご案内しますと言った。
「お願いしますわ」と、名緒子が答えた。
 成瀬秘書は、受付の隣りに三台並んでいるエレベーターの前を素通りし、このビルに入った時から私に注意を向けている警備係の立っている角を曲がって、その奥の重役専用エレベーターへ案内した。エレベーターの行先は八階から十階までに限られており、成瀬秘書が十階のボタンを押すと、まるで二階に着くようにすばやく静かに十階に着いた。
 エレベーターを出たところにも受付があり、日本人とは思えない目鼻立ちの受付嬢が立ち上がって、日本語で挨拶した。成瀬秘書は毛足の長いダークグレーの絨緞を敷きつめた廊下を案内していった。私は思いついて、受付に寄った。
「仰木弁護士はおみえになっていますか」と、私は訊ねた。
 受付嬢は自分の前にある来客簿のファイルを調べてから、「はい、十時におみえになっております」と、答えた。
「神谷会長に会いに?」
「さようです」
「では、韮塚弁護士は?」
 受付嬢は再びファイルに眼をやった。「いいえ、おみえになっておりません」
「どうも、ありがとう」と、私は礼を言った。
「どういたしまして」と、混血の受付嬢が応えた。
 私は、廊下の角で待っている成瀬秘書と名緒子に追いついた。角を曲がると、幅五メートル、奥行き五十メートルの、廊下というよりはロビーのようなスペースに出た。二百人程度のパーティを開くには十分な広さと雰囲気があった。突き当たりにガラス張りのパノラマのような窓があって、北側の〈ホテル・センチュリーハイアット〉が見えた。もっと近くへ寄れば、右手に〈住友ビル〉、〈三井ビル〉、左手に中央公園を見おろす景観が一望のもとになるはずだった。しかし、飽くまでもそこは廊下なのだった。その証拠に、両側の五十メートルのウォールナット材の壁には、その背後にこの社の中枢を収容しているはずの重厚なドアがずらりと並んでいた。成瀬秘書は、私たちを右側のほぼ中央に位置するひときわ立派なドアの前に導いた。ドアの真ん中に十センチ四方の銀製のプレートがはめ込まれていて、そこに更科頼子の名前が刻まれていた。彼女はそのドアを開けて、私がかつて見たことのあるどの社長室よりも広くて豪華な一室に私たちを案内した。だが、そこは彼女の仕事場である秘書室だった。彼女は名緒子と私のコートを受け取って、部屋の隅にある家具調のロッカーの中に吊した。それから、部屋の奥にあるドアをノックし、ドアを開けた。私たちを中に入れると、自分は秘書室に残って私の背後でドアを閉めた。
 更科頼子が義理の娘を迎えるために、大きな執務デスクを迂回して私たちのほうへ近づいて来た。彼女は昨日更科邸で見かけたときと同じに見える濃紺のテイラード・スーツを着ていた。もっとも、私には同じに見えても同じスーツではないのだろう。年齢は夫の更科修蔵より九つ年下の四十七才のはずだが、仕事を持ち、財産を持ち、子供を産まず、美容に励んでいるせいか、四十前と言っても通りそうな外見だった。容貌は、父・神谷惣之助ゆずりなのでお世辞にも美人とはいえないが、地位と財産のある女性に備わった一種の品格のようなものがあった。少なくとも、テレビや雑誌のグラビアなどで見る更科頼子女史より魅力的に見えたが、あるいはレンズのほうが正直なのかも知れない。
「いらっしゃい、名緒子さん。ここへ来てくれたのは、結婚後は初めてじゃなくて?」彼女は義理の娘の手を取った。
「無理を言ってごめんなさいね、お母さん」名緒子は私を振り返って言った。「こちら、母です」
 更科頼子は初めて私の存在に気づいたというように、娘の手を放して、私に注意を向けた。
「こちらは渡辺探偵事務所の沢崎さん」と、名緒子は私を義母に紹介した。
「まァ、あなたが……主人から話は聞いております。娘夫婦が大変お世話になっているそうで──」彼女は私のほうへ手を差し出しながら進んできた。
「私と握手をなさろうというんですか」と、私は訊いた。
