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【冒頭ためしよみ】1950年、地球一周飛行挑戦中に消息を絶った女性飛行士。2014年、その飛行士を演じることになったハリウッド女優。残された航空日誌が繋ぐ、二つの人生の円──ブッカー賞最終候補『グレート・サークル』


英国最高峰のブッカー賞の2021年最終候補、2022年の女性小説賞最終候補に選出され、TIME/NPR/ワシントン・ポスト/LitHubなどで2021年のベストブックに選出され高い評価を受けた、マギー・シプステッドの『グレート・サークル』が北田絵里子さんの翻訳となりました。

1936年にイングランドからニュージーランドまで初めて単独飛行した女性飛行士の史実からインスパイアされ、調査と執筆に7年をかけ完成された本作は、800ページ越えの巨篇! この夏、読みごたえのある物語の世界にどっぷりと浸りたいという方に強くおすすめしたい小説です。


そんな『グレート・サークル』の冒頭ためしよみです。

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 グレート・サークル

マギー・シプステッド
北田絵里子訳

 

 

南極大陸、ロス棚氷、リトル・アメリカⅢ
1950年3月4日

わたしは生まれながらの放浪者だった。波間に遊ぶ海鳥のように、わたしはこの地球に生まれ落ちた。命尽きるまで飛びつづける鳥もいる。わたしは自分に誓った。最後に海におりるときは、なすすべもなく転落するのではなく、カツオドリのごとく鮮やかに突入しよう──意志を持って飛びこむのだ、海の深みの何かに狙いを定めて。

わたしはじきに出発する。円を下から引っ張りあげて、終点と始点を結んでみるつもりだ。それがなめらかな経線であれば、ぴんと張った完璧な輪であればいいのだが、わたしたちの経路はゆえあっていびつな線を描いている──秩序なく点在する島や空港での、燃料補給が必要だから。

何も悔やんではいない、でも気をゆるめれば悔やんでしまうだろう。いま考えていいのは、飛行機と、風と、はるか彼方の、陸がふたたびはじまる岸のことだけ。天候は持ちなおしてきている。わたしたちはできるかぎり漏れを直した。わたしは間もなく発つ。終わりの来ない日は嫌いだ。太陽はハゲワシのようにわたしのまわりをめぐっている。星たちが小休止してくれたらいいのに。

円は終わりがないからすばらしい。終わりがないものはなんでもすばらしい。ただ、終わりがないことは責め苦でもある。水平線を決してつかまえられないことがわかっていても、わたしはそれを追いかけた。愚かな行為だが、そうするほかなかったのだ。

思っていたような状況ではないが、いまや円は閉じかけていて、始点と終点とを隔てるのは、最後の恐ろしげな水域のみだ。わたしは世界を見たつもりでいたが、まだ見ぬ世界はあまりに多く、人生はあまりに残り少ない。何かをなし遂げたつもりでいたが、いまは何ひとつなし遂げられなかった気がしている。自分は恐れ知らずだと思っていた。もっと大きく成長するはずだったのに、思った以上に自分を小さく感じる。

この日誌はだれの目にもふれないはず。わたしの人生はわたしひとりのものだ。

それでも、それでも、それでも。*

*『海と、空と、銀翼と──マリアン・グレイヴスの失われた航空日誌』(ニューヨーク、D・ウェンセスラス・アンド・サンズ社刊/1959年)より、本人による最後の書き込み。

 
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ロサンゼルス
2014年12月

わたしがなぜマリアン・グレイヴスのことを知っていたかと言えば、子供のころ、叔父のガールフレンドのひとりにしょっちゅう図書館に置き去りにされていて、あるときたまたま『空を飛んだ勇敢な女性たち』とかいう本を手にとったからだった。わたしの両親は飛行機で飛び立ったきり帰らぬ人となっていたが、その勇敢な女性たちもかなりの割合で同じ運命をたどっていたのがわかった。そのことに興味を引かれた。たぶんわたしは、飛行機墜落事故で逝くのはそれほど悲惨なことではないと話してくれる人を探していたのだろう──まあ、ほんとうにそんな話をされたら、出まかせを言うなと思っただろうけど。マリアンの章には、彼女が叔父に育てられたと書いてあり、わたしはそれを読むなり総毛立った。わたし自身も叔父に育てられていた(ようなものだった)からだ。

