機忍兵零牙_新装版_

『機忍兵零牙〔新装版〕』刊行! SFマガジン百合特集・月村了衛インタビュー

.「ハヤカワ文庫の百合SFフェア」開催を記念して、SFマガジン2019年2月号百合特集からコラム企画を抜粋公開いたします。今回公開するのはこのたび『機忍兵零牙〔新装版〕』が刊行される、《機龍警察》シリーズなどでも知られる小説家・月村了衛氏へのインタビューです。(聞き手:青柳美帆子

 『機忍兵零牙〔新装版〕』
月村了衛/ハヤカワ文庫JA

6月20日(木)発売

-----以下本文-----

──《機龍警察》シリーズをはじめとして、月村先生の作品では人間同士の感情や関係性が鮮やかに描かれています。ファンの中には月村作品の女性キャラ同士の関係性を「百合」ととらえている読者もいるのではと思い、今回お話を伺いに来ました

月村 大前提として、私はいわゆる「百合」作品を書こうと思って書いたことは一度もありません。しかし作品をどう読むかは読者の自由ですので、そこにどんな喜びを見出していただいたとしても、大いに結構なことだと考えています。最近の傾向として、今の読者は「百合という概念」をあらかじめダウンロードし、インプットした上で作品に接する傾向があるのではないかと考えています。

──百合という概念。

月村 以前、〈STORY BOX〉(Web版は『小説丸』)という媒体で、高校時代の早弁の思い出をエッセイに書いたことがありました(「思い出の味 花の嵐を呼ぶ早弁」)。私が早弁をしていたら、左隣の女子が「やめなさいよ」といい、右隣の女子は「がんばれ」と応援する──というもので、原稿を読んだ私より少し下の世代の編集者から「月村さんのモテ話でしたね」と冷やかされたんです。私もそう読まれるだろうと思って書いたのですが、読者はそうは読まなかった。女の子同士の百合話という風に読まれたんです。

「いや、最近の読者はこういう風に作品を捉えているんですよ」とその編集者に話しても、「あれはそうじゃないでしょう」と理解してもらえない。私より少し下の編集者がそうですから、私の同世代やそれより上の世代にとってはさらに理解しにくいでしょう。ましてや20年ほど前のエンタメの現場では「百合」という言葉さえ知る人は少なかった。当時に比べると、「百合」という言葉を聞くことは増えたように思いますが、まだまだ理解する人は少ない。けれど百合という概念や、今はどういう時代なのかをわかっていないと、現代の読者が何を考え、どのように作品を読んでいるのかが理解できないと思います。

──月村先生は百合という概念をご存知でしたか?

月村 はい、知ってはいました。ただ、「百合を描こう」としているわけではありません。精神的な絆を人間と人間が結んでどう生きていくかという物語を綴っているだけです。

 映画史で言えば、ロマンティックコメディはハリウッドの保守本流であると考えていますが、現代では、ロマンティックコメディ──ヒーローとヒロインのメロドラマと言い換えてもいいのかもしれません──は、すでに主流ではなくなっている。例えば本流に思える「三角関係」を作っていても、もう受け手はそうは見てくれない。昔、自分が手掛けた作品の続篇で、「前作では男1・女2の三角関係だったが、今度はライバルだった女性2人が渋々ながら協力して旅に出ることになる」という企画を前作と同じコメディの文脈で提示したことがあります。「男はいない方がいい」と言って。まったく理解を得られませんでした。今から考えてみると、これはもう百合ですよね。

──まさにそう思います。

月村 読者が変化していることを肌で感じています。今の読者は、傾向としてかつてほどはメロドラマを必要としなくなっている。むしろ嫌っていると言っていい。『土漠の花』にも「ヒーローとヒロインの恋愛はいらない」と言われるリスクを感じていました。それでもあの作品には確信的にメロドラマを入れましたし、今述べた現代の潮流が決していいことだとは思っていない。ただ作家として、「現代とはそういう時代なのだ」と認識しているのとしていないのとでは大違いだと思う。時代認識を失ったときに作家は終わるのだと、実感として強い信念を抱いています。

●月村了衛と時代性

──まだ百合という言葉が一般的でない時代から、月村先生は概念としての百合を知っていて、今も時代認識がある。時代性に敏感でいられるのはどうしてでしょうか。何か新しい情報に接しているから?

