うつのときに読んで読んで読みまくった本たち/マット・ヘイグ『#生きていく理由』より
マット・ヘイグ/那波かおり訳『#生きていく理由』
うつに苦しんでいたマット・ヘイグは、郊外のアパートに恋人とともに移り住んだ。日当たりの良いそのアパートで、マットはうつ状態からすこし「浮上」する。絶望のさなかは何の意味もなさなかった文字たちが、急にくっきりと意味を持ちはじめ、マットは「本を読んで読んで読んで読みまく」るのだった。
『権力と栄光』を読んで
そのころ読んだ(再読した)本の一冊が、グレアム・グリーンの『権力と栄光』だった。
グレアム・グリーンにはちょっとした因縁がある。リーズ大学の文学修士課程で、この作家について研究した。グレアム・グリーンを扱うゼミをなぜ選んだのかよく憶えていない。それまでこの作家についてほとんど知らなかった。『ブライトン・ロック』という作品名を知ってはいたが、読んでいなかった。ただ、彼がノッティンガムシャー州に住んだことがあり、かの地を嫌っていたと聞いたことがあった。僕もノッティンガムシャー州民だったころは同じように思っていた。グレアム・グリーンを研究するゼミを選んだ理由はたぶんそのあたりだったのだろう。
最初の数週間で失敗だったと気づいた。ゼミを選択した学生は僕しかいなかった。そのうえ、指導教官に嫌われた。「嫌われた」というのが言いすぎなら、確実に気に入られていなかった。彼はカトリック教徒で、いつもびしっと背広を着こなし、言葉のはしばしに僕に対する侮蔑を匂わせた。
彼と過ごす長い時間からは睾丸検査のために医者に行くときほどのくつろぎと喜びしか得られなかった。僕はたびたびビールの力を借りた。アンドレアと暮らしていたハルから大学のあるリーズに向かう列車のなかで、一、二缶のビールをあけることがよくあった。そして、ゼミの最後に自分史上最高の論文を書きあげたが、教官からは「優等」に一点足りない六十九点の評価しかもらえず、僕はそれを個人的な侮辱と受けとめた。
ともあれ、僕はグレアム・グリーンを再読して、この作家が大好きになった。彼の作品には僕にもなじみのある苦しみが、あらゆる種類の心痛があふれていた。罪、セックス、カトリシズム、報われない愛、禁欲、熱帯の暑さ、政治、戦争についての懊おう悩のう。あらゆるものが苦悩をみなぎらせていた。ただし、その散文的な文体だけを除いて。
僕はグレアム・グリーンの書き方を愛した。明解な事象を抽象的な概念でたとえる書き方を愛した。〈彼は天罰のようにブランデーを飲みほした〉。うつのさなかにいるとき、この技法がいっそう好きになったのは、現実と非現実の境界が曖昧になっていくのを感じていたからだった。自分自身の肉体でさえ非現実的で抽象的で、どこか虚構であるかのように感じられたものだった。
『権力と栄光』では、カトリックが弾圧される一九三〇年代のメキシコを、主人公の「ウィスキー神父」が旅をする。彼は最初から最後まで、彼を追跡する任務を負った「警部」に追われつづけている。
大学時代に一読したときからこの物語を気に入っていたが、再読することでますます魅了された。イビサ島でアル中すれすれの状態にあった男が、メキシコを旅するアル中すれすれの男に共感するのはわけもないことだった。
確かに、陰うつで張り詰めた物語だが、陰うつで張り詰めた心に語りかけることができるのはこういう種類の本しかない。ただし、本書にはひとつだけ明るい兆しがある。救済の可能性だ。『権力と栄光』は、愛の持つ癒やしの力について書かれた本でもある。
〈憎しみというものは、想像力を欠くところから生まれる〉と、本書のなかにある。
でも、一方では……〈子供時代のどこかに、扉があいて、未来を招じ入れてしまう一瞬というものが常にある〉。経験が無垢を取り囲み、無垢は一度失ったが最後、二度と取り戻すことはできない。この本は、彼の他の作品と同じように、カトリックにおける罪というテーマを扱っている。でも僕にとって、これはうつについて書かれた本だ。グレアム・グリーンにはうつ傾向があった。彼は父親が人望のない校長だったために学校でいじめを受けた。ひとりでロシアン・ルーレットをやって、自殺の一歩手前まで行ったこともある。僕にはカトリック教徒としての罪の意識の持ち合わせはないが、うつ病のもたらす罪悪感ならあった。そしてこの本がうつ病を患う孤
立感から解放されるのを助けてくれた。
その当時に読んだ書物の何冊かを記しておこう。
イタロ・カルヴィーノ『見えない都市 』
このうえなく美しい作品。ヴェネツィアのようでまったくヴェネツィアのようではない、いくつもの空想都市。ページから立ちあがる夢。そのすばらしさが、心のなかの不穏な光景をほとんど追いはらってくれた。
S・E・ヒントン『アウトサイダー 』
十歳のとき、僕はこの本のおかげで読書に目覚めた。以来ずっとお気に入りの「現実逃避本」になった。まさにアメリカの青春であり、ぐっとくるせりふがいっぱいある(たとえば、「黄金の輝き(ステイ・ゴールド)を保て」。死の床にあるジョニーが、ロバート・フロストの詩「黄金の色はあせる」を読んだあとに言う)。
