「この本に書かれたこと、すなわち世界はおかしくなっている、今こそ正気を取り戻さなければならないという訴えは、ますますその緊迫性を増している」『啓蒙思想2.0〔新版〕』解説:宇野重規
「正気を取り戻す」
著者自身が日本語版の序文に書いているように、本書の原著が刊行されたのは2014年のことである。真実であろうとなかろうと、ともかく繰り返し同じことを言えば人々はそれを信じてしまう。そのことに政治家が気づいて久しい時期であった。
政治家たちはもはや真実らしいふりをすることさえやめてしまった。ともかく政敵にレッテルを貼り付け、悪罵を投げつければそれでいい。なるべく人々の心に突き刺さることが大切で、言っていることに整合性がなくても構わない。ともかく人々の黒々とした感情を刺激し、相手のイメージを引き下げることが肝心である──というわけだ。
著者があげているのは、例えばサラ・ペイリンである。2008年の米国大統領選で共和党の副大統領候補となり、一躍有名になった保守派の政治家である。「ホッケー・ママ」を自称し、中央政界と縁のない、飾らない人柄を売りにしたが、話す内容に疑問が多いこともよく知られていた。本書で取り上げられているのは、2012年のテレビ番組の話である。
オバマ大統領を批判するペイリンは、「こんな失敗した社会主義政策に取り組んでいる現政権と比べれば、共和党の誰が大統領になってもマシだ」という。その直後、景気の好転については、「ウォール街の一部にとってはそうでも、失業者にとってはそうでない」と答えた。夜の番組で「ウォール街の金持ちが、失敗した社会主義の利益にあずかったというわけか」と揶揄われたが、もちろん本人はそんなことを気にしない。つじつまを合わせる気すらないからだ。とはいえ、トランプ大統領が出現した「ポスト・トゥルース」の今となっては、このようなペイリンのエピソードなど、かわいいものだと思えてしまう。
このことは、本書が古くなったことを意味しない。むしろ逆で、この本に書かれたこと、すなわち世界はおかしくなっている、今こそ正気を取り戻さなければならないという訴えは、ますますその緊迫性を増しているのではなかろうか。
もちろん問題なのはアメリカの政治家だけではない。今ではどの国でも──日本ももちろん、その一つだ──多かれ少なかれ政治家は同じように発言するようになった。有権者もまたそれに驚かなくなっている。どう考えてもおかしいと思われるトンデモ発言や行動は、SNSの世界や日常生活に嫌というほど溢れている。すっかり世界は著者の予言通り、あるいはそれ以上になってしまった。
本書はこのような現状に対し、高らかに「啓蒙思想2.0」を掲げる。啓蒙思想といえば、人間の理性を強調し、理性に基づく合理主義的な社会の改革を主張したことで知られる。例えばドイツの哲学者イマニュエル・カントは、論文「啓蒙とは何か」のなかで、「啓蒙」とは勇気を持って自分の理性を使用することだと主張している。人間には理性があるのだから、偏見や思い込みを排して、公共的に理性を使用すればいいというわけである。
このような18世紀の啓蒙思想に対し、現代においてあらためて「啓蒙思想2.0」を唱えるのだから、ある意味でドン・キホーテ的な企てと言えるかもしれない。しかしユルゲン・ハーバーマスとチャールズ・テイラーに学んだカナダの哲学者は本気である。
保守主義から学ぶ
本書が面白いのは、このような企てを行うにあたり、本来の啓蒙思想よりも、啓蒙思想を激しく批判した保守主義思想から多くを学んでいることである。保守主義の祖とされるエドマンド・バークは、フランス革命を批判して、人間社会というものは過去からの無数の伝統によって形成されていることを強調した(『フランス革命の省察』)。
それらの伝統はいわば「偏見」であり、なぜそうなのかは、今となってはわからないことも多い。とはいえ、人間の理性の力は有限である。改革するからといって、すでにある社会という構築物を引き倒し、いったん更地にしてゼロから設計し直すわけにはいかない。そうすれば、むしろ大混乱になってしまうだろう。それよりはむしろ、非合理に見えても、過去からの伝統や習慣を重視し、それを少しずつ改良していった方がいい。
古くからあり、今も続いているものの中には、実は何らかの合理性が秘められているものである。それらを理解できないからと言って否定してしまうのは愚かだ。
このようなバークの警告は、フランス革命が迷走し、恐怖政治に陥ったことで広く世に受け入れられることになった。むしろあまりに楽天的であった啓蒙思想の方が批判されるようになる。過去からの非合理な迷信や悪習を取り除けば、自ずと人間の理性によって合理的な秩序がもたらされるわけではない。本書もまた、このような保守主義による啓蒙思想批判を受け入れ、それを現代の脳科学などによってさらに補強している。
