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【多様な視点 語り合って気づいた】ベストセラー『同志少女よ、敵を撃て』を読む/ハヤカワ高校生読書会レポート【第一部:各高校の生徒が考えた読みどころの発表】

2023年2月、早川書房の呼びかけで浦和第一女子高校、慶應義塾高校、渋谷教育学園幕張高校の3校から読書好きの生徒10人が東京・神田の早川書房本社に集まり、読書会を行いました。

課題図書となった逢坂冬馬さんの小説『同志少女よ、敵を撃て』は、第11回アガサ・クリスティー賞、2022年の本屋大賞を受賞、累計50万部を超えた話題作です。第二次世界大戦下のソ連で、女性だけの狙撃小隊に入った少女を主人公に据える本作は、全国の高校生が選ぶ第9回高校生直木賞も受賞するなど、若い世代の読者にも愛されています。

『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬 書影(イラスト:雪下まゆ)
『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬 書影
(イラスト:雪下まゆ)

主人公のセラフィマと同世代の高校生たちは、この作品をどんな風に読んだのでしょうか。読書会の様子を詳しくご紹介します。(この記事では第一部「各高校の生徒が考えた読みどころの発表」をご紹介します)

※この記事には『同志少女よ、敵を撃て』のネタバレが載っています。未読の方はお気を付けください。

2月19日のお昼過ぎ、早川書房本社ビルの一室に、次々制服姿の高校生が姿を見せました。司書や国語科の先生の呼びかけで集まった生徒たち。なかには、同じ高校でも初対面同士の生徒もいるとか。コの字形に並んだ机に着席し、みんなちょっと緊張気味の面持ちです。

第一部 各高校の生徒が考えた読みどころの発表

渋谷教育学園幕張高校の生徒が考えた「読みどころ」

『同志少女よ、敵を撃て』の読みどころを発表する渋谷教育学園幕張高校の生徒たち
『同志少女よ、敵を撃て』の読みどころを発表する渋谷教育学園幕張高校の生徒たち

戦争をリアルに感じられる

(渋幕・林さん)まずこの小説の読みどころは、なんといっても、戦争がリアルに感じられるというところです。題材は独ソ戦という、現代日本からは時代も場所も遠い、想像しにくいものですが、細かい戦況の説明やわかりやすい描写によって、実際に自分の目の前で戦争が起こっているかのように感じられます。私たちは戦争を経験したことがなく、学校で習ってもいまいちピンときません。例えば、戦死者数を聞いても、あまりに膨大で、現実味がなく、数字としてしか捉えられませんでした。しかし、小説の中で死んでいった仲間たちのような一人一人が積み重なった数だと思うと、戦争の恐ろしさというのがよくわかります。戦争の不条理さや苦しみというのは私達が想像する何倍もあると思いました。

また、戦争によって変わる価値観や、それに合わせざるを得ない人々の存在を、この小説を通して知りました。それはこれまで想像したことがなかったもので、戦争が表面的なものだけでなく、深いところまで人々を苦しめるということを知りました。ウクライナ侵攻が突如起こったり、紛争がこのように各地で起こっていたりと、不安定な情勢下の現在において、この小説を他人事で済ませられるのも、いまのうちかなと思います。1人でも多くの人がこの小説を読んで、自分たちがいるこの平和のありがたみというのをもっと考えてもらえたらいいなと思います。ここからは具体的なシーンに絞って紹介していきたいと思います。

ビームライフルを実際に構えてみて

(渋幕・飯泉さん)この本の魅力は、登場人物や状況、情景描写など、いろいろあると思いますが、今回は「銃」に注目してお話していきたいと思います。

この本には銃の描写がたくさん出てきます。その中でも私が好きなのは訓練の場面です。教官のイリーナが少女たちに様々なことを教えていきます。イリーナは、人を殺すための道具としての銃、人を殺すための術だけを教えるのではありません。狙撃手の少女たちが生き残るための方法を教えている、という観点で描かれているところに、イリーナの少女に対する深い愛が感じられると思います。

