『紳士と猟犬』/インド奥地で詩人を捜せ! 虎を狩れ! 異色の英国人バディの歴史冒険ミステリ、第一章を無料公開!
読書好きの軍人&猟犬の異名を持つ謎の「探偵」――異色の英国人バディが、19世紀インドの奥地で、消えた詩人の行方を追う!
ハヤカワ・ミステリ文庫より好評発売中の『紳士と猟犬』(M・J・カーター/高山真由美訳)より、主人公ふたりの初遭遇を描いた第一章を公開!
第一章
カルカッタ、一八三七年九月
かごが急に左に傾ぎ、わたしはまたも吐き気の波に襲われた。冷たい空気が流れこんでくることを空しく期待しながらカーテンを一方へ押しやり、吐き気が去るのを待った。
首や背中に新たな汗がふき出し、正装軍服──わたしの衣類のなかでは二番めによい服──の傷んだサージの生地に染みた。饐えたにおいがこもり、すっかり憂鬱になった。軍服は生地がすぐにすり切れるので、望むほど頻繁には洗濯できなかった。
「気をつけろ(カバドゥール)、この豚(スーアル)め!」気分を晴らしたいというだけの理由で、かごかきに向かって怒鳴った。
「ウィリアム、怒鳴ったって何も変わらないよ」フランク・マクファーソンがいった。そのとおりだった。かごかきからは返事すらなかった。期待したわけでもなかったが。
カルカッタは暑かった。燃えさかる地獄のような五月の暑さとはちがう、九月特有のべたべたとした、気力を奪う蒸し暑さだ。午後の白人街(ホワイトタウン)の人けのない通りで動いているのはわれわれくらいだった──いまのところまだ、人を訪ねるには暑すぎた。六月に雨季がきたときにはほっとしたものだったが、これでもかというほどしつこく雨がつづいてみれば、三カ月経ったいまとなっては湿気や淀んだ水による浸食も、先立つ酷暑とおなじくらい厄介だった。街なかはもうずっとひどい湿度だった。本もほかの持ち物も腐った。蒸気のなかにあらゆる病気が潜んでいた。知人の多くが発熱や炎症で倒れた。東インド会社の兵舎では、雨が降ると汚らしい茶色の水が勢いよく壁を流れるので、コレラが発生するかもしれないといわれていた。
街の中心のタンク・スクエアでさえ、空気が黴くさく感じられた。かごが広場を離れてフーグリー川への階段に向かうあいだ外を眺めていると、総督官邸の胸壁に片足でとまるコウノトリすら暑さでだれているのが見えた。
「三十五度くらいだと思うね」こういうことに詳しいフランクがいった。
わたしたちはブラックタウンと呼ばれる現地人の居住区に向かっていた。まさに総督のオフィスから命令を受けて、ジェレマイア・ブレイクという名の文官に手紙を届けに行くところだった。フランクがついてくることにしたのは興味があったからで、われわれはふたりともまだブラックタウンにちゃんと行ったことがなかった──英国人紳士がわざわざ行くような場所ではなかったのだ。町外れでさえ、道の脇に汚物や廃棄物が積まれ、すぐそばにありとあらゆる種類の排水が流れる側溝があった。道のまんなかで腐った動物の死体に出くわし、鼠がちょろちょろと足の上を通りすぎていくのも珍しいことではなかった。
この仕事については相反するふたつの感情があった。どんなものであれ会社の上層部から関心を寄せられるのは喜ばしいことであり、兵舎での単調な生活からいっときでも抜けだせるのは歓迎だった。だが他方では、現地の人間と同化した文官に伝言を運ぶというのもまた、無意味かつ退屈で屈辱的な仕事に思われた。それに前夜の深酒のせいで、まだ二日酔いに大いに苦しんでいた。「まったく、うんざりだ」そういいながら、もう何万回めになるだろうか、また襟を引いて直したが、何ひとつ改善されなかった。ふたりともほんのすこし身動きした。そもそもかごが、ふたりで乗るには少々狭かった。
「やれやれ、けさのぼくたちは不機嫌で怒りっぽくなっているな」フランクがいった。
「あの魚のにおいのせいじゃないかな。一ガロンくらい飲んだクラレットとか、きみが失った十ポンドのことなんかはもちろん関係ないはずだね」
