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世代と国を超えた女性たちの連帯の物語『あなたの教室』試し読み。フランスで150万部の『三つ編み』著者レティシア・コロンバニの最新作

学校から追い出されたインドの少女と、教師を続けられなくなったフランス人。国も世代も異なる2人が出会ったとき、奇跡のプロジェクトがはじまる――。

小説『三つ編み』で、3か国に住む女性たちの人生の交差を描いたレティシア・コロンバニ。その新作『あなたの教室』を9月14日に発売します。
ここでは、プロローグを公開します。

『あなたの教室』(原題:Le cerf-volant)
レティシア・コロンバニ/齋藤可津子 訳
網中いづる 装画
2022年9月14日、早川書房より刊行
(紙・電子同時発売)


プロローグ


インド、タミル・ナードゥ州、
カーンチープラム地方、
マハーバリプラムの村


レナは腹に新奇な蝶がいるような不思議な気持ちで目が覚める。マハーバリプラムに日が昇る。校舎の横にあるあばら家はすでに暑い。予報では日中の気温が40度近くになるという。レナは冷房を設置しなかった。近隣の家々に冷房がないのだから、自分もなくてあたりまえ。ただの扇風機が室内の熱気をかきまぜる。そばの海から吹く風は、干し魚のにおいがする息のような潮風。どんよりとした空のもと、猛暑のなかで迎える新学期。世界の片すみのこの地では、7月に新年度がはじまる。

もうすぐ子供たちが登校して来る。8時半きっかりに、真新しい制服にぎこちなく身をつつんだ子供たちが門をくぐって校庭を抜け、ひとつだけある教室に駆け込んで来るだろう。レナはこの日を心待ちにし、何度も思い描いてきた。プロジェクトを推し進めるために発揮したエネルギーを思う――自分の意志ひとつから生まれた、常軌を逸した途方もないプロジェクト。いまだに村と呼ばれるベンガル湾をのぞむ街――牛と漁師と巡礼者が行き交う浜と古い寺院のあいだに、膨大な数の人がひしめき合って住む海辺の街の一角に、泥から生えた睡蓮が花ひらくように、ちいさな学校が開校した。ペンキ塗りの校舎とバニヤンの大木をかこむ校庭に派手さはなく、つつましく風景に溶け込んでいる。この学校が奇跡の賜物とは誰も思ってもみないだろう。レナはこの瞬間を、念願がかなった祝福すべき日として、よろこんで迎えて当然なのだ。

それなのに、レナは起きあがれない。からだが重くぐったりしている。夜はまた亡霊たちにうなされた。何度も寝返りを打ったあげく、ようやくついた浅い眠りのなかで、過去と現在が入りまじっていた――教師として迎える新年度、記入すべき書類、学用品リスト、授業の準備。長い夏休みのあと迎える新年度の活気が好きだった。すべすべの真新しいノートカバーのにおい、鉛筆やフェルトペンでふくらんだペンケースの柔らかな革。まっさらな手帳、くまなくふかれた黒板に、言いようのないよろこびと、何度でもスタートを切れるという安心感をおぼえたものだ。自宅で、中学校の廊下で、いそいそと立ち働く自分の姿が目に浮かぶ。そんなささやかな日常のはしばしに幸福があった。平凡だからこそ、穏やかな人生が変わらずつづいていくと思えた。

当時の生活がなんと遠くに思えることか。よみがえった思い出のせいで、レナは恐怖の海に沈み込む。ふいに疑念に襲われる。自宅から何光年も離れたこのインド亜大陸の奥地で、わたしはいったい何をしているのか? どんな運命のいたずらから、住民の暮らしも習俗も苛酷で、正確に発音もできない名前のこの村に流れついたのか? 何をもとめてやって来たのか? それまでの常識も、ものの見方も、インドではなんの役にも立たなくなった。新しい世界で傷を癒すつもりだった――不幸をよけようと必死で身を寄せた壁は、猛り狂う海辺に築いた砂のお城のようなもの。防壁はもちこたえなかった。苦悩がぶりかえし、じっとり湿った服のように肌にまとわりつく。新年度を迎えるこの日に、またも容赦なく苦悩に襲われる。

