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NHK「あさイチ」で紹介! 「遺伝子」研究の全貌がわかる傑作ポピュラーサイエンス『遺伝子‐親密なる人類史-』冒頭試し読み①

「本書は、科学の歴史上最も強力かつ”危険”な概念のひとつである『遺伝子』の誕生と、成長と、未来についての物語である」――今年2月の刊行以来、大反響を呼んでいる傑作科学ノンフィクション『遺伝子‐親密なる人類史‐』の冒頭には、こう記されています。著者は、前作『がん‐4000年の歴史‐』でピュリッツァー賞を射止めた医師シッダールタ・ムカジー。稀代の科学の語り部がつづる遺伝学の陰影に富む発展史、そして、自身の家族の知られざる物語とは? 「ゲノム編集」が物議を醸す今こそ読んで頂きたい、名著の冒頭を公開します。

プロローグ──家族

 そなたらを見ていると、御両親の血筋がまざまざと窺える。
     ──メネラオス、ホメロス『オデュッセイア』より
父さんと母さんが交わって、おまえをつくる。
そんなつもりはなかったのに、そうしてしまう。
自分たちの欠点をおまえに詰め込んで、
おまえのためだけの欠点を、さらにつけ加える。
  ──フィリップ・ラーキン「これも詩であれ(This Be The Verse)」

 二〇一二年の冬、私はいとこのモニを訪ねるためにデリーからコルカタへ行った。ガイド兼旅の道連れとして、父も一緒だった。でも父は、私にはぼんやりとしかわからない個人的な苦悩にとらえられたまま、終始むっつりと物思いに沈んでいた。父は五人兄弟の末っ子で、モニは最初に生まれた甥、つまり長兄の息子だった。モニは統合失調症と診断されており、四〇歳だった二〇〇四年からずっと、精神疾患の患者のための施設(父は〝気ちがいの家〟と呼んでいた)に入所したきりだった。モニには無数の薬が投与されており、一日じゅう付添人がそばにいて、監視したり、入浴や食事の世話をしたりしていた。

 父はモニにくだされた診断を受け入れておらず、モニの治療を担当している精神科医たちを相手に、長年にわたる孤独な闘いを繰り広げてきた。医者のくだした診断はとんでもない誤りなのだと、モニの壊れた精神はいずれ奇跡的に自然治癒するのだと医師たちに納得させたいと願っていたのだ。父はコルカタの施設をすでに二度訪れていた。一度は、連絡なしにいきなり行った。鉄格子のゲートの向こうでひっそりとごく普通の生活を送っている、すっかり回復したモニに会えることを期待して。

 だが父は、こうした訪問にはおじの愛情以上のものが絡んでいることを承知しており、そのことは私にもわかっていた。父の家族で精神疾患を患っていたのはモニだけではない。父の四人の兄のうち、ふたり(モニの父親ではなく、モニのおじふたり)がさまざまな精神の破綻に苦しんだのだ。少なくとも二世代にわたって、狂気はムカジーの家系の中に存在しており、モニの診断を受け入れたくない父の気持ちの一部には、同じ病の種子が、まるで有毒な廃棄物のように彼自身の中にも埋められているのではないかという恐ろしい認識があった。

 一九四六年、父の三番目の兄のラジェッシュがカルカッタ(一九九九年にコルカタに変更)で若くして亡くなった。二二歳だった。二晩続けて雨の中で訓練をしたせいで肺炎にかかったとされているが、実のところ、肺炎はべつの病気がもたらしたものだった。ラジェッシュはかつて、兄弟の中でいちばん将来有望だと思われていた。いちばん頭の回転が速く、いちばん心が柔軟で、カリスマ性も、活発さも抜きんでていた。父や家族から最も愛され、崇拝されていたのも彼だった。

 私の祖父はその一〇年前の一九三六年に亡くなっており(マイカ鉱山をめぐる紛争のあとで殺害された)、残された祖母が五人の男の子を育てることになった。長男ではなかったものの、ラジェッシュはごく自然に父のあとを継いだ。当時まだ一二歳だったが、二二歳といってもおかしくはなかった。以前は頭の回転が速すぎておしゃべりなところもあったが、威厳が備わるとともにそうした性質も落ち着き、思春期のもろい自負心はすでに大人の自信へと変わっていた。