九カ月もの長きにわたり、わたしはカルカッタで待たされていた。北ベンガルの騎兵連隊に呼ばれるはずだったのだが、いまのところ従軍が必要な様子はなく、わたしは街が嫌いになりそうだった。東インド会社のような大組織の軍隊の将校になればそれなりの給料が出るだろうと最初は誰もが思う。だが九カ月経ったいまとなっては、マイナス面──ひどい気候や、現地人がときおり見せる粗野なふるまい、ヨーロッパ人の社交界の堅苦しくよそよそしい態度──が無視できないほど大きい割に報酬のほうはあまりにも些少で、気力を挫かれていた。カルカッタは形式や地位や財力に囚われた街であり、フランクとわたしはその底辺にいた。どれほど費用がかかろうと、体面を保つことが最も差し迫った職務のように思われた。それほど暑くなかったころ、われわれは午前中に訓練をし、その後ヒンドゥスターニー語(イギリス植民地時代におけるインド北部の公用語)の学位を取るために勉強した。勉強のほうは誰も真面目に考えてはいなかったのだが。多くの将校は警棒と片言のヒンドゥスターニー語でやり過ごしていたし、地元の言葉を流暢にしゃべるところを見られるのも、カルカッタではあまり望ましいことではなかった。知り合いでヒンドゥスターニー語をきちんと学んだといえるのは、いまわたしの隣にいるフランク・マクファーソンだけで、そもそもこの男は戦闘や従軍にまったく興味がなかった。ちょうど政治部への異動が決まったところで、行政官になって奥地の支局を運営するのがフランクの望みだった。ヒンドゥスターニー語の学位はすでに取っており、いまはペルシャ語を勉強していた。フランクはこの地に到着した直後から会社の口座を管理し、インド人傭兵の福祉にも貢献してきた。わたしはフランクの仕事がうらやましかった。無為に過ごしているせいで、わたし自身は無気力で怒りっぽい人間になってしまった。
「こんなごみ溜めみたいな場所は大嫌いだ、気分が悪くなる」わたしはぼやいた。
「ぼくは大好きだね。改めていわせてもらうと。政治部へ異動になったいまとなっては、インドじゅうをかごで移動できて、二度と馬に乗らなくて済むし」フランクはわたしを見てつづけた。「だいたい、きみは午後の時間くらいはつぶせると思ったから、総督官邸からの使いを引きうけてブラックタウンに向かっているんじゃないのか? それとも、死んだほうがましだとでも?」
「なあ、フランク」わたしは痛みを追いはらおうとしてこめかみを強くさすりながらいった。「いっそ死んだほうがましだと思うこともあるよ」
「馬鹿をいうな」フランクは厳しい口調でいった。「望みを口にするときは、もっと慎重になるべきだ」
「すまない、フランク、許してくれ」わたしは即座に後悔していった。「こんな状態ではいいとこなしだな」
こめかみがずきずきと痛むので歯を食いしばり、できる範囲でなんとか笑みらしきものを浮かべてみせた。事実、カルカッタでは不意に、驚くほど簡単に死が訪れた。仲間の将校候補生がコレラにかかったり、突然発熱したり、怖ろしい不慮の事故にあったりしてひと晩で亡くなるようなことはよくあった。ある男など、尖った木の棒を積んだ荷車が自宅に突っこんできたせいで死んだ。九月は、カルカッタではよくない月だった。病気にかかったり熱を出したりしやすいのだ。フランクの連隊の従軍牧師は、まだひと月の半分を過ぎたばかりなのに、もう三十件もの埋葬に立ちあったといっていた。
「中身を知りもしないこんな手紙を届けるのに、なぜわたしが使いに出されたんだろう」
フランクは一方の眉をあげていった。「だって退屈してるっていってたじゃないか」
「きみのせいか!」
「ぼくはただ、有能で見てくれも悪くない友人が手持ち無沙汰にしているといっただけだよ」
フランクは水の壜をわたしの手に押しつけてきた。わたしは顔をしかめたが、それを飲んだ。ブラックタウンに行くのに自分が選ばれたのは、手近な下級将校のなかでいちばん暇で、いちばん体調がよさそうだからだと思っていた。フランクが一枚噛んでいるとは思ってもみなかった。
「ぼくもブラックタウンを見てみたかったんだけど、自分でやりますともいえなくてね。それにきみだって、このジェレマイア・ブレイクというのがどんな人物か知りたくないか?」
「現地人と同化して、痛々しいほど病的に衰弱した、年金も回収できないくらい阿片漬けの年寄りだろう」わたしは重苦しくいった。