ベッドにいながら、一番のりで登校した子供たちの気配が感じられる。子供たちは胸をわくわくさせて早起きした――この日のことを生涯忘れないだろう。早くもわれがちに校庭に入って来る。レナは外へ迎えに出たくても動けない。意気地のなさが情けない。あんなに頑張ったのに、いまさらくじけるなんて……ふがいない。この企てには勇気とねばり強さ、そして固い意志が必要だった。学校法人の規約を定め、認可をとりつけるだけでは足りなかった。西洋人のおめでたさから、近隣住民はこれまで社会にはばまれていた教育を受けさせられると、大よろこびで子供たちを学校に入れると思っていた。親たちを説得するのにこれほど苦労するとは予想だにしていなかった。米、レンズ豆、チャパティ〔発酵させていないインドの伝統的なパン〕は最強の切り札となった。学校に来れば給食があると約束する。おなかいっぱい食べられることは、人数が多く、ひもじい思いをしている家庭にとって重要な決め手となる。村の女たちは10人から12人もの子供を産むのだ。

頑として応じない親もいた。近所の母親は娘たちを指し、ひとりはやるけど、もうひとりはやらない、と言った。レナにはこの言葉の裏にある悲しい現実がすぐわかった。ここでは子供たちも大人同様に働き家計を助けている。精米所の脱穀機や精米機の騒音と埃のなかで働き、機織工場、素焼きレンガの釜場、鉱物採掘場、牧場、ジャスミンや茶、カシューナッツのプランテーションで、ガラス工場、マッチ工場、煙草工場、水田、露天ごみ集積場で身を粉にして働く。子供たちはまた、売り子、靴磨き、物乞い、くず屋、農場の下働き、石切り工、自転車タクシーの運転手になる。頭ではわかっていたが、レナはここに移住して現実を思い知らされた――インドは世界最大の児童労働市場である。以前見た、北部にある絨毯産業地帯(カーペット・ベルト)の工場のルポルタージュでは、子供たちが一年中、1日20時間こき使われていた。社会の最下層を搾取する現代の奴隷制。その犠牲となるのは、大部分が不可民触だ。不浄とされ、上位といわれるカーストに、大昔から隷従を強いられている。幼い者も例外ではなく、大人たちの苛酷な仕事を手伝わされる。村のあばら家の奥で夜明けから日没まで、かよわい指でビディ〔煙草の葉をボンベイコクタンの葉で巻いた煙草〕を巻く子供たちを見たことがある。もちろん、当局はそんな慣行を否定する。おもてむき、14歳未満の子供の労働は法で禁じられているが、「家族経営の事業における雇用であれば」という無視できない例外が設けられている。このちいさな条項が、こき使われている子供の大部分にあてはまる。ほんの数行で、何百万もの子供たちの将来が断たれることになる。強制労働の犠牲になるのは、まず女の子たちだ。家にとどまることを余儀なくされ、1日中、兄弟姉妹の面倒を見、料理をし、水汲みや薪拾いに行き、そうじ、洗濯、皿洗いに追われている。

レナは親たちの説得に奮闘した。家族の収入の穴埋めに、子供の給金を米で肩がわりするという、とっぴな取引を申し出た。米で子供の将来が手に入るなら安いものだ。なんの良心の咎めもなく、奇妙な駆け引きをした。使える手ならなんでも使うつもりだった。子供の教育のためならどんな手段も許される。レナはなりふりかまわず頑張った。こうして今日、子供たちがここに来ている。

校庭にレナの姿がないのに気づいた子供が、カーテンの閉まったあばら家に歩み寄る。校舎に横づけされたこの小屋が、オフィスと寝室を兼ねたレナの住まいであることは、みんなが知っている。寝坊していると思ったのだろう、ドアを叩いて習い憶えた数すくない英単語のひとつを叫ぶ――「スクール! スクール!」。この叫びが、人生をたたえる歌のように、ふいにレナを奮い立たせる。

この言葉が意味するものを、レナはよく知っている。人生の20年を捧げてきた。思い出せるかぎり昔から、教師になりたかった。おおきくなったらせんせいになる、と子供のころから言っていた。平凡な夢と言う人もいるだろう。とはいえ、平凡なはずの道がレールからはずれ、遠くチェンナイとポンディチェリーのあいだに位置するタミル・ナードゥ州の村の、彼女がいま横たわっているあばら家にいたった。すごい情熱だね、と学生のころ教授に言われたことがある。長年教師生活を送るうち、その熱意もエネルギーもすりへりはしたが、信念は揺るがない――教育は大量破壊ならぬ、大量建設の武器だと固く信じている。

