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読了後はきっと「すごいものを読んだ」とだれかに言いたくなるはず……英国最高峰ブッカー賞最終候補『グレート・サークル』訳者あとがき

英国最高峰のブッカー賞の2021年最終候補、2022年の女性小説賞最終候補に選出され、TIME/NPR/ワシントン・ポスト/LitHubなどで2021年のベストブックに選出され高い評価を受けた、マギー・シプステッドの『グレート・サークル』が北田絵里子さんの翻訳で刊行となりました。

1936年にイングランドからニュージーランドまで初めて単独飛行した女性飛行士の史実からインスパイアされ、調査と執筆に7年をかけ完成された本作は、800ページ越えの巨篇! この夏、読みごたえのある物語の世界にどっぷりと浸りたいという方に強くおすすめしたい小説。

そんな本書の巻末に収録されている、訳者の北田さんのあとがき全文です。

訳者あとがき


マギー・シプステッドの長篇小説『グレート・サークル』(Great Circle, 2021, Alfred A. Knopf)の全訳をお届けする。

グレート・サークル(大円)とは、球を完全に二等分したとき、その切り口に現れる円のことを言う。本篇中では、命知らずの女性パイロットが、南北の極点を経由する大円に近いルートでの地球一周飛行に旅立つ。「わたしは地球の大きさに照らして自分の人生を評価してみたいのだ」と飛行日誌に記した彼女の生涯を追っていく本作は、ジャンルで言うなら歴史冒険小説になるだろう。

Jacket Design: Kelly Blair
日本版装幀:田中久子


舞台はモンタナ、シアトル、スコットランド、ヴァンクーヴァー、アラスカ、ニューヨーク、戦時のイングランド、ニュージーランド、ハワイ、北極/南極、そして現代のロサンゼルスに及び、陸、海、空を網羅してダイナミックに展開する。

物語の中心人物、マリアン・グレイヴスは、生まれて日も浅い赤ん坊だった1914年、沈没しつつある遠洋定期船から、その船長だった父親の手で、双子の弟ジェイミーとともに救い出された。産後うつに陥っていた母はこのとき帰らぬ人となり、父も沈没事故の責任を問われて監獄へ送られる。モンタナに住む画家で独り身の叔父に引きとられたマリアンとジェイミーは、大自然のなか、ケイレブという年上の悪ガキとつるんで、たくましく自由気ままに育つ。

12歳のとき、巡業曲芸飛行士が町にやってきたことで、無類のメカ好きのマリアンは飛行機に魅せられ、パイロットになろうと固く決意する。可能なかぎり多くの世界を見たいという願望を満たすには、飛行機こそうってつけの相棒になると気づかされた瞬間だった。

禁酒法時代のモンタナで、マリアンはパイロットになる手立てをがむしゃらに探りはじめ、ひと筋の光明を見出す。だがそれは、危険な恋と、叔父やジェイミーをも巻きこんだ波瀾の幕あけでもあった。

もうひとりの中心人物、ハドリー・バクスターは、2014年のハリウッドに生きる若手女優。子役として活躍したのち、《トワイライト》シリーズを彷彿させる、ティーンに絶大な人気のファンタジー映画シリーズのヒロイン役をつかみ、一躍アイドル・スターとなった。ヒーロー役の共演俳優と交際していたが、パパラッチに日々追いまわされるなか、別の男性との浮気が疑われる写真を撮られたことから、作品のイメージを壊したと熱狂的ファンに騒がれ、役をおろされてしまう。

崖っぷちのハドリーのもとに、復帰への第一歩として、マリアン・グレイヴスの伝記映画で主演しないかという話が舞いこむ。幼少時に両親をセスナ機の墜落事故で亡くし、マリアンと同じく放任主義の叔父のもとで育ったハドリーは、その役に運命的なものを感じる。

紆余曲折を経て夢をかなえ、熟練したパイロットとなったマリアンは、1950年、ひとりの航法士とともに地球一周飛行に挑み、ゴールを目前にして消息を絶っていた。ハドリーは謎多きマリアンを演じていくうち、ふとしためぐり合わせからマリアンの人生の真実に迫ることになり、このパラレル・ストーリーは競り合うように加速しはじめる──