親切な図書館員がマリアンの本を探し出してくれ──タイトルは『海と、空と、なんたらかんたら』──わたしはそれを、星図を調べる占星術師さながらに熟読した。マリアンの人生がどうかすればわたしの人生に意味を与え、何をしてどんな人になればいいかを教えてくれるんじゃないかと期待したのだ。書いてあることの大半は理解できなかったけれど、この孤独を冒険に変えてやろうというぼんやりした志は抱いた。わたしは日記の最初のページに、でかでかと大文字でこう書きこんだ──"わたしは生まれながらの放浪者だった"。そのあとぱたりと書かなくなったのは、ロサンゼルス郊外のヴァン・ナイズにある叔父の家か、テレビコマーシャルのオーディション会場でしか過ごしていない10歳の少女には、続きを埋めようがなかったからだ。その本を返したあと、マリアンのことはほとんど忘れてしまった。実のところ、空を飛んだ勇敢な女性たちの存在もほぼ忘れ去った。1980年代にときたまテレビでマリアン関連の謎めかした特集番組をやっていたし、いまだにインターネット上で仮説を紡いでいる筋金入りのマリアン信奉者たちもいなくはないけれど、アメリア・イアハートほど女性飛行家として名を馳せてはいなかった。人々はアメリア・イアハートのことなら、たとえ知らなくても、知っているつもりでいる。そんなことはありえないのに。

わたしがしょっちゅう図書館に置いていかれていたのは、結果的にはいいことだった。ほかの子供たちが学校にいるあいだ、ロサンゼルス大都市圏で白人の少女(あるいは、白人にはちがいないが、人種の定かでない少女)向けのキャスト募集がかかるたび、わたしは毎回ちがう廊下に並んだ毎回ちがう折りたたみ椅子にすわりにいけたから。わたしの付き添い役は、次々替わる子守の女性か次々替わる叔父のミッチのガールフレンドで、その両方を兼ねた人もいた。彼女らがわたしの世話を買って出るのには、叔父に母性的なところを見せつけて、あわよくば妻の座に収まろうという下心もあったのだろうが、そんなお粗末な手管にほだされる叔父ではなかった。

わたしが2歳のとき、両親の乗ったセスナ機はスペリオル湖に墜落した。と言うか、そう推測されている。痕跡はいっさい見つかっていない。ミッチいわく、ふたりきりの休暇で夫婦仲を修復するべく、ミッチの兄である父の操縦で、どことも知れない僻地へきちにある知人のバンガローへ向かう途中だったらしい。わたしがまだ幼いうちから叔父は、おまえの母親はいろんな男と遊びまくってた、と話していた。この言葉どおりに。ミッチはどうも、子供への配慮というものに欠けていた。「けど、あのふたりはお互いを手放そうともしなかったな」と言っていたものだ。ミッチは惹句こそすべてだと信じていて、《愛は代価トールを求める》(料金トール徴収係の話)だの、《ヴァレンタイン・デイの殺人》(内容は推して知るべし)だのと題した安っぽいテレビ映画の監督をはじめていた。

両親はシカゴの隣人にわたしを預けていったが、両親の遺言状はわたしをミッチにゆだねていた。実際、ほかにはだれもいなかった。両親の兄弟姉妹にあたるのはミッチひとりで、わたしの祖父母たちは亡くなっているか、疎遠になっているか、行方が知れないか、当てにならないかのいずれかだった。ミッチは悪いやつではないものの、生来がご都合主義のハリウッド人種なので、姪を引きとった数カ月後には、恩返しを求めてアップルソースのコマーシャルにわたしを出演させた。そしてミッチはわたしのエージェントとなるシボーンを見つけ、わたしはそこそこ手堅く、コマーシャルやゲスト出演やテレビ映画(《ヴァレンタイン・デイの殺人》では娘役を演じた)の仕事を得ていった。演技かその真似事をしていなかった時間を思い出せないくらいだ。それが普通の生活に思えていた──カメラがまわっているあいだ、プラスティックのポニーをプラスティックの馬小屋に何度も何度も入れたり、見知らぬ大人に微笑み方を指南されたりしているのが。

11歳のとき、ミッチがテレビ映画を踏み台にしてミュージックビデオ方面に進出し、さらにインディーズ映画界へこわごわ乗りこんでいったあと、わたしはいわゆる大ブレイクを果たした──ケーブル局の子供向けタイムトラベル・コメディ《ケイティ・マギーの最高の人生》のケイティ・マギー役に抜擢されたのだ。

撮影現場では、ぴかぴかのキャンディカラーと、気のきいた台詞や整然としたシナリオ、強力なライトに照らされた三面壁の部屋がわたしの全人生になった。わたしの大げさな演技は、録音された騒々しい笑い声に受け止められた。流行の最先端を行く衣装をまとったわたしは、さながらトゥイーン(8歳~12歳の子供)の思潮の化身だった。仕事の合間には、ミッチの放任主義のおかげで、おおむね好き勝手をしていた。自著に、マリアン・グレイヴスはこう綴っている──