「それはそうかもしれないけど」フランクはいった。「ああ、きょうは川辺の階段のにおいがやけにツンとくるな!」
かごはフーグリー川に通じる階段へと近づいていた。インドには、水辺へ降りていく大きな階段があり、埠頭としても使われる。川はカルカッタそのものだった。遠くから眺めるぶんには絵画のように美しかった。富裕な現地人の金色の艀舟とか、果物や魚を載せた物売り舟などが行き来し、対岸にはガーデンリーチ地区の優美な大邸宅が垣間見える。しかしそばに寄れば話はべつだった。階段はつねに混みあって雑然としており、汚らしく、腐りかけた魚の発する悪臭が霧のように立ちこめていた。小さなボートに乗った物乞いが小銭を求めて義足を振り、現地人の物売りは強引に声をかけてくるか、何を考えているかわからない様子でむっつりと黙り込んでいるかのどちらかだった。最悪なのは、濁った水のなかを漂う生焼けの死体だった。ヒンドゥー教徒は遺体を階段まで運んできて火葬にするのだが、たいていは皮膚がはがれる程度に燃えるくらいの燃料しか使わず、すぐに川に投げこむのだ。葬儀がひととおり済めば、あとはもう遺体など存在しないかのように、このひどい物体には眼もくれなかった。地元の人間は男も女もこの川で体を洗い、豚皮でできた水入れに水を詰めたりもした。水が入るにつれてもとの豚のかたちに戻る水入れだ。
「よく思うんだが」わたしはいった。「もしカルカッタで人を殺したいと思ったら、死体を処理する完璧な方法がある。生焼けの状態でフーグリー川に捨てるんだ。きっと誰も見向きもしない」
「なんておぞましいことを考えるんだ。だけど面白い話が書けそうだな」
フランクは、カルカッタがわたしに寄こした埋め合わせのような存在だった。フランクがいてくれることを毎日神に感謝した。わたしたちはおなじころカルカッタに着き、ウィリアム要塞にある規則だらけの将校候補生用宿舎をできるだけ早く出て一緒に遊びまわった。粗野な連中はフランクのことをひどい腰抜けだと思っていた。酒をまったく飲まないし、銃も撃たなければ馬にも乗らず、賭け事もしないからだ──わたし自身はどれもやりすぎた。フランクは踊り子のところへ通ったりもせず、現地人の愛人(ビービー)を囲ったりもしなかった。他人にどう思われようと気にも留めず、いつも上機嫌だった──インドに来るまえは、わたしもそういう性格のはずだった。しかしカルカッタはこれみよがしにわたしの欠点をあらわにし、フランクの最良の部分を引きだした。フランクの良心は、わたしの短気や、二日酔いや、ときどきカルカッタの歓楽街に入り浸ること、毎晩のように賭け事で負けること(ほかの少尉たちとおなじように、わたしも借金まみれだった)に対する日々の小言のように感じられた。それでもわたしはフランクが大好きだった。
角を曲がって知らない通りに入った。ひらいた戸棚のような小さな店が並び、ヒンドゥーの神々に似せてけばけばしく彩色した土偶を売っていた。シヴァにドゥルガー、それにカルカッタの守護神とされるあの怖ろしい女神カーリーだ。奇怪な黒い顔から赤い舌をだらりとたらし、首には頭蓋骨の首飾りをかけている。
「焼き物職人の居住地区だね」フランクがうれしそうにいった。
ほんとうのことをいえば、カルカッタに着いたばかりのころは──いまのフランクがそうであるように──わたしももっとここの古風な伝統や異国情緒あふれる光景に心惹かれると思っていた。青々と繁る草木、駱駝や象のいる風景などに、最初は興奮したものだった。けれども時が経つにつれ、この地の美しさへの感慨も、ここで出世してやるという希望も、苦々しく強烈なイギリスへの郷愁と、二度と故郷を見ることはないかもしれないという不安にとって代わられた。誰もが知りながら決して口には出さなかったが、わたしたちが帰国できずに死んでしまう確率はかなり高かった。
