精密への果てなき道

週刊東洋経済9月28日号にて紹介されました。『精密への果てなき道』訳者あとがき

『博士と狂人』のノンフィクションライター、ウィンチェスターの最新作『精密への果てなき道』は、ものづくりの「精密」化の歴史そのものを物語る、斬新な切り口の工業史。この「精密」なくしては、スマホも生まれなかったわけです。フォードが、インテルが、そしてセイコーが登場するこの物語はどう綴られるのか、訳者あとがきでご覧ください。


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『精密への果てなき道』訳者あとがき

 日本に暮らしていると、物事が隅から隅まできちんとしているのが当然であるように思える。海外に滞在して初めて、いずこもがそうであるわけではないことに気付くというのはよく聞く話だ。物づくりにしてもそうである。世界一「精密な」製品を生み出す国はどこかと尋ねられたら、やはりそれは日本なのではないかと、多くの日本人がけっして自惚れではなく答えるに違いない。
 だが、その「精密」とはどういう意味だろう。改めて問われると、説明に窮するのではないだろうか。本書の著者サイモン・ウィンチェスターは言う。現代人は精密さを欠くべからざるものとみなし、精密さにまみれて生活していながら、それがどういうものかをほとんど理解していない。精密さはいつの世にも存在したわけではなく、意図的につくられた概念であり、明確な誕生の場所と、誕生の日と、明快な定義をもつ。それは生まれ、成長し、進化してきたのであって、その過程は一つの「物語」として捉えることができる、と。精密さがどのようにして生を享け、どんな道筋を経て今日へと至ったのか、またその進化をどういった人々がどうやって促してきたのか。その物語を大きなスケールで綴ったのが本書(原題 THE PERFECTIONISTS : How Precision Engineers Created the Modern World〔2018, 英版メインタイトルはEXACTLY〕)である。
 著者は、工学における精密さの変遷を丹念にひもときながら、人物や技術や時代背景を活写していく。そこに登場するのは、海の底に眠っていた二〇〇〇年以上前の不可思議な機械。海上でも正確に時を刻む時計をつくることに取り憑かれた男。蒸気機関に画期的な改良を加えた「鉄狂い」。帆船の装備を大量生産するために四十数台の機械をこしらえた驚異の技術者。互換部品という革新的な発想。正反対の夢に向かったロールス・ロイスとフォード。初めてプロペラのない飛行機を空に飛ばした将校の執念。精密光学と宇宙望遠鏡。GPS誕生の舞台裏。さらには極微のレベルで作動するトランジスタと、極大の宇宙からの囁きを捉えるための超精密な計測器だ。ヘンリー・ロイスやヘンリー・フォードなどの例外は別として、取り上げられている技術者は今の世では知名度の高くない人物が多い。だが本書を読めば、それぞれの成し遂げたことがいかに現代の便利な社会の土台をつくっているかがよくわかるだろう。
 だからといって、ただ各人の人物像や人生を追っただけの偉人伝とは違う。本書の主人公はあくまで「精密さ」であり、それを可能にする技術だ。その技術と、背後にある科学と、その技術がどのように後世に影響を与えたかを、著者は丁寧にわかりやすく解説していく。
 そして、精密さの来し方を振り返るに留まらず、その行く末にも思いを馳せる。著者が見るそれはけっして薔薇色の未来ではなく、度を越した精密さには警鐘を鳴らす。だが、一つの「絶妙なバランス」がとられている国として著者が注目するのが、どこあろう、この日本である。最終章の第10章は丸々日本について割かれ、著者のいう日本の「二面性」がクローズアップされる。日本人としては少々面映ゆいところがなくもないが、なるほどこうした視点もあるかと、非常に興味深い。その意味で本書は日本人にとって、諸外国の読者には味わえない魅力の加味された一冊といえる。また、いわば精密さを特徴とする私たちが、そのアイデンティティーの重要な一部について理解を深める好機ともなるだろう(ちなみに、著者の妻で陶芸家のセツコ・サトウ・ウィンチェスターは、日系二世のアメリカ人である。著者が日本に興味をもつうえで、そのことも大きく手伝っているものと想像される)。
 サイモン・ウィンチェスターは、ロンドン生まれでアメリカ在住の作家・ジャーナリストである。オックスフォード大学で地質学を学び、卒業後は鉱山会社や石油会社で野外地質学者として働いた。本書第8章にも、油田を掘り当てるために北海で仕事をしたときの様子が生き生きと記されている。その後、二〇代半ばで作家を志してジャーナリストへと転身。《ガーディアン》紙の海外特派員を長年務めたあとフリーランスとなり、新聞や雑誌向けに数々の記事を執筆するかたわら、十数作のノンフィクションを発表してきた。日本でも、『世界の果てが砕け散る──サンフランシスコ大地震と地質学の大発展』や『クラカトアの大噴火』など、邦訳書が何冊も紹介されているので、ご存知の読者も多いだろう。
 なかでも、一九九八年に刊行されてアメリカでベストセラーとなった『博士と狂人──世界最高の辞書OEDの誕生秘話』(以上三点早川書房刊)は、一九世紀のイギリスを舞台に、本書でもときおり言及される『オックスフォード英語辞典』編纂に関わった二人の男を描いた実話だ。日本人読者のあいだでも、映画化してほしいほどの面白いドラマだとの声が聞かれていた通り、実際に二〇一六年から映画制作が着手され、ついに二〇一九年五月にアメリカで封切られた。メル・ギブソンとショーン・ペンのダブル主演によるこの映画は、ほぼ二〇年越しとなるギブソンの熱意が実って実現に漕ぎ着けた力作である。その魅力的なストーリーと二人の素晴らしい演技は、すでに観客から高い評価を得ている。日本での公開(現在は未定)が切に待たれるところだ。
 最後に私事で恐縮だが、訳者の亡父は定年まで精工舎に勤めていた。したがって、本書の第10章を読んでこの名前を見つけたときには、その偶然に驚いた。しかも、父が機械屋だったというのは理解していたが、つい最近になって母から、父は「機械をつくる機械をつくっていた」のだと聞いた。まさに本書で大きな比重を占める、工作機械の製作に携わっていたわけである。それをもっと早く知っていたら、そして父が生きていたら、旋盤の操作法について質問したり、本書の登場人物や機械についてあれこれ話をしたりすることができたかもしれない。そう思うと残念であると同時に、この書を訳すという不思議な縁を通して、技術者としての父の一面を間接的に感じられたことが嬉しくもある。

 二〇一九年七月 梶山あゆみ


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