子供のころ、弟とわたしはたいてい放っておかれていた。何年ものあいだ、だれにもだめとは言われなかったから、わたしはなんでも好きなことをしていいのだ、行き方がわかれば勝手にどこへでも行っていいのだと信じていた。

わたしはたぶん、マリアンよりは”ませガキ”の部類だったが、同じような考えを持っていた。この世がわたしの生牡蠣(牡蠣には「思うままにできるもの」の意がある)なら、自由というヴィネガーソースで味わいつくそう。人生がレモンを寄こすなら、その皮をいでマティーニの飾りにしてやろう。

13歳のとき、《ケイティ・マギー》グッズがばか売れしはじめ、ミッチの監督作品《止血帯》もまた、ラリった豚が転げまわらんばかりの大ヒットを収めたあと、ミッチはわたしたちふたりぶんの稼ぎを投じて、ビヴァリー・ヒルズに居を構えた。サンフェルナンド・ヴァレーを脱出したとたん、わたしはケイティ・マギーの兄役の子を通じてリッチな不良高校生たちと知り合い、彼らは車でわたしをあちこちのパーティに連れまわしては、パンツに手を突っこんできた。わたしの生活の乱れっぷりに、自身も不在がちなミッチはたぶん気づいていなかった。ときどき、午前2時とか3時に、どちらもよれよれの状態で帰宅して鉢合わせすることがあり、そんなときは、ホテルの廊下ですれちがうか、大荒れの会議に同席している他人どうしのように、ただうなずき合った。

ただ、吉と出たこともある。《ケイティ・マギー》の撮影現場に来ていた個人指導教師はまともな人たちばかりで、わたしに大学進学を勧めてくれたので、こちらもその気になって邁進まいしんし、なんとかニューヨーク大学に合格した。その前に番組は終了したけれど、Bリスト(ハリウッド俳優の格付けで大スターよりは下の部類)のテレビスターとしての地位は確保していた。ミッチがドラッグの過剰摂取で逝ったとき、わたしはすでに荷造りをしてニューヨークへ発つ準備万端だった。でなければ、そのままLAに残って、叔父と同じくパーティ三昧のあげくに死んでいただろう。

吉と出たのか凶と出たのかわからないこともある──大学の一学期を終えたあと、わたしは映画《アークエンジェル》シリーズの第一作に出演することになった。そうはならずに、大学に最後までかよって役者をすっぱりやめていたら、いまごろどうなっていただろうと考えることもある。でもカテリーナ役で得られる巨額のギャラを突っぱねることができたなんてとても思えない。だから、別の顛末てんまつなど考えるだけ無意味なのだ。

高等教育を受けたその短い一時期、わたしは哲学入門という講義に出て、パノプティコン、つまり思想家ジェレミー・ベンサムの考案した円形の監獄モデルについて学んだ。監房を大きな円状に配した中央に、ちっぽけな監視塔をひとつ置くというものだ。監視の目がいつ自分のほうへ向けられるのかわからず、囚人は実際の視線よりもずっと強く、見られている感覚にとらわれるので、看守はひとりしか必要ない。そしてフーコーが、そのすべてを隠喩に置き換えた──個人または集団を統制し支配するために必要なのは、見られているかもしれないと思わせることだ、と。教授は学生たちにパノプティコンの不気味さと恐ろしさを伝えようとしたとも言えるが、のちにわたしは、《アークエンジェル》のおかげで有名になりすぎたあと、ケイティ・マギーの荒唐無稽なタイムマシンに乗ってあの教室へ戻り、逆の場合を考えてみて、と教授に詰め寄りたくなった。たとえば、看守ひとりが真ん中にいるんじゃなく、あなたひとりが真ん中にいて、数千人、もしかしたら数百万人の看守が、あなたの行く先々で四六時中あなたを見ている──いや、見ているかもしれない──場合を、と。

教授に物申すほどの度胸があったわけではない。ニューヨーク大学で、元ケイティ・マギーのわたしはいつもじろじろ見られていたが、みんなからそんなふうに見られるのは、わたしがその環境にふさわしくないからだと感じていた。たしかに場ちがいだったかもしれないが、そういう適不適は実験室で測定できるものじゃない。その人が何かにふさわしいかどうかなんて知りようがないのだ。そう、たぶんわからない。だから《アークエンジェル》のために中退して、果たさざるをえない山ほどの義務と自分では決められない予定をふたたび前にしたときには、どこかほっとした。大学では、辞書ほど分厚い履修便覧をめくりながら、すっかり途方に暮れた。学食をさまよい歩いて、さまざまな料理やサラダバーやベーグルの山やジャー入りのシリアルやソフトクリームマシンを眺めながら、生死のかかった超難題を解けと迫られているように感じていた。