 しかし四六年の夏、まるで脳の中でワイヤが切れてしまったかのように、ラジェッシュは奇妙なふるまいをするようになった。人格の変化で最も著しかったのは、気分の変動だった。いい知らせを聞くと喜びを爆発させ、曲芸のような激しい運動をひとしきりしてようやく落ち着いた。一方で、悪い知らせを聞くとひどく落ち込み、どんな慰めも効かなかった。感情自体はそれぞれの状況に即したものだったが、その激しさは異常だった。その年の冬には、ラジェッシュの感情は頻繁に変化するようになり、振れ幅も大きくなった。怒りや誇大な考えへと移行する興奮の波がしだいに激しさを増して押し寄せてきて、そのあとには、同じくらい強い悲しみの引き波が続いた。カルト宗教に手を出しはじめ、自宅で降霊術の会やこっくりさんの会合を開いたり、夜に火葬をおこなう計画を立てたりするようになった。一九四〇年代のカルカッタの中華街の小部屋には、若者の神経を落ち着かせるためのミャンマーのアヘンやアフガニスタンのハシシが十分に蓄えられていた。ラジェッシュがそうしたものを使って自己治療をしていたかどうかは不明だが、父は別人のようになったラジェッシュのことを覚えていた。感情の急勾配を登ったり降りたりしながら、びくびくしたり、まわりの人の気持ちに無頓着になったりしたそうだ。ある朝にはいら立っていたかと思えば、翌朝にはとてもうれしそうだったこともあった(とてもうれしいoverjoy という言葉は口語的に使われ、無邪気な感情、つまり喜びの増大を表しているが、それと同時に、正気のぎりぎりの限界をも示している。いずれわかるように、overjoy を超えたところに、over-overjoy は存在しない。あるのはただ、狂気と熱狂だけだ)。

 肺炎にかかる前の週、ラジェッシュは自分が大学の試験ですばらしい成績を取ったことを知った。有頂天になった彼は、二泊の小旅行に行ってくると言って姿を消した。おそらく、レスリングのキャンプで「訓練」をするのだろうと家族は思った。帰ってきたとき、彼は高熱を出していて、幻覚に襲われていた。

 父の話を聞いてから何年もたって、メディカル・スクールにいたときに、私はラジェッシュは急性の躁状態にあったのだと気づいた。彼の心の病はほぼ典型的な躁うつ病(双極性障害)だった。

 五人兄弟の四番目であるジャグは一九七五年、私が五歳のときにデリーのわが家に住みはじめた。彼の心もまた壊れつつあった。背が高く、ひどく痩せていて、目にはかすかに野生の光が宿っていた。量の多い縮れ髪を伸び放題にしており、ジム・モリソンのベンガル人版といった感じだった。二十代になって病気を発症したラジェッシュとはちがって、ジャグは子供のころからすでに問題を抱えていた。人づき合いが苦手で、私の祖母以外の人に心を開くことはなく、仕事に就くことも、ひとりで暮らすこともできなかった。一九七五年には、より深刻な認知機能の問題が現れ、幻覚や幻想を見たり、ああしろこうしろと命令する声が頭の中で聞こえたりするようになった。家の外で果物を売っているバナナ売りが、ひそかに自分の行動を記録している、といったような陰謀説をいくつもこしらえた。よくひとりごとを言っており、とりわけ、自分で考えた列車の時刻表を取り憑かれたように暗唱していた(「シムラーからハウラーまでカルカメールに乗り、ハウラーでジャガンナート急行に乗り換えてプリーまで」)。それでも、ときにけたはずれのやさしさを見せることもあり、私が自宅にある大切なヴェネツィアガラスの花瓶をうっかり割ってしまったときも、私をベッドカバーの下に隠して、代わりの花瓶なら「一〇〇〇個」も買えるほどの「大金をどっさり」隠しているからと私の母に言った。だがこのエピソードですら、病気の症状のひとつだった。私に対する愛すら、精神の病と作話症の現れにほかならなかった。

 ラジェッシュとはちがって、ジャグは正式な診断を受けた。一九七〇年末に彼を診察した医師が統合失調症という診断をくだしたのだ。しかし薬が処方されることはなく、ジャグはその後も私の祖母の部屋に半ば隠れるようにして、わが家で暮らした(インドの多くの家庭と同じく、祖母は私たちの家に同居していた)。今では二倍の敵対心を胸に、またも籠城することになった祖母は、ジャグの公式な擁護者の役目を買って出た。ジャグが祖母の世話を受け、祖母の部屋で食事をし、祖母が縫った服を着ていた一〇年近くのあいだ、祖母と父は危うい休戦状態にあった。夜、恐怖心と幻覚のせいでジャグがとりわけ落ち着かなくなると、祖母はジャグの額に手を置いて、子供のようにベッドに寝かしつけた。一九八五年に祖母が亡くなると、ジャグは家を出ていき、戻ってくるようにという説得に
も応じなかった。そして一九九八年に亡くなるまで、デリーのある宗派と生活をともにした。

