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ノーベル物理学賞受賞者が語る「テレポーテーション」の可能性とは?『量子テレポーテーションのゆくえ』本文試し読み

世界で初めて量子テレポーテーションの実験に成功し、2022年にノーベル物理学賞を受賞したアントン・ツァイリンガーが、量子情報科学の「基礎」を徹底的に解き明かし、今後の展望を語り尽くす最良の入門書、『量子テレポーテーションの行方 相対性理論から「情報」と「現実」の未来まで』(アントン・ツァイリンガー、田沢恭子訳、大栗博司監修、早川書房)
古典SFから最新映画まで、様々な作品に登場してきた「テレポーテーション」ですが、それは原理的に可能なのでしょうか? また、「量子テレポーテーション」との違いはどのような点にあるのでしょうか? その基礎の基礎が解説された部分を、本書より一部抜粋して特別に試し読み公開いたします。

『量子テレポーテーションの行方 相対性理論から「情報」と「現実」の未来まで』(アントン・ツァイリンガー、田沢恭子訳、大栗博司監修、早川書房)
アントン・ツァイリンガー[著]田沢恭子[訳]大栗博司[監修]
『量子テレポーテーションのゆくえ 相対性理論から「情報」と「現実」の未来まで』
(四六判・上製)
刊行日:2023年5月23日(電子版同時配信)
定価:2,750円(10%税込)
装幀:早川書房デザイン室
ISBN:978-4152102409

宇宙旅行


私たちはテレポーテーションの話を聞くと、それが理想的な移動方法だと思うことが多い。
どこにいようともそこから姿を消し、次の瞬間には目的地に現れることができるのだ。何よりも魅力的なのは、これがおそらく最速の移動方法となることだ。ただし、忘れないでほしい。移動手段としてのテレポーテーションは、まだサイエンスではなくサイエンス・フィクション(SF)なのだ。

今までのところ、人間が到達できたのは月までで、これは宇宙レベルで見ればすぐ近く、裏庭のようなものだ。太陽系で地球に最も近い惑星である金星や火星でも、地球から月までの距離と比べたらおよそ1000倍も離れている。太陽系内のもっと遠い惑星については言うまでもない。

よその恒星へ行くにはどのくらい時間がかかるのか、考えてみるのは興味深い。人類を初めて月に送り込んだアポロ計画からわかるとおり、地球から月へ行くまでに4日ほどかかる。地球から火星まで宇宙船で行けば、片道で260日くらいかかるだろう。目的地に到着するころには、すっかり退屈しているに違いない。だとしたら、量子テレポーテーションの実験をすれば時間が有効に使えるかもしれない。

もっと遠くへ行くには、系外惑星を探索する無人宇宙船を飛ばすときにやっているように、ほかの惑星か地球自体の加速力を利用すればいい。宇宙船に惑星の近くを通過させ、惑星の重力を利用して加速させ、さらに遠くへ連れていってくれる新たな軌道に乗せるのだ。たとえばこの方法で、パイオニア10号はおよそ11年をかけて太陽系の最も外側にある惑星を通過し、おそらく終わりのない恒星間飛行へと旅立っていった。パイオニア10号の場合、現在の速度で進めば、太陽の次に地球から最も近い恒星であるプロキシマ・ケンタウリに到着するまでに10万年ほどかかると計算できる。

したがって、長距離を移動するには、なんらかの抜け道を使うのがいいだろう。距離の制限なしに、どこへでも瞬時に移動できる方法があるといい。少なくとも理論上は可能だろうか。こんな思いから、SF作家はテレポーテーションを発明した。魔法のように人がある地点から消えて、次の瞬間には魔法のように別の地点に現れるのだ。

テレポーテーションに対する量子的判決


SFでは、テレポーテーションはふつうこんな手順で行なう。まず、オリジナルを精密にスキャンして、あらゆる属性を特定する。スキャン装置でオリジナルの内部にあるすべての原子、すべての電子、すべての素粒子の位置を特定する。この情報は膨大な量となる。次に、この情報を受信ステーションに送る。最後に、なんらかの物質を使ってオリジナルを再構築する。ここで使う物質は、受信ステーションにもとからある材料でもよいし、新たに送り込んでもよいが、材料を送るのは面倒だし、そもそもそんなことをする必要はない。

大事なのは、対象を構成する各粒子の状態を知る必要があるということだ。そしてオリジナルをきちんと再構築できるように、オリジナルの完全な状態に関する情報を受信ステーションに送らなくてはならない。

しかし、ちょっと待て! どんな測定をすればよいというのだろう。一般に、私たちは特定の電子の状態などわからない。電子の状態を調べるには、どうしたらいいのか。位置を調べるか、運動量を調べるか、あるいは何か別のものを調べるか、決めることはできる。問題は、一種類の測定では全体の状態を特定することはできないということだ。たとえば位置を測定するとしよう。この場合、電子の存在する場所を特定すれば、電子の状態が変わってしまう。測定後の電子の状態は、測定前とは違っている。一般に、どんな測定も状態を変え、どんな測定も状態に関する部分的な情報しか与えることができない。測定自体が、測定前に存在していた情報の多くを破壊してしまう。

つまり、電子の未知の状態を測定によって特定することはできない。したがって、個々の系の未知の状態を特定するのは不可能だという、きわめて重大な結論が得られる。つまり原理的に、テレポートしたい対象の特徴を記述する完全な情報を手に入れることはできないのだ。

