瀬尾つかさ「ウェイプスウィード」② 木星圏生まれの研究者と地球の巫女
7月5日(木)発売の瀬尾つかさ氏による海洋SF『ウェイプスウィード ヨルの惑星』。第1話の全文公開その2をお贈りします。(初回はこちら)
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精密検査には二日かかった。結果は問題なし(オールグリーン)。当然だ。プロジェクトでは細菌について細心の注意を払っている。いまの地球に不用意な菌を持ち込むことなど、政治的に不可能なのだ。だからケンガセンの身体はたっぷりと洗浄、滅菌されたうえで、密閉状態を保ったままシャトルに運び込まれたのである。
シャトル内の装備も似たようなものだ。今回は島嶼部の住民との接触も想定されていたから、彼の体内には強力なワクチンがインプラントされている。たいていの病気はシャットアウトできるし、怪我や疲労にも一定の耐性を保持できる。
もっとも、ワクチン・ユニットの活動期限はおよそ一ヶ月だ。地球での長期滞在は許可も想定もされていなかった。早急に帰還の手段を手に入れなければならない。
知識の館の端末を借りることで、大学と連絡を取ることに成功した。ケンガセンを送り出した当人である教授は、回収用シャトルの準備を進めていると教えてくれた。
「人命がかかっているといったらね、救助のためにさっさと無人シャトルを出せ、って市民団体がせっついてくるんだ。昨日までは無人シャトルなんて言語道断、っていっていたのにね」
先日まで、さんざん市民団体に「地球を汚すな」と文句をいわれていた教授は、複雑そうに笑う。それでも一応、ケンガセンの無事を喜んでくれているようだった。
死んだ三人とも会話した。事故後二十四時間で、生存の望みなし、と判定され、バックアップのクローン体が起動したのだ。地球圏生まれの彼らにとっては当然のことである。事故直前の記憶がない同僚たちと会話するのは妙な気分だった。ケンガセンは一緒のシャトルに乗っていた彼らに、「たいへんなことになったが、帰って来るのを待っているぞ」と励まされてしまった。
残念ながら木星圏生まれのケンガセンには、クローン体が存在しない。再生用クローンは常に本体と同期しているから、生まれたときに利用登録しておく必要があるのだ。だいいち記憶のバックアップも取っていない。地球圏に来た当初は、クローンや電脳体に関する倫理の違いに戸惑ったものだ。ケンガセンの故郷では、クローン体も電脳体も人間としての権利を認められていない。
だから彼だけはなんとしても、自力で帰還する必要があるのだ、が。
「きみにはそっちで果たさなければならない、ちょっとした仕事がある」
教授はそういいながら、薄い頭髪をかきむしった。ケンガセンは経験から承知していた。この人が「ちょっとした仕事」というとき、それはたいていろくでもない仕事なのである。
「シャトルから記録装置を回収するのだ」
案の定だった。
今回のシャトルは海上に降りた後、そのまま自動的に各種探査を行うことになっていた。事故でウェイプスウィードの巣の真上に着水した後、プログラムの正常な起動だけは確認できたのだという。
しかしそのすぐ後、シャトルとの通信は切れてしまった。おそらくはアンテナがやられたのだろうが、探査装置の方はそうとうに頑健だ。無人のシャトルを基地として多数のゾンデが海中を彷徨い、いまも探査が続けられているはずだった。
「願ってもない貴重なデータが得られるかもしれん。あるいは失地を回復し、プロジェクトの存続ができる可能性すらある」
このままだとプロジェクトは頓挫か。こんなひどい事故を起こしたのだから当然ではあるが。
「大学からの通告だ。プロジェクトが中止となった場合、研究室の全員が解雇される」
ひどい話もあったものだ。すでに何本も論文を出している先輩たちはともかく、若手のケンガセンを拾ってくれる研究室がはたしてあるだろうか。
首を免れるためには、なんとしてもシャトルから記録を持ち出す必要がある。
しかし現在のシャトルの位置は……。
「おまえのいる島から西に約四十キロ、深さ百メートルの海の中だ。なに、素潜りでも届く距離だろう」
生まれてからこのかた、プールで泳いだことすらない教授は、気楽にそんなことをいう。ケンガセンだってコロニーの湖くらいは体験しているが、地球のねっとりした海は、それとは完全に別物である。だいいちあそこには、サメよりもっとおそろしいものが待ち構えているではないか。素潜りなど論外だった。ましてや深さ百メートル、十気圧の場所へなど……。
「第三プランは覚えているな。脱出カプセルは潜水艇に転用可能だ。クチャナラ島の巫女家は、全面的な協力を約束してくれた。難しいミッションだが、島民のバックアップがあれば、不可能ではない。もちろんわたしも、全面的に協力する。なんでも相談したまえ」
