ゴダールやジーン・セバーグは『ラストタンゴ・イン・パリ』をどう見たのか?『あなたの名はマリア・シュナイダー』試し読み
2011年に58歳でこの世を去ったフランス出身の女優、マリア・シュナイダー。彼女は19歳のとき、新人女優ながら主演マーロン・ブランドの相手役として『ラストタンゴ・イン・パリ』のヒロインに抜擢されるも、監督ベルナルド・ベルトルッチによる性的なシーンの強行撮影で心に深い傷を負ってしまう――。
「70年代最大のスキャンダル」と呼ばれたこの作品を、ジャン゠リュック・ゴダールやジーン・セバーグなどの綺羅星のごとき映画人たちはどう見たのか? そして1972年の公開初日、『ラストタンゴ・イン・パリ』は当時の人々にどのように受け止められたのか? 『あなたの名はマリア・シュナイダー 「悲劇の女優」の素顔』からの試し読みです。
公開前から作品の噂は世間を駆けめぐっていた。ベルトルッチの過激な作品、名優マーロン・ブランドの復帰作、ナイトクラブの常連しか知らなかった妖艶で挑発的な新人女優の官能的な映像──クリスマス前に行なわれた試写会は危険な香りが漂っていた。人々は席を求めて劇場に急いだ。冒頭のシーンから、会場のなかはすでに不安で凍りついていた。ジャン゠リュック・ゴダールは開始10分で、激しい音を立てて出て行った。「おぞましい!」と怒鳴り、激怒し、憤慨していた。外で待つことを選んだあなたには、その声は聞こえなかった。あなたはジーンズにブーツ、体を温めるには薄すぎるコートを着て立っていた。寒さで感覚を失わないように歩道を行ったり来たりして、足踏みをしながら、自分のところまでは届いてこない評判をうかがっていた。試写会が終了した。劇場をあとにする観客たちは一様に静まり返り、気まずそうな顔をしている。人々はあなたの前を素通りして行った。寒空のもと、歩道の端で次から次へと煙草を吸うあなたにたとえ気づいたとしても、見なかったふりをして去って行く。そんななか、唯一立ち止まってくれた人がいた。ジーン・セバーグだ。アイオワ州立大学出身の彼女はあなたの14歳年上で、あなたの褐色の髪と同じぐらい完璧な金髪だった。一方、あなたは親譲りの職業を選んだ一人の娘にすぎなかった。あなたは、オットー・プレミンジャー監督の『聖女ジャンヌ・ダーク』『悲しみよこんにちは』、ジャン゠リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』、ロバート・ロッセン監督の『リリス』、ロマン・ギャリの作品などジーン・セバーグの出演作は何本も観ていた。きっとあなたは知らなかっただろうけど、二人には共通点があった。セバーグは12歳のとき、マーロン・ブランドの演技に感銘を受けて女優を志したのだ。彼女は長いあいだあなたを抱きしめ、その腕があなたの細い体を包んだ。彼女はもう昔の姿ではなくなっていた。それでもあなたは「いまでも美しい」と心のなかで思った。セバーグの華やかなキャリアはすでに過去のものになっていた。1960年に『勝手にしやがれ』でジャン゠ポール・ベルモンドの相手役パトリシアを溌剌(はつらつ)と演じた彼女は、数々の悲恋と底知れぬ苦しみからアルコールに溺れていった。ヌーヴェル・ヴァーグのアイコンは、もはや低予算の小さな作品にしか出演しなくなっていた。作家のロマン・ギャリとは離婚し、『ラストタンゴ・イン・パリ』公開の2年前、生まれたばかりの娘ニナを亡くしていた。その後、自殺未遂を何度も繰り返し、病んで隔離されてぼろぼろになり、薬物をはじめさまざまな依存症を抱えることになる。そして1979年9月、パリ16区の路上で、自身の白いルノーの後部座席に裸のまま毛布にくるまれ、遺体で発見されることになる。
その夜、あなたはジーン・セバーグと会ったのは初めてだったけれど、あなたは彼女の体のぬくもりに親しみを感じた。その体はがりがりに痩せた若者のようでもあり、怯えた鳥のようでもあった。彼女はあなたの茶色くカールした髪に顔をうずめ、耳元でこうささやいた。「踏んばってね」
