見出し画像

ノーベル賞作家のエッセンスが味わえる作品集『若い男/もうひとりの娘』(アニー・エルノー)。訳者・堀茂樹氏によるあとがき

アニー・エルノーのノーベル賞受賞後邦訳第1作となる小説『若い男/もうひとりの娘』。親子ほど年の離れた男との熱愛、自らの誕生につながった姉の死の秘密――生と性と死を書き続けて半世紀となる著者の最新作ふくむ2篇を所収しています。
これらはどのような作品で、いかに書かれたのか。アニー・エルノーの作品の数々を訳し、その魅力を日本の読者に伝えつづけてきた訳者の堀茂樹氏が語ります。

若い男/もうひとりの娘
アニー・エルノー、堀 茂樹 訳
2024年5月22日発売/160頁


訳者あとがき

堀 茂樹

『若い男』は、2022年の5月初旬にパリのガリマール社から刊行されたアニー・エルノーの最新作である。『若い男』の上梓から約5カ月を経た2022年10月にエルノーがノーベル文学賞を受賞したことは、今も記憶に新しい。

『もうひとりの娘』は、2023年8月にガリマール社のフォリオ文庫の一冊として再版されたエルノーの作品をこのたび完訳したものであるが、後述するように、この原典の初版は2011年に遡る。

『若い男』では、アニー・エルノー(と思しき「私」)が第一人称で、1994年から97年にかけて3年ばかり続いた恋愛関係を語っている。当時、エルノーは成功した熟年作家で54歳を越えていたが、相手のAは30歳年下、エルノーと等しく下層庶民の出で、かつての彼女同様に北仏ルーアンに住んでルーアン大学に通う25歳の大学生だったという。

この作品の原稿は、1998年から2000年にかけて執筆されたあと、未完成のまま捨て置かれていた。2000年といえば、エルノーが1964年の妊娠中絶体験を描く『事件』(『嫉妬/事件』堀茂樹・菊地よしみ訳、ハヤカワepi文庫所収)を上梓した年である。『事件』の執筆を優先するために放置された原稿がふたたび見出され、しかるべき補筆を施されたのは、2008年のLes Années(『歳月』、未訳)や2016年のMémoires de Fille(『娘時代の記憶』、未訳)を経た2022年、エルノーの未発表原稿や日記などを収録する大判の本『カイエ、アニー・エルノー』(カイエ・ド・レルヌ叢書)の準備中のことだった。

その再発見のとき、エルノーは、「ここには自分にとって大切なすべてのものが沈殿している」と感じたそうだ。大切なものとは「すなわち時間であり、記憶であり、当時付き合っていた若い男性が私自身の社会的出自を体現する存在だったという事実」だという(ラジオ局「フランス・キュルテュール」2022年6月24日の放送)。

だからこそ彼女はすこぶる意志的に『若い男』の原稿を完成し、「若い男」との体験に形を与え、形を与えることで、その体験を半永続的な何かとして残そうとした。本作の冒頭に掲げられている文言、「もし私がそれを書かなければ、物事は完遂しなかった。体験されただけにとどまった」は、書く行為によって体験を経験化することへの積極的なこだわりを表明している。

『若い男』は一息で読んでしまえる小品だが、表現とその中身の密度は高い。老年に到っていよいよ円熟したアニー・エルノーが──奇しくもノーベル文学賞を授与される直前に──自らの文筆全体を濃縮してみせたような気味があるので、ぜひ味読してみていただきたい。

『もうひとりの娘』が初めて世に出たのは2011年で、その折には、パリのNiLエディションから、新企画「解放された者たち」叢書の最初の一冊として刊行されたのだった。

その初版テクストと、このたび拙訳が底本とした再版──フォリオ文庫版──のテクストを比較対照してみると、2カ所で段落と段落の間の空間の置き方が変更されているが、それ以外に注目すべき異同はない。ただし、NiLエディション版では、キャプションの付いていない写真が2点掲載されているだけだったのに対し、フォリオ文庫版では、その2点に加えて4点の写真が追加され、すべての写真に簡単なキャプションが付けられている。

「解放された者たち」叢書は、執筆者らに対し、任意の誰かに宛てて「これまでに一度も書いたことのない手紙」を書くよう要請していた。エルノーが宛先人に選んだのは、彼女の生年より2年早い1938年にジフテリアに罹って6六歳で死んだ姉のジネットだった。

しかしエルノーは、会ったこともないその姉のことを、親から教え聞かされていたのではまったくない。それどころか、10歳だった1950年8月のある日曜日に母親の会話を偶然盗み聞くまで、その姉が存在したことすら知らなかったのであり、その後も彼女と両親の間で、姉のことは口の端にさえ上らなかった。エルノーが一人っ子だったのは、彼女の父母が、“一人の子にしてやれることを二人の子にはしてやれない”境遇の下層庶民だったからにほかならない。

自伝的と評されるアニー・エルノーのテクストが常にそうであるように、『もうひとりの娘』もまた、記憶の暗がりの中のサーチライトのように、エルノー個人のケースを超える社会的・歴史的現実を照らし出す。

この作家は、内面的な回想の内にではなく、外界の客観的認識がもたらす自我相対化の照明の下で、自らの実存を見つめる。「もうひとりの娘、それは〔姉のジネットではなく〕わたしだ。その娘は彼ら〔=父母〕の所から逃げ出し、どこか遠く離れた余所(よそ)へ行ってしまった」という彼女の言葉の痛切さに打たれるのは、筆者だけではあるまい。

***

◉訳者略歴

堀 茂樹(ほり・しげき)
1952 年生、フランス文学者、翻訳家。訳書に『シンプルな情熱』『場所』『ある女』『凍りついた女』アニー・エルノー、『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の噓』アゴタ・クリストフ(以上早川書房刊)他多数。

***

『若い男/もうひとりの娘』は、早川書房より5月22日に紙・電子同時発売です。


◉関連記事

アニー・エルノー、ノーベル賞受賞後邦訳第一作! 『若い男/もうひとりの娘』(堀茂樹訳)5/22発売|Hayakawa Books & Magazines(β)