わたしがいまも多少なりともインドに対してロマンティックな思いを抱いているとすれば、それはゼイヴィア・マウントスチュアートのすばらしい文章の影響だった。マウントスチュアートの作品に出会ったのは、デヴォンにいた少年のときだった。教区牧師が教える、地元貴族の子弟のための小さな学校に通っていたころだ。助手のひとりが『騎士ルパート』を貸してくれた。わたしはそれをわくわくしながら読んだ。家族に読書家はいなかったが、ゼイヴィア・マウントスチュアートの書いたものはわたしを鼓舞し、夢中にさせた。『ブルースの勇気』や『黒太子』を貪るように読み、その後、インドを書いたものへと読み進んだ。『パンジャブのライオン』はもちろんのこと、『ネパール山麓の丘』で盗賊や反逆者の話を読んだ。雪の要塞や大理石の宮殿の話も、マハーラージャのエメラルドの話も、婦人部屋(ジナーナ)やデカンの踊り子たちの話も、包囲攻撃やジャングルの話も読んだ。ヒンドゥー教や菜食主義、共和主義などについて書かれた小冊子さえ読んだが、こちらはあまりよくわからなかった。マウントスチュアートは、バイロン的な雄々しさを体現しているように思われた。詩人で天才的な物書きであるだけでなく、自分が書いたとおりに生きているのだから。わたしがインドに来たのはまさしく彼のせいだった──もちろん、そんなことを父親に打ち明けたりはしなかったが。父がわたしのインド行きを許したのは、いちばん上の兄を金で英国軍に押しこみ、べつの(いまは亡き)兄を職に就けたあとでは、わたしのために何かしてくれる余裕がなかったからだ。東インド会社の軍隊では、地位が金で買えるようなことはなかったが、コネが利き、一族のなかに少々伝手があったので、わたしは送りだされることになった。大切なマウントスチュアートの本を抱えて。
つい先日、必要な金額をかき集めて『レダとラーマ』の新品の初版本を購入した。この本はカルカッタで途方もない大騒ぎを引きおこしていた。禁断の愛や、対立するインドの藩王国間の戦争を描いた、不謹慎にすら思える興奮の冒険物語を装いながら、カルカッタで最も高名なお偉方のもつれた不倫関係や腐敗が見え隠れするように語られていたからだ。世間はこの本の話で持ちきりだった。マウントスチュアートが公共の場で好ましい人物(ペルソナ・グラータ)として受けいれられることはなくなった。だが世間の人々は──立派な年配の既婚婦人から若い店員にいたるまで──みな彼の本を読みたがった。近年、これほど刺激的な出来事はほかになかった。
かごが通れるか通れないかくらいの細い泥道をなんどか曲がると、混雑した騒々しい市場の脇の大通りに出た。大きな牛が気むずかしげにどっかと道のまんなかに立ち、その様子はまるで急流を割る岩のようだった。わたしたちのまわりでは、長い竹の棒に載せて食肉を丸ごと運ぶ現地人の列ができていた。かごのなかにいてさえ、人波から人々の体臭が感じられた。
「ウィリアム、あの托鉢僧を見ろよ!」フランクがうれしそうに大声をあげた。その人物は灰まみれで道端に座り、裸同然の格好で、長い白糸のような顎ひげだけが腹の下のほうまで垂れていた。だが、眼を引いたのは手だ。怖ろしいありさまだった。指の関節から手の肉を突き破るようにして生えた爪が、長く伸びてひどくよじれていた。しかしわたしが嫌悪を覚えるようなことも、フランクにとっては明るい好奇心と楽しい驚きをもたらす、わくわくするような体験なのだった。兵士としてはわたしのほうがましだった。銃の扱いもうまいし、健康にも恵まれていた。だが、小柄で顔色も悪く、すぐ風邪をひくわりに、フランクのほうがインドでの生活に適しているのかもしれない──わたしは徐々にそう思うようになっていた。
突然かごが止まり、びっくりするほど揺れだした。かごかきがわたしたちを振るい落とそうとしているかのようだった。かごはいままで通ってきた道よりさらに狭い、曲がり角とも呼べないような場所に到着していた。
「もうたくさんだ(バス)、この乱暴者め!(バザット)」わたしは片言の現地語で怒鳴った。
わたしたちはぎこちない動きで順にかごを降りた。むっとする暑い空気が波のように襲ってくる。汗や、熟れすぎた果物が甘く強烈ににおうその奥に、べつのもっといやなにおいもした。悪臭のもとが何かは考えたくもない。道は柔らかく、水分が滲みだしており、わたしの白いズボンにはすでに泥が散っていた。とにかく人混みがあまりにも密で、現地人と押し合いへし合いするような格好だった。白い顔はわたしたちだけ。かごの脇を走ってついてきていた従者(ハルカラ)が会釈をし、狭い泥道を指差した。わたしはゆっくりと、大きな声でいった。「ここか?」さらに、もっと声を大きくして尋ねた。「ここにイギリス人が住んでいるのか?」