自分の視力、見え方、スコープの性質を覚えろ。徹底的に覚えて、気象、地域差、心理状態がどのように影響するのかを全て覚えろ。そうすれば間違えなくなる

『同志少女よ、敵を撃て』64頁より イリーナの台詞

先ほど言ったように、こういうセリフから、少女たちを守ろうというイリーナの愛が感じられると思いました。

少女たちが戦争に行くということは不自然なことだと思います。成人男性と比べて体格差があり、持久力などの面でも兵士としては十分ではない。だけど、狙撃手として銃を扱うという観点では問題はあまりありませんし、むしろ体格が小さいので、敵から見えにくいというアドバンテージもあります。

とはいっても、やはり厳しい状況の中で、普段だったら絶対に持つことのない、人を殺すための道具を持って、戦場で戦っていたということは本当に大変なことだと思いました。私の祖父や両親がライフルを嗜んでいるのですが、いままでは興味がありませんでした。でも、この本を読んで少し興味が出て、射撃場にビームライフルを撃ちにいくことにしたんですね。やっぱり、こうやって構えるんですよ。そうしたら、現代の銃でさえもすごく重くて、肩のあたりがすごく痛くなる。

実際に射撃場でビームライフルを構えたときの再現をする渋幕・飯泉さん
実際に射撃場でビームライフルを構えたときの再現をする渋幕・飯泉さん

構えているときに、イリーナたちの時代に、過酷な状況の中で、本当に大変だったんだなと思ったんです。スコープを覗き込むんですけど、そのときに、セラフィマがカチューシャを歌って意識を集中させていったんだなと思うと、そういった描写と自分の体験が重なって、より深くセラフィマに感情移入することができました。みなさんも想像してみてください。こうやって構えて、スコープを覗き込んで、相手に意識を集中させる。とすると、セラフィマだけじゃなくて、イリーナやその他戦場で戦っていた数多くの女性兵士のカチューシャの歌声が聞こえてくるかもしれません。

変化していくキャラクターの魅力

(渋幕・畔上さん)私はこの小説の読みどころとして、登場人物、キャラクターに注目しました。同じような傷を抱えながらも個性的なそれぞれのキャラクターは、この小説の大きな魅力になっています。私は、そのなかでもキャラクターが魅力的な理由として、登場人物の変化、プロフィール、登場人物同士の絆の魅力について、そして、登場人物に注目するにあたっての読みどころについてお話をさせていただこうと思います。

まず、登場人物の変化についてですが、私はこの小説から、登場人物自身の成長としての変化と、読者に与える印象の変化の二つを読み取りました。主人公セラフィマをはじめ、もとは一般市民だった少女たちが日々訓練に明け暮れ、優秀な狙撃兵へと成長していく姿を読み、私は彼女たちを応援したい気持ちになりました。丁寧に訓練の描写がされていて、訓練のキツさと、それをこなしていく彼女たちの努力や強い意志が伝わってくるからかもしれません。

ただ、私は彼女たちを応援したいがゆえ、中盤の戦闘でセラフィマたちがたくさんの敵国の兵士を撃っていくシーンでも、「がんばれ」という気持ちになってしまいました。戦争でいう「がんばる」とは、すなわち人を数多く殺すことです。私をはじめ多くの読者は、物語を読み進めていくにつれ、彼女たちが人を殺すことを肯定的に捉えるようになってしまうと思います。スターリングラードでのセラフィマや初戦闘でのアヤの気持ちを疑似体験するように、です。

しかし、終盤になり、数多くの出会いと別れを経験し、仲間の多様な価値観に触れることで、セラフィマは狙撃の技術とはまた違う、戦争や命に対する考え方についてのような、精神的な成長をしていきます。彼女たちを応援し、生存と戦争の終結にほっとした私たち読者は、エピローグの

セラフィマが戦争から学び取ったことは、八百メートル先の敵を撃つ技術でも、戦場であらわになる究極の真理でも、拷問の耐え方でも、敵との駆け引きでもない。命の意味だった。