月村 特定の情報というわけではないと思います。私は『鉄腕アトム』のテレビアニメ版が始まった1963年生まれ。この世代は、サブカルチャーの変遷の波をすべてもろに被っているんですよ。幼稚園から小学校にかけて《ウルトラシリーズ》空白期のすさまじい飢餓感に耐えて、『帰ってきたウルトラマン』でやっと息をついた。そこに『仮面ライダー』という今まで見たことのないものが始まって衝撃を受ける。生意気に「やっぱり監督は竹本弘一じゃなきゃ……」なんて言っていましたね(笑)。仮面ライダーは社会現象になるほど「来る」だろうという感覚がありました。さらに中学時代に『宇宙戦艦ヤマト』ブーム、高校時代に『機動戦士ガンダム』が始まる……という世代なんです。ハードで言うと、ものごころついたときにはテレビがあって、やがてカラー化し、そしてVHS、LD、DVD、BD、そして4Kと。

──いろいろなコンテンツで、時代が変わるのを見てきたんですね。

月村 漫画でも、小学校のときに出てきた山上たつひこの衝撃はすごかったですね。それまではあまりにも赤塚不二夫が天才すぎて、ギャグマンガといえば全て赤塚不二夫のエピゴーネンばかりで、末期にはもう息苦しいほどの閉塞感がありました。そんなときに始まったのが『がきデカ』。実は低学年の頃に『光る風』や『旅立て! ひらりん』を読んでいて、最初に作者名として山上たつひこの名前を見たときは「なんで今頃この人が?」と思ったんです。でも読んでみて、「赤塚不二夫の時代は終わった」と確信しました。小学生ですから、青年劇画誌の『喜劇新思想大系』は存在すら知らないわけですよ。

 単行本1巻の発売日に近所の書店に行ったら、1冊しか入荷していなかった。購入してなんとなく店内にいると、あとからあとから小学生がやってきて、「『がきデカ』ないですか?」と尋ねている。「やっぱり自分の感覚は間違ってなかったんだ」と確信しましたね(笑)。でもその後は山上たつひこのエピゴーネンが各誌に溢れるようになりました。

──「次に来るもの」をいち早く察知していた。

月村 その一方で、ヤマトにしろガンダムにしろ、世の中で流行っているものに対しては、どうにも引いてしまうところがありました。他人のようには熱狂できないんですね。だから作品に対しては敬意を払いつつも、常に冷めているという。

 時代時代でいま生まれんとしている新しいものを真っ先に面白がれるのは、読者の立場であればよいことですが、作り手になると「早すぎる感覚」になることがある。それが私の不幸だったのかもしれません。しかも自分では「早い」と思っていないから、なかなか企画を世の中に出すことができない。今思うと「あの企画は早すぎたかもしれないな」というものがいくつもあります。「あれは百合として読める文脈のものだったのだな」と2000年代になってようやく理解できることも。

 ただ、どういうわけか私の作品を「バランス感覚がいい」という評価の仕方をしてくれる方は昔から常にいる。その理由について、自分で思い当たることがあるとすれば、「ムーブメントから距離をとりつつも、時代の空気が客観的にわかる」というところなのではないかと思います。意識的に身につけたものではないんですけどね。

●『東京輪舞』と『機龍警察』

──「早すぎる感覚」が作品になると、刊行のタイミングで「時代が追い付く」ことがあります。月村先生は時折「時代に肩を叩かれる」という表現を使ってらっしゃいますね。

月村 書き始めた時点では予想もしなかったことが起こるんですよね。『東京輪舞』では、執筆の合間に休憩しようと思ってふとテレビを見たら、天皇陛下がお気持ちをおっしゃられて平成が終わることになったり、オウム元死刑囚の死刑が執行されたりと「時代が横を走っている」感覚の連続に驚きました。まったく稀有な体験でした。