 頼子女史は面喰らって立ち止まった。「あら、いけませんか」孤児院の少年に寄付は要らないと断わられたような顔つきだった。
「握手をしたがる人には警戒心が働くのです。私が最後に握手をした男は、私の事務所をビルから叩き出そうとした悪質な不動産屋だったし、私が最後に握手をした女性は護身術の教官で、私をその場で投げ飛ばすつもりでしたからね」
 娘がくすくす笑ったので、義母も仕方なく苦笑した。私は一歩前に出て頼子女史の手を取り、軽く握手をした。彼女の意図していた握手とは全然別の性質のものになった。
 彼女は外国語で喋りだすのではないかと不安になるほど派手な身振りをまじえて、言った。「名緒子はあなたのことをとても高く評価しているようですわ。主人もそうなのですよ。わたくしがこの世でいちばん信頼している二人が保証しているんですから、わたくしも無条件であなたを信頼させていただきますわ」
「私のことを買いかぶっておられるのです」これは電話での仰木弁護士の科白だった。「その証拠に、こんなに高い所へ連れて来られて足が震えている」
「まァ、いつまでもそんなところに立たせたままで申しわけありません。さァ、こちらへどうぞ」彼女は私たちを部屋の中央にある豪華な革張りの応接セットへ案内した。彼女と私は向かい合い、名緒子は義母の隣りに腰をおろした。ちょうど見計らったようにドアをノックする音がして、成瀬秘書が私と頼子女史にはコーヒーを、名緒子には紅茶を運んで来た。
 この部屋は、手前の秘書室と大きさこそあまり変わらなかったが、北側がすべてガラス張りになっているので、〈三井ビル〉、〈京王プラザホテル〉、〈KDDビル〉が横一列に並んで見渡せた。左手の壁に一点、鮮やかな色彩の絵が掛けてあった。成瀬秘書が退出すると、部屋の主が声をあらためて言った。
「わざわざおいでになったのは、世間話をなさるためではございませんでしょう。ご用件をどうぞ」
 私はうなずいた。「二、三おうかがいしたいことがあります。あなたとご主人とのあいだにはお子さんはないのですか」
「名緒子はわたくしたちの子供ですよ。でも、あなたの質問はそういう意味じゃありませんわね。ええ、わたくしは子供を産んだことがありません。非常に残念ですが、わたくしは子供ができない身体でしたので……ですから、更科に名緒子さんという連れ子があったのは、わたくしとしてはとても幸せだったと思います」彼女は自分が何故こんなことを話しているのか分からないという表情を浮かべていた。
「沢崎さん」と、名緒子が横から口を入れた。「そんなことが、佐伯の失踪と何か関係がありまして?」
「いや……名緒子さん、あなたたち夫婦はどうして子供がないのです? これも彼の失踪とは関係ありませんか」
 彼女は初めて見せる不愉快な顔で、首を横に振った。
「昨日、私はこの事件の調査で三人の女性に会った。そのうちの一人は、まだ十九才だから不思議はないとしても、三人とも子供がいない。最近の女性は子供を産まなくなっているのですか」
 義母と娘は顔を見合わせた。私が何を言いたいのか理解できないのだ。私自身にも解っていなかった。頼子女史が国営テレビの第二放送で見せるような顔つきで言った。「今年の春、東神デパートの企画部が女性消費者を対象に調査した統計によりますと、確かに──」
 現代女性に関するもっともらしい論議におけるもっともらしい意見に一区切りつくまで、私たち聴講者は三分間待たなければならなかった。
「失礼」と、私は口を挟んだ。「あなたは佐伯氏の失踪の原因について、名緒子さんや更科氏の知らないことを何かご存知ではありませんか」
「いえ。いいえ、何も……」と、彼女は不意を衝かれて口ごもった。「もし、そうであれば主人か名緒子にちゃんと話しております。だって、妻の名緒子が知らないようなことをわたくしが知っているなんて、ありえないことですよ」