『同志少女よ、敵を撃て』477頁より

という文章を読んで、はっとするのではないでしょうか。

結局、戦争は命を奪うことに変わりはなく、どんな大義があろうとそれは変わらない、ということを私は読み取り、少し前の自分の心情を後悔しました。登場人物の成長を見届けた読者が、今度は登場人物によって成長させられるという構成は、他の本ではあまり見られない、特別な魅力だと思います。

登場人物に注目して本書の魅力を語る渋幕・畔上さん
登場人物に注目して本書の魅力を語る渋幕・畔上さん

また、登場人物の成長が伝わる物語の終盤は、大きなよみどころだと私は考えます。また、登場人物は、しばしば物語を通してイメージが二転三転します。例えば、はじめは感じが悪かったけれども、狙撃小隊の癒しとなっていったシャルロッタや、スパイだったことが発覚してからもセラフィマを助けたオリガのように、読者の中での立ち位置が変化するたびに、私たちは感情を動かされ、意外さや親しみを感じます。もちろん、物語のキーパーソンとなっているイリーナの本当の気持ちが徐々に明かされていくことにも、どことなくミステリーのような楽しさと、「そうだったのか」という感動を受け取りました。

また、これによって、もう一度始めから読み返す楽しさも生まれます。全てを知った後に、ここはこのような意味だったのか、と納得しながらもう1回読むことを、私はぜひおすすめしたいです。どんでん返しのような展開が好きな私としては、物語の大きな変化が登場人物によってなされることは、物語と登場人物双方の大きな魅力だと思います。

次に、登場人物のプロフィールについては、詳しいが詳しすぎない、というところがちょうどいいな、と思いました。登場人物の生い立ちや思想、信念など、物語の根幹に関わる箇所はそれぞれ丁寧に描かれていて、それによって私たちは各登場人物に感情移入して、自分ごとのように物語を読むことができます。また、登場人物の背景を知ることで、どうしてこのような思想を持つに至ったのか、どうしてこのような行動をしたのかということを考察することができます。

ただ、キャラクターの外見や動き方などの部分は、物語の中ではあまり語られていません。よって、私たちはキャラクターの描かれていない部分を想像する楽しさを味わうこともできると思います。例えば私は、自分で勝手に登場人物の声や話し方、外見を想像して楽しんでいます。ソ連の軍服について調べてみたりもしました。みなさんも、意識的だったり無意識的だったりに、登場人物の自分なりのイメージを持っているのではないでしょうか。物語に影響を与えない範囲で、読者がそれぞれの登場人物像を持つことができる点は、読んでいて大いに楽しめる点だと思います。

最後に、登場人物の絆についてですが、戦争の非情さが丁寧に描かれている一方、登場人物たちの日常生活のほのぼのとした絆も描かれていることで、重いテーマでもすいすいと読むことができ、そこが大きな魅力だと思います。ヤーナがママと呼ばれていたり、戦争に行く前にセラフィマたちが街へ遊びに行こうとするシーンを読んでいて、まるで21世紀の平和な日本で生きる私たちと変わらないなと親しみを持ちました。

しかし同時に、ほのぼのとした日常と、戦闘中の対比によって、より死の悲しみや戦争が人間に及ぼす影響が私たちに伝わってきます。登場人物が戦死したシーンでは、どうして私たちとそう変わらないような少女たちが、戦争だから、兵士だからという理由だけで亡くなるのだろうとやるせない気持ちになりました。マクシム隊長が死の直前で思うように、彼女たちが無邪気さと冷酷さを併せ持っている点は、魅力であると同時に、恐怖でもあると思いました。