──『東京輪舞(ロンド)』は、昭和史の事件を「田中角栄」という縦軸でつなぐ作品です。

月村 調べれば調べるほど、日本人がいかに過去に学ばず、常に先送りにしてきた結果、現在を迎えているのかが見えてくる。例えば東芝機械ココム違反事件(東芝COCOM、1987年)と東芝粉飾決算事件(2015年)は、見事な相似形を形成しています。過去を調べることで、逆に現在がわかってくる──そういった驚きの連続でした。『東京輪舞』を「老人が昭和を称賛している」ように読まれる方もいるかもしれませんが、年齢にかかわらずちゃんと読み取ってくれている方はいる。そこに希望は持っています。

──『東京輪舞』は昭和から平成にかけての公安組織を描いた重厚な小説でした。《機龍警察》も、警察小説としての色合いがシリーズを重ねるごとに濃くなっているように思います。それは最初からそういう構想だったのか、それとも読者や世の中の流れを見たのでしょうか?

月村 両方ですね。《機龍警察》は最初から警察小説であり、冒険小説であると公言しています。未来ではなく現代なのだと。メカニカルな要素を書きたくて始めたものではありませんので。

 作家は良い作品を書くために、常に全力で書いて、自分の壁をそのつど突き破っていくものだと思います。100パーセントの力を出して当たり前だけど、120パーセントを出せるかはわからない。自分の限界を超えて初めて見えてくる領域があります。そういう意味では陸上競技の選手と同じようなものかもしれませんね。しかも見えてきたら見えてきたで「次はもっと彼方へ」とどんどんハードルが高まっていく。

──《機龍警察》シリーズの帯は、新作が出るたびに「シリーズ最高傑作」といった惹句が並びます。

月村 あれは早川の人がつけてくれるもので、私も毎回帯を見るたびに「どこまで俺を追い込むんだ!」とびっくりしています(笑)。

 ただ、「過去よりも面白いこと」は常に目指していますし、自分自身の考えが深まっていくと作品の深度も深まってきます。また他の作品で得た手ごたえは、次の作品にも生かそうと思うものです。例えば『東京輪舞』では、昭和と平成の時代の事件を扱って、さまざまな収穫がありました。それら個々の事件については「今後改めてトライしてみたい」という思いもありますし、「昭和の闇は想像以上に深いものであった」という恐ろしい手応えもあった。そうなれば、今後は必然的にそういった作品になります。

──『機龍警察 狼眼殺手』は警察組織の闇が今まで以上に明らかになった作品でした。

月村 ええ。でも『狼眼殺手』は人によっては「機甲兵装が出てこないからタダの警察小説だ」と思う方もいるでしょう。現にその通りなのですが、作者としては、実は『狼眼殺手』が一番SFだと思っているんですよ。科学技術が今後の世界をどのように変容させていくか、そのビジョンを描いた作品ですから。

──確かに、龍機兵に関する設定が明かされました。しかもちょうど刊行と同じタイミングで、技術的にも商業的にも成立しうる可能性が現実世界でも判明したような技術でしたね。

月村 刊行直後に量子コンピューター実現のニュースが流れてね。しかも製作者は日本人だという。またしても「肩を叩かれ」ましたね。

 私はSFについては複雑な思いがあって、《機龍警察》を自分では「SFだ」と自信を持って言い切れない面があります。理系の知識がまったく欠如しているので、最新の理論を取り入れた作品は到底書けません。そちらの第一線には、藤井太洋さん、長谷敏司さん、柴田勝家公といった素晴らしい作家が出てきています。また、円城塔さんや宮内悠介さんなど、いろんなことをやりつつもSFファンから常に支持される作家もいる。一読者としては大変いいことだと思っていますが、一方で彼らとは違う自分の立ち位置を客観的に見ています。