従者は確信のなさそうな様子でうなずいた。フランクはわたしを見た。
「東インド会社で働くなら、英語くらいしゃべれるようにしておくべきだろう。ここか?」フランクがヒンドゥスターニー語をしゃべりはじめるまえに、わたしは従者に向かってもういちどいった。従者はうなずき、細い道を小走りに進んだ。
「きみも来るか?」わたしは尋ねた。
「いや」フランクは答えた。すでに露店のあいだを歩きはじめており、ズボンの裾が泥につかっていた。現地人の人混みにもまれるのは気にならないようだった。フランクはじっとあたりを見た。うれしそうだった。「ぼくはかごの動物や薬屋の露店を見ているよ。ここに来るまでのあいだに、センザンコウを見かけた気がするんだ、あのアリクイみたいなやつ」
わたしは従者のあとについていった。長靴が柔らかい泥に沈む。住居の並びは泥と藁の朽ちかけたあばら家からはじまって、だんだんもっとしっかりしたつくりの家になっていった。垂直な前面と平らな屋根に、ひびの入った緑色の雨戸のついているような家。従者はそうした家のひとつを指差した。わたしは額から滴る汗をぬぐい、襟の内側を拭いて、上着をまっすぐに伸ばし、髪を撫でつけ、懐中時計を確認してから──軍服のときに身につけるべきものではなかったが、肩からたすき掛けにした勲章とよく似合ったのだ──汚れた緑色のドアに近づき、ノックした。
物音が聞こえるまでに、ひどく長い時間がかかった。ようやく痛々しいまでにゆっくりした足音が聞こえてくると、苦しそうな咳と咳ばらいがそれにつづき、いくつかの鍵がそれぞれ五分もの間隔を空けてはずされ、やっとのことで年老いた眠そうな門番がドアのあいだから鼻先をのぞかせてわたしをじっと見た。わたしは気をつけの姿勢で立っていた。
「ブレイク殿(サーヒブ)に伝言がある」わたしはいった。「ここにお住まいか?」思いきって、すこし声を大きくして尋ねた。男はいぶかしげにわたしを見つめたまま動かず、それ以上ドアをあけようとしなかった。
「なかに入れてもらいたい」わたしはゆっくり、はっきりといった。「総督からの手紙を持ってきたのだ」現地人の職員のほうがうまく仕事を果たせるのではないか、と思わざるをえなかった。門番とわたしはしばらくのあいだ睨みあっていた。ただもうこいつを押しのけて入ってしまおうかと思いかけたとき、門番はこれ以上ないほど気が進まない様子でほんの何センチかずつドアをあけ、わたしを通した。わたしは暗がりに踏みこんだ。眼が慣れるのに時間がかかった。
涼しい控え室だった。破れた敷物があり、壁には埃っぽい弓や矢がいくつかかけられていた。その下にはインド製の象嵌細工の施された、つくりつけの長いテーブルがあり、机上にはなんだかよくわからない小物がいくつか、やはり埃にまみれて並んでいた。ドア口から向こうを覗くとインド式の中庭が見えた。門番が何かを期待するような眼つきでわたしの足を見た。長靴を脱いでくれという意味だとわかるのに、しばらく時間がかかった。完全に人を馬鹿にした、ひどく無礼な要求に思われた。インドの厚かましさ、図々しさがすべて表われたような眼つきだった。苛立ちの波がどっと押し寄せた。
「駄目だ! 断る」わたしはそういって、乱暴に首を横に振った。
門番は一瞬、考えこむようにわたしを見た。どの程度まで強制すべきか決めかねているらしい。わたしは激しい怒りをこめて睨み返し、大声でいった。「主人を呼んでこい!」
門番がゆっくり中庭へ向かったのでついていった。ここで待つようにと身振りで示し、門番は向こう端の暗い戸口へと消えた。わたしはひとりきりで残された。予想していた応対ではなかった。わたしは長靴で敷石を叩き、サーベルをもてあそんだ。ここも昔はきれいだったのだろう。中庭は均整の取れたつくりで木陰があり、敷石はモザイクになっていた。新しかったころにはかなり洒落ていたのだろうが、いまではひび割れており、庭全体に崩壊をにおわせる雰囲気があった。壊れた家具の断片が隅のほうで埃まみれになっていた。クッションがふたつあったが、見るからに雨季のあいだ出しっぱなしだったようで、腐りかけていた。小さな噴水は藻で詰まり、音もたてなかった。