本書の説くところでは、人間の脳は非合理だらけである。それは過去にたまたま適応した個別の産物の固まりである。それらの間に必ずしも整合性はなく、脳はいわば、その都度、あり合わせの材料でやりくりしているのである(これを著者は「クルージ」と呼ぶ。エンジニアやコンピュータのプログラマーが、根本的な問題解決をしないまま、とりあえずの応急措置で何かを機能させることを指す)。
人間が合理的思考と呼んでいるものも、実は「クルージ」の集積物にほかならない。インテリジェント・デザインに見えるものも、実際には偶然に満ちた進化の産物なのである。
さらに人間の理性は単独では力弱く、各種の外部の記憶装置や環境要因に依存している。紙や鉛筆を使うことに始まり、各種の習慣に従うことまで、自分の脳だけでは対応しきれないものを、外部の力を借りて処理している。人間のいわゆる理性の働きは、はるかに集団的な企てなのである。逆にそのような集団のバイアスをつねに受けていることにも注意する必要がある。
人は無意識に自分の属する集団やその構成員を守ろうとし、それに脅威を与えようとするものに報復する。自分たちを「善玉」と考え、その外部にいる人間も同じように考えていることに思いが至らない。人間の諸問題が扱いにくいのも、人々が利己心に囚われているから以上に、各種の「部族意識」を持っていることに由来すると著者はいう。
しかしながら、以上を踏まえてもなお、本書は啓蒙思想を説く。その理由は、人類社会がそれでも前進してきたのは、人間の本能を何らかの手段によって抑制してきたことによるという認識にある。市場も、民主主義も、人権も、人間の本能的な「常識」には反している。それでもなお、人類社会はそのような仕組みを発展させてきた。
必要なのは理性であり、言語の力を借りて本能を抑制し、部族意識を乗り越える道筋を見出すことである。長期の根気強い論理的思考、議論、実験の過程が重要である。著者は、人間の脳や理性の脆弱性を前提に、それでも「正気を取り戻す」ための「啓蒙思想2.0」を構築しようとする。
二つの鍵
問題はそのような本書の企図が成功しているかどうかである。
人間は直感的な判断に依存しがちである。すべてを論理的に思考していてはキリがない。そもそも脳というものが、さまざまな「クルージ」によって発展してきた。さらに人類は生存のために長く集団的な協力に依存してきた。理性が集団的なバイアスの虜になるのは必然であると言っていい。ならば、どうすればいいのか。
著者の現代診断は基本的に悲観的である。現代の部族意識を巧みに利用するのは「常識」保守主義であり、右派の政治家たちは人々の(理性を僭称する)左派憎しの感情を政治的に動員する。逆に進歩派はむしろ、長らく現代文明批判をしてきた結果、自ら理性たたきに貢献してしまっている。
ある意味で、左派も右派と同じことをすればいいのかもしれない。すなわち人々の理性よりも感情に訴え、話の内容よりもむしろそれが人々に与える印象に着目することである。左派もまた、政治的に有効なフレーミングを駆使し、人々の仲間意識を揺さぶることが求められているのかもしれない。右派論客の暴論に対し、左派はコメディアンを使って笑い飛ばすという戦略も登場する。
とはいえ、この戦略はあまり上手くいきそうにない。何より「正気を取り戻す」という本書の意図からすれば、そもそも解決策になっているとは言えない。
むしろ重要な鍵は二つである。一つは、理性は個人のものではなく、社会事業であるという認識である。啓蒙思想1.0の弱点は理性を個人のものだと考えたことにある。そうだとすれば、「正気を取り戻す」ためには、個人にもっとよく考えろと促すしかない。しかし、より重要なのはむしろ、合理的な思考と計画に役立つ制度的環境を整備することではなかろうか。
本人のセルフコントロールに期待するより、いつの間にかそうしてしまうような環境を作る方が結果につながるとする本書は、人の選択を禁じたり、経済的インセンティブを大きく変えたりすることなく、人々の行動を変容させる「ナッジ(小さなきっかけ)」の活用を推奨する。
もう一つは「スロー・ポリティクス」である。過去を振り返れば、これだけ扇動政治がはびこりながら、それでも民主主義は生きながらえてきたことがわかる。そのために工夫されたのが、例えば代表制であり、司法審査であり、三権分立の仕組みであった。これらはいずれも、わざと複雑な過程を導入することで、その間に政治家や市民に、じっくりと考えざるをえない機会を作り出している。
すべてが慌ただしく、ろくな反省の過程もないままに判断が下される現代社会において、理性が陶冶されるための「間」をあらためて再建しなければならないだろう。それでは、どのような「スロー・ポリティクス」の制度がいま必要だろうか。本書を読むことで、新たな思考のヒントが得られるはずだ。