アルベール・カミュ『異邦人』
社会のアウトサイダーである主人公と、その実存的な絶望に共感し、感情が麻痺したような、たんたんとした語りに不思議と心が安らいだ。
『コリンズ・コンサイス引用事典』
古今東西の金言を気軽に読める。
『キーツ書簡集』
詩人、ジョン・キーツについて大学で研究した。若き詩人の典型とも言うべきキーツ青年は感受性が強く、運がなく、神経が張り詰めていた。僕も自分のことをそんなふうに感じていた。
ジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない 』
ジャネットの書く小説が大好きだ。一言一句に知恵の力が宿っている。行き当たりばったりにページを開いても、僕に語りかけてくるような彼女の言葉に出会う。〈ぐるりと円を一周して、またスタートラインに戻ってきたような気分だった〉
ニコルソン・ベイカー『もしもし』
テレフォン・セックスで埋め尽くされた小説。十六歳のときに興味をそそられ、夢中になった。全編会話のみ。気楽に読める。セックス、もしくはセックスの妄想であふれた本。不安に蝕まれる若者にとっては、セックスについて考えることが前向きな気晴らしになることもある。
マーティン・エイミス『マネー』
僕が隅から隅まで知り尽くした本だ。この作品をテーマに論文も書いた。大胆で、威勢がよく、辛辣で、滑稽で、男っぽい(ただし、ときに小憎らしい)散文調の文体にのめり込んだ。喜劇のなかにぽつねんといる美女のようだ。〈時々刻々と弱っていく。ロンドンのアパートでひとり、窓の外を見つめているとき、雨を眺めながら、なぜ雨が降るのかを知らないというのは、なんと情けない、耐えがたいことかと思う〉
『サミュエル・ピープスの日記』
十七世紀の英国官僚、サミュエル・ピープスが遺した日記のなかで、とくにペストの流行〔一六六五〕とロンドン大火〔一六六六〕の項を読んだ。黙示録的な惨事のなかでピープスが活力をみなぎらせるようすには治療的な効果があった。
J・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
読んだ理由は、主人公のホールデンが僕にとって昔なじみのようなものだから。
『第一次世界大戦の詩』
アイヴァー・ガーニーの「奇妙な地獄」(〈心が焼け焦げている。しかし、それを顔に出すわけにはいかない〉)、あるいはウィルフレッド・オーエンの「精神病患者」(精神科病院に入院した戦争神経症患者を描写した詩)に魅せられ、心をかき乱された。僕には戦争体験がない。にもかかわらず、〈傷口がふたたび口をあけて血を流すように夜明けがはじまる〉という、新しい一日を迎える苦しみがよくわかった。うつと不安神経症が、戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)と重なり合うことに興味を覚えた。僕たちは自分では気づかないうちにトラウマを負っているのではないだろうか。そういう弱さが僕にもあったのではないか。石器時代と変わらない脳を持つ現代人にとって、都会の喧噪とスピードはトラウマにならないだろうか。人生がある種の戦場であることに、多くの人は気づいているだろうか。
ジュリアン・バーンズ『10 1/2章で書かれた世界の歴史』
なぜ読んだかと言えば、かつて読んで大好きになった本であり、おもしろくて不思議で、作品の隅々まで知り尽くしているから。
マーガレット・アトウッド『ウィルダネス・チップス』
短編集は、登りやすい小さな山のようなもの。「トゥルー・トラッシュ」True Trash というタイトルの一篇が僕のお気に入りだ。ウェイトレスに色目を使う少年のお話。
ジーン・リース『サルガッソーの広い海』
シャーロット・ブロンテの長編小説『ジェーン・エア』の時間軸を遡さかのぼった続編。「屋根裏の狂女」がなぜ狂気に陥ったのかを解き明かすという筋立てだ。主な舞台は西インド諸島。僕が何よりも共感したのは、楽園における孤立感と絶望。〈世界でもっとも美しい土地〉で心を病んでいる孤立感と絶望だった。それはスペインのイビサ島で過ごした最後の週を思い起こさせた。
「全英No.1 ベストセラー生み出した奇跡のハッシュタグ「#生きていく理由」とは?」はこちらから。
著者紹介
マット・ヘイグ Matt Haig /写真©Kan Lailey
1975年生まれ。イギリスの人気作家。小説、児童書、ノンフィクションと様々な作品を手がける。邦訳に小説『今日から地球人』(ハヤカワ文庫)がある。SFタッチの最新小説 How to Stop Time(早川書房近刊)もベストセラーとなり、ベネディクト・カンバーバッチ主演で映画化が予定されている。『#生きていく理由』は彼の自伝的エッセイ。作家になる前からデビュー以降までの自身のうつ体験を描き、世界中の読者の共感を得た。