 振り返ってみると、自分の作品で唯一「SFだ」と確信して書いて、今でもそう言い切れるのは『機忍兵零牙』だけですね。そして同時に、書いたあとで唯一「これは百合なのではないか」と思ったのも『零牙』です。

●唯一の自覚的な百合SF

──『零牙』、大好きな作品です。山田風太郎オマージュと、ディック的な感覚が融合している。

月村 『零牙』にはいろいろな縦線がありますが、言ってみれば螢牙の物語なわけじゃないですか。2人の女の子がいて、その関係性の話です。しかも最終的には(※未読の読者のため伏字※)。それはまさしく「究極の百合」ではないかと。

 感情の掘り下げのアプローチは、ジャンルを問わず文学的な課題として常にあります。ただそれをどういった言葉で表現するのかが時代によって変わっていく。今はたまたま「百合」という言葉があり、読者もその言葉をインストールしている。新しい切り口が出てくれば、それに見合った言葉が出てくるかもしれない。そういうことだと思います。

──感情の掘り下げのアプローチを表現する言葉として、今は百合があるということですね。そういう意味では、BLという言葉もそうなのかもしれません。

月村 そう思います。もし「ゾロユリ」──便宜上そんな言葉を使いますが──という概念がBLという言葉で捉えきれなくなったら、また何か別の言葉で表現することになるのでしょう。

 以前、宮澤伊織さんが「百合とSFに救われた」と話していらっしゃるものをまとめた文章を拝読しました。宮澤さんはいろんな作品を百合という観点からお読みになって、それによって生きることができた。それは素晴らしいことだと思う。宮澤さんのように、「そういうもの」を求める精神的土壌が形成されてきて、百合という言葉で表現されるようになった。それをどこまで理解できるかは現代の作家にとって大変大きいことだと思います。「侘び寂び」を言葉で説明してもわからないのと同じで、直感的にわかるかどうかです。

──百合にまつわる言説を、ギャグとして受け止める人もいれば、真摯に受け止める人もいます。

月村 ギャグとして受け止める方は、宮澤さんをはじめとする「百合を求める人」たちの、切実な孤独や物を書こうという情動といった、根源的なものを理解できていないと思いますね。あの文章を拝読したかぎり、私はそう感じました。

 これは「百合」ではなく、「萌え」という言葉で説明するとよりわかりやすくなるかもしれません。ある時期から、それこそ「侘び」「寂び」に並ぶくらい、日本人にしか理解できない感性として、「萌え」が一般化していきました。

 そうなれば、作品を作る際にも「萌えを狙いましょう」といった会話が交わされるようになる。けれどわかっていない人は「メイドやネコミミや巫女を出せばいいんだ」と思うんです。たったそれだけで萌えが生まれて売れるようなリスクのない商売であれば、みんな投資しますよね。そういう考えの人たちがみな失敗したから今日の惨状があるわけです。

 また、創作物に対する感性を持ち合わせない人が、精神分析などの「自説」に合わせて萌え文化を語ることもある。はっきり言いましょう、「戦闘美少女は学者の頭の中にしかいない」と。

 そういうことができてしまうのは、アニメや小説を求める人間の孤独を知らない学者の思い上がりでしょう。自説に合わせて現実を歪めるから、あからさまにピントがズレてしまう。文学的な情動の繊細さやデリカシーは、受容できる感性がないとわからない。

──作り手としては、そういった繊細で複雑な情動を求めている読者に向けて、どういうことを意識しているのでしょうか。

月村 これは作家にとっての企業秘密みたいなものですから、あまり大っぴらに言わないほうがいいと忠告されるのですが……狙おうと思って狙えるわけではない、狙っていってはだめ。作り手の「こうすれば萌える」という感情がにじみ出ると、砂のように手のひらの間からこぼれ去っていくものがある。それが萌えです。決して狙わずに、そちらを見ることすらせず、水面に浮かぶ月を斬るようにしてすくい上げる。これは百合に言い換えても同じだと思っています。