「しかし、こういうこともあります──夫の行方を妻は知らない、彼の子供たちも知らない、彼の両親も知らない、彼の友人も知らない、会社の同僚や上司も知らない、彼の妻の父も知らない、ところが、ほとんど接触もなかったはずの妻の母親が知っていた──これは統計などではない。私の乏しい経験のなかで二度もあったことです。男にとって妻の母親というのは、ちょっと特別な存在であるような気もしたので、うかがってみたのです」
「わたくしも佐伯さんにとってそういう存在だったらよかったのにね。魔法みたいに、佐伯さんを名緒子の前に出してあげられたら、本当によかったのに……」彼女の身振りは、往年のハリウッド映画の母親役を見る思いだった。
 私は訊いた。「あなたが最後に佐伯氏にお会いになったのは、いつですか」
「さァ、どうでしょう」と、彼女は言って、娘のほうに助けを求めた。「名緒子さん、憶えてる? 夏休みに軽井沢でだったかしら、それとも、父の十三回忌の法事があった九月だったかしら……いえ、あの時は佐伯さんは欠席だったわね」
 私は佐伯名緒子に言った。「しばらく、お母さんと二人だけにしてくれませんか」
 頼子女史が動かしていた手が空中でぴたりと止まった。株主総会に出席した札付きの総会屋を見るような眼で、私を見つめた。
 名緒子はちょっと戸惑っていたが、私の要求に対する不審の念より、夫の行方を捜す仕事に協力することを優先させた。「久しぶりだから、ここの上にある東神の美術館をのぞいて来ます。父と母が一緒に集めた〝印象派〟のコレクションこそ、二人の可愛い子供たちと言えるかも知れないわ。世間では、東神の資産の中でも最も将来性のあるものと言ってるそうですけど……じゃあね、お母さん」彼女は足早やに部屋を出て行った。
 私はタバコを出して火をつけ、頼子女史が気持を整理する時間を与えた。彼女は冷めてしまったコーヒーのカップを飲む気もなく手にし、また元に戻した。
「同じ質問をもう一度繰り返しますか」と、私は訊いた。
 彼女は頭を振った。「その必要はありません。名緒子には聞かせたくないことがあったので、嘘をついてしまったのです。わたくしが佐伯さんに最後に会ったのは、たぶん先週の水曜日か木曜日だったと思います」
「木曜日の午後二時過ぎに、佐伯氏のマンションの前で彼にお会いになっている。その時のことですか」
「やっぱり、ご存知なんですね。運転手の長谷川ですか、あなたにそのことを喋ったのは」
 私は彼女の質問を無視した。「それ以後、佐伯氏に会ったことはないですか」
「ええ、その時が最後です。もう、嘘は申しませんわ」
「それ以前は?」
「いいえ。それ以前は、それこそ夏休みに軽井沢で会ったのか、九月の法事で会ったのか……とにかく、名緒子のいないところで佐伯さんに会ったのは、後にも先にも先週の木曜日だけのはずです」
「分かりました。では、そのときのことを話して下さい」
 頼子女史は硬い表情で話しはじめた。「韮塚弁護士を通して佐伯さんが名緒子との離婚のことを通告して来たとき、わたくしは母親として何とかしなくてはと思ったんです。だって、あまりにも名緒子がかわいそうで……あれだけ愛し合って結ばれ、彼が新聞社を辞めた後の失意のときも、一所懸命彼の支えとなって来たのに……」
「最近では、半ば別居状態だったのではありませんか」
「でも、あの子の佐伯さんに対する気持は少しも変わっていないのですよ。それなのに、自分の口からならまだしも弁護士を通じて、慰謝料まで請求してくるなんて……別れるというのなら仕方ありませんが、あの子の気持を傷つけることだけは許せません」彼女は声をつまらせて、しばらく言葉が出なかった。
「そのことで、佐伯氏にお会いになったのですか」
「ええ。あの日は近くへ行ったついでに、長谷川に言って、佐伯さんのマンションへ向かってもらったのです。でも、実際のところは本当に彼を訪ねることができたかどうか分かりません。母親として何とかしなければという気持はありましたが……今思うと、やはり名緒子とは義理の仲であるという負い目が、必要以上に母親らしく振る舞わせたのかも知れませんけど……ところが、彼のマンションの前にさしかかると、本人がわたくしの車の前を横切るじゃありませんか。これは神様がわたくしに母親の役目を果たせと命じているのだと思って、長谷川に佐伯さんを呼び止めさせたのです」