加えて、先程も述べさせていただいた通り、刻々と変化する登場人物間の関係性は、どんどんと物語を先に進めてくれます。狙撃小隊の仲が良くなかったら戦争中の苦しみはもっと大きかったでしょうし、オリガとセラフィマの間に一切の絆がなかったならセラフィマは戦死していたでしょう。戦争が終わった後でも、狙撃小隊で育んだ絆をもとに、彼女達の人生は予想もしていなかった方向に収束していきます。また、サンドラやターニャのように、復讐に燃えるセラフィマとは全く異なった態度で敵国兵士と接する登場人物との交流によって、価値観が変化していくところも登場人物の関係性のよみどころです。私自身も、ソ連に住んでいるならソ連の味方をするべきだとはじめは思いましたが、その考え方は絶対に正しいわけではないと、物語を通して思うようになりました。どれが正しいかはわからないけれど、多様な戦争観に触れ、登場人物と一緒に自分の価値観を見つめ直す機会を得られて良かったと思います。

このように、登場人物たちの関係性の中で、登場人物のみならず私たち読者もさまざまなことを考えさせられます。その問いは難しく正解のないものですが、物語を通して、自分なりの答えの一端を見つけられるのではないかと思います。

以上の3点が、私が『同志少女よ、敵を撃て』を読んで感じたキャラクターの魅力とよみどころです。みなさんにも、他にもたくさんある、キャラクターの魅力を探してほしいと思います。

慶應義塾高校の生徒が考えた「読みどころ」

現代を生きる私たちが読む意味は

(慶應・石井さん)前半は戦争を通して生まれてしまった変化や登場人物同士の関係性から、後半はこの小説を「現代」を生きる私たちが読むことの意味から、この作品の魅力を説明しようと思います。

『同志少女よ、敵を撃て』の読みどころを発表する慶應義塾高校の生徒たち
『同志少女よ、敵を撃て』の読みどころを発表する慶應義塾高校の生徒たち

まず、戦争が登場人物に与えた影響についてです。私たちはこの物語上での2つの変化について考えました。一つ目は、狙撃兵たちの殺人に対する考え方の変化です。元猟師だったアヤやセラフィマ、競技射撃の選手だったユリアンやシャルロッタなど、この作品には優秀な狙撃兵たちが登場します。そんな彼らでも狙撃をするときや訓練中など緊張を要するとき以外は、若い男女と変わらない笑顔を見せます。ところが、いざ戦闘となると「敵の命をより多く素早く奪う人間兵器」になり、時にその兵器としての一面が彼らを侵食し、彼らの精神を追い詰めます。ユリアンはスターリングラードでの作戦で狙撃スコア25に拘っている様子を見せ、マクシム隊長にとがめられます。

また、アヤが命を落としたのは敵を撃つ快楽に一瞬浸ったことで、敵に隙を見せたからであり、それを見ていたはずのセラフィマもスターリングラードでスコアを隊員に笑顔で自慢し、その後我に帰って自己嫌悪にさいなまされるという経験をします。戦争の「敵を撃つためには同情を捨てなければいけないが、敵を撃つ快楽に心を奪われてはならない」という過酷な状況が兵士たちの精神に暗い影を落としてしまったのです。

二つ目は、セラフィマの幼馴染ミハイルの変化です。彼が最終的に戦勝地でドイツ人女性に暴行しようとしていたシーンは、いわゆる「犯人」が判明するという意味で、この小説の最も大きなミステリー要素だと言えるでしょう。セラフィマはこの光景を見てミハイルを一切の躊躇なく射殺しますが、この後のミハイルの部下目線の描写によって、ミハイルが周囲にそそのかされて暴行に及んだことが明らかになります。それによって、小説中盤で彼が言っていたように戦場での性的暴行はある意味で隊の士気を高めるための行為とみなされており、読者は「完全にミハイルが悪い」とは言い切れなくなります。

私たちはこの事件が、周囲の隊員が日常的に性的暴行を行っていて、かつセラフィマが戦場での女性の蔑まれ方を目にしてきたことで起きたものだと考えました。ミハイルの射殺は、戦争という現象によって容易く変わってしまう人々の倫理観の脆さを表現していると感じます。スターリングラードで、亡くなった夫との子どもを守るためにドイツ兵と肉体関係を結んでいたサンドラをはじめとする市民たちも、戦争によって自分の命のために倫理観を歪められた被害者だと思いました。