わたしが何もかもぶち壊したのち、サー・ヒューゴー・ウールジー(たまたまうちの隣に住んでいる、あのサー・ヒューゴー)が、自分がプロデュースする予定の伝記映画の話をはじめ、トートバッグからマリアンの本──15年間、わたしが思い出しもしなかった本──を引っ張り出した瞬間、わたしは図書館へ舞いもどって、すべての答えが書かれていそうなその薄いハードカバーを見つめていた。答えというのは素敵な響きだった。それこそがわたしの望むもののように聞こえた。自分の望みがなんなのか、はっきりわかっていたわけではないのだが。望むということの意味がちゃんとわかっていたかどうかすら怪しい。わたしが主に感じていた欲望は、どうしようもなくこじれた、相反する衝動だった。マリアンのように消え去りたくもあり、これまで以上に有名になりたくもあった。勇気と自由にまつわる大切なことを語りたくもあり、勇敢で自由な人間にいっそ生まれ変わりたくもあったけれど、それがどういうことかは知らなかった──わたしが知っていたのは、知っているふうに装うことだけ。それがお芝居ってものでしょ?

きょうは映画《ハヤブサ》の撮影最終日だ。わたしはマリアンの飛行機の実物大模型のなかにすわっている。滑車装置に吊るされた機体は、これから巨大な水槽の上に振り落とされることになっている。わたしはトナカイの毛皮のアノラックを着ていて、ただでさえずっしりしたその代物は水に濡れたら最後、とんでもない重さになるはずだが、怖くなどないふりをしている。監督のバート・オロフソンが、さっきわたしを脇へ呼んで、このスタントをほんとうに自分でやるつもりなのか、つまりその、ご両親をあんなふうに亡くしているのに、と訊いてきた。"そのことと向き合ってみたいんです"とわたしは言った。"これで決着をつけられるかもしれません"と。監督はわたしの肩に手を置き、精いっぱいの賢人顔をこしらえた。"きみは強い女性だ"と言って。

とはいえ、決着のつけどころなどありはしない。だからこそわたしたちは常にそれを探しているのだ。

航法士のエディ・ブルームを演じる俳優もまた、トナカイの毛皮のアノラックを着ていて、耐水性の血糊で額にメイクを施されている。頭をぶつけて失神することになっているからだ。現実には、エディはマリアンの操縦室の後方の航法士用デスクに着いていたはずだが、死の急降下の間際に前へ来たことにしたほうがいいというのが、ヒトラー青少年団ユーゲント風の髪型と顔をした、やたらテンションの高い脚本家兄弟の考えだった。はあ、なるほど、ではそうしますか。

どのみち、わたしたちの伝える物語はほんとうに起こったこととはちがっている。わたしもそこまでは知っている。けれど、マリアン・グレイヴスにまつわる真実を知っているなんて言うつもりはない。それを知っていたのは本人だけ。

8台のカメラがわたしの墜落シーンを撮影する。6台は固定され、2台はダイバーたちが操作する。一度で撮ってしまう手筈だ。多くても二度まで。これは費用のかさむ撮影で、予算は決して莫大ではなかったうえに、いまや使い果たされて足が出ているが、ここまで来たらやりきるしかない。最高にうまくいっても、一日がかりになる。最悪の場合、わたしは溺れ死に、追悼されて終わる。飛行機と海が偽物であることを除けば、両親と似たような最期を迎えるわけだ。どこかへたどり着こうともせずに。

「やっぱりやめたいってことはないですね?」

スタント責任者の男がわたしのハーネスを確認している。努めて淡々とわたしの股ぐらに手を突っこみ、トナカイのごわごわの毛に埋もれたストラップや留め金を探っていく。いかにもその道のプロらしく、なめし革のような肌をして、革の服ばかり身につけ、修理の行き届かない機械みたいな歩き方をする人だ。

「ええ、まったく」わたしは答える。

安全確認がすむと、クレーンがわたしたちの飛行機を吊りあげ、そして振り落とす。水槽の端にある照明の反射板が、水平線のようなものを作り出している。マリアン・グレイヴスに扮したわたしは、燃料計がゼロを示した状態で南極海の上空を飛んでいて、どことも知れないこの場所より先へはもう進めないことを知っている。水はどれほど冷たいだろう、死ぬまでにはどのくらいかかるだろうとわたしは考える。選びうる道を頭のなかで探る。日誌に綴った自分への誓いを思い起こす。"カツオドリの突入"

「アクション」イヤピースから声がして、わたしは偽物の飛行機の操縦輪を押す。まるで地球の真ん中に飛びおりようとでもするように。滑車の先端が傾き、わたしたちは急降下する。


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