ウーマン書影

英米100万部突破の話題のミステリ、 A・J・フィン『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』解説(山崎まどか)


英語圏で100万部を突破し、監督ジョー・ライト、出演エイミー・アダムス、ゲイリー・オールドマンによる映画化も決定した話題作、ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』(A・J・フィン/池田真紀子訳)。山崎まどかさんの解説でその魅力をご紹介します。

解説

コラムニスト   山崎まどか  

 こんな女性が探偵役のミステリは読んだことがない。
 それが『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』を読んだ最初の感想だった。物語の語り手はアナ・フォックス。38歳で、ニューヨークのハーレムの高級住宅街の住人だ。彼女の住む屋上庭園つきの古いタウンハウスは、地価の高騰が叫ばれているニューヨークでは贅沢(ぜいたく)な住居である。アナは夫と娘と離れ、そこに一人で暮らしている。彼女はそこから、一歩たりとも外に出ることが出来ないのだ。トラウマから広場恐怖症となり、もう10カ月間も家に閉じこもっているのである。
 家の扉を閉ざし、社会から疎外された人間として生きるアナの慰めはワインとニコンD5500を使った覗き行為である。アナは不動産譲渡証書をネットで漁り、近所に越してきた新しい住人たちの出自を調べる。ちょっとした遠隔ストーカーである。
 そんな女性が、殺人事件を目撃したらどうなるだろう? カメラのレンズ越しに垣間見た、窓からの景色。聞こえた悲鳴。彼女は家から出られないので、当然、直接助けにいくことは出来ない。そして、彼女が目撃したものを他人に信じてもらえなかったとしたら、どうなるだろう? アナはアルコール依存症であり、トラウマや広場恐怖症のせいで被害妄想気味なところが見受けられる。ポーラ・ホーキンズが書いたガール・オン・ザ・トレイン』もそうだったが、アルコール依存症でブラックアウトを起こす人々は、自分で自分が信じられない。しかも事件を目撃して以降、彼女の周囲では奇妙なことが起こり始める。これは自分自身のパラノイアが引き起こした妄想なのか、それとも現実に何者かが彼女を狙っているのか。アナは自問自答しながら事件に立ち向かっていかなくてはならない。家の中に引きこもっているアナには外に逃げるという選択肢はない。物語の後半は、密室サスペンスの様相を帯びてくる。
 アナの一番にユニークな点は、広場恐怖症でアルコール依存症、覗き趣味のある中年女性という設定に加えて、彼女がそんじょそこらのシネフィルが裸足で逃げ出したくなるほどの映画マニアだというところにある。しかも、アルフレッド・ヒッチコックや1940年代のフィルム・ノワールの筋金入りのファンなのである。映画といえば配信で見る時代、『キノ』『クライテリオン』という渋い名作や埋もれた傑作をDVD/ブルーレイ化することで知られる映画ファン御用達のブランドのディスクを集め、外を出歩けた頃は名画座や特集上映にも足しげく通ったというアナには好感が持てる。
 アナのモノローグに出てくる映画の数は(持っていることに対して言い訳がましい弁解をしているスター・ウォーズのDVDを含めて)50本にも及ぶ。そのほぼすべてがフィルム・ノワールかヒッチコック作品の影響下にあるサスペンス映画だ。その全部を紹介するスペースがないのは残念だが、ラインナップからアナという主人公、そして作者のA・J・フィンがどんなに映画を愛しているかが、よく分かる。アナの頭の中には「ヒッチコックが監督しなかったヒッチコック映画」や「ヒッチコックの死後に製作された傑作映画」といったリストがある。前者にはクロード・シャブロル監督の肉屋(1970)、後者にはジョルジュ・シュルイツァー監督によるオーストラリア映画ザ・バニシング─消失─(1988)があって、そのセレクトに唸らされる。
 そもそも、タイトルの『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』からしてフリッツ・ラングの飾窓の女(1944)へのオマージュである。これは大学の助教授が飾り窓に陳列されている肖像画とそっくりの美女と出会い、犯罪に巻き込まれるという映画だが、マルタの鷹(1941)や、やはりこの小説で取り上げられている深夜の告白(1944)ローラ殺人事件(1944)ブロンドの殺人者(1944)と並ぶ形でフランスの映画雑誌で評されたことで「フィルム・ノワール」という名称が生まれたという重要な作品である。エピグラフは殺人者の叔父と少女の対決を描いたヒッチコックの名作疑惑の影(1943)から取られているし、物語の設定も、事故による怪我で動けなくなった写真家がカメラのレンズ越しに事件を目撃するヒッチコックの裏窓(1954)から来ている。
 ここまでフィルム・ノワール絡みのディテールに溢れていると、出てくる映画のタイトルが事件のヒントになっているのではないかと勘繰りたくもなってくる。どれとは言わないが、アナが挙げている作品の中には偽装殺人や、亡くなったと思った人物が実は生きていたというプロットのものも含まれているのだ。