戦争が登場人物に与えた影響・変化について発表する慶應高校の生徒
戦争が登場人物に与えた影響・変化について発表する慶應高校の生徒

狙撃小隊のシスターフッド

(慶應・大石さん)続いて、この小説の中心テーマの一つ、少女たちの狙撃兵としての連帯=シスターフッドについてです。シスターフッドとは、「もともとは女性解放のために女性が団結して行動を起こす」という意味ですが、単に物語などでの女性の団結を意味することも多いです。第二章までは狙撃兵の養成学校において教官イリーナの元、戦争で行き場をなくした少女たちが厳しい訓練を課される様子が描かれています。

その訓練を経て教官に狙撃兵に向いていないと評価されたものは、退学となり他の手段で赤軍の勝利に貢献することを求められます。セラフィマたち訓練生は、学科の授業と身体的訓練を交互に行うことで心身ともに疲弊していきます。しかし同時に、同じような境遇の少女たちと厳しい訓練を耐え抜く日々を通して、お互いに共感を抱き、励まし合い、その仲間意識をより強固なものにします。

例えば、出会った時にはお互いにあおりののしり合ったセラフィマとシャルロッタの関係性は、お互いの弱みと強みを認識することによって、尊敬や信頼を孕んだものへと変化していきます。生きている牛を狙撃する訓練で、シャルロッタが逃げ出してしまった時はセラフィマが追って励まし、セラフィマの言葉で自信を取り戻したシャルロッタは別れ際に親愛を込めてキスをします。

また、成績優秀で冷静さを欠かないアヤの、片付けが苦手という一面を見て、セラフィマは彼女に対して信頼を抱きました。その後アヤは命を失ってしまいますが、物語序盤で描かれた彼女たち狙撃訓練生たちの助け合いと成長の様子は、読者が彼女たちに感情移入する大きな助けになったでしょう。

百合作品として読み解ける?

(慶應・印南さん)僕が話すのは『同志少女よ、敵を撃て』はいわゆる百合作品であるか否かについてです。インターネット上でも百合作品としての読み解きは多くあり、 この作品のジャンルを位置づけるうえでも、多くの人が気になる一面ではないでしょうか。私たちはこの作品ではっきりとした恋愛表現をしているというよりも、女性同士の仲間を超えた関係が作品全体を通してうっすらと示唆されており、この作品の女性同性愛というテーマの考え方を読者にゆだねているのではないかと考えています。

『同志少女よ、敵を撃て』の中で描かれる女性同士の関係について話す慶應・印南さん
『同志少女よ、敵を撃て』の中で描かれる女性同士の関係について話す慶應・印南さん

作品内では、シスターフッド同士の接吻シーンの多さ、セラフィマの「女性を守るために戦う」戦争、イリーナとセラフィマの長い期間にわたる同棲など、女性同士の愛情を示すシーンがたくさんあります。また、「敵」の正体である「女性を脅かす存在」としての男性が、敵味方に関係なく登場し、当時の女性に対する軽視、戦時中のジェンダー問題も示しているという意味で、「女性を主体とした作品」であることがわかります。しかし、作者は作品全体を通してはっきりと女性同士の愛情を強く表現しているかというと、決してそうではありません。実際に百合作品でよくみられる同性への告白や、肉体描写など、はっきりとそれを明示する場面は最後の「シャルロッタとするキスとは、少し違う感触がした」イリーナとのキスを除いて見受けることはできません。

つまり作者は、女性同士の愛を文章で匂わせつつも、それの正当性を主張しているわけではないのです。そこで私たちは、作者が同性愛をあえて薄く示すことで、その解釈を読者に委ねている。もっと言えば、LGBTQおよびジェンダーの問題は「個人個人が自分なりに解釈できれば良い」、「それぞれの個性、内に秘めた愛情を一つの結論に決めつけなくてもよいのだ」、という一種の寛容性を主張しているのではないかと考えています。文学の表現の中から、現在議論されている課題へと発展させている点においても、作者の逢坂さんは本当にすごいなと思います。