「誰かいないのか(キ ・ハェ)?」わたしはとうとう呼びかけた。わたしに使えるヒンドゥスターニー語などこの程度のものだった。中庭の向こうの部屋からくぐもった声が聞こえた。しかしそれもすぐにやんだ。
「ブレイク・サーヒブに会わせてもらいたい」わたしは呼びかけた。「いま! すぐに(ジャルディ・ジャーオー)!」
怒りと恥ずかしさのあいだで宙ぶらりんになったまま待った。しばらくして、ようやくべつの現地人が現われた。門番はすくなくとも身なりは小ぎれいだったのに、こちらは汚らしかった。大きな綿のブランケットに身を包み、明らかにわたしの存在に気がついていない様子で足を引きずりながら中庭に入ってきた。みじめななりだった。白髪まじりの頭に腫れぼったい目、不潔な顎ひげを生やし、そのうえ裸足だった。ブランケットの下に、よれよれのモスリンのシャツと、白の薄汚れただぶだぶのズボンが見えた。男はわたしから一メートル足らずのところまで来ると横を向き、口に入れていた真っ赤な噛み煙草の大きな湿った固まりを、わたしの足のすぐそばの地面にぺっと吐きだした。わたしは足を滑らせそうになりながらよろけつつうしろへさがったが、泥だらけの長靴とズボンにすでに赤い飛沫で模様がついていた。あっけにとられて男を見た。すぐにベンガル人らしい饒舌さで謝罪の言葉が出てくるものと思った。だが、男は強情にわたしを見据えただけだった。
「がさつな田舎者め!」わたしはすっかり冷静さをなくして怒鳴った。
「うせろ、赤服のイギリス兵(ロブスター)め」男はいった。
こうした言葉を──ロブスターという言葉で赤い軍服を貶められた屈辱を──敢えて書くのは、これを耳にしたときにわたしが覚えた憤怒と嫌悪を伝えたいためである。同時に、眼のまえの人物が英国人であることに、わたしは心底驚いていた。だが疑問の余地はなかった。よくよく見れば、思ったほど肌が黒くないのがわかるし、顎ひげも口ひげも現地の慣習として生やしているのではなく、ただの無精ひげのようだった。身長はわたしよりも頭ひとつ分低く、猫背で、脂っぽい髪は首筋にかかるくらい長かった。顔は不健康な西洋人によくある黄ばんだ色合いで、熱を出すことに慣れているようだった。肌は染みだらけ、唇はひび割れ、落ちくぼんだ眼は不吉な灰色の隈に縁取られていた。それに若くもない──すくなくとも四十にはなっている。
「〝うせろ〟という言葉のなかに、意味のわからない部分があるのか?」確かにテムズ川流域のアクセントが混じっている。男は敵意をこめてわたしを睨みつづけ、わたしはその視線にひどく当惑した。
「わたしはウィリアム・エイヴリー少尉です」しり込みしたくなる気持ちに抗い、できるかぎり冷たくいい放った。「ジェレマイア・ブレイク氏に親展を届けにきました。総督からの直接の手紙です。返事をもらって戻るようにいわれています」
男は鼻を鳴らし、顔をしかめた。「だったらそれを渡してもらおうか」そういって手を出した。ブランケットが男の肩から湿った敷石の上に落ちた。男は現地人が着るような、古い麻布でできただぶだぶの服を着ていた。
わたしはむっつりと押し黙って男を睨んだ。不愉快な事実がわかりかけていた。
「おれがブレイクだ。さあ、そいつを寄こせ」男がいった。
できるだけ時間をかけて手紙を取りだし、渡すときにはわざとじろじろ相手を見た。
「返事をもらって戻るようにいわれています」わたしはそうくり返した。ブレイクはつかのま封筒を眺めた。
「よろしければ、開封してさしあげましょうか?」わたしはことさらに礼儀正しくいった。
ブレイクはわたしを無視し、封筒のてっぺんをやぶいて中身を引っぱりだすと、じっくり眼を通した。
「断る」
最初は自分が耳にした言葉が信じられなかった。総督から依頼があったときには、ふつうの人間なら断ったりしない。
「なんですって?」