「子供はすべて持っている、奪われないかぎり」とジャック・プレヴェールは書いている。この言葉が、闘いの道のりを呪文のように導いてくれた。レナは奪われたものを子供に返す人になりたかった。この子たちがいつか大学に入り、エンジニアや化学者、医師、教師、会計士、あるいは農学者になるのを想像することがある。彼らが長いあいだ禁じられていた領域を手にした暁には、レナは村のみんなにこう言える――この子たちを見て、いつか彼らが世界をリードし、世界はよりよくなる、だって彼らは誰よりも公正で偉大なのだから。もちろんこんな考え方はいささかおめでたく、思いあがってもいるけれど、そこには愛、そしてなにより教師という職業への誇りがこもっている。

「スクール! スクール!」。子供が連呼するこの言葉は、何千年もつづくインドのカースト制度を蹴散らし、生まれによる社会的条件というカードを切りなおさせる、貧困への挑戦だ。確かな将来、別の人生への通行証を意味する言葉。単なる希望をこえた、救済なのだ。レナにはわかっている。子供たちが校門をくぐり校舎に入った瞬間から、人生は障害となるのをやめて確固としたものへと道をひらく。教育は、彼らが生まれによって定められた運命をのりこえる、唯一のチャンスなのだ。

スクール。この語が矢のように心臓に命中する。レナを鼓舞し、過去の恐怖を吹きはらい、現在に連れもどしてくれる。言葉に元気づけられ起きあがる。服を着てあばら家を出たレナは、目のまえの光景に胸を突かれる――生徒たちが校庭にあふれ、バニヤンの木のまわりで遊んでいる。黒い瞳を輝かせ、髪をふり乱し、歯の欠けた口で笑う子供たちはうつくしい。この光景を頭のなかのスクリーンにとり込んで、永遠に保存しておきたい。

あの少女もいる。喧騒のなか、気高く背筋をのばしてたたずんでいる。ゲームにもおしゃべりにも加わらない。少女はただそこにいる。その存在だけで、この数か月の闘いが報われた思いがする。レナは少女の顔、編んだ髪、そして制服を戦旗のように身につけたきゃしゃな姿を観察する。この服は単なる布地ではなく、勝利の証。ある女性の夢、それをいま、レナと少女は一緒に実現する。

レナは少女に合図する。少女は鐘に歩み寄り、力強くこれを鳴らす。そのしぐさにはエネルギーだけでなく自信のようなもの、未来への新たな確信がこめられていて、レナは心を揺さぶられる。朝の澄んだ空気に鐘の音が鳴り響く。遊びや歓声がやむ。生徒たちは白い壁の教室へ入り、敷物にすわり、レナが手渡す本やノートを受けとる。生徒たちがレナを見あげたそのとたん、教室は水を打ったように静まりかえる。レナの腹のなかで蝶がいっそう激しく羽ばたき出す。そこでレナは深呼吸をする。

こうして、授業がはじまる。

***

レティシア・コロンバニ『あなたの教室』(齋藤可津子訳)は、早川書房より9月14日に紙・電子ともに発売します。

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◉著者 レティシア・コロンバニ


(C) Céline Nieszawer/Leextra/Éditions Grasset

フランス・ボルドー生まれ。小説家、映画監督、俳優。2017年に発表したデビュー小説『三つ編み』は、困難・差別に立ち向かう3カ国の女性の連帯を描き、40カ国で出版されるベストセラーとなった。2019年刊行の『彼女たちの部屋』(ともに早川書房刊)は、パリに実在する困窮者の保護施設を題材に、時代を超えた女性たちのつながりをつづった。両作品は日本でも数々の紙誌・SNSで話題となり、中高生をふくめ幅広い年代の読者から感動と絶賛の声が寄せられた。本書が3作目の小説となる。現在、著者自らが監督する映画『三つ編み』を制作中。

◉書誌情報

書名:『あなたの教室
著者:レティシア・コロンバニ 訳者:齋藤可津子(訳)
2022年9月14日発売/46判並製220頁