ウクライナ侵攻に重ねて

(慶應・大賀さん)次に、この作品の魅力として、戦争の疑似体験ができるということがあります。特に、セラフィマの一人称視点だけでなく、敵兵のイェーガーの語り口でも物語が書かれていることが、どちらにも感情移入させます。戦争は相手を悪だと決めつけていつつも、お互いに譲れない思いがあり、愛があり、それでも相手を憎まなければならないやるせなさを読者たちに痛感させているのではないでしょうか。

ほかにも、少しずつ打ち解けていったアヤの序盤での戦死は、仲間を失うつらさを訴えかけますし、敵兵士による自国民の暴行など、戦争の負の部分が作品を通して全体に網羅されています。これは、文学的作品としてだけでなく、歴史的資料およびそれを想起させる文献しても非常に貴重な1冊といえるのではないでしょうか。

ウクライナ侵攻に重ねて『同志少女よ、敵を撃て』を読み解いたという慶應・大賀さん
ウクライナ侵攻に重ねて『同志少女よ、敵を撃て』を読み解いたという慶應・大賀さん

そして何よりもおよそ1年前から始まったロシアによるウクライナ進攻をうけて、読者自身が現実にセラフィマたちが見た地獄の世界が繰り広げられているのかもしれないという不安、恐怖を読者らが想起することにもなります。読者が戦争の疑似体験をすることによって戦争の恐ろしさ、戦場に赴く人々のやるせなさを心に抱き、読者の反戦意識を高めることができるのではないかと思っています。

さらに、これは擬似体験とは少し逸れますけれども、セラフィマが自分にとっての戦争とは女性を守ることだと悟ったように、読者らも自分の目の前の出来事に対しての、自分の本当の戦いや目的を見つけるきっかけになるなど、啓発本としても非常に優れた一冊であることがわかります。

浦和第一女子高校の発表

(浦和一女・本多さん)私たちは高校生直木賞の実行委員として活動しています。先日はありがたいことに、私たちの学校に逢坂先生をお招きしての講演会もさせていただきました。本日も皆さんとお話できることをとても楽しみにしておりました。ここからは、作品全体についての考察をしていきます。

『同志少女よ、敵を撃て』の読みどころを発表する浦和第一女子高等学校の生徒たち
『同志少女よ、敵を撃て』の読みどころを発表する浦和第一女子高等学校の生徒たち

さて、皆さんはこの作品を読んで何を考えましたか? 戦争について、女性蔑視について、死について、同性愛について……。挙げてみると、現在問題とされている事柄がたくさん詰まっていることがわかります。考えさせられるところが様々にあったのではないでしょうか。

私は、読み終わったあとに軽く放心状態になりました。よく考えられて構成されていて、本当に素晴らしい作品ですが、この作品をただ一言「面白かった」とポジティブな方向に考えることはできませんでした。私たちと年齢が近い女の人たちが主人公ですが、価値観も時代も違っているので、初めは共感があまりできずに、一人ひとりを作品の中のいち登場人物としてしか見ることができないでいました。しかし、彼女たちの訓練校での“ありのまま”の姿を見たり、彼女たち、特にセラフィマの気持ちの変化を感じることで、徐々に読み進めていくうちに彼女たちに、彼女たちの考え方に共感し始めてしまう。染まってしまう。そこが自分の中では恐ろしく感じました。

また、戦争は人間を変えてしまう、ということも読み終わったあとに強く感じました。セラフィマやアヤは人を撃つ、という行為に楽しさを見いだしてしまう。シャロルッタは生き物を殺すことをためらう気持ちが消え、むしろ自慢げにそれを報告する。特にセラフィマは、その傾向が顕著に現れていたのではないでしょうか。初めは心優しく賢い1人の少女でした。そんな彼女が、戦争を通して「1人でも多くの敵兵を殺そう」と思うようになります。この作品の題名である「同志少女よ、敵を撃て」。セラフィマにとっての真の敵はイリーナでもイェーガーでもなく、女性を陵辱していたミハイルでした。物語の最後には、女性を守るために戦ってきた、ということにセラフィマ自身も読者自身も気付きます。