そんなわけで、SF小説やSF映画で描かれるようなテレポーテーションの手順は決して実現できないと結論できる。これはハイゼンベルクの不確定性原理から得られる帰結だ。テレポートしてもらいたいと思っている宇宙旅行者や、それ以外でも私たちがテレポートしたいと思うどんなものについても、状態を特定することはできない。ハイゼンベルクの不確定性原理は、私たちが個々のいかなる系についても、完全な情報を得ることを禁じる。だからSF作家が想像するのとは違って、対象の特徴すべてをスキャンして受信ステーションに送信することでテレポーテーションを実行することはできないのだ。

SF作家の思い描くようなテレポーテーションが実現不可能であることに加えて、私たちはそれよりはるかに重要なことを知った。テレポーテーションやSFよりもはるかに重大な意味をもつ事実を知った。世界を完全に理解するのは不可能だということを知ったのだ。

しばらく視野を広げて、科学という営為自体について考えてみよう。世界には誇張でなく何百万人という科学者がいる。彼らは何をやっているのか? 彼らは事実を「知ろう」としている。宇宙について何かを知りたがっている。自然の法則を見出そうとしている。物事を観測したいと願っている。系(電子エレクトロンであれエレファントであれそれ以外の何であれ)の特性を明らかにして「説明」することを望んでいる。現代の科学は、これをある特定の方法で実践してきた。そして過去何世紀ものあいだ、その方法は成功へ至る黄金の道だった。その方法とは、対象に迫り、微に入り細を穿うがつまで観察し尽くすことだった。

ものの本質を奥深くへと調べていくことによって、人は興味深い事柄や美しい物事をいろいろと見出してきた。物質を構成する基本要素が原子であることを突き止めた。さらに原子自体も電子や陽子、中性子からなることを解明した。そしてこれらよりもさらに基本となる「クォーク」という構成要素が存在することも明らかにした。この探求は、今もなお完結には程遠い。たとえばスイスのジュネーヴにある欧州原子核研究機構(CERN[セルン])で行なわれた最近の実験を見ればわかる。

だが、量子力学は不意に、世界の状態を完全に知るには根本的な限界があるということを私たちに思い知らせる。個々の系の性質を知ることにも限界があり、それゆえ世界の性質を知るにも限界がある、ということを私たちは知った。いかなる電子についても、あるいはいかなる素粒子についても、量子状態を完全に特定することはできない。そして量子力学は、少なくとも今日の私たちが知る限り、どんな場でもあまねく有効なので、どんな対象にもあてはまる。日常生活の中に存在する対象については、あらゆる実用的な目的においてハイゼンベルクの不確定性原理を無視しても問題はない。しかしいつか、量子的不確定性がマクロな対象にも影響することを証明できる日が訪れるだろう。これは技術の発展に依存する問題である。量子的不確定性がどこかで終わることを示す兆しは、目の届く範囲には存在しない。

『スタートレック』を書いた人たちは、どうやらハイゼンベルクの不確定性原理によって課される限界についてどこかで聞いていたらしい。科学者のなかにもファンがたくさんいるから、そのうちの誰かが教えたのだろう。『スタートレック』ファンなら誰でも、製作者がこの問題をどうやって回避したのか知っている。「ハイゼンベルク補正器」なるものを発明したのだ。この架空の装置は、ハイゼンベルクの不確定性原理の示す問題を解決してくれる。実際には、そんな装置はきわめて根本的な理由で実現不可能だ。したがって、ハイゼンベルク補正器で用いられている仕組みを説明することはできない。『スタートレック』シリーズで技術アドバイザーを務めたマイケル・オクダは、あるとき《タイム》誌に「ハイゼンベルク補正器はどんなふうに働くのか」と訊かれ、「じつによく働くよ、おかげさまで」と答えたと言われている。

こんなわけで、今までにわかっているのは、量子力学がテレポーテーションの夢を断ち切るということだ。それでも、読者は希望をもっていい。量子テレポーテーションを扱った一冊の本があなたの目の前にあるということは、これらの制約を回避する方法があるに違いないのだから。


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◆書籍概要

『量子テレポーテーションのゆくえ 相対性理論から「情報」と「現実」の未来まで』
著者: アントン・ツァイリンガー
訳者: 田沢恭子
監修:大栗博司
出版社:早川書房
本体価格:2,500円
発売日:2023年5月23日

◆著者紹介

アントン・ツァイリンガー  (Anton Zeilinger)
1942年、オーストリア生まれ。量子物理学者、ウィーン大学物理学教授。量子情報研究の先駆者であり、1997年、世界で初めて光子の量子テレポーテーションの実験を成功させたことで知られる。2022年に「量子もつれ状態の光子を用いた実験によるベルの不等式の破れの実証と、量子情報科学における先駆的研究」でアラン・アスペ、ジョン・クラウザーと共同でノーベル物理学賞を受賞。

◆訳者略歴

田沢恭子  (たざわ・きょうこ)
翻訳家。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科英文学専攻修士課程修了。主な訳書にプフナー『物語創世』(共訳)、クリスチャン&グリフィス『アルゴリズム思考術』(以上早川書房刊)、ルース『AIが職場にやってきた』、マネー『酵母』など。

◆監修者紹介

大栗博司  (おおぐり・ひろし)
1962年、岐阜県生まれ。理論物理学者。東京大学国際高等研究所カブリ数物連携宇宙研究機構機構長、カリフォルニア工科大学フレッド・カブリ冠教授、ウォルター・バーク理論物理学研究所所長、アスペン物理学センター理事長。著書に『重力とは何か』、『探究する精神』など。

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