教授はいつになく必死だった。いつも渋面で「余計なことでわたしを煩わせないでくれ」と研究のこと以外、まったく頭にないくせに。いや研究のことだからこそ、必死なのだろうか。
そういえばこのひと、学部長と仲が悪かったな、といらんことを思い出す。上では彼の想像以上に熾烈な政治が行われているのかもしれない。
そもそも、この知識の館の巫女一族をどんな手で懐柔したのか。こうした通信にかかる費用も含めて、そうとうな「ご褒美」を用意したはずだ。教授があやしい金に手をつけていないことを祈るしかない。
「ロボットを降ろせないんですか」
いちおう、聞いてみた。深海探査用のロボットが別の大学で開発中だと聞いたことがある。例によって市民団体の抗議で資金難に陥っていたが、そこまでのものでなくても、せめてウェイプスウィードの支配地域に入り込めるようなものを……。
「あいつの投下には半年以上かかる。シャトルの電源は三ヶ月しか保たん」
やれやれ、とケンガセンは肩をすくめた。
単身、ウェイプスウィードの森に赴く運命からは、逃げられそうにない。
*
検疫が終了した後も、まる一日、ケンガセンは隔離部屋にとどめ置かれた。その日の夜になってようやく、外へ出ることを許される。
四日ぶりに触れた外気は、ねっとりと蒸し暑かった。全身の毛穴から汗が噴き出てくる不快さに、思わず顔をしかめる。これで陽が落ちた後だというのだから……昼間の湿度など、想像したくもなかった。
潮をたっぷり含んだ生ぬるい風が、知識の館がある丘の上にまで吹きつけてくる。あっという間にシャツがべとべとになった。
それでも数歩、知識の館の外に出て見上げる夜空は、格別だった。
無数の星が瞬いている。
「大気があるから」
隣に立つヨルが呟く。
「コロニーの空とは、違う」
「よく知っているな」
「習った」
幾筋もの流星が視界を横ぎった。
「流れ星」
「ああ。この時期はたしか、地球がコアン・ソン・デブリ帯を横切る。あの戦争で生まれた漂流物(デブリ)が大量に地球へ落下するんだ」
知識ではわかっている。だけど実際にそれを目(ま)の当たりにすると……。
ケンガセンはぽかんと口をあけて、その壮大な流星群を眺めた。
ぶるり、と全身が震える。こんなに心が揺り動かされたのは、いったいいつ以来だろう。ああ、地球から見上げる「本当の夜空」というのは、こんなにも刺激的で神秘的な存在なのか。
「ケンガセン」
ヨルが彼の服の袖を引っ張った。
なんだ、と視線を下ろす。ふたりの身長差は伸ばした腕ひとつ分くらいある。
はたしてヨルは、熱のこもった目でケンガセンの目をじっと見つめ返した。
「初めて」
「なにがだ」
「流れ星を塵(デブリ)といったひと」
そうか、とケンガセンは目の前の子どもに頭を下げた。
「すまない。夢のないことをいったな」
昔の本で読んだことがある。地球に住む人々は、流れ星にさまざまな迷信を、夢を載せていたと。ロマンチックでエキゾチックな迷信というのはコロニーにも存在する。たとえばケンガセンの生まれた木星圏では、木星の大赤斑を調べることで未来がわかる占いがやたらと流行っていた。
そういうものをぞんざいに扱うと、たいていの場合、ひどい目にあうのだ。ことに相手が女性の場合は。
だがヨルがいいたいことは違った。首を振って「謝罪はいらない」と呟く。
「占い、信仰、迷信。くだらない。本の知識を誰も信じてくれない」
ヨルは語る。赤ん坊を産むために流れ星へ願いをかけることの無意味さを友人に説明したときの、冷たい反応。流星を天人の涙と断じる物語の荒唐無稽さ。それを心から信じている大人たち。ウェイプスウィードを神の遣いと結びつけることの愚かさ。
「物語と現実を一緒にするひとが、多すぎる」
「どこも変わらないな」
ケンガセンは自分の生まれ育ったコロニーの話をした。とてつもなく巨大な大赤斑のこと、それを見る人々が信じてしまう迷信の類。木星圏だけではない、地球圏に来てからも、さんざんに迷信を見てきたこと。大学の中ですら、星の軌道を使った占いに一喜一憂する女性たち。
そしてそれらを馬鹿にして、白い目で見られたこと。
「つきあう相手の思想がどれほどバカげてても、見ないフリをしなきゃいけないってのは、なんかこう、いまだにもやもやするな」
まったくだ、とヨルは強くうなずく。鼻息も荒く興奮する。
「流れ星も星の動きも、物理現象。いくら調べても未来はわからない。赤ちゃんがもらえるわけない。星に祈る暇があったら夫とベッドに籠るべき」
そういって、にっこり笑う。
「話が合うひと、はじめて」
「そりゃよかった」
そうだよな、とケンガセンは苦笑いする。コロニー育ちの彼だって、なかなか意見の合う友人には恵まれなかった。じつはあの教授だって、金が幸運を運ぶと信じて、星の並びに応じた金の指輪を毎日取り換えているのだ。ケンガセンはその趣味の悪い指輪について一言いいたい気持ちを我慢して我慢して、これまで彼に仕えていたのである。