これは、我が身を犠牲にしてまで子供を守ろうとしたヤーナや、敵国の男性を愛したサンドラ、いつも生徒を思って指導していたイリーナなど、強い信念を持つ女性たちがセラフィマの周りにいたからこそ、彼女が真の敵に気づけたのではないでしょうか。逆に、これらの人に出会うことがなければ、セラフィマは真の敵を見誤ったまま、自分の復讐に走ることとなっていたかもしれません。確かに、セラフィマはその以前に、イリーナが「なんのために戦うのか?」と尋ねたときに「女性を守るために」と答えています。しかし、彼女はこの時点では、この答えが本当の彼女の答えではなかったと思います。口ではそう言いつつも、やはりイリーナやイェーガーを「真の敵」として、恨みを晴らすために、復讐を実現するために戦っていたのだと思います。

セラフィマにとって、女性たちは作品から読み取れるようにもちろん彼女を支えていました。しかし、更に彼女に「真の敵」を気づかせたという点から考えると、彼女の人生を変え、彼女を救ったといっても過言では無いと思います。彼女の周りの女性たちのおかげで、リュドミラ · パヴリチェンコが言った「私のようになるな」という姿にならなかったのではないでしょうか。ここからは、そんなセラフィマを支えた女性という概念について、私たち女性の視点からも考えたいと思います。

女性だから守られる? セラフィマに見えていないこと

(浦和一女・渡邊さん)「同志少女よ、敵を撃て」を読んで感じたのは、作者自身の真剣さです。それは、戦争問題に対してもそうですし、女性問題についても同じです。本作は、性「差別」、差をつけて分けるという問題を本気で描ききった作品だと感じました。一般に、性差別というと、女性の社会進出率が低いことや男尊女卑の考え方、セクハラ、ルッキズムなどが取り沙汰にされることが多いです。浦和一女でもフェミニズムが若干強くて「女性リーダーの創生」「女性として活躍」といったことをよく言われます。しかし、それは性差別のほんの一面にすぎません。

本作では、差別はともに戦うはずの男性兵士からの侮蔑や嫌厭という形で現れます。セラフィマたちに知名度がなかったころは、「女性が来たのかよ」と蔑まれ、いざ戦果を挙げると、「異質なもの」として疎まれ、いわれもなく傷つけられる。その一方で、女性だから許されたというシーンも作中に多々存在します。セラフィマが初陣で逃亡兵の助命を嘆願したとき。恐らく、同じことを男性兵士がしても即座に処刑されていたでしょう。サンドラの存在などはまさしくです。敵同士命をかけて睨み合ったあの状況で、彼女のようなどっちつかずの行動が許されたのは、サンドラが女性であり、守るべき弱者であるからに違いないでしょう。本作の語る性差別には、「女性だから能力を持つことを疎まれる、拒まれる」という、いわゆる女性差別だけでなく、「女性だから守られる、許される」という、より潜在的であり、普段はほとんど問題にされない差別、この2種類があります。女性狙撃兵を組織したソ連ですら、強制的な徴兵は男性に限定しています。それは、肉体的な能力の偏りというのもあるかもしれませんが、女性が戦争において男性を凌駕し得ることは、セラフィマたちがまさに実証しています。

『同志少女よ、敵を撃て』の中で描かれる性差別について話す浦和一女・渡邊さん
『同志少女よ、敵を撃て』の中で描かれる性差別について話す浦和一女・渡邊さん

この背景にあるのは、「女性は弱者である」という無意識下の社会的合意ではないでしょうか。そしてこの差別は、ひょっとすると、この物語の主人公・セラフィマの中にもあるものかもしれません。「女性を守るために」「敵を殺すために」戦う。それは、女性が女性を虐げる可能性を視野に入れておらず、自分も人を殺している「敵」であるという事実から目を背けた、「女性は弱者である」という考えを下敷きにした戦場における自己正当化のようにも見えます。セラフィマは、女性の象徴になったのではなく、ただ(男性を強者として女性を弱者とする)男性中心的な思考をするようになっただけではないでしょうか。そう考えると、本作は性差の問題に深く切り込み、強いメッセージ性を帯びた力作だと感じます。