 それとも、すべてはフィルム・ノワールを愛するあまり、現実と映画の境が分からなくなったアナの妄想なのだろうか? フリッツ・ラングの恐怖省(1944)やヒッチコックのめまい(1958)のように、主人公がパラノイア気味である映画のタイトルもこの小説の中に出てくる。パラノイアの主人公のバックグラウンドが明かされれば明かされるほど、観客はその主人公の言動を信じられなくなる。そんなプロットはフィルム・ノワールにも多い。そしてアナはまさしくその条件に当てはまるヒロインなのだ。
ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』はゴーン・ガールや『ガール・オン・ザ・トレイン』と並ぶ「信頼できない女性」を主人公とするスリラーとして注目を集め、ベストセラーとなったが、映画ファンにとっても、たまらなく魅力的なミステリである。
 ギリアン・フリンの『ゴーン・ガール』とよく比べられることについて、作者のA・J・フィンは「信じられないほど光栄」だと語っている。幼い頃からアガサ・クリスティーやコナン・ドイルのファンで、大人になってからはルース・レンデルやパトリシア・ハイスミスに夢中になり、オックスフォード大学ではハイスミスの作品研究をしていたというフィンの夢は当然、ミステリを書くことだった。しかしトマス・ハリスの羊たちの沈黙のヒット以降、出版界のトレンドがシリアル・キラーを主人公にしたスリラーにシフトしてしまったため、彼が目指すような作品は受け入れられないのではないかと思っていた。その流れを変えたのが、『ゴーン・ガール』だったとフィンは言う。
「僕が好み、研究対象にもしてきた、登場人物たちのキャラクターが物語を動かす知的なミステリ作品が戻ってきたと思った」
 強く複雑な女性像を打ち出している新しいタイプの女性のミステリ作家たちに、彼はシンパシーを感じているようだ。ジャンル小説に出てくる女性たちはタフなように見えて、結局は男性に依存してしまうような人物設定であることが多いとフィンは感じていた。少なくとも彼の目から見て、それはリアルな女性ではない。彼はアナを「囚われの姫」のような存在ではなく、人間としての欠点はあっても、独立した大人の女性として描いている。様々なハンディキャップにも関わらず、アナは誰の手も借りずに自分で疑問を追いかけ、調査を続け、犯人と対峙するのである。
 著者のA・J・フィンの本名はダニエル・マロリー。生年月日と出身地は明かされていないが、公表されている年齢から考えると1980年前後の生まれだ。オックスフォード大学を卒業して出版界に入り、ロンドンからニューヨークに移住。『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』執筆時はウィリアム・モロー・アンド・カンパニーの責任編集者として働いていた。実績によって既に業界に名前が知られていたため、小説の発表には彼と悟られないようにペンネームを使い、更に性差による先入観を避けるために中性的な名前を選んでいる。
 A・J・フィンも自身の小説のヒロイン、アナのように広場恐怖症とうつ病に長いあいだ苦しめられてきた。2015年にはうつ病が再発し、家から出ることさえも出来なくなった。そんな辛い時期に思いついたのが『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』のアイデアだったという。「自分と同じように家から出られない人間を主人公にしたらどうだろう」
 適切な診断と薬物治療によって回復したフィンは7500字のアウトラインを書いた。それを見せた文芸エージェントの友人からアドバイスと励ましをもらい、彼は編集者の仕事を続けながら夜と週末を執筆にあて、1年かけてこのデビュー長篇を書き上げたという。2017年の秋、エージェントが『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』を売りに出すと、出版社から高額で申し出があっただけではなく、フォックス2000ピクチャーズに映画化権が売れた。(作品を読めば分かる通り)大の映画ファンで、うつ病でベッドから起きられない時はヒッチコックの映画だけが楽しみだったというフィンにとっては夢のようなオファーだ。
 映画はつぐないのジョー・ライト監督、八月の家族たち』で知られる戯曲家のトレーシー・レッツの脚本で、2019年秋の公開を目指して制作が進んでいる。ギリアン・フリンのKIZU─傷─(ハヤカワ文庫)のドラマ版の主演など、最近スリラーづいているエイミー・アダムスがアナ・フォックスを演じる他、ゲイリー・オールドマン、ジュリアン・ムーア、アンソニー・マッキーといった豪華俳優陣が次々とキャスティングされている。
 A・J・フィンの次作はニューヨークの密室から一転、サンフランシスコの街を舞台としたサイコ・スリラーになる予定だという。ヒッチコックの映画『めまい』だけではなく、デュマのモンテ・クリスト伯もインスパイア元として挙げられている。こちらも楽しみだ。

 2018年8月

***

ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ(上)

ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ(下)

A・J・フィン/ 池田真紀子訳

2018年9月19日発売

ありがとうございます!今日のおすすめは『ザリガニの鳴くところ』です。
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