──……実は、最初にインタビュー企画をご相談したときに、「月村先生は百合を意識していないのではないか」「こうやって伺うことは失礼になるのではないか」という話が出たんです。

月村 百合と思って書いていないのは確かです。ですが仮に私が「失礼だ」と思うようなこと、つまり百合を否定するようなことがあれば、「百合に救われた」と言っている人間の孤独を否定することになりますよね。そういった人間の孤独に向き合っていくのが作家ではないでしょうか。


●『狼眼殺手』のその先へ

──『狼眼殺手』は、SF好きの読者としても百合好きの読者としても「いつの間にかすごいところに連れてこられてしまった」という作品でした。

月村 緑とライザの関係でいえば、『自爆条項』で120パーセントまでいった2人を、どうやればさらに深めることができるのか。「もう、これ以上はないでしょ」というところから始めて、日々真剣に考えていくと、アイデアが生まれてくる。そうやって、140パーセントのところにまで行けたのではないかと思っています。

──緑とライザに限らず、《機龍警察》はキャラクターが魅力的です。どうやってキャラクターを作り、深化させていくのでしょう。

月村 キャラクターの作り方に関しては、「自分の劇団」がいるような感じですね。あるキャラクターに手応えを感じると、次の作品にも使います。突入班、特にライザは、自分の中では一番オーソドックスで、古くから「劇団」に所属しているキャラです。ただし同じ俳優が作品によって違った演技をするように、作品によって自然と違うキャラクターになっていきます。

 新たに作っていくキャラクターは、書きながら考えます。例えばゾロトフは、基本的なユーリとの関係性から出発して、「どういう関係にすればよりユーリを追い詰めることができるのか」を考え抜きます。それによって、ゾロトフという人間の深奥部に迫っていくこともできる。書いている途中でいろいろなアイデアを思いついて、採用するものもあればやめるものもある。やめたバージョンの中では、「ゾロトフがユーリを追い詰めるために、ユーリの恋人を寝取る」という展開もありました。これは直感的に「やめた方がいいな」と思ってやめました。試行錯誤を重ねながら最後まで走り切ったところで初めて「120パーセントを突破していた」と気付くんです。

 また、これも企業秘密でありながら昔からよく言っていたのは、「いいキャラクターが1人いてもダメ。重要なのは他のキャラクターとの関係性だ」ということです。しかし当時は理解してもらえませんでしたね。

──シリーズレギュラーキャラの変化も見逃せないところです。『狼眼殺手』では、初めて沖津視点が登場し、すさまじい衝撃を受けました。

月村 厳密には沖津視点はこれまでにもあったのですが、過去の片鱗について触れたのは初めてですね。あのタイミングでそれを書いたというのは、伏線なわけです(笑)。この先のことはもう決まっていて、現時点でも十分読者にとって驚きであろうとは思いますが、実際に着手すればそれ以上のものが出てくるだろう──と考えています。

──「姿の任期」と「龍機兵の技術普及」という2つのリミットも改めて示されました。特に後者は、5年後から一気に2年縮まり、残り3年になってしまいました……。

月村 作中の物語の進展の度合いと、世の中の驚くべき変化の速さを考慮して、思い切って縮めました。読者にとっては緊迫感が高まりますが、私にかかってくる負担も大きい……(笑)。でもその分、濃密にやっていこうと思っています。

──6作目が今から本当に楽しみです。

月村 《機龍警察》は大事な作品ですのでなんとか続けたいのですが、ともかく厳しい時代ですから、すべては単行本の売り上げにかかっているとしか申しようはありません。しかし長篇6作目はすでにタイトルが決まっています。まだ早川社内だけのトップシークレットですが。内容も読者の期待を裏切らないものを用意しています。既刊の単行本がもっと売れてくれれば、それだけ皆様にご覧頂ける可能性も高まるのではと思うばかりです。

(2018年11月22日/於・早川書房)

「ハヤカワ文庫の百合SFフェア」
6月下旬より順次開催中

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