「聞こえただろう」ブレイクは足を引きずりながら戻っていき、途中で手紙を地面に落とした。わたしは慌ててそれを拾い、ふだんなら決してそんなことをすべきではないのだが、その手紙を読んだ。明晩総督官邸に来られたし、という召集状で、〝貴殿ご自身の諸問題とも密接に関わる機密事項について〟話しあいたいとのことだった。わたしの知らない名前で〝総督代理、及び機密政治部代表〟の署名があった。苛立ちや怒りが一瞬で狼狽に変わった。こんな返事を総督官邸に持ち帰るわけにはいかなかった。ここへ送りこまれたわが身の不運を呪った。しかし総督官邸の誰かがなぜこんなガタのきたような人間に興味を持っているのかは想像もつかなかった。
「サー、この依頼には応じなければならないと思います」
ジェレマイア・ブレイクは足を止めなかった。
「サー」わたしは切迫した口調でつづけた。「総督の執務室に拒否の返事を伝えることはできません。おわかりでしょう。それでは済まない。あなたは行かなければならないんです。最低限、ご自分が敬意をはらわれていることは理解してもらわないと」
ブレイクはふり返り、無表情なままいった。「東インド会社の事情に興味などない」
わたしは深く息を吸いこんでいった。「お願いします」
「駄目だ」ブレイクの拒絶がわたしの胸中の怒りに火をつけ、本来ならもう口をきくべきではなかったのだが、わたしはいった。
「ミスター・ブレイク、わたしははるばるブラックタウンを──この神に見捨てられた国の堕落と惨状の深さをありありと体現しているとしか思われない場所を──抜けて、あなたに手紙を届けにきました。ぜひとも自覚していただきたいのは」──興奮が声に表われているのが自分でもわかったが、止められなかった──「こちらの屋敷でのわたしへの対応が著しく礼儀を欠いていることです。わたしは使用人とあなたご自身から、信じがたいほど無礼な扱いを受けました。これはあなたが現地の下層社会に浸っているせいとしか思えません。わたし自身の資質や欠点がどうあれ、東インド会社の代表としてお訪ねしたからには、敬意をもって接していただくべきだと思います」そういって、わたしの足のそばで噛み煙草が大きな赤い花を咲かせている場所をあてつけがましく見やった。「あなたの言葉は恥ずべきもので、門番の態度は非常に不快でした。追い返されたも同然でしたからね。しかもあの門番はひどく横柄な態度でわたしに長靴を脱がせようとしたのですよ」
これみよがしに奥へ戻りつつあったジェレマイア・ブレイクが、立ち止まってふり向いた。
「聞け、少尉。おれはもう東インド会社の軍人ではない。このブラックタウンに住み、おれの態度が東洋風にすぎるとぬかす高慢で無知な兵士風情に煩わされずに暮らす権利がある。会社への敬意については──おれに求めるのは無駄だ」
ブレイクが足を引きずって向こうへ歩きだすと、反対側のドア口から年老いた現地人の女が現われた。女はわたしを無視してブランケットを拾うと、丁寧にブレイクを包み、ヒンドゥスターニー語で静かに話しかけた。そうやってふたりで中庭から出ていった。
屋敷からは物音も聞こえなかった。「さらばだ、ミスター・ブレイク。せいせいするよ!」
控え室に引き返し、玄関のドアを押しあけた。雨が降りだした。雨季の土砂降りで、わたしはすぐに全身ぐっしょり濡れてしまった。狭い通りに出て、フランクとかごが待っている場所へ向かった。いまごろはフランクもびしょ濡れで、膝まで泥に浸かっていることだろう。
すくなくとも、二度とジェレマイア・ブレイクに会うことはない。わたしは自分にそういい聞かせた。
出会い頭から険悪な雰囲気のふたりは、東インド会社上層部からある人物の行方を捜すよう命令を受け、ともに旅へ出ることに。エイヴリーが敬愛してやまない詩人マウントスチュアートが、盗賊の跋扈する危険な地域で失踪したというのだ。いったい彼に何が起きたのか? そしてエイヴリーたちを待ち受けるものとは? 虎は出てくるのか?
アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞&英国推理作家協会賞最優秀新人賞にもノミネートされ話題となった歴史冒険ミステリ『紳士と猟犬』。
この記事の続きはぜひ本篇でお楽しみください!
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『紳士と猟犬』M・J・カーター/高山真由美訳
ISBN:9784151826016