「聞いて。だいたい父さんも、掃除するときに……」
はびこる迷信に対する互いの悪口は延々と続いた。
*
大気圏突入に成功した後は不要となる脱出用カプセルを潜水艇に改造する案は、ミッションの初期に検討されていた。
実際は突入失敗だったのであるが、幸いにして改造用のナノ素子はカプセルの内部に取りつけられている。計器の類はほぼ全て流用可能だから、知識の館でバッテリーさえ充電できれば、なんの問題もなかった。
村人の目が届かない遠浅の海岸に引き上げられた全長三メートルの球形のカプセルは、こびりついた海藻をきれいに拭き取られてから、灰色のナノ樹脂で覆われた。
灰色の球体は、ゆっくりと変態を開始する。
五十時間近くかかる改造の間、表面を覆う樹脂はほとんど変化しない。見ていてもなんの面白みもない代物だが、ヨルはじっとカプセルのそばの丸石に腰かけ、興味深げに変態の様子を観察していた。そばにはしゃべる本のドラが、ナイトのように付き従っている。
「楽しいのか」
とケンガセンが一度訊ねたところ、ヨルは黙ってうなずいた。食事と睡眠の時間以外はずっとカプセルの前にいるものだから、ヨルが通訳してくれないとなにもできないケンガセンも仕方なく彼女に付き添った。
「どうして」
唐突にヨルは、ケンガセンの方を向いた。
「地球に降りてきた。死ぬかもしれないのに」
「研究だからな」
「ウェイプスウィードの中へ行くのは、危険」
「教授の命令だ。それにおれだって、シャトルが取ってくるデータには興味がある」
「それだけ」
「それだけで充分なんだよ。研究者ってのは」
半分は嘘だ。ケンガセンは地球圏での居場所を大学以外に知らない。大学のそばの寮と、大学のある街のこと以外、なにもわからない。大学から放り出されるのが怖い。
そんな弱音を目の前の少女に語るつもりはなかった。首を振る。黒い双眸(そうぼう)でケンガセンをじっと見つめる少女に対して曖昧に笑う。
「あー、ヨルは普段、なにをしているんだ」
「本を読む。村のいさかいを調停する。他の島の巫女家と連絡を取ることも、ある」
「きみが、か」
「ヨルの母は三年前に亡くなったのです」
うつむいて黙ったヨルにかわり、ドラがいった。AIだから当たり前だが、彼の標準語はネイティブのように流暢だった。
「いまはヨル以外、この島で信頼に足る人材がいないのですよ」
彼女の父はケンガセンのことを怖がり、遠目に見ているだけだったな、と思い出した。きっと入り婿なのだろう。彼がヨルのような教育を受けていないことは明らかだった。ふたりの妹はまだ幼い。
「失礼だが、ヨル、きみだけで大丈夫なのか」
「ばあちゃんのアドバイスがある」
ヨルは受信機の埋め込まれた耳をとんとん、と叩いた。なるほど、彼女がいう『ばあちゃん』のサポートがあれば、十二歳の少女でも調停や島同士の外交も遺漏なく行えるということか。統治システムとしては面白い。おそらく彼女がいう『ばあちゃん』とは……。
「ヨルはばあちゃんをとても尊敬しております。ポッドの中に入って、ばあちゃんの明晰さにはますます磨きがかかっております」
今日のドラは多弁だった。あまりヨルと『ばあちゃん』について話してほしくないのか。ケンガセンは気づいた。このドラというAIの端末は、ヨルを守ると同時に監視しているのである。
ケンガセンはドラを岩陰に引っ張っていって、小声で訊ねた。
「ヨルは、ばあちゃんが死んで電脳体になったことを理解しているのか」
「彼女は電脳体についてよく理解しておりません。ヨルにとって、ばあちゃんはまだ、生きているのです。そもそも電脳体となることは、死なのでしょうか。コロニーでは電脳体の人権も認められていると聞きます」
「地球圏のコロニーではな。いや、すまない。おれの生まれた木星圏は保守的でね」
「理解します。あなたの倫理をヨルに押しつけるのは控えていただければ幸いに思います」
わかっている、とケンガセンはうなずいた。これはあくまで、この島で生きる人々の問題だ。
変態するカプセルのもとに戻ると、ヨルはケンガセンの方を向いて立ち上がった。
「潜水艇の操縦、やってみたい」
「ダメだ。遊びじゃないんだ」
ヨルはそれ以上はねだらず、ちいさくため息をついた。
「興味があるのか」
「ウェイプスウィードの中に、母がいる」
「亡くなったっていってたよな」
「ボートで近寄って、大旋回に巻き込まれた」
「なんでまた」
ヨルの一家は、おそらく村にとって村長一族より大切な存在のはずだ。そんな人物がなぜ、危険な場所へ。
「儀式の日だった。かみさまに供物を捧げるために、巫女がいかなきゃいけない。ばあちゃんがいってた。運が悪かったって」
ヨルは高熱を発して変態を続けるカプセルをじっと見つめながら、淡々と語った。
(その3へ続く)