 父と祖母はどちらも、ジャグとラジェッシュの精神疾患はインドとパキスタンの分離という大変動によって悪化したにちがいないと信じており、ひょっとしたらそれが原因だったのではないかとすら思っていた。政治的なトラウマが精神的なトラウマへと転化されたにちがいない。分離は国をふたつに分断しただけでなく、心も分断したのだ。サーダット・ハサン・マントーの短篇「トバ・テク・シン」は、印パ分離を題材にした小説の中で最も有名な作品だといっていいだろう。そこに登場する精神を病んだ主人公はインドとパキスタンの国境で捕まえられるのだが、彼はまた、正気と狂気の境界線上でも生きていた。ジャグとラジェッシュの場合には、政治的な大変動と東ベンガルからカルカッタへの立ち退きという出来事によって、精神が解き放たれたにちがいないと祖母は信じていた。解き放たれたそれぞれの方向は、驚くほどちがっていたが。

 ラジェッシュがカルカッタにやってきたのは一九四六年のことで、街そのものが神経をすり減らしながら正気を失いつつある時期だった。街の愛は枯渇し、忍耐力も底を突いていた。東ベンガルから人々が絶え間なく流入し(隣人よりも先に政治的な大変革を予感した人々だ)、シールダ駅近くの低層のアパートや貸家を埋めつくそうとしていた。そうした貧しい労働者たちの一員だった祖母も、駅から少し歩いたところにあるハヤット・カーン通り沿いの三部屋のアパートを借りた。一カ月の家賃は五五ルピーで、現在の通貨に換算すると一ドルほどだったが、家族にとっては途方もない大金だった。今にも崩れそうなそのアパートはゴミの山に面しており、部屋は狭かったが、部屋には窓がついていたうえに共用の屋上もあったので、少年たちはそこから新しい街と国が生まれるさまを眺めることができた。街角では暴動が次々と企てられ、その年の八月にはヒンドゥー教徒とイスラム教徒とのあいだで激しい衝突が起きて五〇〇〇人が殺害され、一〇万人が家を追われた(この事件はのちに「カルカッタ虐殺」と名づけられた)。

 ラジェッシュはその夏、暴徒の波が押し寄せるのを目の当たりにした。ヒンドゥー教徒がイスラム教徒をラルバザールの店やオフィスから引きずり出し、道路の真ん中で生きたまま内臓を抜いた。イスラム教徒はラジャバザール近くの魚市場やハリソン通りで同じくらい残忍な方法でヒンドゥー教徒に反撃した。ラジェッシュの精神がおかしくなったのはこうした暴動のすぐあとのことだった。街はやがて落ち着を取り戻し、紛争も収まったが、彼の恐怖心はいつまでも消えなかった。八月の大虐殺からほどなくして、ラジェッシュは誇大妄想的な幻覚に次々と襲われるようになった。おびえはいっそう強くなり、夕方になると以前よりも頻繁にジムにかようようになった。その後、躁状態でのけいれん発作、原因不明の発熱といった症状に襲われはじめ、そして最終的に、彼の命を奪うことになる突然の病を発症した。

 もしラジェッシュの狂気がカルカッタにやってきたことでもたらされたのだとしたら、ジャグの狂気は故郷を離れたことでもたらされたのだと祖母は確信していた。先祖代々暮らしてきたバリサルのそばのデヘルゴティ村では、ジャグの精神は友人や家族にしっかりとつなぎ止められていた。水田を走りまわったり、水たまりで泳いだりしていた彼は、ほかの子供たちと同様に明るく陽気で、普通の子と大差ないように見えた。しかしカルカッタでは、まるで自然生息地から根っこを抜かれた植物のように、ジャグはしおれ、ばらばらになった。大学を中退し、アパートの窓際にずっとたたずんだまま、ぼんやりと世界を眺めていた。思考はもつれはじめ、支離滅裂なことを言うようになった。ラジェッシュの心が危うい極限まで広がったのに対し、ジャグの心は部屋の中で縮まっていった。ラジェッシュは夜の街をさまよい歩いたが、ジャグは自発的に家に閉じこもった。

 ラジェッシュは街のネズミで、ジャグは精神を病んだ田舎のネズミである──。そんな風変わりな精神疾患の分類は、それがあてはまるあいだは都合のいいものだったが、モニの精神まで侵されはじめたことによって崩壊した。モニは言うまでもなく「インド・パキスタン分離を経験した子供」ではなかった。根っこを抜かれたわけでもなく、生まれてからずっとカルカッタの安全な家で暮らしていた。それでも、彼の精神の軌跡は薄気味悪いほどにジャグに似ていた。思春期を迎えると、幻覚や頭の中の声に悩まされるようになった。孤独を求めるところも、大げさなつくり話をするところも、混乱したり錯乱したりするところも、不気味なほどおじの病を思い出させた。モニが十代のころ、デリーの私たちの家にやってきたことがあった。みんなで映画を見にいく予定だったのだが、モニは二階の洗面所に閉じこもって鍵をかけ、一時間近くも出てこようとしなかった。祖母がようやく説得して、洗面所に入ると、彼は体をまるめて隅っこに隠れていた。