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マリアンは、航空の世界への入口では男性飛行士から相手にされず、戦時に操縦の腕で貢献しようとすれば、まずは女性としての立場をわきまえるよう諭される。片やハドリーも、ハリウッドの男性上位の体質に甘んじ、ブロックバスター映画の顔として消費され、SNSでの攻撃をひとりで受け止めて傷ついている。時代を越えて、ふたりの心の葛藤が呼応したくだりもある。ハドリーは「マリアンのように消え去りたくもあり、これまで以上に有名になりたくもあった。勇気と自由にまつわる大切なことを語りたくもあり、勇敢で自由な人間にいっそ生まれ変わりたくもあった……」と自己観察し、マリアンはこう内省する。

「(わたしは)いくつもの相反する望みに引き裂かれていた……──生きたい、死にたい、人生をやりなおしてすべてを変えたい、もう一度この人生を生きて何も変えたくない」

『グレート・サークル』(マギー・シプステッド/北田絵里子訳)P.796


マリアンのパートが大河小説のように長大なスパンであるのに対し、ハドリーのパートは映画の企画が持ちこまれてから完成に至るまでの一年ほどという構成になっている。三人称で語られるマリアンの人生は、読者の感情を揺さぶる起伏に満ちているが、毒舌でユーモアに富んだハドリーの一人称語りに切り替わったタイミングで、自然とクールダウンすることができる。作者自身、「ハドリーの視点に戻っていくといつもほっとして、遊び心をもって書き進められた」と語っている。

作者はまた、「人が死んだり失踪したりしたとき、いかに多くが失われるか、そして未来のだれかがどれだけ史実を掻き集めようと、いかに多くが知りえないままになるか」を現代パートで示したかったと言い、ハドリーに探索者の役割を託している。

先ほどパラレル・ストーリーと書いたが、その二本の平行線にいくつものちがった線を添わせて(あるいはからませて)あるのが本作の贅沢なところだ。

20世紀のパートでは、第一次大戦がもたらした波紋~禁酒法時代~大恐慌~ふたたび忍び寄る戦争の影~激動の開戦から終戦へと移りゆくアメリカ史が俯瞰されているが、作者はリンドバーグの大西洋横断飛行を起点とする航空史も視界の端にとらえ、アメリア・イアハートなど数々の女性飛行家の活躍を、まだ名もなきパイロットだったマリアンの羨望とともに記している。

ストーリー上にもうひと筋の太い線を走らせているのが、マリアンの双子の弟ジェイミーだ。画才に恵まれたジェイミーが、家出に近いひと夏の旅をきっかけにその道を真剣に志すようになり、もがきながら画家としての独創性を見出していく過程には、マリアンの物語に劣らぬ読みごたえがある。猪突猛進型のマリアンに比して、ジェイミーは激しい感情をあまり出さない性格で、ふたりは互いの存在で心のバランスを保ちながら親のいない子供時代を生きてきた。別々に歩みはじめたあと、ふたりが折にふれて送り合う想いのこもった手紙や、決して多くはない再会の場面には、じんとくる人も多いだろう。

登場人物たちのさまざまな愛の形──強く引かれ合いながらも疲弊する関係、互いの境遇に引き裂かれても忘れえぬ愛、生涯を通して細く長く生き延びる愛、セクシュアリティをめぐって苦悩する関係──もまた、ドラマの要素として重層的に織りこまれている。

加えて、少年時代のケイレブがマリアンに何気なく聞かせる伝説上の先住民"水中でしゃがみこむグリズリー"も、唐突に登場してすぐ退場したように見えながら、節目ごとに足跡を残していく。

これほど多くのパーツが破綻なく、しかも精巧にまとめあげられているのは見事と言っていい。読了後はきっと「すごいものを読んだ」とだれかに言いたくなるはずで、女性飛行士の話には特に興味がないし……と素通りされてしまうのは惜しい作品なのである。

 