本作がここまで多くの人に読まれたのは、現在のウクライナ情勢の影響があるでしょう。しかし、だとしたら、こうして話題性とともに脚光を浴びた作品が、ファッション的にフェミニズムや平和を謳うのではなく、本気で問題提起を起こした今作であったことが、本当に良かったと私は思います。安易に小市民的な感性の中で答えを出すのではなく、もがき苦しむ過程を描き、ひたすら読者に問い続ける。そういった意味では、同志少女の物語は、いまだ終わりを迎えていないのかもしれません。

そしてもう一つ、やはり訓練所時代の様子を見ていると、すごく女子校ノリがわかってるなあという感じがしました。男子校とか共学はまた違う雰囲気なのかもしれませんが、互いに助け合って課題を乗り越えたり、ああやって触れ合ったりというのは、キスはしないですけど、本当に女子校そのものの光景です。習っていることや生い立ちが異なるだけで、訓練所での様子は、浦和一女とそう変わりません。それだけに、彼女たちが人を殺し、人格さえも変わっていくのがとても辛く感じました。同時に、戦争を身近に捉えられるようになったきっかけでもありました。

性差別について考えるきっかけに

(浦和一女・中村さん)さて、ここまで私たちは、女性視点からこの作品を読み解いてきました。女性差別は現代にも続く大きな問題です。近頃、世間で叫ばれている、ジェンダー、男女平等といったものは、正直、少し捉えづらいこともあると思います。それでも小説を通じてなら、身近に感じられることも多いのではないでしょうか。

また、差別というと、女性ばかりが不遇な扱いを受けているという印象を与えてしまうかもしれませんが、この作品を読んで私たちは、私たち女性も持っている差別に対しての潜在意識を感じました。私たちはこの作品を初めて読んだとき、真っ先に思い浮かんだものの一つに、性差別がありました。それでも冷静に考えると、そういった考えに及ぶのも、ある種の潜在意識があるからだとも感じました。多くの問題提起がされているこの作品ですが、一人ひとりがこのような問題について考えるきっかけになることも、この作品の大きな魅力なんだと思います。ストーリーがとても引き込まれる内容で、社会への問いかけもされている本作は、私たちに新たな概念ももたらしてくれるのだと思います。

『同志少女よ、敵を撃て』の魅力について発表する浦和一女の生徒たち
『同志少女よ、敵を撃て』の魅力について発表する浦和一女の生徒たち

司会:ありがとうございます。皆さんの立場によって、この本の読み方もすごく異なっていると感じた発表でした。私たちはこの本が2021年11月に出てから、この1年でいろいろな人からいろんな読み方を聞いてきたんですけれど、また違った読み方が出てきてとても面白かったです。ありがとうございます。

***

第二部では三校交えての討論で「主人公セラフィマ以外の視点で読んでわかったこと」を話していきます。

▼第二部:討論「主人公以外の視点で分かったこと」レポートはこちらからお読みいただけます。

早川書房では今後も「ハヤカワ高校生読書会」を開催したいと考えています。
参加を検討したい、もっと詳細を知りたいという方は、件名に「ハヤカワ高校生読書会」と明記の上、以下のメールアドレスまでお問い合わせください。
早川書房お客様係 customer@hayakawa-online.co.jp

【書誌情報】

『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬ISBN:978-4-15-210064-1定価:2,090円(税込)四六判並製 イラスト:雪下まゆ
『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬
ISBN:978-4-15-210064-1
定価:2,090円(税込)
四六判並製 イラスト:雪下まゆ

▽『同志少女よ、敵を撃て』試し読みはこちらから


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