 辰巳玲子が〈ルナ・パーク〉という喫茶店から目撃したことに矛盾するところはなかった。私は彼女の話の続きに耳を傾けた。
「長谷川にマンションの周辺を走らせて、二、三十分ほど佐伯さんと話しました。彼は「名緒子が憎くてこんなことをするわけじゃない」と言うのです。「しかし、名緒子が二度と自分の顔など見たくないという気にさせないと、結局今まで通りの中途半端な状態から抜けられない。今度は自分も相当の覚悟なのだ」と。わたくしは「それは男の勝手な考えで、女というものが全然解っていない。確かにそれで名緒子はあなたのことを思い切るかも知れないけど、それでは女としての幸せや将来までも思い切ってしまうような、深い心の傷を受けかねない」と言いました。「少なくとも、あなたのほうから慰謝料を請求するようなひどい真似はやめて下さい。もし、お金が必要だと言うのなら、わたくしがあなたに五千万円でも一億円でも差し上げます。そのかわり、名緒子の前ではこの離婚は金銭の絡まない穏便な離婚に見せかけるようにして下さい」──わたくしは、そう頼んだのです」
「佐伯氏の答えは?」
「彼はどうしても自分の考えを変えようとはしませんでしたわ。「名緒子のためを思えばこそ、こういう荒療治が必要だし、自分もこれからの人生を出直すには、その金が必要なのだ」と言うのです。「更科家の娘の別れた元亭主があんまり恥ずかしい暮らしをしていては、ご迷惑でしょうから……」それが佐伯さんの最後の言葉でした」彼女は空しく手を振って、溜め息をついた。
「しかし、佐伯氏は田園調布の邸には現われなかった?」
「そうなのです」
「佐伯氏があなたのベンツを降りたのはどこでしたか」
「彼のマンションの前に戻って、同じ場所で降ろしました」
「彼はそのあとの予定などを話しませんでしたか」
「確か……「自分も車で出かけなければならないから、マンションの前で降ろして下されば結構」と」
「車でどこへ行くとは言わなかったのですね?」
「聞いていません。「八時に田園調布でお会いします」と言って、車を降りて行きました」
「では、その夜彼が現われなかったときには、かなり異常なことだとは思いませんでしたか」
「そうなんですが、主人は終始無言ですし、弁護士の韮塚さんは佐伯さんを非難するばかりで、肝腎の名緒子は不本意な離婚が先に延びてほっとしているようだし……わたくしも、名緒子がつらい思いをするのが先に延びてほっとしたのは同じなのですが、恥ずかしい話、わたくしは佐伯さんがもっと欲を出したのではないかと心配していたのです。近いうちにもっと多額の金を要求して来るのかも知れない、と。何かの事件に捲き込まれて、田園調布へ来れないのだとは考えてもみませんでした」
 結局、佐伯直樹の木曜日の足取りが三十分間伸びただけのことで、収穫らしいものは何もなかった。私はタバコを消した。
「沢崎さん。あなたはこのことを名緒子にお話しになるつもりですか」彼女は派手な身振りも忘れて、真顔で訊いた。
「彼女に訊かれれば話さないわけにはいかないでしょう。席をはずさせたのですから、何を話したのか必ず訊かれるでしょう。しかし、これはあなたがご自分で話すべきことだとお考えなら、私の出る幕ではありません」
「でも、名緒子が受けるショックのことも考えないと──」
「彼女はあなたが思っておられるほどひ弱な女性ではありませんよ。佐伯氏と裏で話をつけようとしたことは快く思わないでしょうが」
「仕方がなかったんですよ、あの子のために。佐伯さんもあなたが思っているほど悪い人間ではないのです。彼なりに精いっぱい名緒子のことを考えているつもりなんです」
「佐伯氏が悪い人間だと誰が言いました? 私は、まだ一度も会ったことのない佐伯氏の善悪などに関心はないのです」