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1972年12月15日、『ラストタンゴ・イン・パリ』は公開初日を迎えた。検閲の結果「18歳未満禁止」に指定され、人々の関心をさらに引きつけた。作品は瞬く間に一大スキャンダルを巻き起こす。イタリアでは裁判にまで発展し、国中で大論争となった。カトリック教徒は抗議し、左派は表現の自由がないがしろにされ、踏みにじられているとして不快感を示した。作品は熾烈な論争のシンボルとなっていく。「モラルを重んじる人」対「創造の自由を主張する人」、「臆病すぎて映画を受け入れられない人」対「無意味な批評を並べるだけの人」といった宿敵の対立も生まれた。イタリアの裁判所はベルトルッチ、ブランド、シュナイダーに執行猶予付き懲役2ヵ月の判決を下し、映画のプリントは処分された。けれども、監督は勝ち誇っていた。人々がこの話題に夢中になり、バーやレストランでは意見が飛び交い、芸術家だけでなく政治家のあいだでも激しい論争が繰り広げられているのだ。さらに政治的な背景も加わり、この作品だけの新たな世界地図が描かれていく。旧ソ連やフランコ政権時のスペインなど独裁政権下の国々では上映禁止となり、民主主義国家では上映が許可された。ニューヨークでは最初は一館のみの上映で、席を取るには1週間前に予約しなければならないほどの人気だった。アメリカでの試写会に出席したマリアは、拍手喝采を受け称賛された。そうやって成功の味を知ったものの、常に何かを警戒していた。その状況をどう受け止めていいのかわからなかったのだ。いったい何が起きているのか、なぜ罵倒されたり、称賛されたりするのか。あなたは20歳だった。たった数週間で世界中に名が知れ渡ったものの、あなたはそのときすでに、この役が夢の終わりを宣告することになると予感していた。
あなたの人生が大きく変わり始めたとき、あなたはブリジット・バルドーから、もう自分は映画に出ないと告げられる。バルドーにとって映画はすでに過去のことであり、もはや未練はなかった。人間よりずっと価値がある動物愛護の活動に身を捧げるつもりでいた。あなたはその言葉に驚きはしなかった。不安を感じながらも、彼女の決意が固いことはわかっていたので、あえて反対もしなかった。バルドーは、パリの街にも飽き飽きしていた。家族でバカンスに訪れていた子供時代の思い出の港であり、成功を収めたロジェ・ヴァディム監督『素直な悪女』の舞台でもあるサン゠トロペに居を移すつもりでいた。1973年、それまでバルドーの自宅に居候していたあなたは、ポール・ドゥメール大通りの彼女のアパルトマンを去ることになる。
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『ラストタンゴ・イン・パリ』の公開は、あなたの家族を不安と極度の恐怖に陥れた。あなたの異母弟で6歳年下のマニュエルは、父ダニエル・ジェランにこう問いただした。「みんながあの映画の話をしてる。あれはパパの子だって」「違う。ただの新人女優だ」と父は答えた。
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※ヴァネッサ・シュナイダー『あなたの名はマリア・シュナイダー 「悲劇の女優」の素顔』より一部編集のうえ抜粋
【著者紹介】
ヴァネッサ・シュナイダー(Vanessa Schneider)1969年生まれ。パリ政治学院卒。ジャーナリスト、作家。「リベラシオン」紙で政治記者を務め、現在「ル・モンド」紙記者。人々の人生について記す一方で、次第に自身の人生について執筆を始める。著書に自伝小説『La mere de ma mere(私の母の母)』、小説『Le pacte des vierges(処女たちの協定)』『Le jour ou tu m'as quintee(君が私を捨てた日)』などがあり、本書は8作目の著作となる。