ⒸMaggie Shipstead

現在ロサンゼルスに暮らすマギー・シプステッドは、1983年、カリフォルニア州オレンジ郡生まれ。5歳のときに受けたIQテストで、生まれつき突出した知能を有する・ギフテッド・と判定されている。

ハーヴァード大学へ進み、『ホワイト・ティース』(小竹由美子訳、中公文庫)などの著作を持つゼイディー・スミスの文芸創作コースを受講したころから、作家になることを考えはじめ、アイオワ大学のライターズ・ワークショップで芸術学修士号を取得したのち、スタンフォード大学でステグナー特別研究員フェローの地位を得た。

2012年、シプステッドは初の長篇小説Seating Arrangementsを上梓する。結婚式に臨む典型的なWASPの上流家庭を切れ味鋭く風刺したこの作品は高く評価され、ディラン・トマス賞、ロサンゼルス・タイムズ文学賞(デビュー作を対象としたアート・サイデンバウム賞)を受賞した。

そして2014年、残酷で美しいバレエの世界を舞台にした鮮烈な第2長篇 Astonish Me『びっくりさせてよ』(秋月鵺子訳、チャイコ)を発表。これら2作はいずれも、ひとつの独特な世界を克明に描いた小説だった。2021年には、初の短篇集 You Have a Friend in 10A が刊行されている。

構成面で新境地に挑み、調査と執筆に7年を費やした労作『グレート・サークル』は、絶賛をもって迎えられた。イギリスの権威あるふたつの文学賞──2021年のブッカー賞、2022年の女性小説賞──で最終候補となったほか、《タイム》誌が選ぶ2021年フィクション小説ベストテンの第1位に輝き、《ワシントン・ポスト》紙、《ロサンゼルス・タイムズ》紙をはじめ、ここに挙げきれないほど多数のメディアで年間ベストブックに選ばれた。


本作のアイデアが浮かんだのは、2012年秋にニュージーランドのオークランド空港で、ジーン・バッテン(1936年にイングランドからニュージーランドまで初めて単独飛行した女性飛行士)の銅像に遭遇したときのことで、その銘板に刻まれたバッテンの言葉「わたしは放浪者となる運命だった」に触発されて、冒頭の一文──わたしは生まれながらの放浪者だった──が生まれたという。


作品の構想から一年経つころ、シプステッドは《トラベル+レジャー》《コンデナスト・トラベラー》といった旅行雑誌への寄稿をはじめ、北極(6回)、南極(2回)、南太平洋、ヒマラヤ、パタゴニア、ボツワナなどへの取材を重ねながら、冒険志向のトラベルライターとしての評価を得ていった。

長期にわたるそうした旅は小説の執筆を滞らせたが、「サバイバル・スキルを持ち、どんなに過酷な環境でもたくましく生きる、危険を厭わぬ人たち」との出会いもあり、それはマリアンの人物造形に活かされた。自身の目で見た雄壮な景色や自然の驚異は、巧みな比喩をまとった美しい文章に置き換えられている。

【Vimeo グレート・サークルが出来るまで】


執筆中にはたびたび、このプロジェクトに何年も人生を賭けていていいのか、版元は果たしてこの作品を買ってくれるのかと思い悩み、「女性の作家がこんなに長い本を書かせてもらえるの?」と人に訊かれたことさえあったらしい。

『グレート・サークル』のメイン・キャストはもちろん、自由と自分らしい生き方をひたむきに模索する女性たちだが、自信喪失や不安を乗り越えてこの本を書きあげようとしていたシプステッドもまさしく、そんな女性のひとりだったのだ。

これはひとことで言うと何についての本なのか、という友人の問いに、シプステッドは迷うことなく”スケール”と答えたそうだ。さらにこんな私見を述べている。

「地球のスケールを、人生のスケールを考えるとき、わたしは畏敬の念を覚えるのです──それがどちらも、ちっぽけであり、とてつもなく大きくもあることに」

訳者同様、読者のみなさんにもぜひ、新たな角度から人生が見えてくるこのスケールと、最後に巨大な円を閉じる感覚を味わってもらえればと願っている。

 2023年7月 北田絵里子

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『グレート・サークル』は早川書房より好評発売中です。