 上衣のポケットに入っている佐伯直樹のスナップ写真の優しさと逞しさの同居した顔を、私は思い浮かべた。「しかし、こういう感想なら言えますね。妻の愛情を受け入れておとなしくしていれば、いつかは東神の資産の半分を自由にできるかも知れない立場にいるのに、五千万円の慰謝料で身を退こうとしている三十才の青年には、善悪を云々する以前にある種の興味を覚えますね」
「そう……」と、彼女は言った。「かつては、わたくしも佐伯さんにはそれに近い印象を持っていたのですよ。でも、韮塚弁護士への電話によって事情は変わったと、わたくしは思っています」
 私は腕時計で時間を確かめた。十一時四十五分だった。
 頼子女史が立ち上がった。「名緒子に話すしか方法はないとおっしゃるのね」彼女は特大のデスクに戻り、内線電話のボタンを押した。すぐに成瀬秘書の返事が聞こえた。
「ちょっと待って」と、彼女は言って、内線電話を切った。「沢崎さん、主人の話ではあなたは買収には応じない方だそうだけど──」彼女は未練がましく言った。
 私は苦笑した。「念のために金額だけは聞いておいても構いませんよ。事務所へ戻ってから、後悔の念にかられて泣き出すために」
 彼女は諦めて、成瀬秘書を呼び出し、美術館にいる娘を呼ぶように命じた。
「彼女にもう一つ頼んで下さい」と、私は言った。「運転手の長谷川氏と二人だけで話せるように、手筈を整えていただけませんか」
 彼女は首を傾げた。「長谷川にはもう会って話をお聞きになったんじゃないんですか。わたくしと佐伯さんが会ったことは彼に聞かれたんでしょう?」
「いいえ、違いますよ」
「では、誰にお聞きになったんです?」
「あなたのご存知ない人物です」
 彼女の表情がこわばった。「あなたはわたくしの話が本当かどうか、長谷川に確かめるつもりですか。わたくしの話を疑っていらっしゃるんですね」
「あなたとは今日初めてお会いしたばかりですよ。疑うとか信じるとかいう言葉が出てくること自体どうかしていますね。私はただ、佐伯氏を捜し出すのに手抜きはしないのです」
「名緒子は最高の猟犬を雇ったようですわね」と、彼女は口を歪めて言った。皮肉は褒め言葉として聞き、褒め言葉は皮肉として聞いておくのが無難である。
「佐伯氏の身に危険が及ぶ可能性もあるのはご存知でしょう。あなたは二十四時間前にさっきの話を私にすることもできたのですよ」
 彼女の顔が赤くなった。人に非難されることに慣れていないのだ。彼女は不機嫌な声で、運転手の長谷川を呼ぶように秘書に命じた。
 私はソファから立ち上がって、左手の壁に一点だけ掛かっている絵を見に行った。縦横ともに一メートル弱の油絵の風景画だった。画面の大半は黄色と黄緑色の畑で、赤と白の花が点在している。左上の塀で区切られた外側に、二軒の家や林や山並みが見える。山の上に黄色い太陽が輝き、空までが黄色に染まっている。カレンダーの複製で見憶えのあるゴッホの作品だが、本物かどうか私には判らなかった。しかし、この部屋にあるものなら『モナ・リザ』でもない限り、私は本物だというほうに賭ける。
 私はこの部屋の主を振り返った。「お宅のような大企業でも、都知事の椅子に誰が坐るか──保守か革新かによって、影響があるものですか。あるいは、大企業だからこそ影響がありますかと訊ねるべきかな」
 更科頼子は表情のない顔で私を見つめた。部屋の両端にいながらお互いの心臓の音が聞こえるのではないかと思われるほどの沈黙が支配した。
 ドアをノックする音が沈黙を破って、佐伯名緒子が部屋に戻って来た。彼女はテニスの試合を観戦しているように、義理の母と私を交互に見較べた。内線電話の呼出し音が鳴り、長谷川さんがおみえになりました、と言う成瀬秘書の声が聞こえた。私はゴッホの精神病院の裏庭を離れて、秘書室に通じるドアに向かった。

次章へつづく

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