 二〇〇四年、公園で放尿したという理由で(モニは私に、内なる声が「ここで小便しろ、ここで小便しろ」と命令したのだと言った)、モニは不良グループにこっぴどく殴られた。そして数週間後には、さらにべつの「罪」を犯した。こっけいなまでに途方もない罪で、それ自体、彼が正気を失っている証拠だった。不良グループの姉妹のひとりといちゃついているところを見つかったのだ(今度もまた、内なる声に命令されたと言った)。彼の父がどうにか取りなそうとしたがうまくいかず、モニは叩きのめされた。唇が裂け、額に傷を負い、病院で治療を受けなければならなかった。

 不良グループによる暴行は彼を浄化するためのものだったが(のちに警察に質問されたとき、彼らは「モニの体から悪魔を追い出す」ためにやったのだと主張した)、その結果、モニの頭の中の命令者はより大胆に、より執拗になっただけだった。その年の冬、幻覚と内なる声がいっそうひどくなり、モニは施設に入れられた。

 モニは私に、施設への収容はある程度、自ら望んだものだったと言った。彼が求めていたのは精神的なリハビリというよりもむしろ、身体的な避難所だった。数々の抗精神病薬が処方され、状態は少しずつ改善していったが、退院できるほどまでにはならなかった。数カ月後、モニがまだ施設にいるあいだに、彼の父親が亡くなった。母親は何年も前にすでに他界しており、たったひとりの姉は遠くに住んでいた。だからモニは施設に残ることにした。ひとつには、ほかに行くところがなかったからだ。精神科の医師は精神科病院の昔の呼び方である「精神避難所」という言葉を使わないようにと主張しているが、モニの場合には、その言葉はぞっとするほどぴったりだった。そこは彼の人生に欠けていた保護と安全を与えてくれる唯一の場所であり、モニは自発的に籠に入った小鳥だった。

 二〇一二年に私が父と一緒にモニのもとを訪れたときには、最後に彼に会ってから二〇年近くたっていた。それでも、見ればすぐにわかると思っていた。だが面会室で会った人物は私の記憶の中のいとことはあまりにちがっており、付添人が名前を確認しなければ、私は面会の相手をまちがえていただろう。モニは実際の年齢よりもずいぶん歳を取って見えた。四八歳だったが、一〇は歳上に見えた。統合失調症の薬の影響で、まるで子供のように不安定でおぼつかない歩き方をした。昔はおしゃべりで早口だったのだが、今ではためらいがちな、そして唐突な話し方をした。口の中に入れられた奇妙な食べ物の種子を吐き出すかのように、突然、驚くほど力強く言葉を発したのだ。父のことも、私のこともほとんど覚えておらず、私が自分の姉の名前を言うと、その人と結婚しているのかと訊いた。会話というよりも、いきなり現れた新聞記者によるモニへのインタビューといった感じだった。

 しかし彼の病気の最も際立った特徴は、心の中の嵐ではなく、目の中の凪だった。モニmoni という言葉はベンガル語で「宝石」を意味し、一般的には、目の中できらりと輝く光のような、言葉では言い表せないほど美しいものを指す。だが、それこそがまさに、モニの目から失われていたものだった。両目の光は鈍くなり、ほとんど消えかけていた。あたかも誰かが細い絵筆を手に彼の目の中に入り、目を灰色に塗りつぶしてしまったかのように。(冒頭試し読み②につづく)

著者紹介 シッダールタ・ムカジー Siddhartha Mukherjee
医師、がん研究者(血液学、腫瘍学)。コロンビア大学メディカル・センター准教授を務める。1970年、インドのニューデリー生まれ。スタンフォード大学(生物学専攻)、オックスフォード大学(ローズ奨学生。免疫学専攻)、ハーバード・メディカル・スクールを卒業。
デビュー作『がん‐4000年の歴史‐』(2010年。邦訳は早川書房刊。旧題『病の皇帝「がん」に挑む』)は、ピュリッツァー賞、PEN/E・O・ウィルソン賞、ガーディアン賞など多くの賞を受賞し、《タイム》誌の「オールタイム・ベストノンフィクション」にも選ばれた。本書『遺伝子‐親密なる人類史‐』(2016年)も《ニューヨーク・タイムズ》ベストセラー・リストの「ノンフィクション部門」1位を記録し、32カ国に版権が売れている。

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